第99話 生体のことなんだけどさー

 来賓室のドアの隙間からこっそりと室内を覗いている人影があった。


 隣にはもう一つ別の人影もあって、そちらは廊下の壁に背を預け、中庭の光景を透かす窓へとひたすら視線を注いでいる。こっちの人物には中の二人に配慮するだけの慎みがあるらしい――と言えばいいふうに聞こえるが、その慎み深さが相方を制止できないことに繋がっているとあっては手放しで褒めるのも考え物か。


 言うまでもない。千尋と莉緒である。


「生体のことなんだけどさー」


 と、意外にもまじめな口調で呟いたのは覗き行為を敢行している奴、すなわち千尋のほうだった。


 考えるべきことはいくつかあって、とにもかくにも一個ずつ片付けていかねば始まらない。


 部長として下した判断は、まず目下製作中の水槽を最優先するというもの。


 水草の植栽までは終わり、ガラスパイプと透明ホースの装着は今まさに琴音と由那がやっているから、あとはどんな生体を導入するのかを決めればいい。


 それさえ済んでしまえば残りの作業は水草育成や生体の管理といったルーチンワークだ。脳ミソのリソースを他のこと――たとえば学園祭の展示の企画などだ――に百パーセント振り向けることが可能になる。


「とりあえずコケ取り部隊は入れるじゃん? けど、魅せるための生体も別に必要だよね……わははコトのやつ顔真っ赤でやんの」


「じ、実況しなくていいです……ええと、その、眺めるときはコケ取り用の生体もいっしょに見ることになるわけですから、あまり多くの種類を使ってしまうと逆に統一感を欠いてしまうかと思います」


「コケ取りだとエビかね?」


「ヤマトヌマエビかミナミヌマエビ……投入してより効果が高いのはヤマトヌマエビのほうでしょう。それからオトシンクルスと、黒ひげコケへの対策としてサイアミーズフライングフォックスも欲しいです」


 莉緒が次々とリストアップした生体は、いずれもアクアリウム定番のコケ処理要員である。どのショップでも売られているしエビ以外は琴音の部屋の水槽でも見られるため、水草を専門外とする千尋でも簡単に姿を思い浮かべることができる。


 ミナミヌマエビ――透明な体をもつ極小の淡水エビ。底砂や水草の上を歩き回って微細な有機物をツマツマと口に運んでいる姿には愛嬌がある。十匹くらいまとめ買いしておけば勝手に増えていくという繁殖の手軽さもありがたい。


 ヤマトヌマエビ――ミナミヌマエビよりも大きな体格と、各所に入った斑点とを特徴とするエビだ。大きいだけあってコケ処理能力もミナミより高いから重宝される一方で、繁殖させようとしたら汽水を用意しなければならないという難しさもある。生息域自体は淡水だから、飼うだけならばハードルを越える必要はないが。


 オトシンクルス――こいつは容貌がプレコに似ているから千尋としてもやりやすい。プレコもオトシンもナマズの仲間だ、とか何とか琴音が昔言っていた。流木やガラス面のコケを処理してくれるかわいいやつだが、草食性が強いうえ人工餌に馴染みにくいから維持するのが実は大変だ、とも。


 サイアミーズフライングフォックス――黒ひげ状のコケを一掃してくれる頼もしいやつ、とはやはり琴音の弁である。かといって黒ひげ専門というわけでもなく、コケ全般はおろかアオミドロまでも守備範囲とする万能選手でもあるらしい。コケ処理要員としては間違いなく最強の一角だが、最大体長がそこそこあるため小型水槽だと持て余すのが玉に瑕、だとか。


