ヤマトタケル関連の歌② 人身御供の儀式とオトタチバナヒメの歌

⑴『古事記』中巻 景行天皇

自其入幸。渡走水海之時。其渡神興浪。廻船不得進渡。爾其后名弟橘比賣命白之。妾易御子而入海中。御子者。所遣之政遂応覆奏。将入海時。以菅畳八重。皮畳八重。絁畳八重。敷于波上而。下坐其上。於是。其暴浪自伏。御船得進。爾其后歌曰。


 佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒迩 毛由流肥能

 本那迦迩多知弖 斗比斯岐美波母


故七日之後。其后御櫛依于海邊。乃取其櫛。作御陵而治置也。


(それより入りでまして走水はしりみずの海をわたります時。其の渡の神浪をてて。みふねたゆたひてすすみ渡りまさず。ここに其のきさきみなおとたちばな比賣ひめまをしたまはく、「あれ御子みこかはりて海中うみりなむ。御子は所遣之まけのまつりごとげてかへりごとまをしたまふべし」とまをして、海に入りまさむとする時に、すがだたみ八重やへかはだたみ八重やへきぬだたみ八重やへを波のうへきて、其のうへしき。於是ここに其の暴浪あらなみおのづかぎてふねすすみき。かれ其の后 うたはせるみうたに


 さねさし 相模さがむ小野をのに 燃ゆる火の

 火中ほなかに立ちて 問ひし君はも


かれ七日なぬかありてのちに、其の后のくし海邊うみべたりたりき。乃ち其のみくしを取りてはかを作りてをさめ置きき。)



⑵『三国史』巻三十・魏書三十・烏丸鮮卑東夷伝 倭人

其行來渡海詣中國、恒使一人不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰、若行者吉善、共顧其生口財物、若有疾病遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹


(其の行來こうらい海を渡りて中國に詣るとき、つねに一人して頭 くしげらず、しつさらず、衣服 こうし肉を食さず、婦人に近かずかず、喪人のごとくす。これをなづけて持衰と爲す、し行く者吉善なるときは、共に其の生口せいこう財物をかへりみる、若し疾病しっぺい有り暴害に遭ふときは、便すなわち殺さんと欲し、謂ち其の持衰の謹めとす)


*蟣蝨……虱

*暴害……暴風雨


◇解説

〇人身御供の儀式

 ⑴はヤマトタケル達が走水の海を渡航している時、渡の神が暴風を起こし、海難にあった為、オトタチバナヒメ(『日本書紀』によれば穂積氏忍山宿禰の女)が入水し、ヤマトタケルが難を逃れたという悲劇的な説話ですが、次田潤氏によれば神武天皇の東征の時、熊野浦の難に御毛沼命と稲氷命が海に入水した物語を取り上げ、彼も是も地理的に考慮すれば風波の荒い所で、(大正時代に至っても)往々船舶の遭難を見る所であるから、事実上そういう遭難があった事と思われるが、これを宗教思想の上から考えると、上古に広く行われた人身御供の片影であるように思われると主張し、海上の荒れるのは海神の祟りであると考え、美人や重宝の如きものを献って神の心を慰める時は、その難を免れることが出来るという迷信は、遥か後世にまでも存在していた。是から考えると、オトタチバナヒメが入水した物語には、上に行われた人身御供の伝説が反映しているものとしてみてよいとの事です。⑶


 古代の社会において、実際に渡航の際に人身御供の儀式が行われていたらしいことは『魏志倭人伝』にもみられ、⑵の記事では持衰じさいという役割を行う人物について触れられています。倭国から遣いが中国へ渡航する時は、いつも一人選んで、その人の髪を梳かさず、虱も取らず、衣服も洗わず汚れたままにしておき、肉も食わず、女を近づけないで、人を葬る時の様にさせ、これを持衰といい、もし無事に渡航が行われれば、持衰する人物に奴婢や金品を与え、もし途中に使節が病気になったり暴風雨にあったりした時は、持衰の仕方が不謹慎だったと言って殺そうとしたとあります。


