第66話 見分け方ってあるんでしょうか?
授業で使う薬品や実験器具、果ては生物標本に至るまでが所狭しと並べられた理科準備室は、窓が遮光カーテンに塞がれているせいもあって、そこはかとなくマッドな雰囲気の漂う空間に仕上がっている。お化けの類を怖がるのは小学生で卒業したつもりの琴音だが、日が沈んでからこの部屋に踏み入るのは正直ちょっとためらってしまうかもしれない。
そんな理科準備室の壁際、隅っこの一角。書棚をずらして捻出したスペースに二段式の水槽用メタルラックが置かれていて、立ち上げ済みの60cm水槽が二本、上下に並ぶ形で収まっている。
「魚が上、ザリガニとエビが下でいいかね?」
「どっちでもいいんじゃないか。……でもまあ、魚は餌用とかじゃなくてちゃんと飼うわけだし、上のほうが見やすいか」
結局、片方は日淡水槽として運用することになった。
莉緒が捕まえたヨシノボリが早々に飼育する方向で決まり、そこからカマツカやアブラハヤといった魚も混泳させようという話になるまでには二分とかからなかったように思う。
――ま、生き餌はザリガニがいれば事足りるしな。
今日捕ってきた魚を捕食するには、うめぼしではまだ体が小さすぎる。ギンガであれば綺麗に平らげてくれるだろうが、三人の構想に反対してまで魚を貰い受けねばならないほどの事情は琴音にはない。
「おーし、そんじゃ水合わせ始めちゃいますか。あたしと翠園寺さんが上のほうやるから、コトと小清水ちゃんで下のほう見てよ」
「わかった。――やろう、小清水さん」
「うん! わたしが作業するね、水合わせの練習もっとしたいし」
「そういえば、うめぼしちゃんのときは結局手順を簡略化して水合わせしたんでしたよね。今日は水量が充分ですから、しっかり点滴法を試せますよ」
メタルラックの脇に置いた道具箱からエキスパートホースを取り出して、一本は小清水が、一本は莉緒が持つ。
まさかクーラーボックスを水槽にぶち込むわけにはいかないから、今日は点滴法を使える代わりに水温合わせができないのであるが――
「……ま、言わぬが華か」
季節はすでに夏である。
しばらく室温に晒していれば、多少なりとも温度の差は和らぐだろう。
「――そういや天河さん、」
作業の最中、ふと佐瀬先生が思い出したように声をあげた。
「あんたザリガニのオスメス見分けられるのね。ブリードでもやってんの?」
「や、ブリードってほどじゃないすね。昔よく釣ったり飼ったりしてたってだけで。釣るほうは今でもたまにやりますけど」
会話を小耳に挟みながら、琴音は「昔」を思い返す。
たしかに小学生の頃、千尋はザリガニを捕るのが得意だった。近所の田んぼや用水路に赴き、先端にスルメを括りつけた糸を垂らしてじっと待つ。そうして食いついてきたところを釣り上げるのだ。自分と二人で出かけたこともあったし、そうでないときは男子に交じって遊ぶことも少なくなかったはずだ。
そんな具合だったから、千尋が扱ったのはもっぱらそのへんに生息しているアメリカザリガニだ。タイゴーストで綺麗なパターンを作出したわけでもなければ、北米種の繁殖にチャレンジしたわけでもない。
それでも、数をこなして見えてきたものはあったのだろう。ザリガニを専門外とする琴音と違って、千尋は今や、たとえ成体でなかろうとも一発で雌雄を識別できる。
「う~ん」
小清水が首を傾げながら唸った。
「わたしには全部同じにしか見えないや……」
「えー、んなことないっしょ? 赤いやつとか黒っぽいやつとか、太ってるやつとかシュッとしたやとか、いろいろいるじゃん」
「うん、そういう一匹一匹の違いは見ればわかるんだけど、じゃあどれがオスでどれがメスなのかって言われると全然……」
「ふーむ。――よし」
千尋はひとつ頷くと、小清水が眺めていたクーラーボックスの前にしゃがみ込んだ。かと思いきや無造作に手を突っ込んで、赤黒い成体を掴み上げる。
千尋はザリガニをひっくり返して腹側へと目をやり、体の真ん中あたりを一瞥するや否や、
「たとえば、こいつはオスだね」
あっさりと断定した。
千尋はそのまま手首を翻して、小清水の眼前にザリガニの腹を向ける。
「胸と腹の境目くらいにある肢が内側に曲がって、頭方向に向かって突き出してるっしょ? これがありゃオス、なければメス。幼体のうちから見分けたいときはルーペ使うと便利だよ」
「へぇ~……どうしてオスだけにこれがあるの?」
「どうしてってそりゃ、オスの生殖器だもの。平たく言えば――痛い痛いコトあたしが悪かったから勘弁してつかあさい」
喚きはじめた千尋のこめかみから、琴音は両の拳を離してやる。
「うおおお、いってえ……!」
「なんでわざわざ言い直そうとしたんだ今」
「わかりやすいかなーと思って……」
「セクハラって女どうしでも成立するんだからな?」
やっぱりこいつには強く当たれるお目付役が必要だな、と琴音は確信を深める。今日はちょっと感謝したりもしたけれど、それはそれだ。
すると、水槽を見ていた莉緒が振り返った。
「……その。他にも見分け方ってあるんでしょうか?」
一連のやりとりでどんなワードが飛び出しかけたか察したのだろう、きめ細やかな肌の頬にほんのりと朱が差している。
千尋は片手でこめかみをさすりながらもう片方の手で持っていたザリガニを水に戻し、別の個体を引っ張り上げて、
「単純にハサミが小さいのがメスって見方もあるけど、成体なら尻尾のあたりを見るのも手っ取り早くていいね。――ほれ」
「尻尾のあたり、ですか?」
莉緒は千尋の掴んだザリガニへと顔を近づけた。曲がったり伸びたりを繰り返す尻尾の先を凝視して、何事かに気づいて「あっ」と声をあげる。
「乳白色の模様が入っていますわね」
「ほんとだ。肢にもあるね?」
小清水が同意を示す。
もちろんその「模様」は琴音にも見えた。ひとつ思い当たることがあって、琴音は半ば反射的に口をはさむ。
「腹肢と尻尾……これ、卵を抱える位置じゃないか?」
「正解」
千尋の説明によると、ザリガニのメスは抱卵の際に接着剤の役割を果たす物質を分泌するのだという。そのための器官がこの乳白色の模様らしい。
「抱卵のための器官だから、メスにしかねーの。この模様が出てりゃメスってことだね」
「セメント腺っていうのよ、それ」
佐瀬先生が補足した。
「あとは、メスの肢の付け根には産卵孔……つまり小さい穴があるから、その有無で見分けるのも有効よ。――ともあれ、セメント腺の出たメスと成体のオスがいるんだから、あんたたちの目的は果たせるわね」
そんなことを言い合っている間にも、エキスパートホースはぽつりぽつりと水槽の水をクーラーボックスに送り続けていた。
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