第134話 アクアリウムで繋がった仲
――ひとまず、お膳立てはできたでしょうか?
水槽を抱えてそろりそろりと階段を下ってゆく二人の姿を見送って、莉緒はひそかに息をつく。
為すべきことは為した。
誰に頼まれたわけでもなく、余計なお節介と言ってしまえばそれまでだ。つまるところ自分で勝手に担いだ荷であるわけだが、そんなものでも下ろせば自然と肩が軽くなる。
「なかなか人が悪くなってきたね、莉緒ちー」
声に反応して振り返ると、顔を向けた先では千尋が苦笑いを浮かべていた。
「……はて、何のことでしょう?」
「またまたとぼけちゃってー。べつに役割なんて誰がどれやってもいいじゃん?」
わざわざ琴音と由那を組ませて送り出したのは、二人でゆっくり話せる時間を作ってやるためだろう。要するに千尋はそう訊いているのだ。
「――でも、うん。グッジョブだわ」
「あら」
「あたしらが直接あいつらにどうこう言うのは筋違いだとしてもさ、あいつらがどうしたいのかなんて端から見てたって明らかだもんなー」
悪いね自分の水槽が大変なときに気ぃ遣わせちゃって、などと千尋は片眉を上げてみせる。
冗談めかした表情と口調。だけどもそこにあるのが確かな誠意であることを、この半年ほど千尋を間近で見てきた莉緒は知っている。
しかも、彼女の意見には莉緒もまったく同感なのだ。
「何かのきっかけがあれば、お二人とも自分の気持ちに従えると思うんですよ」
よく言えば種明かし、悪く言えば犯行の供述――千尋の言外の問いに対して、莉緒は肯定を意味する答えを返す。
「けれど、きっかけというのは何も特別なものではなくて……巳堂さんと小清水さんならきっと、いっしょにアクアリウムをやっていれば自然とうまくいくんじゃないでしょうか」
「そのための計らいってわけだ。やけに自信ありげじゃん?」
「だって、アクアリウムで繋がった仲でしょう?」
自信、という表現ではまだ足りない。
「それに――」
「それに?」
琴音と由那を出会わせたのがアクアリウムなら、これから二人の触媒となり続けるのもアクアリウムであるはずだ。そのことに関して莉緒の心には今、鉄の確信が宿っている。
なぜならば。
「わたくしも同じですから」
にっこりと笑みを湛えて、莉緒は体ごと千尋へ向き直る。
千尋が硬直したのは一瞬だけのことだ。
常にお調子者の顔でふるまいながら、その実それとなく自分たちに気を配ってくれてきた千尋。器用な彼女はこちらの言葉の意味くらい簡単に悟ってしまったに決まっていて、だから白い歯を見せて返してきたセリフは当然、莉緒の想いを存分に汲んだものだった。
「――んじゃ、あたしらもやるとしようぜ、アクアリウム」
もちろん、莉緒は一も二もなく頷いた。
当の琴音と由那はといえば、まさに二人がかりで洗い場まで水槽を運び込んだところだ。
洗い場といっても特別な一室が存在するわけではなくて、早い話が翠園寺邸の庭先である。普段は芝や植木に水を撒くのに使っているのだろう、玄関を出て少し歩いたところに水栓柱が
ベニヤ板を足でつついて倒し、水栓柱の前に敷く。そこに水槽を下ろしてしまうと、琴音はいよいよスクレイパーを手に取った。
「さて、ちゃっちゃとやるか」
「う、うん」
スポンジを手にした由那が応じる。やはりと言うべきか彼女の笑みがどことなく無理をしているように見えて、琴音はいたたまれない気分に駆られた。
――って、だからこれが自意識過剰ってことじゃないのか?
