第119話 世間って狭いわねぇ

 生物部顧問・佐瀬瑞穂(二十八歳独身)には今のところ、新しい家族を迎える予定がない。


 それは単に付き合っている相手がいないというだけの話ではなく、趣味のアクアリウムにおいても同様のことが言えた。さして高くもない月給から自身の生活費を引いた残額はほとんどペットのカメのために消えていて、とてもじゃないが新しく飼育設備を立ち上げる余裕なんて持てないからだ。


 そんな佐瀬先生がなぜアクアマーケットにやってきたのか。


 理由を端的に表すならば、


「いいトング出てないかしらねぇ」


 給餌に使える器具を探すため、という一言に集約できる。


 ミシシッピアカミミガメのトトはもう大人で、金魚であろうがザリガニであろうがまったく苦にせず捕食する。それでは何がまずいのかといえば、カメに行儀など望むべくもないという身も蓋もない点だった。


 おそろしく水が汚れるのだ。食事のたびに。


 これまでは居住用の水槽と食事用の水槽とを分けることで対応してきたが、すっかり重く育ったトトを女の腕で移動させるのはいい加減つらくなってきた。そこで佐瀬先生は居住用水槽で食事させるのもやむなしと妥協した一方で、せめてトングで口元に餌を持っていってやれば水の汚れを最小限に抑えられるのではあるまいか、と算盤を弾いたのであった。


 幸いにしてアクアマーケットは水棲生物オンリーの即売会ではない。でかい陸棲爬虫類の愛好家に向けたショップも少数ながら出店しているわけで、そういうところなら給餌用のトングも並べているのではないかと佐瀬先生は踏んでいる。


「さてと。肝心の爬虫類ブースはどこかしら、っと」


 目当ての売り場を探すべく、会場のマップが載ったパンフレットを開こうとした。


「――もし、そこの方」


「うん?」


 すぐ後方に人の気配が立った。


 呼びかけに反応して振り返った佐瀬先生の視界に、背の高い女性の姿が映った。


「爬虫類メインのショップなら、ひとつ隣の通路の真ん中ほどで見かけましたよ」


「あら。これはご親切にどうも……」


 ありがとうございます。そう続けようとした佐瀬先生は、ふと眼前の女性の容貌に見覚えがあると気づく。


 ゆるくウェーブのかかったミディアムヘアに、眠たそうな印象を与える目元。高身長とパンツルックのおかげですらりとして見えるスタイルに似合わぬ、アウトドアにも使えそうな無骨さ全開のリュックサック。


「あ」


 わかった――そうだ、アウトドアだ。


 以前生徒たちを連れて芽山のキャンプ場に行ったとき、自分はこの女性と会っている。


「あなた……たしか翠園寺さんの家に出入りしているって話の、」


「おや。覚えていてくださいましたか」


 女性は、唇の両端だけを動かしてミステリアスに微笑んだ。


「直接名乗らせていただいたことはありませんでしたね。――家事代行のスタッフとして莉緒ちゃんのお宅のお手伝いをしております、湊真凜と申します」


「ああ、こりゃどうもご丁寧に。翠園寺さんの担任と部活の顧問をやってます、佐瀬瑞穂です」


 お辞儀を交わしながら佐瀬先生は、莉緒からしたら気が気じゃない光景だろうな、と他人事のように想像する。




「――ははあ、そういった事情でしたか。大きく成長する生き物を飼うにはやはりそれなりの苦労が付き物なんですね」


「そう言う湊さんはどうしてアクアマーケットに?」


「深い理由はないのですが、まあ、私もアクアリストですから。海水魚を取り扱っているブースを興味本位で覗いているような形ですね」


 真凜の教えてくれたショップのブースに赴いた結果、佐瀬先生は無事に給餌用トングを確保することができた。


 アクアリウムがメインのイベントだからか、爬虫類ブースの前は他と比べて落ち着いたものだ。わずかな客の邪魔にならないよう少しばかり立ち位置をずらすだけで、誰に迷惑をかけることもなく立ち話だってしていられる。


「ですが佐瀬さん、わざわざ専用の道具を使わなくともピンセットで済むのでは?」


「いや、こういうトングのほうが安心なのよ。カメって普段の動きは鈍いくせに捕食の勢いはすごいから、先端の細いピンセットだと怪我させちゃうかもしれないし。その点この爬虫類用のトングなら、餌をつまむ部分が広がってるうえにシリコンで覆われてるでしょ」


「ふむ、たしかに激しく食いついてくる生体にはこちらのほうが優しそうですね。勉強になります」


 ――ほんとにそう思ってんのかしら?


