第130話 由那のことばっかりだな、私
――大事なのは勇気だぜ、たぶんな。
週末を迎えても、千尋の声が依然として心の中で反響していた。
自室の勉強机の隣、90cmレギュラー水槽の水面に乾燥淡水エビを落としながら、琴音は幼馴染の言葉の意味を考える。
「自分の気持ちにしても由那の気持ちにしても……」
もっとポジティブに考えろ、と千尋は言った。
そうなのかもしれない。
千尋の告げたとおり由那は本当にこちらのことを意識しはじめていて、だから受け答えがおかしかったのかもしれない。
けれど、そうじゃないのかもしれない。
千尋の想像はまったく正鵠を得てなどおらず、由那はこちらを普通に友達として捉えていて、ここ数日の態度が妙だったのも単に自分の気のせいかもしれない。
「――由那のことばっかりだな、私」
千尋からの助言の中には「琴音自身がどう思っているか」も含まれていたはずだ。
にもかかわらずこんなふうに由那の心にばかり考えを巡らせてしまうのは、つまり自分の心持ちには答えが出ているということだろうか。
だからこその「大事なのは勇気」なのだろうか。
わからない。
わかっていることといえば、由那との間に覚える距離感は、千尋とのそれとも莉緒とのそれとも違っているということくらいだ。
そもそもこれまで友人すらろくに作らない生き方をしてきたせいで、由那に対して抱いている感情がどういう意味をもつのか自分でもいまいちピンとこない。
「やっぱり、もう少し今のままを……」
保ったほうがいいんじゃないか。そう結論を出そうと思った。
スマートフォンが「ピロピロピロリン」と連続して着信音を奏でたのは、すぐ次の瞬間のことだった。
「LANE? ――千尋か」
噂をすれば、というやつだろうか。
画面のスリープを解除して、通知欄からLANEのアイコンを選択してアプリをひらく。生物部で使っているグループチャットが起動して、千尋からのメッセージが表示された。
〔チヒロ:コトと小清水ちゃん、きょう暇? ――十秒前〕
〔由那:ひまだよ! ――十秒前〕
〔由那:でも、どうしたの? ――現在〕
〔チヒロ:ちと厄介なことになったんで、頭数が欲しいんだわ ――現在〕
琴音は眉間にしわを寄せる。すばやくスマホにフリック入力、
〔ことね:私も暇だけど ――現在〕
〔ことね:何があった? ――現在〕
チャットはすぐに更新された。
〔チヒロ:水槽が崩壊した ――現在〕
「……は?」
メッセージの意味がわからなかった。
いや、内容そのものは理解できる。水槽内の環境が崩壊したのだろう。
しかし、小難しいバランスなど一切取っていない、メンテナンス性最優先の千尋のメインタンクは、そもそも崩壊するような繊細な代物ではないはずだった。そしてメインタンクでないとするなら、わざわざ自分や由那を呼ばなくても彼女ひとりで問題なく対処できるはずだ。
琴音は続きを促すことにした。
〔ことね:状況詳しく ――現在〕
〔ことね:おまえんちのじゃないだろうし、まさか学校の水槽でもないだろ? ――現在〕
〔チヒロ:ちがうちがう ――現在〕
〔チヒロ:あっちはまだ崩れる時期じゃねーよ ――現在〕
「だよな」
では、いったいどの水槽が崩壊したというのか。
答えを告げたのは、このグループチャットに参加している生徒の最後の一人であった。
〔Rio Suionji:場所はわたくしの家です ――現在〕
〔Rio Suionji:わたくしの部屋に置いてあったレイアウト水槽が限界を迎えてしまいまして ――現在〕
〔Rio Suionji:たいへん申し訳ありませんが、手伝っていただけると助かります……! ――現在〕
莉緒からのエマージェンシーコールなのだった。
◇ ◇ ◇
電車で
「すみません、わざわざ来ていただいて」
「気にしないでっ! 仲間のピンチなんだもん、来ないわけにはいかないよ!」
胸元でぐっと拳を握った由那が、ぐいと莉緒に向かって身を乗り出す。
やっぱりこっちが由那の素なんだよな――このところの自分への接し方との差に、端から二人のやりとりを眺めていた琴音はモヤモヤした思いに駆られる。自分から由那へと向かう気持ちがそうであるのと同じく、由那の中での自分もまた「友達」とは異なる位置に移ってきているのだろうか。千尋が想像しているとおりに。
とはいえ、今はそのことで悩んでいる場合でもない。琴音は深く息を吸って空気とともに気持ちを入れ替え、自らも莉緒へと向き直る。
「崩壊したっていうのは、前に勉強会やったとき見た、あの60cm?」
「はい……さいわい発見が早かったので、生体はひとまず小型水槽に避難させてあるのですが」
莉緒の口から重い溜め息が漏れた。
「小清水さんもいらっしゃることですし、実際にご覧になったほうが早いかと思います。――どうぞあがってください」
莉緒の招きに従って、琴音と由那は階段を上がってゆく。
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