第5話 これってけっこう高いんじゃ……

「――ほほう、それでそれで? そこからどうなったの?」


「……別に何もないって。LEDライトをつけて、私が買った人工餌を水槽の中に一粒落として、あとは普通にさよならして普通に帰った」


 週明けである。


 午前の授業を四時限ぶん生き延びてようやく辿り着いた昼休み、琴音は前の席に座るクラスメイトと顔を突き合わせていた。


 名前を天河あまがわ千尋ちひろという。


 琴音とは幼稚園の頃からの腐れ縁だ。家も近ければ、クラスが離れたことも一度としてない。そもそもどうして知り合ったのかを思い出すことが互いにどうしてもできず、だからといって疎遠になることもない、そんな不思議な関係だった。


「なーんだ、つまんねーのー。コトに話し相手ができたっていうから面白いネタが聞けるかと思ったのに……」


「何を期待してるんだよ。ていうか私がぼっちみたいな言い方やめろ」


「家族とあたし以外のLANEの友達人数は?」


「……ぐぬぬ……」


 幼馴染ならではの無遠慮な物言いは、琴音に反駁の隙を与えてくれない。事実、家族と親戚と千尋を除けば、メッセージアプリに登録しているアカウントは昨日加わった小清水だけだ。


「いやーしかし、長年付き合ってるけど意外だったわ。コトがそんなに世話焼きだったとは」


 それに関しては琴音自身もそう思う。


 が、からかうような千尋の口ぶりに同意するのは負けたみたいで癪でもある。


「別に……あのままほっといたら飼われる魚が可哀想だと思っただけだ」


「素直じゃねーなあ」


 千尋は白い歯を見せて笑い、


「――でも実際、アクアショップにはもう一回行ったほうがよかったんじゃね? 今の話を聞く限り、えぇっと……小清水ちゃんだっけ? その子ってヒーター持ってないわけっしょ?」


 どうも見透かされている気がして面白くない。眉根を寄せる琴音だったが、千尋の指摘が的を射ていることもわかっていた。


 あの水槽セットには、ヒーターが付属していなかった。


 現在の暦は五月。水質が安定するまでならヒーターなしでも問題はない。しかし一方で、まさかバクテリアを飼育するつもりではない以上、いつまでもそう言ってはいられないことも確かなのだ。


 もっともそれに関しては、琴音にも琴音なりの案があった。


「ヒーターならすぐ手に入る」


「なんだよ、通販か?」


「いいや」


 琴音は食べ終えた弁当箱を片付けると、その手で鞄の底を漁った。


 数秒ののち、鞄から手が引き抜かれる。そのとき琴音が握っていたのは、コードに巻かれた黒いスティック状の物体。


 消費電力160ワット、サーモスタット一体型のヒーターである。


「コトが今まで使ってたやつか?」


「うん。私にはもう必要ないものだから、あいつにやろうと思ってさ」


 実は、琴音は先日、自宅の水槽を90cm規格にサイズアップしたばかりだ。


 当然ながらヒーターも適正なものに買い換えたので、今まで使っていた一本が余ったのだった。


「昼休みに来てってLANEで伝えておいたんだけど……ああ、噂をすればだな」


 開きっぱなしの教室の扉の陰から、小清水の顔がちらちらと覗いていた。


「小清水さん、こっち!」


 手招きしてやると、小清水はパッと表情を輝かせて教室に入ってくる。が、数歩近づいたところで、どういうわけかその笑みが引っ込んだ。


 ――ん?