 顎に軽く拳を当ててうんうんと相槌を打ってくる真凜を眺めながら、佐瀬先生は「なかなか癖のある人みたいねえ」と若干失礼な、しかし本人としてはポジティブにもネガティブにも振れていないつもりの感想を抱いている。


 なにしろこの真凜という女、表情の変化に乏しすぎるのだ。


 たとえば今まで学校で接してきた生徒たちの中には、緊張ゆえか引っ込み思案な性格ゆえか、面と向かって話すときにやたらと硬くなる者もいた。そして佐瀬先生の見るところ、真凜のこれはそうした例とは明らかに様相を異にしている。


 キャンプ場での話しぶりからして莉緒はずいぶんと真凜に振り回されているらしいが、きっとこういう飄々としたところが莉緒を戸惑わせているに違いない。


「――って、ありゃ? ちょっとちょっと湊さん」


「はい?」


「今日は翠園寺さんについてなくっていいわけ? あの子もアクアリストなんだしこの会場のどっかに来てるんじゃないの?」


 莉緒のことが脳裏をよぎった瞬間そんな疑問が湧いてきた。


 真凜は「ああ」と手を打って、


「莉緒ちゃんはアクアリストではありますが、イベントに参加したがるタイプではありませんでした」


「あ、そうなの。……ん? 『でした』?」


「例年まではそうだった、という意味です。今年は珍しく参加したいと言い出しまして、ですから佐瀬さんの仰るとおり、会場のどこかにはいらっしゃるはずですよ」


「……じゃあやっぱりついてたほうがいいんじゃないの?」


「いえ、それには及びません。ご友人と二人で見て回られるとのことでしたので」


「……なるほど」


 独特な会話のテンポに幾分気力を削がれながらも、要するに真凜は完全プライベートでこの場を訪れているのだな、と佐瀬先生は解釈した。


 まあ、小さな子供ならいざ知らず、莉緒はもう高校生だ。保護者同伴を必要とする年齢ではないし、この上ないしっかり者だから問題などないのだろう。


 ――それに、どうせいっしょに来てるのは天河さんでしょうしね。


 二人で巡っているはずだと真凜は述べた。ならば莉緒を連れ回している「友人」とは千尋を指しているに違いない。生物部での活動を見ている限り、あの二人もこのところぐっと距離を縮めつつあるようだから。


 千尋がアクアマーケットに慣れていないはずはない。学生の本分においてはどうしようもない問題児だが、誰にも取り柄の一つくらいはあるもので、こういった催し物の場であれほど信頼できる人材はそういない。初参加の莉緒をうまくエスコートしてくれるだろう。


 ところが次の瞬間、真凜は思いもよらぬことを口にした。


「私から見ても巳堂さんは思いやりのある子です。ああいう友達が周りにいるのは莉緒ちゃんにとって幸運なことですし、そんな子と仲良く遊びたいというなら私がお邪魔虫になってはいけませんから」


「――はっ? 巳堂さん……?」


 どうしてそこで琴音の名前が出てくるのだ。佐瀬先生は思いきり首を捻った。


 いや、もちろん琴音と莉緒の仲とて良好ではある。生物部四人の結束は今年結成されたばかりとは思えないほど見事なものだし、アクアリウムの面で莉緒の意図を最もよく理解できるのは現状だと琴音だろうから、そういう意味では通じ合っているとは言える。


 が、しかし。


 あえて友人という観点で二人を括れということなら、佐瀬先生の所感としては、琴音は由那と、莉緒は千尋とそれぞれ組む光景のほうがしっくりくる。


「……っていうか、あなた巳堂さんと面識あったのね。そういや夏休み中にバイトやってたとか話してた気はするけど、もしかしてそれって」


「私の勤め先でしたよ。いろいろと手伝ってもらいました」


「世間って狭いわねぇ……まあそれはともかく、いま翠園寺さんといるのはたぶん巳堂さんじゃなくて、うちの部長のほうだと思うわよ」


「部長さん? というと……あの金髪の子ですか、前髪を真ん中で分けてる」


「え、知ってるの?」


「学園祭のときちらりと見かけただけですが。私が行ったときは巳堂さんと二人でメイド服を着て接客していましたね。――ああ、もしかして佐瀬さんもメイド服をお召しに? でしたら三人ですか」


「いや召さんから。んな無茶できる歳じゃないしだいいち裏方だったから私は。あなた学園祭に来てたならホールに私いなかったの知ってるでしょうが」


 哀しいツッコミをさせるのは勘弁してほしい。真顔で冗談を飛ばすのも。なるほど莉緒では真凜から一本取るのは難しいだろうし、このぶんだとおよそコミュ強とは言えない琴音もさぞ苦戦したのではなかろうか。


「ふふ。――しかしそうですか、部長さんですか……あの子とはまだ話せていないのですよね、莉緒ちゃんの一番のご友人ならぜひ私も会ってみたいのですが」


「機会はあるでしょ。翠園寺さん通じて繋がってるようなもんだし――」


 そのときだった。


「あっれえ!? 先生じゃねーっすか!」


「……噂をすれば何とやら、って言うしね」


 目下話題の中心人物となっていた千尋が、莉緒を傍らに連れて現れたのは。

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