ヤマトタケルの幼名「ヲウス」の由来

 これまで「ヤマトタケル」について説明してきましたが、「ヲウス」という幼名、或いは本名に関しては触れていなかったため、順序的には逆な気もしますが、本稿ではこの名に関する解釈についても少し取り上げてみたいと思います。なお、本稿以降も暫くヤマトタケルの話が続く予定ですが、やや歴史学から離れて民俗学や文学、或いは神話学等の話が中心になるかと思います。エッセイの趣旨と離れそうな気もしますが、これらの分野はヤマトタケルという人物の解釈するには切り離せないものでありますし、記紀を通して古代史を学習するには歴史学以外の素養も必要であるとも感じており、遠回りの様でも何かと歴史学の理解の助けになることもあるかも知れないので、お付き合い頂ければと思います。



⑴『日本書紀』巻七景行天皇二年(壬申七二)二月 戊辰三日

二年春三月丙寅朔戊辰。立播磨稻日大郎姫〈一云。稻日稚郎姫。郎姫。此云異羅菟咩。〉爲皇后。后生二男。第一曰大碓皇子。第二曰小碓尊。〈一書云。皇后生三男。其弟三曰稚倭根子皇子。〉其大碓皇子。小碓尊。一日同胞而雙生。天皇異之。則誥於碓。故因號其二王曰大碓。小碓也。是小碓尊。亦名日本童男。〈童男。此云鳥具奈。〉亦曰日本武尊。幼有雄略之氣。及壯容貌魁偉。身長一丈。力能扛鼎焉。


(二年の春三月はるやよひの丙寅ひのえのとらのついたち戊辰つちのえたつのひ播磨はりま稻日大郎姫いなほのひのおほいらつめを立て、〈あるに云ふ、稻日稚郎姫。郎姫。此を異羅菟咩いらつめと云ふ。〉皇后きさきと爲す。きさきふたはしらのみこを生む。第一あに大碓おほうす皇子みこと曰ふ。第二つぎ小碓をうすのみことと曰ふ。〈一書あるふみに云ふ、皇后きさきみはしらのひこみこ生む。其のいろと三、稚倭根子わかやまとねこの皇子みこと曰ふ。〉其の大碓皇子。小碓尊。一日ひとひ同胞おなじえにして雙生ふたこにあれませり天皇すめらみこと異之あやしみて。則ち碓にたけひたまひき。故に因て其の二王ふたはしらのみこなづけて大碓、小碓と曰ふ。是の小碓尊は、亦名は日本童男やまとをぐな。〈童男。此を鳥具奈をぐなと云ふ。〉亦は日本武尊やまとたけのみことと曰ふ。わかくして雄略ををしきいき有り、をとこざかりに及て容貌魁偉みかほすぐれたたはし身長みたき一丈ひとつえみちからかなへげたまふ。)


◇解説

 景行天皇の第三子までの皇子達の説明で、長男の大碓皇子と小碓尊が同じ日に生まれた双子である事、景行天皇がいぶかしんで臼に向かって叫んだことにより大碓、小碓と名付けられた由来が語られています。


 文中の「誥於碓」の一節は昔から難解なものと見られ、江戸時代までの注釈書等では意味がハッキリとしていなかった様ですが、飯田武郷氏の『日本書紀通釈』以降、後世で言う民俗学的な解釈も行われる様になりました。同書によれば、粟田寛氏の説を引き「南方海島志に云。凡婦人懐孕の時。着帯することなし、産甚安し、産婆を聞かず。三宅島などは、臨産に自ら家の庭に下り、臼にとりつき産す、其外すべて他の力をからす。妊身の中は常よりあらき働きをなす、皆難産の患なしとあり。此事により考えるに。景行皇子小碓尊御兄弟の生まれ給へる時、碓に向て、雄誥すると云。其いはれある事を知るへし。と云へり、めづらかなる考なりと」⑵。つまり、伊豆三宅島では産婦が臼に取りつき出産をするという風習を挙げています。


 又、中山太郎氏の『信仰と民俗』(三笠書房)によれば、故郷の下野国足利郡の出産と臼に関する風俗として、妊婦が非常に難産で、半日も一日も胎児が娩出しないと、妊婦の良人である者が臼を背負って、家の周りを廻るということが必ず行われていたらしく、「誰さんのところの娘はエライ難産であった為に、お父さんが臼を背負って、三度も家の周りを廻ったが、それでも生まれなかった」などと言う話をよく聴かされたそうで、明治の初年までは行われていたのは確かであるそうです。⑶


