『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(11) 蘇我氏中興の祖・蘇我稲目
本稿では6世紀頃に台頭し、仏教の導入や物部氏と権力闘争で良く知られている蘇我氏中興の祖、蘇我稲目について触れたいと思います。
なお、仏教公伝に関する稲目の記事は「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(10) スキャンダラスな大連 物部尾輿」をご覧ください。
⑴『日本書紀』巻十八宣化天皇元年(丙辰五三六)五月辛丑朔
夏五月辛丑朔、詔曰、食者天下之本也。黄金萬貫、不可療飢。白玉千箱、何能救冷。夫筑紫國者、遐邇之所朝届、去來之所關門。是以、海表之國、候海水以來賓、望天雲而奉貢。自胎中之帝、洎于朕身、収藏穀稼、蓄積儲粮。遥設凶年、厚饗良客。安國之方、更無過此。故、朕遣阿蘇仍君、〈未詳也。〉加運河内國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰、宜遣尾張連、運尾張國屯倉之穀、物部大連麁鹿火、宜遣新家連、運新家屯倉之穀、阿倍臣、宜遣伊賀臣、運伊賀國屯倉之穀。修造官家、那津之口。又其筑紫肥豐、三國屯倉、散在懸隔。運輸遥阻。儻如須要、難以備卒。亦宜課諸郡分移、聚建那津之口、以備非常、永爲民命。早下郡縣、令知朕心。
(
*新家連……『先代旧事本紀』「天孫本紀」によれば物部竺志連公を祖とする。
・概略
宣化天皇元年夏五月一日に、詔して、「食は天下の本である。黄金が万貫あっても、飢えを療す事は出来ない。真珠が千箱も多くあったとしても、どうして寒さの為にこごえるのを救えようか。筑紫国は、遠近の国々が朝貢して来るところであり、往来の関門とする所である。この為、海外の国は、潮の流れや、天候を観測して貢をたてまつる。応神天皇から私に至るまで、籾種を収めて蓄えてきた。凶年に備え賓客をもてなし、国を安んずるのに、これに過ぐるものは無い。そこで自分も、阿蘇の君を遣わして、河内国の
・解説
本文は漢書・景帝紀などの漢籍による修飾が加えられており⑵、『日本書紀』編纂段階の作文と言われていますが、具体性を有した部分は何らかの原資料に基づいた記述とみられています。
蘇我稲目・物部麁鹿火・阿倍臣(大麻呂)は天皇(大王)に命じられたということではありますが、それぞれ大王と同等の役割を担い、それぞれの勢力下にあった人物を遣わして、それぞれに関係ある屯倉の穀を運ばせた事が推定され、この記事からは、当時の政権がなお連合政権的な性格を残していたと言われています。⑶
つまり、この頃、物部氏等と並び、蘇我氏が当時の政権に大きな役割を果たしていた事実を反映している可能性が高いです。
なお、この記事で蘇我稲目が尾張連を遣わせたとありますが、寧ろ物部氏と尾張氏の繫がりが強かったことが後世の『先代旧事本紀』から伺うことが出来るので、蘇我氏が尾張氏を遣わした事に違和感を禁じ得ませんが、おなじく『先代旧事本紀』から尾張連氏が葛城の地を出自とする記述を参考にするなら、葛城氏と蘇我氏との近い関係から尾張氏とのつながりが復元されるかも知れないそうです。⑷
⑸『日本書紀』巻十九欽明天皇十四年(五五三)七月
秋七月辛西朔甲子、幸樟勾宮。蘇我大臣稻目宿禰、奉勅遣王辰爾、數録船賦。即以王辰爾爲船長。因賜姓爲船史。今般連之先也。
(
・概略
欽明天皇十四年秋七月四日に、
・『前賢故実. 巻之1』より王辰爾の肖像画
https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16816700428262947708
・解説
船首王後墓誌銘に船氏中祖王智仁首とあり、続日本紀、延暦九年七月条では辰爾の祖は百済の貴須王の孫の辰孫王で応神朝に来朝し、その長子太阿郎王は仁徳天皇に近侍したとし、「太阿郎王子亥陽君。亥陽君子午定君。午定君生三男。長子味沙。仲子辰爾。季子麻呂。從此而別。始爲三姓。各因所職以命氏焉。葛井。船。津連等即是也(太阿郎王の子亥陽君、亥陽君の子午定君、午定君三男を生めり。長子は味沙、仲子は辰爾、季子は麻呂なり。此に從りし別れて、始て三姓と爲る。
時代は遡りますが、『古語拾遺』によると雄略天皇の世に諸地方からの貢物が倉庫に満ち溢れて来た為、
また、稲目の名は古事記の以下の記事にも見られます。
