第93話 今日は一段と大人っぽい感じがして

 亜久亜駅の東口前広場には魚を模したゆるキャラ「めやまん」の石像があって、市民にはもっぱら待ち合わせスポットとして利用されている。


 オブジェを囲む花壇の縁に腰掛けながら、千尋はスマートフォンをフリックして、今しがた琴音への返信メッセージを打ったばかりのLANEアプリを落とした。


「中景と後景ねえ……やれやれ、難しいほう回されちまったなー」


 琴音と由那が選んだのは前景用の水草、エキノドルス・テネルスと南米ウィローモスだという。これらは決して珍しい種類ではない。特にウィローモスは置いていないショップを探すほうが困難なレベルでメジャーだから、早々に確保して仕事を果たした二人は賢い立ち回りを演じたわけだ。


「――なんて、言ってもあいつらが行ったの『AQUA RHYTHM』だしな。水草重視のショップじゃないんだし、難しいことは最初からあたしらの役目か」


 スマートフォンをポケットにしまう。


 駅舎を振り仰ぐと、大時計が十一時二十九分を指していた。


 針が動いて十一時三十分に変わったまさにそのタイミングで、透明感のある声が横合いからかかった。


「――お待たせしました、千尋さん」


「おっす、莉緒……」


 ちー、と続けようとしたのだ。


 声を発することを忘れた。


 うっすらベージュの乗ったホワイトのマキシワンピース。ノースリーブから露出する両肩の肌の白さが、暑さの去らぬ晩夏の陽光を照り返している。ワンピースと対照的な黒のリボンチョーカーが首元の印象を引き締めていて、頭の上には同じく黒いハットが乗っていて、艶やかな黒髪を柔らかくあふれさせている。


 ――とまあ、見たものをそのまま言葉にすればそういう表現になるのだろう。


 が、すべては後付けの知恵である。


 待ち合わせ場所に現れた莉緒の姿を視界に入れた瞬間、千尋の脳みそからは一切の語彙が消失してしまった。


「あ、あの……変でしたでしょうか、わたくし」


 当惑げな莉緒の声で我に返った。


「――いや、」


 呼び捨てる形になったままだと思い出して、気まずさを払拭するように無理矢理に笑みを作る。


「莉緒ちーがピシッとしてるのはいつものことなんだけどさ。今日は一段と大人っぽい感じがして、うっかり見とれちった。サマになってるよ」


 それで安心したのだろう、莉緒は花開くように口元を綻ばせた。


「……ふふっ。今日のお出かけは楽しみだったので、実はちょっと張り切ってしまったのです。気に入ってくださったなら嬉しいですわ」


 自分が女でよかった、と千尋は心の底から思う。


 こんな綺麗なお嬢様と並んで歩いている奴がもしも男だったなら、他の男たちからの目線が刃物となって、分不相応な果報者を滅多刺しにすることだろう。




 駅前地下街「亜久亜チカミチ」の雰囲気は明るい。ファッションやコスメを取り扱う店もあればカフェもあるし、がっつり食事のできるレストランも複数入っているから、若者はもちろん家族連れだって珍しくない。


 ――なのに。


 アクアリウム専門店「ディープジャングル」の前だけが奇妙なプレッシャーを放って見えるのは、単純に店のレイアウトの問題なのか、それともペットショップ特有の空気がそうさせるのか。


「あたしはこの雰囲気も慣れてっからいいけどさ。小清水ちゃんよく最初ここ入れたな」


「あのときの小清水さんはこちらのクラスの二人と一緒でしたから……海老名えびなさんと蟹沢かにさわさん、わかりますか?」


「あーそうか、そうだった。海老名って子のほうは見かけた覚えあるぐらいだけど、蟹沢理沙りさはわかるよ。よく昼休みにバスケやったわ」


 そういや最近体育館で遊んでねーな、と千尋はふと考える。由那と出会って以降、昼休みをずっとアクアリウム談義に使っていたためだ。


 由那のことはもう琴音に任せておいていいだろう。


 生物部の活動は放課後なのだし、昼休みくらいはそろそろ体を動かしに行くのも悪くないかもしれない。


「んで莉緒ちー、イメージに合いそうな水草ある?」


「そうですねえ……」


 ハットからこぼれる髪をかき分けながら、莉緒が居並ぶ水槽の前で中腰になる。水草の株は三段重ねの水槽ラックの中段にまとめられていて、正面から眺めようとしたら少しだけ屈み込まねばならない。


