第40話 生きるか死ぬかの差になる

 小清水の小さな手がスマートフォンを操作する。緑色のアイコンをタップすると、常用しているのだろうメモアプリが立ち上がった。


 準備完了。


 目でそう伝えてきた小清水に、琴音は微笑みを返してから口を開いた。


「最初に確認しておこうか。『水合わせ』っていうと、どういうことをイメージする?」


「ん~……」


 小清水は宙に視線を彷徨わせて、


「水を合わせるんだから……お魚さんにとって馴染む水質を調べて、そうなるように調整剤を使う、とか?」


「残念。ハズレだ」


「あぅ」


「でも、水質がらみの話だってところはイイ線いってる。何と何の『水を合わせる』のか考えてみなよ」


 たとえば――いや、たとえばも何も実際に数日後にはそうなるのだが――小清水がショップから魚を引き取ったとする。


 そのとき、魚はどういう形で持ち運ばれることになるか。


「えっと……クーラーボックスに水を入れて運ぶ?」


「いやいや。普通は袋だよ。ビニール袋とかポリ袋に水と空気を入れて、そこに魚を入れて運ぶ。――ま、どっちにしても生きたまま運ぶわけだから、水は絶対に必要なわけだ」


 そこまで説明してやると、小清水にも察しがついたようだった。


 スマートフォンを握ったままの右手を、開いた左手にポンと打ちつけて、彼女は瞳を輝かせた。


「そっか。お店の水槽の水とわたしの水槽の水を合わせるんだ!」


「当たり」


 アクアショップやホームセンターで管理されている生体が売れたとき、一緒に袋に入れられる水は、それまでその生体が暮らしていた水槽から採取されると相場が決まっている。


 少なくとも琴音は、その場で水道水を汲んでカルキ抜きを投入する店を見たことがない。それは単純に手間がかかるというオペレーション上の問題も関係しているのかもしれないが、本質的な理由は別に存在する。


 いくらカルキだけ抜いたところで、pHをはじめとする水質を即座に飼育水と一致させることはできないし、水温だって異なるからだ。


 そして水質と水温は、店の飼育水と客の水槽の水とでも違ってくる。


「水質と水温を急に変えると生体がショックを受けるからな。できるだけ変化のスピードを抑えて、お迎えする水槽の水に慣らそうっていうのが『水合わせ』なんだ」


「たしかに。わたしたちだって夏の時期なんか、家の中と外とを往復したくないもんね~」


 喩えとして冬の寒さでなく夏の暑さを持ち出すのが、いかにも青森の血をひく小清水らしい。


 よほど合点がいったのか、早くもフリック入力でメモをとりはじめている。


 彼女の手元が落ち着くのを待ってから、琴音は言葉を継いだ。


「水質に敏感なやつだと、水合わせをやるかやらないかは生きるか死ぬかの差になる。ただでさえ移動はストレスだからね。そこにショックが重なるとまずい」


「水質に敏感な子っていうのは?」


「代表選手はエビだな。点滴法でしっかり水合わせしないと、数十匹買ってきたのが全滅とか普通にある」


「ひえぇ……」


「点滴法は時間かかっちゃうけどな。でも、やらなきゃって気になるだろ?」


「うん。――ところで、その『点滴法』って何?」


 その質問は、琴音にとっては予期していたものだった。


 というよりも、小清水が疑問を覚えるように誘導したのだ。本人が知りたいと感じたことを解決してあげる形のほうが説明しやすい――小清水への講義を行うようになって、琴音が発見したことだった。


「簡単に言えば、点滴みたいにポツポツと水槽の水を混ぜていくやり方」


 手順はこうだ。


 まず、生体を買ってきた袋ごと水槽に浮かべて、三〇分ほど放置する。こうすることで、袋の内外で水温がある程度一致する。


 次に、袋を水槽から取り出して、別の容器に中身をあける。もちろんショップの飼育水ごとだ。


 最後に、水槽から容器にエアチューブを引っ張る。サイフォンの原理を利用して、水槽の水を容器内の飼育水に混ぜていくのだ。


「サイフォンの原理っていうと、つまり、さっきの――」


「……そうなんだけど、さっきの話は置いとこう」


 脳裏に先刻の失態がよぎった。琴音は唇をへの字に曲げる。


 小清水は思わずといった様子で笑みをこぼして、


「うん、置いとく。――けど、要するにエキスパートホースと同じ仕組みなんだったら、点滴みたいにはならないんじゃ?」


「ああ、そういうことか」


 簡単な話だ。


「チューブの端にコックを取り付けたらいいよ。そしたら一滴ずつポツポツ落とせるから」


「そっか、たしかにそれなら時間かけて水質合わせていけるね」


「ま、魚ならそこまで神経質にならなくてもいいとは思うけどな」


 実のところ、琴音が点滴法を使ったのはヤマトヌマエビを導入した一度きりだ。


 そして、エビたちは既に水槽から消えている。


 琴音のメイン生体であるブルームーンギャラクシースネークヘッドのギンガは、大抵のコケ処理係とはうまく付き合っていけるくせに、エビだけはしっかり食い尽くすという謎多き性格を持っていた。そのことが判明して以降、琴音はエビを入れないようにしているのだ。


「私がギンガを買ったときは、袋に何箇所か穴を開けて、そのまま水槽に浮かべてた。水が混じり合ったかなってタイミングで袋を切って、簡易水合わせ完了」


「大丈夫だったの?」


「そりゃリスクはあったけど。でもあいつスネークヘッドだしな」


 意味が分からない、とばかりに小清水が首を傾げる。


 琴音は肩をすくめた。


「ジャンプするだろあいつ。水合わせ中に跳ばれるほうが危ないからさ」


「あぁ……」


 小清水が遠い目つきをする。彼女の頭の中では今、琴音の部屋にドライフードをぶちまけてしまった失敗が蘇っているに違いない。


「その節はご迷惑をおかけしました……考えてみたらおあいこだね、わたしたち」


「だから深く考えないようにしようって言ってるんだ」


「ほんとだねぇ」


 洗濯機のランプが切り替わる。


 乾燥終了まで、残り三〇分。

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