 ⑵の条は倭人伝中最も難解と言われており、殆どの注釈書類では詳細な解釈が見られませんが、中山太郎氏⑷によれば、古き我が国の「御贖」の思想を辿って往けば自然と解決し得るとのことです。御贖とは、祓の一種であり、己の罪なり、科なりを、他のものに負わせて、払い浄める方法であり、諾尊の禊祓いは、禊と、祓いの結合ですが、その祓いとは、身に附けた服具に汚れを負わせて目的を達する事であり、それから素戔嗚尊は、千座の置戸を責められたことが記紀にあります。


 例証としては天武紀十年秋七月戊辰朔の条に「令天下悉大解除。當此時。国造等。各出祓柱奴婢一口而解除焉。(天下に令め、悉く大解除おほはらへせしむ、此の時にあたり、国造くにのみやつこ等、おのおの祓柱はらへつもの奴婢一口を出し解除はらへす。)」⑸とあり、これは飯田武郷の『日本書紀通釈』によれば「(前略)国造の祓柱に奴婢を出さしむるは、いと古代の事なり。されどこれは尋常の解除の時に出せるにあらて、天皇の御上、また国家に事ある時の事と見えたれば、此時の大解除も、臨時に奴婢を出さしめて、天皇の御贖とはなし給へりける云々」⑹とあり、この註解を読み返して、倭人伝の記事を対照すれば、持衰と名づけられた者が、御贖者であることは了解されると中山氏は述べています。⑺


 持衰とオトタチバナヒメが入水した時の様子が全く違うことと、そもそも持衰が「不近婦人」とあるように男性が行っていたことが明確な事から、共通の儀式が行われていたということではないのでしょうが、上代人が渡航の際の迷信で、荒波の起きた場合に人身御供の儀式が行われていた可能性は高いのかと思います。



〇オトタチバナヒメの歌

 ⑴の歌の「さねさし」は「相模」の枕詞で、「相模の小野に」以下第四句まで、相模国で国造にはかられて野に誘い込まれて火をつけられましたが、叔母のやまと比売ひめのみことがあたえた草なぎの剣で草を刈り払い、火打ちで向か火をつけて難を逃れたことを歌うものですが、問題は結句の「問ひし君はも」であり、これについて『古事記伝』では「斗比斯岐美波母トヒシキミハモは、問ひし君はもなり、此は二ツに心得らる、一ツにはトヒし君なり、二ツには吾を問いし君なり、初ノの意は、トヒ妻問ツマドヒなど云フトヒにて、夫婦メツの間のカタラひを云て、さばかりの艱難タシナミに中まで、離れずアヒタヅサハりて交ひし君と云なり、(中略)後の意は、彼ノ難の時に、ミコの此の比賣のウヘを、心もとなく所念オモホシて、如何イカニと問ヒ給ひし事ありけむ。さばかりトミの事の中にも、ワスれず問ヒ賜ひし御情ミココロを深くあはれと、思ひしめて、如此カクウタヒ給へるなり、⑻」と二通りの解釈の可能性を示しています。


 簡単にいえば、ひとつには「わたし(弟橘比賣)が、野火の難の時のような困難のなかでも離れず一緒にいて、夫婦として語らった君」と解され、もうひとつには、「あの野火の危急のなかでも、わたしを気にかけてどうであったかと問うてくださった君」の意とも考えられると言い、本居宣長は「右二ツのうち、後の意は今 スコしあはれも深く、穏當オダヤカに聞ゆめりされど又古意なることは、初ノ方今少しマサれり⑼」つまり、後者の意の方が、より感動が深く、穏当に思われるとしながらも、古い意味では前者の意の方が勝っていると主張しています。神野志隆光氏によれば、現在の注釈では、後者をとるのが大勢とのことですが、「問う」は「如何にと問う」というのではなく、呼びかける意に解するそうです。⑽


 又、「ハモ」については本居宣長は「さてトヂメにかく波母ハモと云は、歎息ナゲキの辞にて、波夜ハヤと云と似ていささかコトなり、【波夜ハヤの事は、次なる阿豆麻波夜アヅマハヤの下に云べし、】波母ハモは、恋慕コヒシタひて、いづらとタヅネモトむる意ある辞なり、⑾」と、「アヅマ」と見合わせることを求めています。