 と、次の瞬間――


「――いよいよ水草がご入り用ですかぁ?」


 粘性を帯びた囁きが聞こえて、通路の陰からぬらりと人影が滑り出てきた。


 千尋が飛び上がって驚かずに済んだのは、由那からこの店のことをあらかじめ聞いていたからだ。それでも正直かなりビビった。なにしろ気配を感じなかったし、現れた店員の風貌も、話に聞くのと実際見るのとではインパクトがまるで違う。


 前髪で顔の上半分を隠した女性店員。その名前を、すっかり常連となっている莉緒が平然たる調子で口にする。


「ごきげんよう、革津かわづさん。土曜日はシフトお入れになっていなかったはずでは?」


「今日は私のお客様が生体を引き取りにお見えになるのでぇ、特別に出勤することにしたんですよぉ。翠園寺さんにまでお会いできたのは嬉しいですねぇ……毎度ありがとうございますぅ」


「いえいえ、わたくしのほうこそディープジャングルさんの品揃えには助けられていますから、今回もお力をお借りしたくって」


「もちろんいくらでもお貸ししますともぉ。――ところで、そちらのお嬢さんはお友達で?」


 革津の顔がこちらに向いた。千尋は「うっす」と一度頭を下げる。


「莉緒ちー差し置いて『お嬢さん』なんて言われると恥ずかしくなっちゃうんで勘弁してくだせえ……部活仲間の天河千尋っす。ネイチャーは正直ろくにわかんないんすけど、珍しい生体のほうは興味ありますねー」


「構いませんよぉ。そういったお客様も多いですからぁ」


 革津の双眸が髪に隠れているせいで、彼女の表情を推し量るには唇を注視しなければならない。どうやら今のやりとりは好感触だったらしいな、と千尋は内心で口笛を鳴らす。


 組もうとしている水景をかいつまんで伝えると、革津はインディゴブルーのエプロンを押し上げる膨らみの下で腕を組む。


「……なるほどなるほどぉ。そういうことでしたら、中景にはブリクサ・ショートリーフがいいんじゃないでしょうかぁ?」


 件の水草は眼前の水槽に展示されている。


 ブリクサ・ショートリーフ――草丈およそ十五センチの、東南アジアを原産地とする細長系の水草だ。


 だが、これに対して莉緒は微妙な反応を見せた。


「テネルスと印象が被りませんか?」


「見た目は似ていないこともないですねぇ」


 革津はあっさり頷いて、


「しかし、だからこそいいのですぅ。絢爛な水景を組むならともかく、翠園寺さんたちは日本の実景風の落ち着いたレイアウトにするのでしょう? でしたら印象は統一するのが望ましいかとぉ」


「……なるほど」


「ブリクサ・ショートリーフはテネルスと似て細長い水草ですが、テネルスと違って横に茂っていくことはありませんし、テネルスよりも大きいぶん葉幅も少し広く見えます。全体のイメージとしては近いうえで、ミクロでは充分変化をつけられるのではないでしょうかぁ」


 莉緒の顔つきが変わる。一理ある――そんな表情。こりゃ決定に傾いてるな、と二人の様子を横目で見ながら千尋は思う。


 自分にも水草の知識があれば、莉緒とこんなふうに密な話ができるのだろうか。


 ちょっとくらい勉強してみようか。


「――って、ありゃ?」


 革津にちょっとした羨ましさを感じたとき、彷徨った視線が水草コーナーの最下段を捉えた。


 後景草として使うべき品種なのだろう、草丈の長いものばかりが収められている。琴音の部屋で見たような、バリスネリアなんとかもちゃんとある。


 その、バリスネリアの隣。


「なあ莉緒ちー、これどうよ?」


「はい? ……あら」


「ほほぉ、やりますねぇお客様ぁ」


 水槽ラックに貼り付けられた商品ラベルには、「エレオカリス・ビビパラ」と記されている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る