第23話 これも体験ってことで

 真っ青なヒレを目一杯に広げて、ギンガことブルームーンギャラクシースネークヘッドが水槽の端から端までを往復する。その動きの激しさときたら凄まじく、小清水が「暴れている」と勘違いしたのも頷ける。これを初見で餌くれアピールだと見抜ける奴は、たしかに多くはないだろう。


「巳堂さんの言ったとおりだ。写真で見るよりも光沢があるっていうのかな、こう、ターンするときにヒレとかウロコがギラギラして見えるよ」


「でしょ? 魚の魅力はやっぱり実物を見るのが一番よくわかるよ」


「大事に飼わなきゃって思うよね。この子も本当に人に慣れてるし……」


 感心したような小清水の呟き。以前フラワーホーンが飼い主の手に擦り寄る動画を見ていたはずだが、魚種の違いか映像と実物の違いか、改めて感じるものがあったようだ。


 だとしたら、部屋に入れた甲斐もあったということか。


「ギンガはワイルド個体だから警戒心も強くて、私も最初はどうなることかと思ったけど……ま、根気よく餌をあげ続けてればそのうち慣れてくれるよ」


「そうなの?」


「イタズラして怯えさせたりしなければの話だけどね。――そうだ、」


 琴音の脳裏にひとつの思いつきがよぎる。


「小清水さんも餌やってみたら?」


「え!」


 思いもがけない提案だったらしい。小清水は目を丸くして、


「いいの?」


「せっかく目の前に魚がいるんだし。これも体験ってことでさ」


 話しつつ、琴音は水槽の真下へと手を伸ばす。この黒い水槽台はキャビネットになっていて、内部にいろいろと収納できる仕様だ。


 扉を開くと、深緑色の円筒形の物体がふたつ、その姿を覗かせた。双子のようなこれらの物体は外部フィルターの本体とサブフィルターであり、よく見ればホースによって水槽と繋がれていることがわかるのだが、今こいつらに用はない。


 用があるのはその手前、無造作に置かれた袋である。


 袋の中身はもちろん、魚肉やオキアミやその他諸々を合成して作られたドライフード。


 小清水と出会った日に買った、あの人工餌であった。


「これを落としてやるだけ。餌の粒くらいならウール取るまでもなく、蓋と水槽の隙間から落とせるでしょ? 難しくないよ」


「何粒くらいあげたらいいの?」


「成長具合とか一日にあげる回数によっても変わるけど……今は、わたしが学校行く日は一回に五粒あげてるかな」


「なるほど、五粒……五粒だね」


 小清水はぐっと拳を握って意気込むと、琴音から飼料の袋を受け取った。ジップロックの口を開ける。褐色の粒を摘まみ取る。


 琴音と入れ替わるようにして水槽の前に立つ。


 そろそろと慎重に蓋の上まで手を伸ばし、


「あ、早くしないと――」


 琴音の忠告は、しかし遅く。


 ――ガンッ!


「ひゃああああっ!?」


 衝突音が鼻先で突然響いて、小清水は本気の悲鳴をあげた。


 小清水がガラス越しにちらつかせた餌をめがけてギンガがジャンプし、蓋にぶち当たったのだ。琴音にとっては茶飯事でも、初めてスネークヘッドと向き合う人間にとってみれば頭が真っ白になるほどの衝撃であったようで、小清水はひとたまりもなくひっくり返った。


 琴音の眼前に、小清水の背中が飛び込んでくる。


「ちょ、小清水さ――」


 避ける暇などなかったし、避けていたら小清水はベッドのフレームに後ろ頭を強打していたかもしれなかった。


「んわっ!」


「きゃう!」


 衝撃がのしかかってきて、天地が逆転した。


 気がついたときには硬くて平べったいもの――もちろん床だろう――に背中が触れていた。


 もぞり、と身体の上で何かが動く感触。


 人ひとりぶんの重みがゆっくりと取り払われてゆくのを感じながら、琴音は床板にぶつけた頭の下に掌を入れる。


「いってて……」


「ご、ごめんね巳堂さん」


 予想以上に近くから声が届いた。


「いや……大丈、夫……」


 目を開けた琴音の視界いっぱいに、小清水の顔が映し出された。


 絶句した。呼吸さえ止まった。


 小清水はこちらの瞳を見つめたまま視線を逸らさない。わかっている、これまでにもいっそ不用意と思えるほどに距離を詰めてくることの多かった小清水だ、もともと他人と触れ合うことをまったく苦にしないのだろう。


 だが、琴音はそうではない。


 すっかり硬直しきった意識が、入ってきた情報をそのまま処理する。


 転んだときに跳ねたのだろう、栗色の髪が乱れている。眉尻が下がっているのはこちらを慮ってのことか、長い睫毛に縁取られた黒目がちの瞳に涙が浮いているのは驚きのあまりか。丸いほっぺたが微かに赤く色づいているのは、やっぱり急に大きく動いたせいか。


 ――やばい、


 小清水の瞳に映る自分がひどく情けない表情をしていた。


「っ~~~~!!」


 琴音は弾かれるように顔を逸らす。


 つくづく思い知る。


 小清水のことは嫌いではないが――得意でもない。決して。




「……まあ、その、なんだ」


 話を再開するには平常心を取り戻さねばならなかった。散らばった餌を片付け終えた琴音は、ベッド脇に座り込んでしょげる小清水から少し離れ、自らの勉強机の椅子に腰を下ろした。


 ともすれば先刻の光景が蘇って鼓動が波打ちそうになるが、つとめて冷静に声を絞り出す。


「スネークヘッドは水面近くの動きに対して敏感に反応するんだ。その習性は人に慣れてもなくなったりはしないから、餌を落とすのが遅れるとああいうことになる」


「びっくりしたよう……」


 小清水のほうは別の意味で回復しきっていないらしい。


「わたしにはちょっと怖いなあ……」


 琴音は溜め息をつく。


 そういえば会った初日にも受けた印象だが、小清水には少々どんくさいところがある。仮にスネークヘッドを飼ったら、毎日のように餌狙いのジャンプを許すことになりかねない。


 魚を脅かすと魚からの信頼を失う。しかし小清水の場合は逆に、魚のほうから脅かされる日々を送ることになりそうだ。


「ジャンプを頻繁にするやつは飼わないほうがいいね。底モノのほうが小清水さん向きかも」


 ずいぶんと心臓に悪い思いを味わわされはしたものの、やはり部屋に上げたことは無駄ではなかったのかもしれない。


 底モノかつ60cm水槽向きとなれば、候補はかなり絞られる。


「どういうのがいるの?」


「メジャーどころではプレコの仲間かな。小さいのから大きいのまでいろいろだから、60cmに合うのも探せば見つかる。ただ……」


「ただ?」


「私より適任者がいるんだよな」


 琴音は唇を歪めた。


 気にくわない話ではあるが、事実は事実として認めなければならない。自分の狭い交友関係の中であっても、テーマがプレコとなると一番詳しいのは自分ではない。


「適任者って?」


「千尋。あいつのメイン水槽はプレコなんだよ」

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