 「阿豆麻波夜アヅマハヤ」とは『古事記』では次の段で登場する言葉で、ヤマトタケルが悉く荒ぶる蝦夷・荒ぶる神を平定後、帰還時に足柄の坂本(『日本書紀』では碓氷峠と伝える)に到着した際、白い鹿の姿に化した坂の神があらわれたのでこれを打ち殺した後、坂に登り立ち、三度「阿豆麻波夜アヅマハヤ」と嘆き、その国を「アヅマ」という地名由来譚を伝えます。


 この「アヅマハヤ」の「ハヤ」について、『古事記伝』によれば「波夜ハヤは、其ノ物を思ひて、深く歎息ナゲク辞なり(中略)波母ハモと似て、波母ハモよりもオモく聞ゆ⑿」とのことです。


 ⑾⑿はつまり、「ハヤ」と「ハモ」は共に嘆きの言葉であるけれど、似て些か異なり、「ハモ」はなお求める心があって、「ハヤ」はより深い嘆きの言葉であるということらしく、ヤマトタケルからすれば、入水したオトタチバナヒメはもう二度と帰って来ないので、より嘆きの深い「ハヤ」の言葉で語尾を締め括らせているという事でしょうか。


 このオトタチバナヒメの歌について、西郷信綱氏は「物語からきりはなし一本立ちの歌として見ると、これは恐らく春の野焼きを背景にした農村の恋歌で、従って「問ひし君はも」は、安否を気遣うのではなく、私に言い寄ったあなたよ、という意味になるはずである。「おもしろき野をばな焼きそ古草に新草まじり生ひば生ふるがに」(万葉集、東歌)「春日野は今日はな焼きそ若草の妻もこもれり我もこもれり」(古今集)などの例からも察せられるように、初春の野は男女合歓の場所であったらしい」と、独立した歌である場合の解釈を示しながらも、「この歌をとかぎらず、古事記の歌をたんなる民謡の次元にさしもどすだけでは、一向にらちがあかない。国風としての民謡が宮廷に保有されていたのは確かだけれど、それらがどのように物語を生み出したり、物語がくっついているかを見ないならば、古事記を読んだ事になるまい。古事記の単位は歌ではなく物語である。この歌にしても、前述したような物語的場面に挿入され、独特の地をもつことによって、一本立ちの民謡とは異なる、もっと新しい、そして豊かなイメージを開いていると思う」と、物語と歌を切り離して解釈することを批判しました。⒀


 つまり、古事記の一本立ちの歌謡(土橋寛氏はこれを「独立歌謡」と称しました)とみるか、物語と一体とみるかで大きく解釈が別れるようです。戦後は歌謡を物語から切り離して解釈する研究が多くみられる様になり、ヤマトタケル関連の歌でいえば「思國歌」も独立歌謡として解釈される場合があり、これについても西郷氏が批判なさっていますが、詳細は後日投稿予定の「思國歌」で取り上げます。

 




◇参考文献

⑴『古事記新講 改修5版』次田潤 明治書院

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1920824/1/386


⑵『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料 3版』太田亮 編 磯部甲陽堂

https://dl.ndl.go.jp/pid/1917919/1/29


⑶次田、前掲書

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1920824/1/216


⑷『日本民俗学 歴史篇』中山太郎 大岡山書店

https://dl.ndl.go.jp/pid/1466424/1/24


⑸『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/269


⑹『日本書紀通釈 第5 増補正訓』飯田武郷 著 日本書紀通釈刊行会

日本書紀通釈巻之六十七 注〇 奴婢一口

https://dl.ndl.go.jp/pid/1115865/1/310


⑺中山、前掲書

https://dl.ndl.go.jp/pid/1466424/1/25


⑻『古事記伝 : 校訂 坤 増訂版』本居宣長 著 吉川弘文館

「古事記伝二十七(景行)」注〇 斗比斯岐美波母トヒシキミハモ

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041637/1/127


⑼本居、前掲書、前注

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041637/1/127


⑽『本居宣長『古事記伝』を読む Ⅲ』神野志隆光 講談社選書メチエ 168頁

『古事記伝』二十七之巻・日代宮二之巻―倭建命の西征東征


⑾本居、前掲書、前注

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041637/1/127


⑿本居、前掲書、注〇 阿豆麻波夜アヅマハヤ

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041637/1/131


⒀『古事記研究』西郷信綱 未来社 252頁

「ヤマトタケルの物語」

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