 又、同書によればアイヌ研究者の金田一京助氏の有力な報告として、アイヌの老翁に聞いた話として、日高地方でお産が重いと、臼にイナウを飾って、産婦がそれへ腹を押しあててのしかかれば、直ぐに生まれるそうで、それでも生まれなかったら、杵を手に取って人々がその周りを廻るそうで、臼をニシユフチ(臼姥)杵をイユタニエカシ(杵翁)と呼びかけて、男女一対の神と為すそうです(もし又生児が死んで生まれると、箕に入れて振ると息を吹くという)。⑷


 後者は中山太郎氏によれば、出産と臼に関する結論を極めて簡単に言い表すと、「臼を女性に杵を男性と見て、古代民族の思想を知れば、それで万事が解決されるのである」とのことです。臼の俗信として、臼を女陰、杵を男根の象徴と考えていた我らの遠い祖先は、臼を神聖なものとして、種々の俗信を有していたと言います。⑸


 只、この場合、記紀の小碓や大碓が男性である事から、伝承の直接的な因果関係は無いのか、あるい、このアイヌの風習が景行天皇紀よりも古い風習であり、記紀が書かれた頃よりも古い時代から続いていたという事になるとすれば驚くべき事ですが、流石にその可能性は低そうです。


 他にも三州南設楽郡作手村辺りでは嫁が子を儲けて始めて実家へ来ると、先ずその子を臼の中へ入れて祝う習俗や⑹、長岡市地方では、妊婦が産に臨むと釜の蓋を残らず取る⑺等、臼に関する民俗例は多く存在します。


 現在でも注釈書類⑻によく引用される説を挙げると、金関丈夫氏は、難産のとき夫が臼を背負って家を廻る習俗を重要視し、景行天皇も臼を背負って家を廻ったが、一人生まれたがまだ終わらず、二人生まれるまで、重い臼を背負っていなければならなかったので、天皇は思わず臼にコン畜生と宣うたのだと解釈しました。


 金関氏の説は情景を想像してみると面白いですし、自分はやりたくないなと思いますが(笑)、事実としては如何なのかと疑問に思います。


 なお、西郷信綱氏は臼と難産にかけた説を疑い、地名説話と同じで大碓・小碓といった名が右のような説話を逆に生み出したと述べられています。⑼


 又、古代の説話にはくせものが多く、私たち学者は糞マジメでなくなる必要があるのではないか⑽と、如何にも西郷氏らしい西郷節(笑)とでも言うべき主張を披露しています。つまり、こう言った解釈はまともに取り合わずスルーしろとのことです。


 金関氏の説はとにかく、今まで見てきたように臼と杵に関わる民俗例は多数みられることから、西郷節の如くスルーしてよいのか疑問ではありますが、軽々に結びつけることは戒めるべきであることも、事実かも知れません。




◇参考文献

⑴『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/74


⑵『日本書紀通釈 第3 増補正訓』飯田武郷 日本書紀通釈刊行会

巻之三十 日本書紀巻第七 注〇誥於碓

https://dl.ndl.go.jp/pid/1115832/1/76


⑶『信仰と民俗』中山太郎 三笠書房

「5,安産の禁厭に臼と杵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1040027/1/24


⑷中山、前掲書

「5,安産の禁厭に臼と杵」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1040027/1/25


⑸『日本民俗学辞典 再版』中山太郎 昭和書房

「臼俗信」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1453383/1/114


⑹中山、前掲書

「臼と健康祝ひ」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1453383/1/114


⑺『日本民俗学辞典 補遺 再版』中山太郎 昭和書房

「出産と臼」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1453354/1/50


⑻『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

61頁 注9

『日本書紀(上)』監訳者・井上光貞 訳者・川副武胤 佐伯有清 笹山晴生 中公文庫 注⑴

『原本現代訳 日本書紀〈上〉』山田 宗睦・訳 教育社新書


⑼『古事記注釈 六巻』西郷信綱 ちくま学術文庫

19頁 第二十六 景行天皇「大碓命、小碓命」


⑽『古事記研究』西郷信綱 未来社

235-236頁 ヤマトタケルの物語「一 兄をつかみ殺した話」

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