第137話 すっごい恥ずかしいこと言ってた

 桜川はふたつの二級河川に挟まれた住宅街だ。目抜き通りに植えられている街路樹は地名に入っているとおり桜で、春には満開の花のトンネルが通行者の目を楽しませてくれるのだという。


 もちろん今は真冬であって、桜のアーチも積雪の白に彩られている。正月にしか来る機会のない由那はもちろんこの景観しか見たことがなくて、だけれどもそれが残念かといえばそうでもなく、これはこれで綺麗じゃないかと来るたびに上々な気分に浸れるのだ。


 そんな街道を抜けるまで進み、路地へと折れたところに祖父の家は建っている。


「おじゃましま~す!」


 玄関から上がって細い廊下を行き、右手に見えるドアを開ける。十数年前までは祖母の私室として使われていたらしいそこは、かつての主が亡くなってからというもの、すっかり金魚専門のスペースとなっている。


 部屋の半分ほどを占有する木製のラックは、職を退いてからDIYにはまっていたという祖父の手製の代物。見るからに頑丈そうなその上に、暗緑色のプラスチック製トロ舟が載っている。


 トロ舟の横幅は外寸で九十センチほどだろうか。全部で四つあるそれらは例外なく水を湛えていて、いずれも投げ込み式フィルターのブクブクという空気音を奏でている。


「――って、四つぅ?」


 背後から母の声がした。眉をひそめているのが振り返らずとも察せられる。


「お父さん……また増やしたわね?」


「しょうがないだろう、行きつけの店がいいヤツ仕入れたってわざわざ電話かけてきてくれたんだから。きちんと均等に愛情込めて世話してるからいいんだよ」


 どうやらつける薬はないと母は判断したようで、もはや祖父ではなく由那のほうに顔を向けながら「あんたたちってそういうもんなの?」みたいな表情を浮かべてくる。


 由那は頷くよりほかになかった。


 自分で実際に飼っているのが淡水フグ一匹だけとはいっても、ここで否定を返すにはアクアリウムの魅力をすでに教わりすぎている。惚れ込んだ魚のバリエーションをコレクションしたがる愛好家――というのは想像できる範疇の存在で、しかも集めているのが模様も体型も多種多様な金魚ともなれば、祖父の気持ちは充分に理解できた。


「水槽いくつも管理してる子、わたしの友達の中にもいるよ」


「そら聞いたろう。これが普通なんだ」


 孫娘を味方につけた祖父は百万の援軍を得たかのように胸を張り、その様子を見た母は頭痛にでも見舞われたかのごとくこめかみを押さえる。




 父は表の雪かきに、母は夕食の買い出しに向かった。


 高齢の祖父に正月くらいは楽をしてもらうべく、家事を幾分か肩代わりするのは小清水家の慣例である。ただいつもとちょっと違うのは、今年は由那にもひとつお鉢が回ってきたことだ。


「バケツを持つぶんにはどうってことないんだが。しゃがんだり腰を曲げたりしてホース使うのがしんどくなってきてな」


 そう前置いてから、祖父は水中ポンプを使った排水のやり方を教えてくれた。


 金魚の水換えである。


 機械特有の駆動音がして、電動の水中ポンプが飼育水を汲み上げる。ポンプに繋がったホースの先から水がバケツめがけて流れ込んでゆくのを気にしつつ、由那は四つのトロ舟を順番に見渡す。


「前に来たときも思ったけど。おじいちゃんちの金魚ってぜんぶ形が違うよね?」


 ぜんぶ、というのは些か語弊のある表現かもしれない。金魚たちは一艘いっそうのトロ舟に一匹ずつと決まっているわけではなく、同じ品種が同じ舟へとまとめられているのだ。たとえば眼前の舟では七匹の金魚が泳いでいるが、この七匹はおそらくいずれも同じ種類だろう。


 隣の舟に目を移せば、明らかに品種の異なる金魚が五匹。


 さらに隣には、また別の品種が三匹。


 そしてもうひとつ隣では、これまた別の品種が単独飼育されている。


 つまりどういうことかといえば、祖父は四種類十六匹の金魚を飼育しているのだった。


 由那は最初の舟に視線を戻して、ピンポン玉のような丸っこい七匹をまじまじと見つめる。


「この子たち……なんかどこかで見たような……」


「どこかも何も、ここじゃなくてか? そのピンポンパールたちなら前からいたぞ?」


「あ、ほんとにピンポンって名前なんだね……ううん、でも、ここじゃなくって別のところで――」


 既視感の正体を探って、由那の脳ミソが記憶の遡行を開始する。前に青森まで来たのは三年ほど前。それよりは後のことだったと思う――というか場所は亜久亜だった気がするから、高校に入って以降の話のはずである。


 生物部の仲間たちと金魚について語ったことはなかったはずだ。いや、正確に言えば皆無ではないのだが、肉食魚飼いの琴音や千尋が口にする「金魚」とはすなわち「餌金」とか「金魚すくいで獲れるやつ」とかの意味であって、こういう観賞用の金魚とはいっそ驚くくらいに縁がなかった。


 だとすれば、いったいどこで――


「あ」


 記憶を辿れるところまで辿りきったとき、答えは唐突に転がり出てきた。


 本当に最初の最初。自分がアクアリストとしてのはじめの一歩を踏み出した日、すべてのきっかけになったとも言える、あの――間違い。



 ――飼いたいのはパロットファイヤー?


 ――見てたじゃん。あの赤くて丸っこい魚。あれは『パロットファイヤーシクリッド』っていうんだよ。



 右も左もわからないままアクアショップの水槽の前で立ち尽くしていた自分を見咎めて、近くの公園まで連れ出してくれた琴音。


 淡々と知識を授けてくれた彼女に、あのとき自分は何と返したのだったか。



 ――あ、金魚じゃないんだねあの子。



「あああああ……! すっごい恥ずかしいこと言ってたんだわたし……っ!」


 こんな答え合わせならしないほうがよかった。


 横では事情を呑み込めずにいる祖父が怪訝そうな顔を浮かべているけれど、由那は到底説明をするどころではないのだった。

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