第65話 毎日が本当に楽しいんです

 亜久亜高校に土日の授業はない。が、部活動のために登校してくる生徒はそれなりにいて、その中には合唱部や美術部といった文化部に所属する者もいる。


 何が言いたいのかといえば、昼間なら校門は開いているのである。


 佐瀬先生が職員室から取ってきた鍵を使って第二理科室の扉を開けるなり、琴音たちは部屋の中へとなだれ込んだ。


「さすがに疲れたな。小清水さん、大丈夫?」


「うん、楽しかったし。またやりたいね!」


 顔全部を使ってほにゃりと笑う小清水の手には、川の水と生体の入ったクーラーボックス。二つ持っていったうちの、エビやザリガニが収められているほうだ。


 帰りの道中に全員で話し合った結果、やはりアメリカザリガニを殖やそうという方針に決まっていた。


 雑食性のザリガニであれば、アナカリスあたりの安い水草を常食させることもできる。そのザリガニを飼育魚たちに与えてやれば、ザリガニの身に含まれるタンパク質や外骨格のカルシウムに加えて、胃袋に滞留した水草を摂取させることにも繋がるという寸法だ。


「いわゆるガットローディングってやつだねぇ」


 千尋はそんなふうに、バスの中で得意げに説明したのだった。


 その千尋が何をしているかといえば、もう一つのクーラーボックスを机の上に危なげなく下ろして、莉緒の荷物を引き受けているところだった。


「天河さん、ありがとうございます。体力ありますね……」


「あたしはガサガサよくやるからだよ。翠園寺さんもそのうち慣れてくるんじゃねーかな……って、ネイチャーの人がガサガサには行かねーか」


「そうかもしれませんね。でも、また誘っていただけたら嬉しいです」


 対照的に、莉緒の顔にはさすがに疲れが浮いている。もっとも、昼に休憩を入れた段階でもきつそうだったことを考慮すれば、最後まで動けていただけでも賞賛に値するとは言えそうだ。


「恥ずかしながら、わたくしこういう機会を持てたことってなかったんですよ」


 最も入口から近かった椅子に座り込んで、莉緒は目を細めた。


「こういう……ってのは?」


「同い年の友達と一緒に遊んだり、目標に向かって活動したりです。今までは何と申しますか……どうしても同級生の方々との距離が詰まらなくって」


「……あー」


 まあそうだろうねえ、と慎重な反応を見せる千尋に、琴音は何とも微妙な納得感を覚えながら心の中で同意する。


 過去に莉緒と同じクラスになった生徒たちがどんな気持ちで彼女に接していたのかは、満更想像できないでもないのだ。


 ――翠園寺さん、私の目から見てもスペック高いもんな。


 いわゆる高嶺の花ってやつだよな、と思う。


 本人には性格や態度も含めてひとつも落ち度はないのだが――否、だからこそか。尊敬や信頼といった感情を向けることはあっても、対等な友達としての付き合いはなかなか難しかったのではなかろうか。畏れ多くてか劣等感に苛まれるのを嫌ってかは人それぞれだとしても。


「ですから今日みたいなことは本当に新鮮で……いえ、今日だけではなくて、皆さんとお付き合いさせていただくようになってからは毎日が本当に楽しいんです」


 莉緒がぐるりと全員を見回しながら、屈託のない笑顔で語る。


 思えば初めてまともに顔を合わせたホームセンター「かねまる」で、莉緒は「水槽の話ができる相手がこんなに近くにいるなんて」と驚いていた。


 今ならば、あの言葉に含まれていた意味があのときにもまして察せられる。


 勉強会でお邪魔した翠園寺家では、莉緒の部屋以外で水槽を見かけることがついになかったのだ。


 あの家でアクアリウムを嗜んでいるのはたぶん莉緒だけで、そうだとすれば莉緒は家族とも趣味の話題を共有できなかったに違いない。湊真凜がアクアリストであるという可能性もあるけれど、一緒にわいわい盛り上がるには、あの人はちょっと年上すぎるよなと琴音は思う。


 その点、千尋の影響は特に大きかったはずだ。もしも「かねまる」に行っていたのが自分と小清水だけだったら、果たしてこのお嬢様との距離を今ほど縮めることができていたかどうか。


「おーい、あんたたちー!」


 ――そして、もう一人。


 生物部の活動再開を莉緒に持ちかけた張本人である佐瀬先生が、準備室へ続くドアから半身を乗り出した。


「さっさと水合わせ始めちゃいましょ。ヌマエビもいるってことは点滴法でしょ、時間かかるんだから早くやらないと夜になっちゃうわよ」


「あっ、はい。――皆さん、行きましょう!」


 莉緒がぱっと椅子から腰を上げる。その表情は相変わらず疲労の色を滲ませているが、こころなしかいつもより明るいようにも感じられた。

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