ヤマトタケル関連の歌➀ 出雲建征討の歌

 冒頭から別の話題で恐縮ですが「どうする家康」が終わってしまいましたね。最初は安っぽいCG、阿倍寛さんが演じる仙人みたいな武田信玄w、何より情けなすぎる家康の姿に絶望して、「来週観るかどうする?」状態でしたが、織田信長役の岡田准一さんが相撲を行うシーンが、相撲というよりも総合格闘家のタックルっぽい動きに「この人マジで強いわ」といい歳こいて中学生の様に感心した事と(古武道を経験なさっているそうですが、相撲のシーンで見せたのは頭を上げた防御の観点からすれば実戦性の欠ける柔術のタックルではなく、頭を下げた総合格闘技風のタックルだったような……うろ覚えですが)、酒匂芳さんの演じるケチなプライドと自己保身の為に裏切りを重ねる小悪党っぽい明智光秀があまりにも嵌っていたので(「麒麟が来る」の史実とかけ離れた、あまりにも美化された光秀像と正反対だったので)何と無く観ていたのですが、家康のビビリが抜けて、良い具合に貫禄が出て来た辺りから段々面白くなってきましたね。寺島しのぶさんの「神の君」を褒めちぎる語りも時には皮肉っぽく聞こえるのが痛快でもありました。ツッコミどころ(例えば瀬名〈築山殿〉が夢見たような一種の合議制は鎌倉時代に一年を持たずに破綻しており、奇しくも前作「鎌倉殿の十三人」でもその様子が描かれていた。武力が物を言う社会において、権力の分散が却って社会の不安定さを生みかねず、瀬名の唱えた理想は実現不可能な綺麗ごとでしかない。)を上げればキリが無いですが、ドラマですから虚構が含まれるのは当然だとして、観方によっては通説によらず、様々な解釈があり得るという好例を示した作品でもあったのかも知れません。個人的感想では過去の大河ドラマでは有り得ない衝撃的な結末を迎えた「鎌倉殿の十三人」には及びませんが、近年の作品の中ではかなり面白い部類だったと思います。


 不満があるとすれば、戦国時代~江戸時代初期を国内の情勢のみで語るのは最早時代遅れだと思いますし、狭い領国における小競り合いはお腹いっぱいなので、今後この時代で大河ドラマを作成するなら、世界情勢と関わった日本人など、広い視点から作品を作って欲しいですね。(例えば豊臣秀吉がキリシタンを弾圧せざるを得なかった背景の追求。伊達政宗が売国奴的行為を行おうとしていたのが『ヴァティカン機密文書館史料』で明らかにされたこと。〈但し国内にはそれを裏付ける文献は確認されていません。〉山田長政の活躍。海外に「輸出」された侍達の話など。)戦国期~江戸初期の研究者が国内の些末な戦の研究に熱心な割に、海外との交流から日本史を探るという姿勢に乏しく、寧ろ飛鳥・奈良時代の様な古代の方が戦国期~江戸初期よりも進んでいるような気がしてならないのは、自分の無知による気のせいだと思いたいところです。え? 次の大河ドラマは井上元兼が幼少の頃の毛利元就を軟弱に育てるために読ませたという源氏物語の作者の話だって? ミルキガシマセンネ(コラ)。


 さて、このままでは別の時代のエッセイになってしまいそうなので、この辺で切り上げて本題に入ります。本稿から四回の予定でヤマトタケルと関わる歌について取り上げてみます。




⑴『古事記』中巻 景行天皇

即入坐出雲國。欲殺其出雲建而到即結友。故竊以赤檮。作詐刀。爲御佩。共沐肥河。爾倭建命。自河先上。取佩出雲建之解置横刀而。詔爲易刀。故後出雲建自河上而。佩倭建命之詐刀。於是倭建誂。云伊奢合刀。爾各抜其刀之時。出雲建不得抜詐刀。即倭建命抜其刀而打殺出雲建。爾御歌曰。


 夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知

 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮


故如此撥治。參上覆奏。


(即ち出雲國に入り坐して、其の出雲建いすもたけるらむとおもほして到りまして、即ち結友うるはしみしたまひき。かれひそか赤檮いちひのきたちつくして御佩みはかして、共に肥河ひのかはかはあみしたまひき。ここに倭建命、かはよりあがりまして、出雲建がき置ける横刀たちを取りかして「刀易たちかへむ」とりたまふ。故後かれのちに出雲建河よりあがりて倭建命の詐刀こだちきき。於是ここに倭建「伊奢いざ合刀たちあはさむ」とあとらへたまふ。かれおのおのも其のたちを抜く時に、出雲建 詐刀こだちを得抜かず。即ち倭建命其の刀を抜かして、出雲建を打ち殺したまひき。かれ御歌みうたよみしたまはく、


