第90話 おまえらぶっちゃけどこまで行ったの
翌週、水槽と水槽台が学校に届いた。
「うわあぁ……おっきいなぁ……!」
予定どおり来賓室に運び込まれた荷物を前にして、由那が感嘆の吐息をつく。
「ま、そういう反応になるよな。幅だけ見ても由那の水槽の倍だし、水量は倍じゃ到底きかないし」
「わたくしもこのような大型水槽でレイアウトを組むのは初めてですから、気持ちはわかりますわ。スケールの大きい水景にできそうで作業が楽しみです」
120cm規格水槽の横幅はもちろん百二十センチメートルで、奥行きと高さは四十五センチメートルある。ちょっと脚を曲げれば自分たちくらいならすっぽり収まってしまえる大きさだ。由那が圧倒されるのも無理はなかった。
一方で、平然としている者も約二名。
水槽の間近ではしゃぐ由那、その背中を微笑ましく見守る琴音と莉緒のさらに後方では、千尋と佐瀬先生が言葉を交わし合っている。
「たしかにデカいけど、アロワナとか飼おうとしたらこれでも足りないんだよねー」
「天河さんが一番冷静な状況珍しいわねぇ」
「人生で一度くらいはブラックあたり飼ってみてーんすよ。120で驚いてたら先が思いやられるっしょ」
「わかるけど。――アジアじゃなくてブラックなの?」
「アジアはさすがに高すぎて手が出ないっつーのと、個人的にブラックのほうがフォルムとか好みで。……つか、先生もめっちゃ普通にしてんじゃないすか」
「そりゃまあこれでも理学部出の生物教師なんだから、デカい水槽やケージ見たことなんて何遍もあるわよ。だいいち私、120なら自分の部屋で今使ってるもの……らんちゅう用だけど」
「ああ、アカミミガメでしたっけ。90で足りないってことはメスなんすか?」
「正解」
基本的に亀はオスよりもメスのほうが大型になるという。そういえば昔は天河家でも飼っていたはずだが、あれは雌雄どちらであったのだったか。
――いや、そんなことよりも。
「組み立てるぞ。喋ってないで手伝ってくれよ、こんだけのサイズだと板一枚でも重いんだから」
琴音が向き直って声を投げると、千尋は「へいへい」と応じて佐瀬先生の側を離れた。
そのまま琴音と莉緒の横を通り過ぎ、由那と同じく段ボール箱の間近に立つ。水槽と水槽台、二つをしげしげと見つめたかと思うと、唐突に振り返って、
「水槽のセット終わったらそのまま立ち上げまでやってくよな?」
「え? それはまあ、そうなるだろ」
どちらでも構わない――琴音の正直な内心を言うならそれだ。
しかし、この状況。
ここから由那が止まるとは想像できなかったし、今回ばかりは莉緒もアクセルを踏んでいる。勢いに任せて進めるところまで進んでしまったほうが賢明だろう。
考えは千尋も同じだったらしい。幼馴染は首を縦に振って、指で部屋の外を指し示した。
「んじゃあさ、今のうちに理科室からソイルとか持ってきちまおうぜ。組み立ては二人に任せて先生に見てもらっといてさ、力仕事はあたしらで」
「……わかった」
水槽台の組み立ても充分に力仕事ではないか、とはツッコまずにおく。120cm水槽に使うぶんのソイルや砂を運んでくるよりマシであることは明らかだからだ。
琴音と千尋は来賓室を出て、第二理科準備室へと歩みを向けた。
かねてから打ち合わせしていたとおり、前景に敷くための川砂と後景草を育てるためのソイルを用意していた。水槽が大型になればなるほど使う底材の量も多くなるわけで、理科準備室に戻った琴音と千尋は揃って閉口を強いられる。
「……全部ソイルじゃないだけマシだけどさー」
「……石もあるし器具も運ばなきゃいけないから、四往復は要るな」
実際のところ、砂やソイルの使用量を抑える手立てがないわけではない。園芸用の軽石を洗濯ネットにでも詰めて底に敷けば嵩上げができるし、レンガブロックなどでも似たようなことが可能だ。
しかし、今回は莉緒がそれらの方法を避けた。
大きな石を埋めて動かないように安定させようとしたら、底材の深さを確保しておくのが無難と考えたのだという。
「嵩上げすりゃソイル代浮かせられていいかなと思ったけど、使えるときと使えないときってのはやっぱりあるもんだなー」
「仕方ないさ。あまり気にしなくていいだろ、どうせ部費なんだから」
十リットル入りのソイルの袋を二つ重ねて、二人で持ち上げてそろそろと歩いてゆく。
階段の踊り場にさしかかったとき、不意に千尋が呼びかけてきた。
