第12話 わたしもハンバーグにしようっと
琴音は「月刊アクアキューブ」を快く貸し出してくれた。
しかし、今はそうではない。
上部フィルターからの落水音が絶えず流れる水槽には、およそ五〇リットルの水を除けばまだ何も入っていない。
それでも小清水は、以前よりもこの部屋がちょっとだけ好きになっていた。
きっと、魚を迎えたらもっと好きになれるのだろう。
小清水は部屋着に着替えると、さっそく鞄を開けて借り物の雑誌を取り出す。昼休みから見てきた特集「シクリッド・コレクション」、その六ページ目と七ページ目を開く。
「これこれ、気になってたんだよね~」
見開きで紹介されているのは、表紙にも映っていた魚だ。月のように真ん丸な平べったい体に、絵の具で塗ったかのようなビビッドきわまる色合いは否応にも小清水の目を引いた。
ディスカス、とある。
熱帯魚の王様、という実に大層な肩書きがついている。
「王様……たしかに色も模様もすごいなぁ。こういうのもいるんだ」
熱帯魚が鮮やかな体色をしているのは、ある種あたりまえのことと言えるのかもしれない。
多くの場合、それは品種改良の賜物なのだろう――そんなイメージが小清水にはあった。これまで教わったパロットファイヤーとフラワーホーンがどちらも人工的に生み出された魚であったからだが、どうやらこのディスカスについては事情が違うようなのだ。
たしかに誌面に写った水槽には、無数の赤い斑点で彩られたディスカスの群れが「ブリード種」として紹介されている。
だがその隣には、燃えるようなオレンジの「ワイルド種」の写真もある。
ワイルド種の鮮やかさは、ブリードで作出された個体のそれにも全く引けを取っていないように小清水には見える。
「ワイルドってことは、こんな子が野生なんだよね。自然ってすごいなあ」
小清水はスマートフォンを取り出す。ブラウザを立ち上げ、検索バーに「ディスカス」と入れて虫眼鏡のアイコンをタップする。
検索結果の一ページ目をざっとスクロールして眺め、詳しそうな記事にあたりをつけて開いてみる。
「ええっと……『南アメリカ原産。アマゾン川水系の水没林や倒木の周囲を群れで泳ぐ』? じゃあ飼うときも何匹か一緒にしてあげたほうがいいんだよね、きっと」
ということは、単独飼いを想定している自分の選択肢からは必然的に外れる。
それに――あくまで直感なのだが、これだけ綺麗な魚だ、たぶん結構なお値段なのではないだろうか。
諸々の費用を切り詰めて捻出できる予算には限界があるし、高校生がバイトで稼げる額など知れている。たとえ自分の気が変わって、群れで泳がせたくなっても、ディスカスで行うのは難しいだろう。
「うーん、残念」
雑誌のほうに目を戻す。
自分でディスカスを飼育することは諦めたものの、誌面の内容――飼い主のお宅を訪問する企画だ――は読み物として普通に面白く、ついつい文章を追ってしまう。
「この人、もう七年もこの水槽でやってるんだ」
ディスカスの寿命は五年から十年だと紹介されている。つまり、記事の男は寿命を全うさせてやれるくらいに熟練したアクアリストであるわけだ。
――七年かあ。
途方もない時間に思える。
七年前となると、小清水が小学校で算数に頭を悩ませていた頃だ。時間と道のりを計算するのが当時は尋常じゃなく苦手で、居残りでドリルをやらされたことも一度や二度ではなかった。小学生が高校生になるくらいの期間を、この人はずっと魚と共にしてきたわけだ。
逆に、七年後となると、高校どころか大学までもを卒業して社会人一年目を迎えている頃だ。もちろん全てが順調にいけばという条件つきではあるが――とにかく、今から自分が魚を飼えば、そういう時期まで責任を持ち続けることになるわけだ。
むむ、と小清水は眉根を寄せる。
「長い付き合いだよねぇ……」
余裕のないときも訪れるだろうし、引っ越しだって何度か経験するだろう。
今の小清水には、その面倒をはっきりとイメージすることができない。が、水槽がないのと比べて多くの負担がかかるであろうことは間違いない。
――でも。
腰は、不思議と引けてこない。
琴音と千尋の顔が浮かぶ。
自分が考えたような苦労など、あの二人なら当然認識しているはずだ。
あの二人やこの記事の男のようなアクアリストたちが、苦労と引き換えにしてでもやりたいと望むだけの魅力が、水槽趣味にはあるのだ。
自分も、それを味わってみたいと思う。
「あ、こういう餌あげるんだ……」
ささやかな決心とともに捲った次のページに、挽肉めいたペーストをつつくディスカスたちの写真が載っていた。
読み進めてみると、どうやら「ディスカスハンバーグ」と称される餌らしい。実にそのままなネーミングのとおり、ディスカスに与えるためのハンバーグであって、つまりは「めいた」どころか正真正銘の挽肉であるとのことだった。
「むー、王様ってだけあって贅沢だなぁ」
ぐぎゅるるる、と腹が鳴った。
隣の教室にできるだけ早くお邪魔したくて、昼食をコロッケパン一つだけで済ませたことを思い出した。よくよく考えれば、昼休みが始まると同時に移動して一緒に食べればよかったのだ。どうして思いつかなかったのだろう。
小清水は雑誌を閉じて、おもむろに立ち上がった。
キッチンへと歩いていく。
二ドア式の小さな冷蔵庫の上段、冷凍庫のスペースには、土曜日に買った牛と豚の合挽き肉がそっくり残っていたはずだ。
――晩ご飯、わたしもハンバーグにしようっと。
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