 やつめさす 出雲建が 佩ける大刀たち

 つづらさはき さみ無しにあはれ


かれ如此かくはらたひらげて、まゐのぼりて覆奏かへりごとをしたまひき。)


◇解説

 出雲國に来たヤマトタケルが出雲建を計略に嵌めて殺す逸話ですが、『日本書紀』では出雲建という人物は登場せず、代わりに『日本書紀』巻五崇神天皇六〇年(癸未前三八)七月 己酉十四日では出雲臣の遠祖の出雲振根いずものふるねという人物が出雲の神宝をつかさどっており、筑紫国に出向いて留守の時、朝命を受けた弟の飯入根がその神宝を宮廷に献上してしまい、筑紫から帰った振根がその事を聞いて怒り、弟を殺そうと謀り、古事記のヤマトタケルと同じ手段で弟を殺し、「時人」による「椰勾毛多菟。伊頭毛多鷄流餓波鷄流多知。菟頭邏佐波磨枳。佐微那辭珥。阿波禮。(八雲起やくもたつ、出雲梟帥いづもたけるが、佩ける太刀、黒葛つづらさは巻き、さ身無しに、あはれ)⑵」というほぼ同様の歌については、過去の稿「出雲の国譲りは史実か?」で触れています。詳細は該当する稿をご覧頂ければと思いますが、崇神天皇紀の話の方は物部氏が関わっているので、中央勢力の物部氏が出雲国内を統一した史実を想定してその反映とみる説があります。⑶


 登場人物も時代も違うにも関わらず、似た歌を伝える記紀の伝のどちらが正伝か判断し難く、西郷信綱氏によれば「伝承の世界では、ある話型の枠内で人物のさしかえが自由に行われ、またその話の挿入される文脈も変わってゆくことがよくあるものだが、これはその代表的な一例と言える。その場合、何が正伝で何が訛伝であるかと決めようとかかるべきではない⑷」とのことですが、個人的にはやはり気になるところです。


 土橋寛氏は「出雲建が佩ける太刀」とある以上、一般的な独立歌謡と認めることは出来ないので、古事記に従って物語歌とみるか、書記のように時人の歌と見るほかはないが、それではこの歌をいかに解釈し、記紀何れを原伝とすべきであるかを分析し、古代社会の変化に伴う英雄観・人間観の変化に、仏教・儒教の論理が拍車をかけたであろうことは推測にかたくないとし、倭建の命の騙し討ちの物語と嘲笑の歌が、書記で出雲古根兄弟の物語、時人の同情の歌となっているのは、恐らく書記の新しい論理観に基づく改修であると考えて間違いあるまいと推察しました。⑸


 つまり土橋氏の説を取れば、『日本書紀』には後世的な要素が見られ、『古事記』が正伝であるということになります。仮に歌に関する解釈は置いておき、両説話を比較したとすると、『日本書紀』の方が史実が含まれていそうですが、歌に関しては『古事記』を基にして後から付け加えられたとすると、一寸ややこしいですね。


 本居宣長は『古事記伝』(二十七之巻)で両者の歌について「今 コレを比べて思ふに、末二句のさま、時人トキヒトのよめりとせる方 マサりて聞ゆ⑹」、つまり時人が詠んだという『日本書紀』の方が優れていると主張しましたが、土橋氏はこの様に判断した宣長の合理的精神は、合理的精神そのものによってではなく、集団の心意や古代的思惟に対する理解を欠いた合理的精神であることによって、歌の解釈と文献批判を誤ったものであると批判しました。⑺


 本エッセイでも共通の事を繰り返し述べてきましたが、宣長に限らず、時代背景を理解出来ていないと、古典等の解釈はどうしても現代人(研究者の生きる時代の)目線の合理的な解釈を行いがちですが、例え説話的な歌謡の解釈であったとしても、研究対象とする時代の人間の視点に立つ努力も必要であるということでしょうね。