自分と二人きりになったから由那の様子がまたおかしくなったのかも――ナチュラルにそんなふうに考えるなんて、いったい自分はいつからこんなにも思い上がるようになってしまったのだろう。
自分がこんな調子ではそれこそ由那にまで変に気を遣わせてしまいかねない。眉間に寄ったしわを解きほぐす。とにかく普段どおりにしようと決める。
「あー……ちなみに今ベニヤ板を敷いた理由だけど、」
「ん、ん。えっと、わかるよ! 凸凹してるところに置いたらガラスが割れちゃうかもしれないから、地面に直接は置かないほうがいいってことだよね?」
「……正解。よくピンときたな」
「だって、一番はじめに教わったことだから……」
そういえばそうだった。
ゴールデンウィークが過ぎ去った次の休日、自分と由那は初めて顔を突き合わせて言葉を交わして、そして水槽を立ち上げたのだ。
今の状況は、なるほど、考えようによってはあのときと非常に近いかもしれない。
前回はあくまでも水槽を設置する際の注意点という文脈だったけれど、あのとき由那に語って聞かせた「床に直接置いてはいけないワケ」のうちの一つには、たしかにガラスの保護という理由があった。
さらりと知識として出てきたあたり、自分の教えは最初からしっかり由那の身になっていたようだ。そのことが嬉しくて琴音は我知らず口角を上げる。喋りの滑らかさも自然と増して、
「水槽を丸洗いするときに気をつけるべきなのは、まず熱湯を使わないことだ」
「うん、危ないもんね。急に熱いお湯をかけたらガラス割れちゃうかもしれないし」
「今回は他人の水槽だからなおさら慎重に取り扱わないとな」
「……た、高かったりするのかな?」
「いや値段はオールガラス水槽の相場どおりで、極端に高級ってわけじゃないと思うけどな。見たとこ特注品ってわけじゃなさそうだし、たぶんADOとかのブランドものじゃなくてコトホギのやつだし」
アクアリウムは翠園寺邸のインテリアというよりも莉緒自身の趣味だったはずだから、水槽も彼女のお小遣いで買ったものだろう。
コトホギ製フレームレス水槽、レグルスブロード――アクアショップやホームセンターにも流通している既製品ながら、質実剛健なつくりとブラックシリコンの上品さで高い評価を得ている水槽だ。お嬢様ながら自活志向の強い莉緒らしいセレクトと言える。
むろん丁寧に洗うつもりではいるが、それはそれとして、この製品が相手ならこちらも安心して作業ができる。
「私がスクレイパーでガラス面の苔を削り落とすとして……由那、スポンジじゃなくてブラシを持ってくれるか」
「スポンジ、使わない?」
「水槽畳んでそれっきりにしとくなら塩素系の漂白剤つけてゴシゴシやるけどな。今回はすぐにまた立ち上げるんだし、洗剤使わずにやろう」
「ん、そっか。洗剤落としきれなかったら大変だもんね……お魚さんたちに毒だよね」
「バクテリアにもだな。もし殺菌するならその後本当にしっかり水洗いしなきゃダメだぞ。最初から洗剤の類には頼らないほうが無難だ」
打てば響くような由那とのやり取りに、琴音は心からの安らぎを感じる。
これをずっと続けていきたいと思う。
教える側ではなくたっていい。もとより覚えのいい由那だ、いずれは自分の知識を必要としなくなって、ひとりでも大抵のことをできるようになるだろう。それは「師匠」として喜ぶべきことだと、琴音は一切の偽りなく断言できる。
もしその日が来たとしても、自分も由那もアクアリストであることに変わりはないのだ。
いっしょに水槽を愛でていけるなら、アクアリウムに触れる時間を共有できるなら、間違いなく憩える日々になる。
――あ……そうか。
琴音は、声には出さず独白した。
理解した。
気づいてしまった。
――たぶん、好きって、この気持ちのことだ。
そして、そうであるならば、惑う必要などなかったのだ。
由那が自分のことをどう想っているのかなんて、約束を交わした夏祭りの夜にはとっくにわかっていたことではないか。
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