第36話 サイフォンの原理を利用してるから

 水槽のガラス面に、身を屈めた少女の顔が映り込む。


 睫毛に縁取られたツリ目がちの双眸が和らぎ、果物みたいな唇の端が持ち上がるのを見て、小清水は内心ほっと息をついた。


 合格、ということだろう。ひとまずは。


 その考えを肯定するかのように、少女――琴音は姿勢を戻して向き直った。ほんの少しだけこちらより高い位置から投げかけられる微笑みを見ると、小清水の頬も自然と緩む。


「いい感じの水槽になったじゃん」


「えへへ。頑張りました~」


 琴音はお世辞で言っているわけではない。そう素直に受け止められるくらいに、小清水は水槽の雰囲気が変わったことを実感していた。


 水だけが回るベアタンクから、砂と石の入った水景へ。


 ずいぶん様変わりしたと我ながら思う。


「見た目が引き締まったっていうか……こう言ったら天河さんには怒られちゃうかもだけど、お魚さんの住むところになったって気がする」


「まあ、千尋だって一応ガーネット敷いてるけどな。たしかにあいつはメンテナンス優先って性格ではある」


「敷かないほうがお手入れしやすいの?」


「一長一短かな。砂を敷いたら砂の掃除をしなきゃいけなくなるけど、そのかわり水換えの頻度は減る。砂にバクテリアが定着して水質が安定するから」


 つまり、換水と底材掃除とのバランスを見た結果が千尋の水槽というわけか。


「あいつは一つの水槽には一種類の砂って決めてる。それなら水換えと一緒に掃除もできるから大して苦にならない」


「え……じゃあわたし、石まで入れたのまずかったのかな? 掃除するとき手間がかかっちゃうんじゃ……」


「いや、ちょっと溶岩石がある程度だし問題ないと思うよ。この位置にこの石がなきゃいけない、ってくらいガチガチにレイアウト固めてるなら別だけど、これはそういうわけでもないでしょ?」


 小清水は頷いた。


 琴音の口にしたとおり、溶岩石はただ転がしているだけである。テトラオドン・ミウルスに潜り癖があると知った時点で、厳格にレイアウトを決めても意味がないと割り切ったのだ。実際に見たわけではないので断定はできないが、水草が抜けるという莉緒の証言もあったし、ふつうに考えて砂を掘り返されれば石の位置はずれる。


「だったら大丈夫。水換えのとき掃除もやったらいい」


 琴音はそのように言葉を結んだ。


「水換えは、このホースでやるんだよね?」


 小清水は灯油ポンプもどき――もとい、エキスパートホースを拾い上げて尋ねる。


「そ。バケツある?」


「うん」


 琴音の問い返しに答えて、小清水は青いポリバケツを引っ張り出した。


 一〇リットルサイズの新品。


 近所のホームセンターで二個セットで安く売っていたものだ。引っ越してきたばかりの頃に買ったはいいが、部屋の掃除には一つしか使わず、もう片方はピカピカのまま押し入れの肥やしになっていた。


「まさかこんな形で役に立つなんて……」


「うん?」


「ん、ん、なんでもないよ。――それより、このホースってわたしでもちゃんと使えるのかな? 巳堂さんのオススメだし間違いはないと思うけど、わたし全然エキスパートじゃないし」


「いや、エキスパートホースって単なる商品名だから気にしなくていいよ。誰だって簡単に使える」


 琴音は小清水の手からエキスパートホースとバケツを受け取ると、まずバケツを床に置き、それからエキスパートホースのチューブ部分をバケツに収めた。チューブの先には固定用のフックが付属していて、バケツの縁に噛ませることで、水を流している最中に外れることがないようにする仕組みだ。


「水槽のフタ取って」


「うん」


 小清水は言われるままにガラス蓋を取り払い、壁際の床にぺたりと寝かせる。


 水槽の前に戻ると、琴音がエキスパートホースの本体部分を手渡してきた。吸水用の管はすでに、水槽の中に突っ込まれている。


「ポンプを何度か押してみて」


「えっと……こうかな」


 エキスパートホースの本体上部には手押し式のポンプが備わっている。黒いポンプの一番上、いかにも「ここを押してください」と言わんばかりにオレンジ色で縁取られた場所を、小清水は二度、三度と押してみる。


「――わ」


 水槽の水が管をせり上がってきた。


 さらに何度か押してみると、水は管に満ち、チューブを通ってバケツへと流れはじめた。


「おお~……こうなるんだ。ほんとにわたしでもできたよ」


「ね、誰でもできるって言ったでしょ? サイフォンの原理を利用してるから、水を汲み上げてしまえばあとは自動的に流れていくんだよ」


「サイフォン?」


 そういえば琴音と初めて出会った日、そんな用語を聞いたような気がする。


 たしか、水槽を床に直置きしてはいけない、という話をしていたときに出てきたのだ。あのときは詳しい説明はされなかったが――


「高い場所から低い場所に向かって、管の中を通して液体を流すとして」


「うん、今みたいなことだよね?」


「液体はふつう低いところに流れるから、途中で出発地点より高いところがあったらそこで流れが止まっちゃうだろ。でも、管の中が液体で満たされていれば、そんな状況でも止まらずに目的地点まで流れていくんだ。今みたいにね」


「どうして?」


「重力だったと思う。高いところと低いところに圧力差があるから……みたいな話じゃなかったかな、詳しい原理は私もあまり理解してないんだけど」


「へえぇ……あ、だからあのとき……!」


 合点がいった。


 水槽が低い位置にあるとサイフォンの原理が使えない、と琴音は語っていた。出発地点が目的地点よりも高所でなければ圧力差が働かないのだから、たしかに水槽はバケツよりも高いところに置かなくてはならない。


「小清水さん、そろそろ満タンだよ」


「あ、うん」


 バケツに目を向けると、水が溢れそうになっていた。


 小清水はエキスパートホースの管を水槽から抜いて琴音に預け、ぐいと力をこめてバケツを持ち上げる。


「――さてと、」


 水をトイレに捨ててリビングに戻った小清水を、琴音による次の指示が出迎えた。


「今度は同じ要領で、水槽に水を入れよう」


「ってことは、バケツのほうを水槽よりも高く持ち上げなくちゃいけない……んだよね?」


「そういうこと。脚立ある?」


「あるよ」


 小清水はクローゼットを開けて、折りたたみ式の脚立を持ち出した。




 事故が起こることなど、二人とも想像してすらいなかった。

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