*追記

 相磯貞三氏は記紀の所伝に基づくかかる考の根本に立ち戻って考察すれば、恐らく霊剣讃美の歌と考えるべきものであろうとし、黒蔦を沢山柄に纏きつけて堅固に作ったのみならず、鉄錆も出ないきれ味のよい刀剣だ、という讃美の歌と見るのが正しいのではあるまいかと論じています。⑻


 霊剣という事は、相磯氏としては草薙剣を想定なさっていたという事でしょうかね? 熱田神宮の草薙剣については過去に実物をみたという記録があり、玉木正英著の『玉籤集』の裏書には「八十年ばかり前、熱田神宮司社家四、五人と志を合せ、密々に御神体を窺ひ奉る。(中略)隠し火にて窺ひ来るに、御璽は長さ五尺ばかりの木の御箱也。其内に石の御箱あり、箱と箱との間を赤土にてよくつめたり、右の御箱内に樟木の丸木を箱の如く、内をくりて、内に黄金を延べ敷き、其上の御神体御鎮座也。石の御箱と樟木との間も赤土にてつめめり。御神体は長さ二尺七、八寸計り、刃先は菖蒲の葉なりして、中程はむくりと厚みあり、本の邦は寸ばかりは、筋立て魚などの脊髄の如し、色は、全体白しと云ふ。」

とあり、刃先は菖蒲のようであったとは両刃の剣を意味し、中程が厚くなっていたことは鎬造を示すものであり、本の方が魚の骨のようになっていた、ということは、銅剣だけに見られる形であり、鉄剣には全くなく、更に、色が白いということは白銅剣であることを示しているそうです。⑼


 又、熱田の『尾張連家口伝』によれば「御神体長さ一尺八寸程、両刃にして剣づくりとなり、鎬ありて横でなし、御柄は竹の筋の如く、五筋あり、区、深くくびれたり⑽」とあります。


 ⑼と⑽で長さが違うのが(弥生時代の一般的な銅剣の長さから想定すると恐らく後者の一尺八寸という長さの方が近い)気がかりですが、それはとにかくとして、材質は、『玉籤集』の樟木の箱の中に剣が収められていたということから、鉄剣ではなく、もし鉄剣の入った箱の中に樟脳を入れると、鉄剣はたちまち深錆になり、腐食してしまいます。

 「むくりと厚みがある」のは重ねの厚い銅剣や銅矛に見られるもので、鉄剣ならばその肉厚は薄くなります。更に、「魚の脊髄」「竹の節」のごとくという柄部というのは、中国春秋後期の洛陽市中州路出土の銅剣などに見られ、草薙剣が「有柄式銅剣」であることを示しており、このような有柄式銅剣は日本でもかなり発見されており、福岡県糸島郡三雲遺跡出土の銅剣などがあります。⑾


 つまり、草薙剣は切れ味が鉄剣に劣る銅剣である可能性が高いので、「鉄錆も出ないきれ味のよい刀剣」と解釈し、霊剣讃美歌と推定するには違和感を覚えざるを得ません。但し、草薙剣がご神体として秘され、ごく限られた確認例しかない事から、本歌作成者が草薙剣の実態を知らずに詠んだ可能性も否定できず、寧ろその可能性の方が高いと言えます。


・弥生時代の銅剣(撮影場所・江戸東京博物館)

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817330668735391403





◇参考文献

⑴『古事記新講 改修5版』次田潤 明治書院

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1920824/1/385


⑵『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/65


⑶『日本神話の形成』松前健 壇書房 201ページ


⑷『古事記注釈 六巻』西郷信綱 筑摩書房 57頁

「第二十七 景行天皇(続)三 出雲建を討つ」注:出雲建


⑸『古事記大成 二巻 文学篇』高木市之助・編 平凡社 282-285頁

所収「記紀歌謡の諸問題」土橋寛


⑹『古事記伝 : 校訂 坤 増訂版』本居宣長 吉川弘文館

「古事記伝二十七(景行)」注〇 佐味那志爾阿波禮サミナシアハレ

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041637/1/115


⑺土橋、前掲書 285頁


⑻『記紀歌謡全註解』相磯貞三 有精堂出版 91頁

「古事記歌謡篇 二四 倭建命の御歌」考説


⑼『日本古代史の考古学的検討』後藤守一 147-150頁

「三種の神器の考古学的検討」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041326/1/76


⑽『定本日本刀剣全史』川口陟 著 歴史図書社


⑾『古代刀と鉄の科学』 石井昌國・佐々木稔 雄山閣


◇関連稿

・出雲の国譲りは史実か?

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330647822297287

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