第97話 やっぱりコトが一番適任
休日明けの月曜日、憂鬱な朝とハードな授業を乗り越えて来賓室の扉を開けた琴音が目の当たりにしたのは、水草の植栽が済んだ120cmオールガラス水槽の姿であった。
「うわ、いつの間に……」
「――莉緒ちーとあたしで昼休みの間に終わらせといたぜ」
思わず驚きを声にしたとき、ばっちりのタイミングで答えが背後から返ってきた。
振り返ってみれば、廊下には千尋の姿。
琴音は眉をひそめて、
「……おまえ、昼休みは体育館行ってたんじゃなかったか?」
「おうよ。でもほれ、休み時間に来賓室入っていいって許可取ったのは部長であるこのあたし。あたしも協力したうちに数えたって罰は当たらねーっしょ」
「実質作業したのは翠園寺さんだけか……」
もっとも、たとえ千尋がそのときこの場にいたとしても状況は大して変わらなかっただろう。なにしろこいつは水草と縁がなさすぎる。今回使う水草はどれも「浮かべておしまい」というわけにはいかないのだから、千尋が戦力になれる可能性はほぼゼロだったと言っていい。
――翠園寺さんの邪魔しなかっただけマシな判断か……?
琴音がそう脳内で結論づけたとき、当の莉緒がやって来た。B組のホームルームが終わるなりこちらに直行してきたのだろう、後ろには由那の姿もある。
由那は琴音を見てぱっと表情を綻ばせたが、ほとんど同時に水槽を視界に捉えて目を丸くした。
「わ、ほんとだ、水草植わってる!」
「ほんとだ……ってことは、由那も話は聞いてたのか?」
「ここに来る途中で翠園寺さんが話してくれたの。――むぅ~、植えてるところ見たかったなぁ」
由那のしょんぼりした声を受けて、莉緒がくすりと笑みを漏らす。
「地味な作業ですから、ご覧になっても退屈なだけだったと思いますよ」
「たしかに、それは翠園寺さんの言うとおりだな」
琴音は自宅のスネークヘッド水槽に植栽したときのことを回想して、莉緒に同意を示した。なにしろピンセットで摘まんだ水草を砂やソイルに突っ込んでいくだけの作業だ。田植えの映像のほうがまだしも見応えがあるだろう。
水槽に駆け寄ってまじまじと眺め始める由那を尻目に、琴音は千尋と莉緒のほうへと向き直る。どうしたことか、由那と違って二人は部屋に入るそぶりを見せない。
「どうかした?」
「あー、コト。ちょっと小清水ちゃんと二人でやってほしいことがあんだよね」
琴音はぴくりと眉を動かす。経験上、こういうときの千尋は何事かを企んでいるのが常だ。
「……何をすればいいんだ?」
「パイプの付け替え。外部フィルター付属の正規品じゃレイアウトの邪魔になっちまうんだよね」
「なるほど……」
一理ある。というか、かなり真っ当な話である。
正規品は緑色のプラ製パイプなのだ。もちろん性能は確かなのだが、外観の美しさが求められるコンテスト用の器具としては安っぽさは否めない。
ガラスかステンレスのパイプに変更するのが妥当だろうというのは、琴音としても充分すぎるほどに同意できる意見だった。
「了解。実物はあるのか?」
「昼休みに届いたよ。水槽台のキャビネットの中に入れてあるから、小清水ちゃんといっしょに取り付けといてくれ」
「……さっきから妙に由那にこだわってるのは気のせいか?」
「いやいや、だってこの先困るっしょ、小清水ちゃんにも外部フィルターのメンテできるようになってもらわんと。コトは普段から使ってるわけだし、小清水ちゃんに教えるならやっぱりコトが一番適任だと思うしさ、ここは素直に頼まれてくれ」
「そこまで言うなら……わかった」
筋は通っている――ひとまず琴音は従うことにした。
なんだかんだ言っても、千尋は全体のことをしっかり考えているらしい。部長としての頼みであれば自分が断るわけにもいくまい。
――って、あれ?
