第123話 もう大丈夫
「――初めて飼ったスネークヘッドがコウタイだったんだ」
アクアマーケットの会場内にはベンチの置かれたスペースがあって、回り疲れたらそこで休憩を挟むことができた。
いかにも事務用といった風情の青いベンチに二人並んで腰かけて、麦茶の入ったペットボトルをちびちび傾けながら琴音が落ち着くのを待つこと五分。彼女はふうっと息を震わせて、思考の海から言葉を拾い集めるかのようにぽつぽつと語り始めた。
「そのとき私はまだ小学生で、成魚には手が出なくて、だから買ったのは小指の先くらいいしかない幼魚だった。たしか五百円もしなかったんじゃないかな」
「それが……ホクトちゃん?」
琴音は頷く。
「コウタイには『七星魚』って別名がある。店員さんからそれを聞いて、北斗七星を連想したのが由来だった」
琴音がそう説明しながら掌中のブローチをもう片方の手の人差し指で撫でるものだから、由那の視線も自然とブローチに吸い寄せられる。
改めて眺めてみても、ブローチはとても写実的にコウタイを再現していた。七星魚――その異名の由来なのであろう、体に入った銀色のラメ模様までも。
「幼魚の成長って早くてさ、お迎えして三ヶ月も経つ頃にはすっかり体格も大きくなって模様もくっきり出てくるんだ。もちろんその後だって育ってはいくんだけど、日に日に変化を見て取れるのはやっぱり最初の何ヶ月間だなって今でも思うよ」
琴音の声色に滲む、思い出を愛おしむような懐かしげな響き。
「元気なやつだった。コウタイとブルームーンギャラクシーの違いなのか、ギンガより性格荒くてさ。ヒメダカとかアカヒレなんかを十匹水槽に入れるだろ、そしたら次の朝にはもうホクトしかいなくなってるんだ」
「ひと晩で十匹も食べちゃうんだ? うめぼしより凄いかも」
「ま、そこはうめぼしが待ち伏せタイプだってのもあるだろうけどな。運悪く近くを泳いだ小魚とか甲殻類が捕まるって感じだろ? ホクトはアクティブに追い回して狩ってたから……」
「なるほど、運がどうこうの問題じゃなくて視界に入ったら狩られちゃうんだね」
言葉を紡ぐにつれて琴音の口ぶりに力が戻っていくのを聞いて、由那はほっと安堵の息をつく。
――よかったあ……酷いことしちゃったかと思った……。
プレゼントを渡したそばから泣かれるという展開にはさすがに衝撃を禁じ得ず、知らず知らずのうちにとんでもないやらかしを演じてしまったのではないかと内心気が気でなかったのだ。
「……ホクトちゃんとは、どれくらいの間いっしょにいたの?」
「……一年くらいだな」
この話の結末は、由那にもすでに想像がついている。
忘れもしない夏休み前、うめぼしの白点病騒動に一段落がついた折、他ならぬ琴音自身から直接聞かされたことだから。
「あの頃は、魚のことも病気のことも今ほどよくわかってなくてさ。異常なことが起こってると気づいたのは白点の症状が進行してからだったし、気づいてからもちゃんとした治療はしてやれなくって」
「うん」
「全部が終わってから、何がいけなかったのかめちゃくちゃ調べたんだ。そしたら自分のやってたことがどんなに足りなかったのか、的外れだったのかがわかって……悔しかったし、ホクトに申し訳なくって」
「うん……」
「しばらくの間は水槽を見るのもキツかったな……あの時期の私、たぶんとんでもなくドス黒いオーラ出してたと思う。由那と会ったのが今年でよかったよ」
琴音が少しばかり眉尻を下げ、自嘲げに微笑んだ。
恥ずかしい秘密を打ち明けるときにやるような、わざとおどけてみせるように弾む語調を耳にしながら、由那は数ヶ月前に思いを馳せる。脳裏に蘇るのは、うめぼしの治療の真っ最中に千尋がこぼした一言だ。
――友達が白点で魚落として泣くの、二度と見たくねーからさ。
水合わせの方法が悪かったわけじゃない、そう励ましてくれた電話口で千尋がそんなことを呟いたのを、由那は間違いなく聞き覚えている。
あのときはうめぼしのケアに夢中で気にならなかったけれど、こういう状況になってから思い返してみれば、言外に語られた「一度目」とは過去の琴音を指していたのだと合点がいく。
「ねえ、コトちゃん」
「ん?」
たしかに終わりは悲しかったかもしれない。だけど、だからといって琴音がホクトと過ごした日々のすべてが色褪せるわけではないはずだ――。
喉から飛び出しそうになる言葉を、由那は唇をきゅっと引き結んで堪えた。
当時の彼女の塞ぎようを見ていない自分がそれを伝えるのはきっと不誠実な行為だと思うし、だいいち自分がわざわざ口にするまでもなく、その程度のことは琴音自身が一番よくわかっているはずだと思う。
だって、うめぼしを完治まで導いたとき、琴音は「アクアリウムを止めなくてよかった」と明言したのだから。
ゆえに。
由那はただ一つ、どうしても残る疑問を解消することにした。
「どうして、今になって思い出したの? ホクトちゃんのこと……」
「は? いや……だからそれは、」
「わたしの勝手な思い込みかもしれないんだけど……ブローチがコウタイの形だったから、ってだけじゃないよね? コトちゃん、わたしにスネークヘッドの特集を見せてくれたとき、コウタイのページも普通に開いて何ともなかったもん」
「――あ」
言われて初めて気づいた、という面持ちを琴音はした。
すぐさま表情が引っ込む。真剣な考え事をしているときの顔へと変わる。
「それは……そのとおり、だな」
たっぷり沈黙を置いて、アクアマーケットの喧噪に身を晒して十秒。ぽつりと再び口をひらいた琴音は、ゆっくりとベンチから立ち上がる。
「とりあえず、さ」
掌が由那の目の前に伸びてきた。
「ごめん。何て言ったらいいのか、私もちょっと考えまとまらないんだ。会場回りながら考えるってことじゃ、駄目か?」
「わたしはいいけど……コトちゃんはもう大丈夫なの?」
「ああ。もう大丈夫」
さっきまで泣いていたとは思えない、きっぱりとした断言だった。
「プレゼント、サンキューな。――いきなり変なとこ見せてびっくりさせちゃったけどさ……嬉しかったことだけは、誓って確かだから」
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