 ――ああ、そういうことか。


 琴音は、小清水の視線が千尋を捉えていることに気づいた。


 友達の友達現象か、などとぼんやり考える。会ってすぐの人間を自室に入れるだけのオープンさを昨日発揮したばかりのくせに、妙なところで難儀なやつだ。


 助け船を出そうとしたとき、先に千尋が動いた。


「初めまして小清水ちゃん! コトから話は聞いてるよ!」


「え……」


「あたし、天河千尋っていうんだ。コト――巳堂さんの友達でアクアリスト仲間。よろしく!」


 千尋は一気に捲し立てて右手を差し出す。


 テンションに圧倒されたのだろう、手を握り返した小清水は当惑げだ。


「こ、小清水由那です。よろしくね天河さん」


「おーなるほど、聞いてたとおり可愛い子だなあ。ウサギとかハリネズミっぽい感じだ」


「ぶっ」


 琴音は思わず噴き出した。


「いらんこと言うなアホ千尋っ!」


 反射的に出た右手が千尋の後ろ頭をひっぱたく。すぱんと気持ちのいい音が鳴る。


「いっだ! コトぉ、暴力女は嫌われるぜ?」


「おしゃべりな女もだろ」


 頭をさすって唇を尖らせる千尋に、琴音は憮然と言葉を返した。心臓がばくばく言っていた。寿命が縮んだかもしれない。もしかしたら。一秒くらいは。


 おそるおそる小清水を窺う。


 小清水は呆気にとられて目を丸くするばかりで、どうやら「聞いてたとおり」の意味については深く考えていないとみえた。


「ええと、その……仲いいんだ、ね?」


 琴音と千尋は顔を見合わせた。


 次の瞬間、ぱっと小清水のほうへ向き直った千尋が、有無を言わさず琴音の肩を抱き寄せた。


「――おうよ!」


 白い歯を見せて笑う千尋。


 琴音はため息をつく。


「ま、いいけどさ、そういうことでも……」




 ヒーターを受け取った小清水はまず感激して礼を述べたが、すぐに怪訝そうな表情を浮かべて小首をかしげた。


「でも、いいの? これってけっこう高いんじゃ……」


 鋭い読みである。


 琴音の用意したこのヒーターは、十五度から三十五度までの範囲で水温をコントロールできるタイプのものだ。機能が多いぶん、当然、温度固定式のヒーターよりも価格はどうしても高くなる。


 記憶が正しければ、定価で五千七百円だったはずだ。安い買い物ではなかった。


 しかし琴音に言わせれば、小清水に受け取ってほしい理由はそこにこそある。


「いいって。お金は魚のために取っておきなよ」


 小清水が何を飼うのかまだ決まっていない以上、資金は節約すべきだ。


 60cm規格で飼いきれるペットフィッシュという条件なら、さほど派手な出費にはならないかもしれない。が、それでも万を超えるくらいは充分あり得る。高校一年生にはなかなかきつい額と言える。


 そして琴音は、用意できる飼育環境の関係で断念するなら仕方ないとしても、値段で妥協するような魚の迎え方をしてほしくはなかった。


「それに、こんなのリサイクルショップに持って行ったって高くは売れないだろうしさ」


 60cmを新しく立ち上げる予定はない。自分の手元では持ち腐れになるだけだ。


 二束三文で手放すくらいなら、顔見知りに有効活用してもらうほうがずっといい。


「私のお古じゃ嫌かな?」


「そんな、ぜんぜん嫌なんかじゃないよ!」


 小清水は大仰に首を振った。


「巳堂さんが今まで使ってたんだったら、ちゃんと動くってことだもん。むしろ安心だよ。大切に使わせてもらうね!」


「うん、そうしてくれると嬉しい。――ちなみに使い方だけど……」


 そのとき、昼休み終了のチャイムが鳴った。


「……後にしようか」


「あはは、そだね。午後の授業終わったらまた来るね!」


 小清水がぱたぱたと慌ただしく去ってゆく。


 教室の扉を潜る小さな背中を見つめながら、琴音は自分でも気づかないうちに放課後へと思いを馳せはじめる。無表情を装う顔からこぼれ出る微笑は、交わした会話の後味ゆえか、あるいは数時間先の楽しみからか。


 隣で一部始終を見守っていた千尋が、しみじみと呟く。


「いやー、初々しいねぇ……」


 琴音に比べればこちらは随分とわかりやすい。


 面白いことになりそうだ――そんな期待の響きを含んで、千尋の声は静かに弾んでいる。

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