出雲の国譲りは史実か?

 津田左右吉の「神代史の研究法」という論文の結論を極々簡単に言えば、「神は神であって人ではなく、神代は神代であって人の代ではない」言い換えれば、神話として描かれた内容から何らかの史実を求めるのは間違えで、神話は神話に過ぎないという事です。これは皇国史観への反発も相まって、戦後の記紀批判では主流となる考え方となりました。


 創作も行っているのに夢の無い人だと思われそうですが、基本的には私もその考え方に賛同しており、例えば天照大神を卑弥呼に当てて、実在した人物とし、天岩戸隠れを、当時実際に日蝕があった事から卑弥呼の死と関連付け、卑弥呼が殺されたなどという説は、フレーザーの『金枝篇』でネミの祭祀が殺された逸話、或いは柳田國男の『一つ目小僧その他』等の影響を受けたものと思われますが、日本で同じ様な習慣があった事は証明できず、ミステリー小説の如き説なので信用できないと思っています。


 日ユ道祖論や騎馬民族説など、日本神話と外国の神話の共通点から日本人や天皇家のルーツを解き明かそうとする手法や、韓国では自国の神話との共通点のみ都合よく取り上げ、日本神話や文化の起源が韓国であるかのように解釈する滑稽な手法(彼らの高いところから低いところへ水が流れるけどその逆は無いと言う考え方は良く知られております)も存在しましたが、そもそも日本神話が中国や朝鮮のみならず、東南アジアや、遠く離れたギリシアやウガリット、果てはアイルランドのケルト神話との類似性まで見られ、これ程多国籍の神話から影響を受けている日本神話において、史実性を認めるのは非常に困難であると言わざるを得ません。


 それでも全く日本神話が事実を伝えていないのかというと、そうとも言い切れず、例えば出雲の国譲りの神話は、神話の出来事としてのみ片づけられず、大和王権に対する出雲勢力の服従と解されています。 


 勿論神話的内容の中身それ自体は史実を伝えているとは思えませんが、人代以降、出雲の国譲りと共通した話が伝わっています。以下に出雲国譲りの記事と、人代で出雲が大和王権に服属した伝承を取り上げてみます。



◇タケミカヅチに置き換えられたフツヌシの神話

⑴『古事記』上巻 神代下 (伝十四)

於是。天照大御神詔之。亦遣曷神者吉。爾思金神及諸神白之坐天安河河上之天石屋。名伊都之尾羽張神。是可遣。【伊都二字以音】若亦非此神者其神之子建御雷之男神。此應遣。且其天尾羽張神者。逆塞上天安河之水而塞道居故。他神不得行。故別遣。天迦久神可問。故爾使天迦久神問天尾羽張神之時。答白。恐之。仕奉。然於此道者。僕子建御雷神可遣。乃貢進。爾天鳥船神副建御雷神而遣。是以此二神降到出雲國伊那佐之小濱而。【伊那佐三字以音】拔十掬劒。逆刺立于浪穗。趺坐其劒前。問其大國主神言。天照大御神。高木神之命以。問使之。汝之宇志波祁流【此五字以音】葦原中國者。我御子之所知國言依賜故汝心奈何爾答白之。僕者不得白。我子八重言代主神。是可白。然爲鳥遊取魚而。往御大之前未還來。故爾遣天鳥船神徵來八重事代主神而。問賜之時語其父大神言恐之此國者立奉天神之御子卽蹈傾其船而。天逆手矣於青柴垣打成而。隱也【訓柴云布斯】故爾問其大國主神。今汝子事代主神。如此白訖。亦有可白子乎。於是亦白之。亦我子有建御名方神。除此者無也。如此白之間。其建御名方神千引石擎手末而來言。誰來我國而。忍忍如此物言。然欲爲力競。故我先欲取其御手。故令取其御手者。卽取成立氷。亦取成劒刄。故爾懼而退居。爾欲取其建御名方神之手。乞歸而取者如取若葦。搤批而投離者。卽逃去。故追往而迫到科野國之州羽海。將殺時。建御名方神白。恐。莫殺我。除此地者不行他處。亦不違我父大國主神之命。不違八重事代主神。之言此葦原中國者隨天神御子之命獻。故更且還來問其大國主神。汝子等事代主神。建御名方神二神者。隨天神御子之命勿違白訖故汝心奈何。爾答白之。僕子等二神。隨白僕之不違。此葦原中國者。隨命既獻也。唯僕住所者。如天神御子之天津日繼所知之。登陀流【此三字以音下效此】天之御巢而。於底津石根宮柱布斗斯理。【此四字以音】於高天原氷木多迦斯理【多迦斯理四字以音】而治賜者。僕者於百不足八十坰手隱而侍。亦僕子等百八十神者。卽八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者。違神者非也。如此之白而。於出雲國之多藝志之小濱。造天之御舍【多藝志三字以音】而。(中略)