⑼『古事記』下巻 天国押波流岐広庭天皇(欽明天皇)より抜粋
又娶宗賀之稲目宿祢大臣之女、岐多斯比売、生御子、橘之豊日命。次、妹石垧王。次、足取王。次、豊御気炊屋比売命。
(又
・解説
西郷信綱氏は大伴氏や物部氏等、部の伴造である連姓の伝統的な氏に代わり、臣姓の、行政的・官僚的色彩を持つ氏が前景に出てきたことを意味するのだろう。⑾と述べていますが、近年の考古学的な知見では葛城氏の繁栄が史実である事から、寧ろ伴造以前に葛城・吉備と言った臣姓の氏族が発展し、これを抑えるために物部連・大伴連を中心とした伴造が台頭したと見た方が自然かと思います。
また、5世紀後半の文献史料である稲荷山古墳出土鉄剣銘文では既に
*追記1
乎獲居臣の「臣」を漢語の「シン」と呼ぶ説が有力のようですが、姓の「
*追記2
平林章仁氏は稲目が大臣に就任した理由について、(蘇我氏と同じく武内宿禰系譜に連なり、葛城氏の同族と目される)平群氏や許勢氏の大臣歴任から類推して、葛城氏政権において蘇我氏も有力成員であったことが一番の理由であろうとし、葛城氏の政治的地位は、有力成員だった平群氏や許勢氏に継承されたけれども、いずれも一代限りで継続されず、蘇我氏に継承されましたが、宣化天皇紀元年二月壬申朔条を見る限り、この段階では稲目の地位は大伴金村と物部麁鹿火に次ぐ執政官の次々席であり、単独で権力を揺るがすほどの権力を掌握していたわけでもなく、蘇我氏も平群氏や許勢氏と同じく一代で終わる可能性が無かったわけではなかろうが、そうならなかったのは稲目が堅塩媛や小姉君を入内させ、王家と姻戚関係を結ぶことが出来たことが大きく影響していると主張されました。⒁
◇蘇我氏台頭の原因。纏め。
蘇我氏台頭の原因を纏めてみると主に以下の点が挙げられます。
①屯倉の開拓。
②渡来人との結託を通して勢力の拡張。
③
④葛城氏の勢力を継承し、葛城氏の後裔を自分の勢力下に取り込んだ。
この中で、④の葛城氏の後裔に関しては、稲目の記事には登場しませんが、蘇我馬子の記事では顕著となるので、その人物に関しては馬子の稿で触れてみたいと思います。
◇参考文献
⑴『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 472・473・228・230ページ
⑵『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 229ページ注11
⑶『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』篠川賢 雄山閣 175ページ
⑷『蘇我氏の古代』吉村武彦 岩波書店
⑸『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 494・304ページ
⑹『六国史 巻4 続日本紀. 巻上,下 増補』佐伯有義 編 朝日新聞社
https://dl.ndl.go.jp/pid/1172850/1/256
⑺『日本書紀(三)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 305ページ 注12
⑻『古語拾遺』 加藤玄智 校訂 岩波文庫 国立国会図書館デジタルコレクションより閲覧 24コマ。44ページ
https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3457563/24
⑼『古事記注釈 第八巻』西郷信綱 筑摩書房 189・190ページ
⑽西郷、前掲書 193ページ
⑾西郷、前掲書 192ページ
⑿篠川、前掲書 24ページ
⒀『日本古代氏族研究叢書⑦ 阿倍氏の研究【普及版】』大橋信弥 雄山閣 138ページ
⒁『日本古代氏族研究叢書⑤ 蘇我氏の研究』平林章仁 雄山閣 52ページ
◇関連項目
『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(10) スキャンダラスな大連 物部尾輿
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816700427627372227
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