第43話 痛くないのかな?

「――それで、どうしたん?」


 購買で買った焼きそばパンを片手に、千尋が話の続きを促した。


 月曜日の昼休み、B組の教室に集まって昼食をとっている間、小清水は水合わせの経緯を一同に話したのだ。


 もぐもぐと咀嚼していた白飯を飲み込みつつ、小清水は昨日の行動を思い返す。もっとも、そんなに大したことはやっていないのだが。


「エキスパートホースを使って、水槽からバケツにちょっとだけ水を引いちゃった。他にやりようもなさそうだったし」


「まあ、だわなぁ。産卵ボックスとか、そうでなくても小さなプラケースとか持ってりゃすんなりいくんだけどねー」


「……大丈夫かなあ?」


 魚体の上半分が水に浸かっていないのはまずかろうと思って、最初から水槽の水を混ぜてしまったのである。


 琴音に教えてもらったやり方からはいきなり外れてしまった格好なので、正直なところ皆からのダメ出しは避けられまいと覚悟していた。それだけに、千尋のあっさりとした反応は意外と言えば意外だ。


「個体差とかそのときのコンディションしだいでもあるから、こればっかりは何とも言えんねー。まぁあたしの経験上、サイズのある魚なら体力もあるからまず大丈夫だとは思うけど」


 千尋の声音は軽い。が、小清水は内心不安を拭えなかった。


 テトラオドン・ミウルスの体長は現在五センチほど。これを千尋の言う「サイズのある魚」に分類していいのかどうかは微妙なところだ。


「五センチは充分だと思いますよ」


 あとを引き取ったのは莉緒である。


「フグは頭から尻尾までの長さだけじゃなくて横の厚さもありますから、サイズ感はなかなかのものですよ。天河さんのプレコとかと比べたら小さく見えるでしょうが、わたくしに言わせれば小清水さんのミウルスも充分『サイズのある魚』です」


「そう……なのかな?」


「ええ。少なくとも、わたくしの水槽にいる魚よりは大きいですね」


「アピストは?」


「体長は上回りますけど、ボリューム感では負けます。――こういう言い方もなんですが、一般に熱帯魚と聞いて思い浮かぶ魚と比べたら、五センチのフグは大きいし体力もあるほうですよ」


 そういうものか。


 しかし、だとすれば安心――なのだろう、おそらく。


 バケツの中で泳がせられるだけの水量を確保した後は、エキスパートホースのチューブを付属のコックで絞って、できるだけ時間をかけて少しずつ水を混ぜていったつもりだ。


 自分の手持ちの道具が許す限りにおいては、未熟な技術でありながらも最善を尽くしたと思う。


「――だから言ったろ」


 すぐ隣から涼やかな声が響いて、小清水は緊張に体を強張らせた。


 そこに座る人物こそ、小清水にとって、アクアリウムの話題において最も反応の読めない相手だった。


「魚ならあまり神経質にならなくていい、って」


 彼女――琴音は穏やかな口調で、こちらに微笑みを向けてくる。


 小清水はようやくほっと胸を撫で下ろした。


「よかったぁ。巳堂さんには怒られちゃうかもな~って、実はちょっと思ってたの」


「なんだよ、それ。私だってその状況なら同じやり方するぞ、水深確保できないほうがどう考えたってマズいんだから」


 そんなに堅物に見えるのか私は――琴音が唇を尖らせるが、その目は決して、へそを曲げた人間のそれではない。



     ◇ ◇ ◇



 午後の授業を乗り切ってアパートに戻った小清水は、まったく普段どおりに予習と復習を終わらせて、まったく普段どおりに夕食を作って一人で食べた。


 たぶんこれからは、どこかのタイミングで魚に餌をあげることが優先されることになるのだろう。


 でも、今日はまだだ。


 水槽に入れたばかりの魚に餌を食べさせるのは止めたほうがいい、せめて丸一日はおいてから――と琴音に言い渡されているからだ。しっかり食べて体力を回復させてもらったほうがいいのではないかと小清水は思っていたのだが、実際は逆で、調子が不安定なときに腹に物を入れるほうが危険な事態を招きやすいらしい。


「明日はあげるからね、ちゃんと食べ――うん?」


 水槽を覗き込む。


「……どうしたんだろ」


 テトラオドン・ミウルスはせわしく動き回っていた。捕食者としては待ち伏せ型と聞いていたし、実際ショップの水槽ではおとなしかったし、朝に見たときもあまり動かなかったから、基本的にじっと一箇所に留まっている魚かと思っていたのだが。


「一日経ったし、水槽に慣れてきてくれたのかな?」


 なかなかに説得力のある仮説ではないかという気がした。


 が、だとしてもこれはちょっとはしゃぎすぎではないかと思う。赤褐色の魚体が溶岩石に勢いよく擦れているのだ。皮膚が剥がれたりしないのだろうか。


 そういえば、テトラオドン・ミウルスは気性が荒いという話だった。あれはもしかしてこういう意味だったのだろうか。


「せっかくだし、皆に送ってみようっと」


 小清水はスマートフォンを取り出して、カメラを水槽へと向ける。ビデオ撮影モードで約三〇秒。自分の顔がガラスに映り込んでしまうけれど、どうせ仲間内でのやりとりだから気にするまい。


「えいっ」


〔由那:元気がありあまってるみたい。石に体がぶつかっちゃってて少し心配。痛くないのかな? ――現在〕


 LANEアプリを立ち上げて、動画を添付してグループチャットに投げる。


 タイミングが良かったのだろう、瞬く間に既読がついた。


 そこからしばらく、三人は動画を再生していたのだろう。返信が来るまでにはたっぷり五分の間を要した。


 そしてLANEが一斉に新着メッセージを表示したとき、小清水は、たかだか三〇秒の動画を見るのに三人がなぜ五分もの時間をかけたか理解した。


〔ことね:まずいかも。寄生虫かもしれない ――現在〕


〔チヒロ:おいおい、これ白点じゃねーの? ――現在〕


〔Rio Suionji:申し上げにくいのですが、病気のおそれがあります ――現在〕


 頭の中が真っ白になった。


 三者三様の表現ではあったが、ニュアンスは一緒だ。わざわざ問い直すまでもなく、ろくでもないことが起こっているのは小清水にだって理解できる。


 テトラオドン・ミウルスの身に、危機が迫っている。

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