琴音は部屋のほうへと向き直ろうとして、ふと自分の疑問をまだぶつけていないことに気づいた。
「――なあ千尋」
「んー?」
「私と由那がフィルターをカスタムするのはわかったけどさ。おまえと翠園寺さんはどうするんだ?」
二人が作業に加わらないのは構わない。そもそもが一人でもできる作業だ、由那に教えながらという事情を加味しても人数をかける必要はあるまい。
それでも、部長とエースの動向くらいは知っておいたほうがいいだろう。結局のところ、この水槽作りに関して最終的な意思決定を下すのは彼女たちなのだから。
「んー、たいしたこっちゃないよ」
千尋は、あっさりと答えた。
「作戦会議。生体のこととか決めなきゃいけないからさー」
千尋と莉緒が廊下の曲がり角に消えるのを見送って、琴音はくるりと室内を振り返った。そういえば二人がどこで「作戦会議」とやらをするつもりなのか聞きそびれてしまったが、まあ普通に考えて第二理科室だろう。頭の片隅へと除けておく。
巨大な水槽の前では、由那が瞳を輝かせて水草たちを見つめていた。その背中に向かって声をかけてやる。
「由那、キャビネット開けてみな」
「キャビネット? うん……あ、何かある!」
「フィルターの吸水パイプと排水パイプだ。――ふうん、ガラスか。こういうのも最近はいろんなメーカーから出てるな」
由那が取り出した品を確認して、琴音は内心ほっと安堵の息をつく。ADOの高いパイプでも出てきたらどうしようかと心配していたのだ。
実を言えば、琴音はガラス製シャワーパイプへの力のかけ具合を誤って、スリットの入った強度の弱い位置からボッキリとへし折ってしまった経験がある。あとで同じものを買って事なきを得たが、あれがもしADO製品であったらと思うとなかなかに背筋が寒くなる。
由那がパッケージを開けながら製品名を読み上げる、
「えっと……『フラワー型クリアパイプ 吸水・排水用』だって。吸水パイプはガラス素材なだけで普通のU字型だけど、排水のほうはなんだか面白い形してるね?」
「身も蓋もないこと言うと、ADOから出てる『リリーパイプ』の廉価版だな。ちゃんとしたつくりのが欲しいならADO、コスパ重視なら他ってイメージかな」
由那が「面白い」と評したフラワー型パイプは、その名のとおり花弁を垂らした植物のような形状をしている。全体のシルエットが百合に近いのは水槽内に排水する都合上の必然なのかもしれないが、少なからず有名メーカーの商品への意識があるのではないか、というのは果たしてただの邪推だろうか。
――ま、私もこの手のやつ使ってる身だからあんまり責められないけど。
琴音はかすかに口角を上げると、首を振って邪念を追い出した。無理して高級製品に手を出さずとも透明ガラスパイプの美しさを楽しめるのは、いちアクアリストの立場からすればありがたいことだ。
「さ、取り付けていこう。まずは古新聞と雑巾とバケツの準備だ」
「どうして?」
「排水だけならともかく、吸水パイプも替えるんじゃ一回フィルター止めないことにはどうしようもないだろ」
「……あ、そっか。パイプをホースから抜いたら水こぼれちゃうもんね」
由那が再びキャビネットの奥へと手を伸ばして、しまい込まれていたマルチタップの一番端のスイッチを切った。
フィルターの電源が落ちる。水音が止まる。
来賓室を出て掃除用具置き場に向かう琴音の脳ミソは、「いい機会だから濾材の洗い方もついでに教えてしまおうか」などと呑気に考えている。なにも今本当に洗う必要はないにせよ、千尋からの頼みは「由那に外部フィルターのメンテナンス方法を教え込むこと」なのだから、パイプの交換なんかよりも濾材のチェックのほうが本懐と見るべきだ。
琴音は勘づいていない。当たり前すぎて気にもしていない。
フィルターを再び動かすためには、当然ながらフィルターを設置したときの手順を繰り返さねばならないことを。
手順の中には「呼び水」が含まれていて、補助装置の持ち合わせなど生物部にはないことを。
そして――
この外部フィルターを設置したとき呼び水を行った千尋に比べて、由那の心肺機能が劣っていることを。
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