第14話 初心者が調べずに飼うと失敗する

 おにぎりの最後の一口ぶんをペットボトルの緑茶で流し込むと、琴音はまたしても微妙な表情を浮かべて、たっぷり十秒は押し黙った。怜悧な面差しが「どうしたものか」とばかりに曇っているように見えて、そんなにくだらない質問をしてしまったのだろうかと小清水は戸惑う。


「もしかして、なにかまずいこと訊いちゃった?」


 小清水としては、読んでいて単純に不思議だったことを尋ねただけである。


 雑誌に登場していた水槽は、うねうねと枝分かれした白っぽい木――ブランチウッドというらしい――の狭間から水草が生い茂る構成で、その手前側を三匹のエンゼルフィッシュが泳いでいるというものだった。


 小さい魚の群れも泳がせたら綺麗なのにな、と思った。


 水槽と耳にして小清水がまずイメージするのは、水草と石と流木で作られたお洒落な空間をネオンテトラとエンゼルフィッシュが行き来している、という光景だ。そういう水槽ならどこかで絶対に見ている。映画やドラマの中でなのか、デパートや病院といった実際に訪れた場所でなのかはいちいち覚えていないにしても。


 気になって、その場でスマートフォンで検索してみた。結果、やはり「混泳には向かない」と結論しているサイトがいくつか出てきたのだ。


 ということはつまり、いろんな場所でよく見かける水槽は、実は不適当な飼い方なのではないか――以上が、小清水が疑問を唱えた経緯である。


「あー……」


 琴音が再起動した。


「いや、まずくはないよ……うん、まずくはない。聞きたいことないかって振ったの私だし、エンゼルだってたしかにシクリッドの仲間だし。――ただなあ……」


 一概にこうとは言えないんだよな、と琴音はこぼす。


「混泳できるできないの話は複雑なんだ」


 歯切れが悪い。琴音がこういう反応をするのは、アクアショップの店頭で調整剤の選び方について尋ねたとき以来だ――もっとも、あれだってつい一昨日のことではあるのだけれど。


「複雑って、どういうこと?」


「環境とか個体の性格、あとは育ち具合なんかによっても変わってくるから。たとえば私が飼ってる魚も一般的には単独飼い推奨だけど、私のは生き餌もなかなか食べないレベルの温厚ぶりで、コケ取り要員の小さい魚ともうまくやってる」


「へえぇ……」


「でも、もしかしたらそれは、私がそこそこ自然っぽいレイアウト組んでるから落ち着いてるだけなのかもしれない。ベアタンクにした途端コケ取り班は全滅するかもしれない」


「ず、ずいぶん絶妙なバランスなんだね」


 正直、意外だった。


 生き物を飼うことの責任について言葉の端々から滲ませてきた琴音だ。当然、事故など起こりようもない盤石のシステムを組んでいるものと想像していた。


 あるいは、これが彼女のアクアリストとしての覚悟と自信なのだろうか。


「――だから状況によるとしか言えない。もちろん魚種によって傾向はあるけど、それが全てってわけではないよ」


 小清水の瞠目に気づくでもなく、琴音が続ける。


「さっきも言ったとおりエンゼルもシクリッドの一種ではあるから、リスクのあるなしで言えば、ある。それなりに獰猛ではあるからね」


「自分より小さい魚を追いかけて食べちゃう、ってことだよね?」


「身も蓋もない言い方をするなら、要するにそういうこと。口に入っちゃうサイズだと特にまずいね」


「なんか……イメージ違うなぁ」


 もちろん琴音の話ではない。魚の話だ。


 小清水は「月刊アクアキューブ」で、あるいはネット上の名も知らぬメディアで目にしたエンゼルフィッシュを思い返す。


 スパンコール入りのドレスを纏ってキラキラ煌めく体と、上下に張り出した翼のごときヒレ。天使と名付けられるだけのことはある優雅な泳ぎから、気性の荒さを見て取ることは難しい。


「おとなしそうに見えるのに……」


「だから初心者が調べずに飼うと失敗する」


 琴音は事も無げに言ってのける。


「私も手放しでオススメはしないよ。店とかが混泳を成功させられてるのは、小さい魚が逃げ隠れしやすいようにレイアウト工夫してるからじゃないかな」


「なるほど……」


 水草を茂らせて身を隠せるゾーンを作ったり、木や石を組み合わせてシェルターを作ったり、ということだろう。


「――じゃあ、逆に言ったら……エンゼルよりおとなしくて、隠れられるほど小さくないような魚とも、一緒にしないほうがいいのかな?」


「わかってきたじゃん。たとえば、そうだな……ディスカスなんかは危ないかもね。神経質だって聞くし」


「え」


 小清水は目を瞬かせて、


「ディスカスってそうなの? 王様なのに?」


「……人間だって王様が強いかって言ったらそんなことなくないか?」


 琴音は眉根を寄せた。が、すぐに切り替えて、


「とにかく。エンゼルと問題なく共存できる確率が高いのは、底モノだろうね」


「底モノ?」


「水槽の下のほうを這うように泳ぐ魚」


 エンゼルに限った話じゃないけど、と琴音は前置きをして説明をはじめる。


 内容を要約すると、おおよそ次のとおりだ――種類の異なる魚を同じ水槽に入れる場合は、遊泳層、つまり泳ぐ水深の被らない魚を選ぶのが成功の秘訣。遊泳層が違えばいさかいも起こりにくくなるし、水景のあちこちを魚が泳ぎ回ることになるので見た目も華やかになる。


「まあ、底モノでもあんまり大きいやつだと今度はエンゼルがボロボロにされるかもしれないから、サイズ差は考えてやったほうがいいけどね。コリドラスとかクラウンローチならイケるんじゃないかな」


「そっか、エンゼルのほうがケガしちゃうパターンだってあるよね」


「エンゼルフィッシュはスピードがないからな。獰猛ではあるけど、自分が攻撃されると弱いと思う。素早い小型魚に対してやたらアグレッシブなのも、幾分かはストレスのせいなのかもしれない」


「……難儀だね」


「自然と比べたら水槽の広さなんて知れてるから、仕方ないよ。私たちだって好きでもない相手と同じ教室で過ごしてたら気が滅入るだろ?」


「闇が深いよ巳堂さん」


 だが、言われてみればまったくその通りだった。学校という空間に詰め込まれた仲間の中には相性のいい者もいれば悪い者もいて、グループで結束する者もいれば疎外される者もいるのだ。ケンカすることもあるだろうし、嫌な話だけれどイジメに発展する可能性だってゼロとは言えまい。


 魚の世界も、案外人間と似て世知辛いのかもしれない。


「――巳堂さんなら、どうやって飼う?」


「私? そうだな……」


 琴音が答えを返すまでには三秒とかからなかった。


「やっぱり水草とか石で実景っぽさを出すのが好みだから、そうするかな。パワーバランスが一方的にならないようにエンゼルは三匹以上。で、底にコリを何匹かって感じかな……」


 ちなみにコリっていうのはこれね、と琴音はスマートフォンを差し出してくる。


 画像検索の結果が表示されていた。さっきもちらっと名前の出ていた「コリドラス」という魚だ。口元のヒゲがかわいい。


「あと、万一に備えて避難用の水槽は準備しておくな、私なら」


「なるほど……正解がないって大変だね」


 まあね、と琴音は頷く。


「アクアリウムは試行錯誤の連続だよ」


 そして彼女は、いつものように薄く、しかし力強く口角を上げた。


「でも、だから楽しいんだよ」

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