第135話 今年はすっごく楽しかったから
時は絶えず移ろってゆく。
結局、莉緒の水槽は従来のレイアウトを踏襲して無事に立ち上がった。
雰囲気を一新する機会だったという見方もあろうが、そもそも使える水草といえば崩壊前からの生き残りだったわけで、最終的な水景がマイナーチェンジ程度に収まるのも無理からぬことではあったと言える。
もとより莉緒は以前のレイアウトを気に入っていたのだろうし、復活させることができそうなのは素直に良かったと考えるべきだ――琴音はそう思っている。
レイアウト水槽といえばもう一つ、生物部として立ち上げた来賓室の120cmレギュラーのほうにも動きがあった。
千尋が写真部の協力を取りつけてきたのだ。
亜久亜高校の写真部はこれといって華々しい成果を出しているわけではないが、そうは言っても愛好家の集まりには違いなく、カメラに興味のないそこらの高校生よりは撮影がうまい。千尋は「市の新しい試みであるアクアリウムコンクール」という餌をちらつかせてカメラ女子たちの功名心を巧みに煽り、あれよあれよという間に交渉をまとめてしまった。
かくして、来賓室を彩る清流レイアウト水槽はデジタル一眼レフのレンズに収められた。プリントアウトされた写真はすでにコンクールへと送られ、あとは審査を待つばかりとなっている。
コンクールへの応募完了を祝う打ち上げが行われた。
水槽を立ち上げたのは何ヶ月も前のことだし、手入れはこれからも続けて行っていかねばならないのだから何も終わってなどいないし、直近の作業といえば写真を送っただけである。打ち上げもへったくれもあるかと思わないでもなかった琴音だが、千尋からの「プレゼントがあれば持参するように」とのお達しで真の意図を察した。
打ち上げというのは名目に過ぎず、莉緒の誕生日祝いを部室でやってしまおうという企みだったのだ。
苦笑いで見逃してくれた佐瀬先生には感謝するよりほかにない。
十一月から十二月にかけて、終業式を迎えるまでに起こった出来事はざっとこんなところだろうか。
悩みの種だった由那はといえば相変わらずのぎこちなさだが、それでも遊びに誘えば出てきてくれるあたり、やはり千尋の言葉も自分の理解も間違っていなかったのだろうと琴音は考えている。
繁華街をウィンドウショッピングして回ったクリスマスの夕方、琴音はふと気になって尋ねてみた。
「――そういえば由那、正月は実家帰るのか?」
「あ、うん」
親戚への挨拶とかあるしね、と由那。
「いったん
「出発?」
「おじいちゃん
「そうか、青森だったもんな」
なにしろ本州最北の県だ。もちろん亜久亜や栗鼠追からはかなりの距離があるわけで、そこまで遠出したならたしかにそっちで長居したいよなと琴音は思う。
「おじいちゃん家にはさすがに毎年行くわけじゃなくって、電話で済ませる年もあるんだけどね。今年だけはちゃんと顔を見せておきたいなあって、わたしがお父さんとお母さんにワガママ言っちゃったの」
えへへ、とはにかむように由那が笑う。
一方の琴音は気が気でない。今年だけは――なんてわざわざ強く望むからには何らかの、ありていに言ってしまえばご老人特有の切羽詰まった事情があってしまったりするのだろうか。
突っ込んで聞くべきか否か琴音が迷っているうちに、由那が言葉を継いでくる。
「今年はすっごく楽しかったから。おじいちゃんにお礼言わなきゃいけないなって」
「楽しかったって……あ」
わかった。
琴音の脳裏に閃いたひとつの事実。それを肯定するかのように、由那は続けた。
「こうやってコトちゃんといっしょにお出かけできてるのだって、おじいちゃんのおかげだから」
そのとおりだった。
アクアリウムの「師匠」として由那に基礎を教えたのは琴音だが、そもそも魚を飼うという発想を由那にもたらしたのは彼女の祖父だったではないか。
もし、ペットを探す由那に祖父が魚を薦めていなかったら。
――私と由那は、出会ってすらいなかったはずだ。
もし、由那と自分とが初めて会話をしたあの日、由那の祖父から送られた水槽が届いていなかったら。
――私と由那のつきあいは、ここまで続いていただろうか。
「それは……うん、たしかにお礼を言わないとだ」
今年はとても楽しかった。その感覚は琴音とて同じだ。
由那と出会えていなかったら。由那と仲良くなれていなかったら。今日までの充実した日々は決して存在しなかっただろう。
自分は由那の祖父の顔さえ知らない。けれどたしかに関わっている。こういうのをバタフライエフェクトっていうんだろうか、なんてぼんやりと考える。
宙を漂わせていた視線を、由那へと戻した。
「――あぅ、」
目と目が合った次の瞬間、由那のまなざしが逃げる。柔らかそうな頬と耳たぶがほんのり赤く染まっているのは、冬という季節のせいではきっとない。
琴音は、胸を衝きあげる情動をぐっと堪えた。
大切なのは勇気だとする千尋のアドバイスは疑わない。
けれど、準備が必要に違いなかった。自分ではなく、由那のほうに。
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