第141話 確かめとくべきなのは、きっと

 原初の金魚――和金。


 フナ由来の野性味を残した流線型の魚体は、もちろん由那にだって見覚えがある。中でも記憶に新しいのは、忘れもしない栗鼠追夏祭りの日、琴音といっしょにチャレンジした金魚すくいの屋台である。


 つまるところ和金とは、一般に「金魚」と聞いて想像されるあの金魚のことなのだ。


 しかし――


「すごい……わたしの知ってる金魚と全然違う」


 眼前のトロ舟で泳ぐ紅白模様の和金を眺めながら、由那はほとんど呆然として呟きを漏らした。


 孫の反応が満足だったのか、祖父はにんまりとした笑みを口元に浮かべる。


「だろう? ちょうどウチの環境に慣れて状態が上がってきたところなんでな」


 祖父が自慢げに語るのも無理はない。最も新参の個体とはいえ、少なくとも輸送ストレスが抜ける程度には環境に馴染んでいて、さすがに一点物だと評するしかない美しさを醸し出しているのだ。


 そう――「美しい」という修辞がこれほどまでに過不足なくハマる魚を、由那は初めて目の当たりにした。


「金魚すくいで捕れるのとか、餌用に売ってるのとかと同じ種類のはずなのに、ぜんぜん違う魚に見えるよ。色もすっごくバランスがよくって……」


「この模様が気になるんか?」


「うん。きれいに紅白に分かれてる」


更紗さらさってんだ、こいつは」


 赤と白とで構成される斑模様のことを更紗と呼ぶのだ、と祖父は説明した。


「これにもう一色、黒が加わると今度は『キャリコ』って呼び方になる。……つってもまあ、キャリコってのは英語で更紗のことだったりするんだけれども」


「あぅぅ、またややこしいなあ……」


 中国原産なのに種名がオランダだったり、江戸時代のらんちゅうが今のらんちゅうとは断絶した別品種だったり、なんだかさっきから初見殺しみたいな話ばかり耳にしている気がする。


 思い返してみれば、琴音からスネークヘッドについて聞いたときも命名まわりは頭がどうにかなりそうだった。アクアリウムの世界に共通してネーミングは鬼門なのだろうか。


「――更紗って言葉の響きは、ばあさんを思い出させてくれる」


 唐突に、祖父はそんなことを口にした。


「金魚で更紗っつったらこいつみたいな赤白模様のことなんだが、語源になったのはインドの紋様染めの布地のことでな。ばあさんは更紗模様の着物を気に入って着ていたもんだ」


「そう、なんだ……」


 由那は祖母のことをろくに覚えていない。なにしろ物心つく頃には祖母はとっくにこの世を去っていて、喋り合ったり触れ合ったりといった時間を積み重ねることができなかったからだ。


 祖母についてわかっていることといえば顔立ちくらいで、それだって仏壇の上に掛けられている遺影を見たことがあるからに過ぎない。


 まったく気にならないと言えば嘘になる。


 けれども由那は、「おばあちゃんってどんな人だったの?」とは尋ねなかった。


「――ね、おじいちゃん」


「なんだ?」


「誰かいっしょに暮らしたいって思うのは、その人のことが好きだからなのかな」


 ことさらに訊こうと意識した質問ではなかった。その問いは、しごく自然に由那の心からこぼれ出てきた。


「好きっていうのは、つまり……知り合いとか友達とかじゃなくて、もっと特別な意味でなのかな、っていうことなんだけど」


 脳裏をよぎる人物と同じく「特別」という表現を用いたことは、もしかするとそのまま答えなのかもしれない。けれども、それを自覚できるほど由那は余裕を持てていなかったし、また成熟してもいなかった。


 顔を上げた。


 祖父が今日一番の引き締まった面持ちで、まっすぐこちらを見つめていた。


「――難しい質問だなあ」


 皺だらけの手で顎を撫でた祖父はそう唸ったが、言葉とは裏腹に、困っている様子は微塵ほども窺えない。


「べつにただの友達や知り合いとでもいっしょに住んだっていいんだしな。だいたいおれとばあさんが初めて会ったのは見合いの席だから、いっしょになるってのは最初から半分くらい決まってたようなもんだしよ」


「ええ~……」


「おれらの場合、いっしょに暮らしてるうちに気持ちが通じていったってのが実際のとこだなあ。だからっつうのも妙かもしれんが――」


 やはり参考にはならないか、と退きかけた由那の心を、祖父の真摯な声音が引き留める。


「大切なのは、相手に惚れてる気持ちそのものじゃないと思うんだよ」


「え」


「今は惚れてるのかもしれん。だけども、いっしょに暮らしてりゃ相手のよくねえところだって見えてくる。そんな毎日が続いたら、ひょっとしたらいつの間にか気持ちも冷めちまってるかもしれんだろう?」


「それは……そうかも、だけど」


「だからな、由那――確かめとくべきなのは、きっと、じゃあないんよ」


 見透かしたような瞳とはこういうのを言うのだ、と由那は悟った。



「由那は、そのひとのことをのか?」



 考えるまでもない、とは感じなかった。


 考えた。


 考えた末に、由那はこくりと首を縦に振った。


「そうか。――大きくなったなあ、由那」


 祖父があっさりと短く告げて、ふっと口元を綻ばせる。

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