第42話 同じことなんですよ

 部屋に戻った小清水は、脱いだ靴を揃えるのも忘れてリビングに直行し、そのまま作業に取りかかった。一息入れたい気持ちが微塵もなかったわけではない。が、それよりも未体験の領域に踏み込むことへの胸の高鳴りが勝っていた。


 ハンドバッグから魚の入ったポリ袋を取り出す。


 小清水の手の内で水が揺れる感触があり、それとともに袋の中のテトラオドン・ミウルスが泳ぎ回った。


「早く出たいのかな? ごめんね、ちょっと待ってね」


 小清水は水槽のガラス蓋を外し、テトラオドン・ミウルスの入った袋を中に入れた。思いのほか沈み込んで一瞬ぎくりとする。結局は封入されていた酸素のおかげで完全に水没するには至らず、袋の上半分が水面から顔を見せた状態で浮かんでいる状態になった。


 これならば水槽の中に腕を突っ込まなくても大丈夫だろう、と小清水は自身の服装に視線を落としながら安堵する。ニットのカーディガン。暖かくなり始めているとはいえ、まだ半袖で過ごせるほどではない。


 水槽へと目を戻す。


「このまま三〇分くらい、だっけ」


 点滴法を使ってみよう、と小清水は決めていた。だから今は袋に穴を開けず、水温を合わせるに留めている。


 ――巳堂さんが水合わせを軽く済ませたのは、ギンガちゃんがスネークヘッドだからだ。


 ――スネークヘッドと違って、この子はジャンプしない。


 たぶん琴音と同じ方法を使ってもトラブルは起きないだろうと思う。しかし、一度しっかりしたやり方を体験しておくのは大切だとも思うのだ。


 試さなきゃ覚えられないし。


 せっかく教えてもらったんだし。


 そして、何よりも――


「もしかしたらエビ飼わなきゃいけなくなるかもだしね」


 アクアショップで琴音と交わした会話が蘇った。


 ――ねえ巳堂さん。この子、どのくらいまで大きくなるの?


 ――ん……一五センチくらいじゃなかったかな。


 ――何を食べるの?


 ――アカムシとかメダカとかエビとか……まあ普通の肉食魚と同じだって聞くけど。


 テトラオドン・ミウルスは肉食性が強い。琴音の話はそういう意味に違いなかったし、実際にあのあとネットで検索したらやっぱりそのような情報に行き当たった。


 他の魚に食べさせるためにエビやメダカを飼育する、というのは正直、残酷な行為ではないのかという気もした。


 しかし、どうやら生き物を飼うとはそういうことであるらしい。


 金曜日の休み時間、莉緒が諭してくれたのだ。



     ◇ ◇ ◇



「――生き餌を使わずに飼うことはできるか、ですか?」


 二限目と三限目の合間、教室移動の機に乗じて、小清水は莉緒を呼び止めた。


 莉緒は困ったように眉をひそめて、考えるような仕草を見せる。最適な人選でないことはこちらも承知の上だったから、ちょっと申し訳ない気持ちが湧いた。


「ごめんね、いきなり難しいこと訊いちゃって」


 彼女の得意分野は水草中心のレイアウト水槽であって、生き餌を必要とするような魚はそもそも専門外だ。それでも、彼女は「どうしてわたくしに訊くんですか?」などとは言わなかった。


「いえいえ。お二人の前ではできませんよね、このお話は」


「……うん」


 察しが早くて助かる。


 琴音のスネークヘッドは言わずもがな肉食魚だし、千尋の家にはブラントノーズ・ガーとウーパールーパーがいた。二人に生き餌への抵抗がないのは明らかで、こんな話題を切り出したら気分を損ねさせてしまうかもしれない。


 怒られることはないだろうけど、二人をがっかりさせたくもなかった。だからこの悩みは、莉緒にしか打ち明けられないのだ。


「そうですね……小清水さんのご想像どおり、わたくしの水槽には大きな魚がいません。どうしても水草や流木などでスペースが埋まってしまいますから」


「たしか60cmなんだよね。大っきい石とか枝分かれした木とか入れちゃうと、魚にとっては窮屈になっちゃうよね」


「ええ。――そういうわけなので、わたしが飼っているのは小さな魚ばかりです。一番大きいのでも七センチほどでしょうか、アピストグラマ・カカトイデスというのですが」


 ちなみにこんな魚です、と莉緒はスマートフォンのアルバムアプリを開き、写真を見せてくれた。


 アピストグラマ・カカトイデス・ダブルレッド――南米産の小型シクリッドなのだという。燃える炎のような模様の入った背ビレと尾ビレは、どこか蝶の翅にも似ている。


「この子はけっこう肉食性が強いんですよ。わたくし、コケ取りのためにミナミヌマエビを使っていたのですが、この子が来てからはそうもいかなくなって」


「……エビ、食べられちゃったんだ?」


 莉緒が頷く。


「体格の大きいヤマトヌマエビならおそらく大丈夫なんですけどね。ただ、ヤマトはコケだけでなく水草を齧ることがあるので本末転倒なんですよ」


 ままならないものです、と莉緒は苦笑を浮かべる。


「でも、だったら何をあげてるの? その……アピストグラマに」


「もちろん人工餌ですよ。――ところで小清水さんは、人工餌がどういった原料から作られているかご存じですか?」


「え」


 意識したことがなかった。


 しかし改めて考えてみると、今まで学んできたことの中にヒントは転がっていたのだと気づく。


 たとえばディスカス。熱帯魚の王様と言われるあの円盤じみた魚は、ディスカスハンバーグと呼ばれる挽肉の塊を餌としていた。挽肉、ということは――


「他の魚?」


「正解です。厳密にはオキアミの肉や小麦粉なども配合されますけど」


「じゃあ、生き餌を使っても人工餌を使っても……」


「同じことなんですよ。人工餌を使うというのは、要するに殺生を外注しているようなものです。小魚やオキアミを磨り潰す様子を餌の一粒から想像するのは難しいですけど、生き物を飼うならせめて覚えておくべきかと、わたくしは思います」


 言われてみれば当たり前の話だった。暮らす場所が自然環境から水槽に変わったところで、その魚の食性までいきなり変わるはずがない。


 小清水は、深く頷いた。


「ありがとう、翠園寺さん!」



     ◇ ◇ ◇



 というわけで、この先エビを飼うことになる可能性は大いにあるのだった。


「――あ、そろそろ三〇分かな」


 小清水は椅子から立ち上がり、バケツを用意する。


 水槽から袋を取り出し、バケツに水ごと中身をあけようと鋏を入れかけて、はたと手を止めた。


「あれっ……」


 小清水の表情が中途半端な笑顔のまま固まる。


 理解してしまった。


 バケツの中でフグを泳がせておくためには、この袋に詰まった水だけでは水量が足りないではないか。

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