ⅺ.新たな年を君たちと共に

第142話 器用じゃないから

 小清水こしみず由那ゆな亜久亜あくあに戻ってきた。


 巳堂みどう琴音ことねが驚かされたのは、どうしたわけか由那の態度からぎこちなさが消えていたことだった。自分と顔を合わせるたびに漂った微妙な空気を、青森の寒空の中へと振るい捨ててきたかのように思えた。


 そして、そのほかに特筆すべきことはと言えば――生憎と起こっていない。少なくとも現時点では。ただの一つたりとも。


「今更だけどさー……現状維持気質なのなーおまえら」


「なんだよ藪から棒に」


 生物部単位で行動することが多くなったとはいっても、休日一番よく会うのが天河あまがわ千尋ちひろであることに変わりはない。なにしろ家がすぐそばだし、共に過ごした時間も長いのだ。あらゆる意味での距離の近さは「腐れ縁」なんて表現では否定しきれない現実であって、真剣な相談事から他愛もない雑談まで気安く話せる相手は結局のところ千尋をおいてほかにない。


 この日千尋を部屋に上げたのは、月刊アクアキューブの最新号を回し読みするという名目でのことだ。そうであるにもかかわらず、雑誌のページをめくる千尋の口から出てきた話題は、記事の内容とは小指の先ほども関係がなかった。


「お互いに整理はついたんだろ?」


「たぶんな」


「じゃあ進展あったっていいだろ」


 おまえらだって似たようなもんじゃないのか、とは少し頭をよぎらないでもなかったが、琴音は口にしなかった。


 認めよう。人の気持ちを察して動く――その方面に関する限り、この幼馴染は昔から現在に至るまで、自分よりもはっきりと先を歩み続けている。


 己の内心をしっかりと言葉にできるのは翠園寺すいおんじ莉緒りおにしても同じことで、だから彼女たち二人の距離感はきっと、今の自分たちのそれと近しいものではとっくになくなっているのだろう。


 でも、それでいいと琴音は思っている。


「私たちはさ……おまえや翠園寺さんほど器用じゃないから、たしかにちゃんと話して伝えたほうがいいんだと思う」


「おう」


「だから、ちゃんと話すよ。話すべきだって思ったときに」


 千尋が再び声を発するまでには、幾許かの間があった。


「……そーかい」


 しみじみと呟いて後、千尋はいつものように、白い歯を覗かせてニッと笑う。


「わかってんならもう何も言わねーわ。今更ライバル出現もねーだろーしな、コトと小清水ちゃんのペースでやったらいいよ」


 由那についての言及はそれで最後だった。


 もはや言葉は不要とばかりに千尋は誌面へと視線を落とし、今月号の目玉企画「アクアリストのお宅訪問」の文章を一心不乱に追いはじめる。


 ――もしかすると。


 もしかすると、琴音の気分が晴れているのと同じくらいに、千尋もまた清々しい気持ちでいるのかもしれない。


 千尋は今この瞬間、ずっと肩に載せ続けてきた荷物を下ろしたときのような感覚を得ているのかもしれない。琴音はふとそんなことを考える。


 改めて振り返ってみれば、こいつはいろいろと気を回してくれた。由那や莉緒と出会った今年に入ってからはいっそうだったように思うし、こいつのことだ、自分が気づけている件なんて氷山の一角に過ぎないのだろうとも推察できる。


 私はこいつからもらったぶんだけお返しできているんだろうか――とまで耽ったところで、宿題やテスト勉強にまつわる諸々のエピソードが記憶の底から転がり出てきた。


「……うん、わりと定期的に返せてるな私」


「あん? コト、何か言った?」


「独り言だ。べつに気にしなくていい」


 ――なんとなく、だけれど。


 千尋との付き合いは変わらないのかもしれない、と思う。


 お互いに離れた場所で暮らしていくことになっても、そんな日々の中でそれぞれ別々の人間関係を築くことになったとしても。千尋との縁が完全に切れてしまうところは、琴音にはどうしても想像できない。


 きっと自分たちは一生、世話を焼いたり焼かれたりしていくのだ。


 幼馴染と言い表すのか腐れ縁と評するのかは一旦脇に置いておくとしても、そんな関係も――まあ、悪くはないんじゃないだろうか。

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