第24話 いったん別々に様子見て

「――ははあ、それで明日あたしの家に来たいと」


 翌日の放課後、電車の中で琴音が切り出した話をひととおり聞いて、千尋は腕組みして天井の吊革を仰いだ。


「いいよ」


「ごめんね天河さん、わたしのために迷惑かけちゃって……って、え? あれ?」


「いいよって言ったぜ」


 千尋がにやりと白い歯を見せて笑い、割って入ろうとした小清水がつぶらな目をぱちくりさせる。


「あたしんち、父さんも母さんも土曜は仕事で、代わりに平日のどっかで休みを取んの。だから明日はあたししかいない。――何にしても小清水ちゃんが気にするこっちゃないよ、どーせコトは分かってて聞いてきてるんだから。なぁコト?」


「ま、そういうことだね」


 長いご近所付き合いである。土曜日の天河家が千尋の天下になることくらい、琴音は何年も前から把握している。


「ついでにいろいろ見ていくといいよ。こいつ水槽四つ回してるから」


「そのうち生体がいるのは三つだけどなー」


 小清水の頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。


「じゃあ、生き物のいない水槽はどうしてるの?」


「普通に水だけ入れて濾過回してるよ」


「えっと……それはもしかして、バクテリアを飼ってるとか、そういう……?」


 わけがわからない、と言わんばかりの小清水の顔。琴音はさりげなく口元に当てた手の下で笑いを堪えた。


 まだ小清水の知らなくていいことだが、狭くも深いアクアリウム界隈には「水そのものを飼う」という考えに取り憑かれる者が一定の割合で存在する。彼らは己の哲学に則った完璧な濾過システムを構築することに余念がなく、その行いはまさしく小清水の言ったとおり「バクテリアを飼う」ことにほかならない。


 もちろん、千尋はそれほどの深淵に魅入られてなどいなかった。


「バクテリア飼ってるってのはあながち間違いじゃねーけど、それが目的かってなると微妙なとこだねー。トリートメント用に空けてあるんだよ」


「トリートメント?」


「新しく魚を入れたくなったとするじゃん? で、そんとき病気とか持ち込まれちゃかなわないっしょ? だからいったん別々に様子見て、大丈夫そうならメイン水槽に合流させるわけよ」


「あ、混泳させてるんだね」


「とはいえぶっちゃけ、あんまり使ってないのが実情だけどね。あたしもそこまで小遣い多いわけじゃないから、ホイホイ魚を増やせるってもんでもないしさー」


 腕を組んで唸る千尋。


 お喋りを横で聞きながら、琴音は「生き餌のトリートメントこいつに頼もうかな」などと考えている。スネークヘッドのギンガは現在およそ十六センチ。メダカやアカヒレなら余裕で丸呑みにできるし、鋭い歯で獲物を食いちぎれることを考えれば、そろそろ小赤を与えても大丈夫な頃合だと思う。


 ――千尋、ガサツなわりに腕はいいしな……。


 調子に乗られるとムカつくので口には出さない。出さないが、へたなショップよりも千尋のほうがよほど信頼できる、というのが琴音の素直な気持ちである。「AQUA RHYTHM」のような行きつけの店で買うならともかく、そこらのホームセンターの店員が管理する生き餌と千尋が世話をした生き餌となら、琴音は絶対に後者を選ぶ。


 水槽が遊んでいるというなら、そのうち本当に提案してみるのもアリかもしれない。魚でなくても、ミナミヌマエビあたりを繁殖させるのは千尋にとってもメリットのある話なのだし。


「――まあ、とにかくだ」


 千尋が大仰に頷いて、


「今まで小清水ちゃんに教えたのとは違う生き物ばっかりいるからさ、期待してくれて構わんぜ」


 そのとき、電車のスピーカーが屋敷ヶ丘やしきがおか駅への到着を告げた。


「あ、わたし降りなきゃ。それじゃあ巳堂さん、天河さん、明日よろしくね!」


「ああ。またね」


「待ってるよー」


 小清水がドアを潜り、ぱたぱたとホームの雑踏の中へ消えてゆく。


 電車が再び動き出す。


「しっかし、ジャンプする魚が怖いってのは盲点だったな。そりゃスネヘはあかんわ。やっぱり一般人がこっちの世界に入門するハードルって高いんかねぇ?」


「私たちが一般人じゃないみたいな言い方やめろ。――ま、アクアリウムやり出すと生活変わるのは認めるけどさ。始める前の私と今の私じゃまるきり別人だと思う」


「趣味ってそんなもんだよな。始める前どうしてたか全然思い出せねーもんなぁ」


 ――いや、それはどうだろう……。


 琴音は眉をひそめる。どうしていたかも何も、千尋は子供の頃からサワガニを捕まえたり虫取りに興じたりしていたのであって、それより前を思い出せないのは単純に「物心つく前の記憶がない」というごく当然の事象に過ぎない気がする。


「……私を道連れにしといてよく言う」


「ん? 今のコトがあるのはあたしのおかげだって?」


「いいように解釈すんな」


 どちらからともなく笑みがこぼれた。


 電車は辰守たつもり駅に差し掛かろうとしていた。みるみるうちにスピードが落ち、扉が「ぷしゅっ」と音を立てるに至って二人は席から立ち上がる。


 ホームに降りると、夕方のそよ風が髪を撫でた。


 唐突に、千尋があっと声を上げた。


「どうした?」


「いや、たいしたことじゃねーんだけど。言いそびれたと思ってさあ」


「何だよ」


「翠園寺さんも一緒になるわ」


 ――はあ?


 話が見えない、という内心の声が顔に表れていたのだろう。千尋は言い訳するような口調で言葉を継ぎ足した。


「ほれ、あたし昨日の昼休みいなかったじゃん? あれB組に行ってたんだわ、翠園寺さんと話してみようと思ってさあ。そしたら向こうもあたしの水槽に興味あるって言うから、ウチに来ればって呼んだんだよ」


「……つまり?」


「明日コトたちも来るんなら、四人で盛り上がれるぜ!」


 琴音は呆れた。モノは言い様とはこのことだ。


 要するに、ダブルブッキングなのだった。

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