「生体は千尋さんがメイン、巳堂さんがサブで管理されるとのことでしたが……このラインナップ、大丈夫そうですか?」


「へーきへーき」


 遠慮がちに尋ねてくる莉緒を勇気づけるように、千尋は彼女へと向き直ってニッと白い歯を覗かせる。


「あたしとコトだぜ? 生体がらみでヘマこくと思う?」


「ふふっ……それもそうですね。いらない心配でした。ではお任せしますね」


「おうよ、任しとけ」


 鈴の鳴るような笑い声をこぼす莉緒に、千尋は「大船に乗ったつもりでいろ」と薄い胸を反らして請け負った。


 ヤマトヌマエビは殖やそうと考えなければいいだけだし、水草レイアウト水槽ではコケの生育しやすい条件が自動的に揃ってしまうからオトシンクルスも養える。サイアミーズフライングフォックスが十センチ弱まで育ったとしても、120cmの幅をもつ自分たちの水槽ならば問題になるまい。


 たしかに種類こそ多いように聞こえるが、管理が極端に困難な組み合わせではないだろう。琴音などはコケ取り軍団の飼育経験を現在進行形で持っているわけだし、適応水質や水温の被るやつらを数種追加したところでパンクしたりはしない。


「……となると、残るはメイン生体をどうするかですね」


「莉緒ちーには案あんの?」


「バリリウス・バケリかバリリウス・バルナと考えていました。――こんな魚なのですが」


 そう告げて莉緒は、スマートフォンの画面をこちらに向けてきた。


 まず表示されたのは、背びれの先端が炎のような橙に色づいた魚だった。全体としては青みがかった銀色をしているが、よく見ると体にもうっすらオレンジと緑の輝きがある。胴体にはサケやマスのパーマークを思わせる黒い縦縞が入っていて、まるで婚姻色を纏った渓流魚のような印象を受ける。


「これがバリリウス・バケリです。そしてもう一種……」


 莉緒の白い指が画面をフリックした。


 次の写真には同じような魚が映っていた。しかし、先程のバケリと比べると色合いが地味というか、より銀一色になったという感じがある。黒い縦縞はこっちにもあるから、さしずめ婚姻色の出ていないときの渓流魚といった雰囲気だ。


 もちろん、両者ともに渓流魚などではないのだが。


「こちらがバリリウス・バルナです。どちらの魚も活発に遊泳するタイプなので、群泳させれば見応えがあるかと思ったのですが……」


「いいじゃん。こいつらって体長何センチくらいなの?」


「……最大十五センチほどです」


「……あー……」


 千尋の昂揚は急速にしおれた。この最大体長こそ、まさしく莉緒にバリリウス・バケリとバルナの導入をためらわせた原因に違いない。


「ちとデカいか。あたしらの環境でも複数飼育できるっちゃできるけど、群泳って言えるレベルとなるとビミョーなラインだ……水槽せめて150cmありゃ即決だったろうに、惜しいなー」


「はい……ですから困ってしまって。皆さんのお知恵を借りて、それでも決まらないようなら革津さんを頼ろうかと……」


「なるほどねぇ」


 千尋は莉緒からスマホを受け取り、フリックを繰り返して二枚の写真をつぶさに眺める。


 バルナを候補に含めたということは、ド派手な魚よりも定まったベースカラーをもつ魚のほうが好ましいと莉緒は考えているのだろう。そのうえで、バケリのように多少アクセントが加わるぶんには構わない。


 日本の沢をモチーフとしたレイアウトに合わせるのだから、莉緒の意図は正しいと自分も思う。


「いっそ日淡入れちまうか? タナゴとか……いやでもネイチャーのコンテストだし、奇をてらいすぎてイロモノ枠扱いされたらマズいしなー……」


 答えは、意識の外から降ってきた。


「――?」


「んー? ……おお、なるほどサイズはちょうどいいな。体色は銀ベースだし飼ってくうちに色も入る。渓流魚っぽさはないまでも莉緒ちーのイメージは崩さないセレクトだ、さっすがコト――」


 口にしかけてハッとした。


 千尋はゆっくりと、錆びた機械のような動きでゆっくりと、声のしたほうに首を巡らせてゆく。視線が捉えた先、来賓室のドアはいつの間にか開ききっていて、室内と廊下とを隔てる境界線上に、


「翠園寺さんまで引っ張り回して、おまえはいったい何をやってるんだ?」


 こめかみに青筋を走らせた琴音が、腕を組んで仁王立ちしていた。

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