「――なあコト」
「ん?」
「おまえらぶっちゃけどこまで行ったの」
「はあ!?」
思わず手元がお留守になった。袋を取り落としそうになるのを、琴音はすんでのところで堪える。この体勢から自分だけ手を離しても、たぶん荷物が落ちてくるのは千尋ではなく自分のつま先の上だ。
おまえら――その言葉が自分と誰のことを指しているのかなど、考えるまでもない。
「どこまで……って、どういう意味だよ。友達にどこまでもへったくれもあるか」
「いや、だっておまえ……泊まりがけで出かけた二人が、帰ってきたらお互い名前呼びになってたんだぜ? 何かあったと思うのが普通だろ?」
「それはそうかもしれないけど……いやちょっと待て、何かって何だ。どういう想像をしたんだ私たちで」
声を低めて食ってかかろうとする琴音だが、千尋はにへらと笑って、
「どうって、二人で腹を割って話でもしたのかなーってくらいだけど。コトのほうこそ、あたしがどういう想像をしたと思ったんだ?」
「んなっ――!」
「うはは、むっつりめ。こういうイジリはまだ小清水ちゃんにはできねーだろうし、これからあたしが教えていかねーとなあ」
「ぐっ……由那に変なこと吹き込んだらチョップ一発じゃ済ませないからな。おまえ一人でも鬱陶しいんだから……!」
「へいへい。……まぁ、増えるこたーねーから大丈夫だよっと」
軽い調子で話を収めると、千尋は「行こうぜ」と顎をしゃくって階下を示す。
――くそう。
琴音は眉間に皺を刻みながらも従った。千尋の言うことの何割が本気で何割が冗談なのか、それを真剣に考えることはまさしくこいつの思う壺ではないかという気がする。
それに、ここで余計な問答を続ければ続けるほど由那と莉緒を待たせてしまうことになるのだ。
片やとても楽しそうに、片や実に悔しそうにしながら、琴音と千尋は二人で階段を下っていく。
来賓室と理科準備室との往復を繰り返して、ようやくすべての材料を水槽のもとへと運び込んだ。
「くあーっ、重労働だったな!」
最後の一袋――「ディープジャングル」のオリジナル商品として売られていた天然川砂が詰まったやつだ――を床に下ろすなり、千尋が大仰な仕草で額の汗を拭う。
琴音は無言で頷いた。
夏休みが終わっても夏の暑さが去るわけではない。そんな中で、重いソイルや砂を抱えて校舎をぐるりと回ってくるのは二人がかりでもなかなかにしんどい。
そのとき、由那がぱっと立ち上がった。
「コトちゃん、おかえり~!」
由那は駆け寄ってくるなりペットボトル入りのウーロン茶を渡してくる。
組み立て作業を進めているはずの彼女がいつドリンクを買いに行けたのかと琴音は首を傾げたが、ふと見ると佐瀬先生がひらひら手を振っていた。ぺこりと頭を下げておく。
隣へと視線をやれば、莉緒が同じようにして千尋にお茶を手渡していた。
「お疲れ様でした、千尋さん」
「なあに、こういうのは任せてよ……って、ん!?」
千尋はペットボトルの先を口に含んで傾けようとしていたが、重大なことに気がついた顔で蓋を閉め、
「ちょ、ちょい待った翠園寺さん? 今なんて?」
――お、あれは演技じゃないな。
疑う余地などなかった。紛れもなく素の反応だ。二人だけのときはまず見られない千尋の本気の動揺に、琴音は思わずニヤリと口角を上げる。
千尋は聞き間違いを疑っているようだが、お生憎様、そんなことはあり得ない。莉緒の唇から紡がれた千尋の名前を、琴音もしっかりと耳にしたのだ。
莉緒は、緊張した面持ちでかすかに俯いた。
「その……わたくしだけ呼び方に距離感があるのは少し寂しかったもので、一歩踏み出してみました。……だめでしたか?」
うわ。
「っ――いやいや、全然ダメってことはないからね!」
千尋がぶんぶんと頭を横に振る、
「たしかに言うとおりだ。……ああ、莉緒ちーには敵わねーなぁ」
無理もないな――琴音はペットボトルの封を切りながら、柄にもなく赤くなる千尋を眺めて思う。お嬢様のあの上目遣いは、いくらあいつでも無下にできまい。
千尋と莉緒に届かないようひっそりと呟く、
「おまえらぶっちゃけどこまで行ったの……なんて、私は訊かないけどな」
「何の話?」
「こっちの話」
琴音は由那に向かって静かに笑いかけると、彼女から受け取ったウーロン茶で喉を潤した。
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