故建御雷神返參上。復奏言向和平葦原中國之狀。


(ここに。天照大御神ののりたまはく。「また曷神だれのかみを遣はしてけむ」。かれ思金神おもひかね及び諸神もろもろのかみたちまうししく、「天の安の河の河上の天石屋にす、名は伊都之尾羽張神いつのおはばりのかみ。これ遣はすべし。もし、またこの神ならずは、其の神の子 建御雷之男神たけみかづちのおのかみ。これを遣はすべし。また其の天尾羽張神あめのおはばりのかみは、天の安の河の水を逆に塞き上げて、道を塞き居れば、他神あだしかみは得行かじ。かれこと天迦久神あめのかくのかみ遣はして問ふべし」とまをしき。


かれここに天迦久神を使はして、天尾羽張神に問ひし時に、「かしこし、仕へまつらむ。然れどもこの道には、僕が子建御雷神を遣はすべし」ちまをして、乃ち貢進たてまつりき。かれ天鳥船神あめのとりふねのかみを建御雷神にそへて遣はしき。これを以ちてこの二神ふたはしらのかみ、出雲の國の伊那佐の小濱に降りつきて、十掬劒とつかのつるぎを拔きて、浪の穗を逆てまに刺し立てて。其の劒のさきあぐみ坐て、其の大國主神に問ひたまひしく、「天照大御神。高木神の命もちて。ともに使せり。汝がうしはける葦原中國は、我が御子の知さむ國と言よさし賜へり。かれ汝が心 奈何いかに」と問ひたまひしかば、答へ白ししく、「は得白さじ、我が子八重言代主神白すべきを、鳥の遊漁あそびすなどりしに、御大みほさききて、いまだ還り來ず」とまをしき。故ここに天鳥船神を遣はして、八重事代主神をし來て、問ひ賜ひし時に、其の父の大神に、「恐し、この國は天つ神の御子に立奉たてまつりたまへ」と言ひて、卽ち其の船をみ傾けて、天逆手あまのさかで青柴垣あをふしがきに打ち成して、隱りましき。【柴を訓みて布斯ふしと云ふ】


かれここに其の大國主神に問ひたまひしく、「今汝が子事代主神。かくまうしぬ。また白すき子ありや」と問ひ給ひき。ここにまた白ししく、「また我が子 建御名方神たけみなかたのかみあり。これを除きては無し」。かく白し給ふをりしも、其の建御名方神、千引石ちびきいは手末たなすゑに擎げて來て、「誰そ我が國に來て、忍び忍びかく物言ふ。然らば力競ちからくらべせむ。かれ我先其の御手を取らむ」と言ひき。かれ其の御手を取らむれば、卽ち立氷たちびに取り成し、また劒刄つりぎに取り成し。かれおそれて退き居り。ここに其の建御名方神の手を取らむと乞ひわたして取れば、若葦を取るがごとつかひしぎて、投げはなちたまひしかば、卽ち逃げにき。かれ追ひ往きて、科野國しなぬのくに州羽すはの海にいたりて、殺さむとしたまふ時に建御名方神白く、「かしこし。我をな殺したまひそ。この地を除きてはあだところに行かじ。また我が父大國主神の命に違はじ。八重事代主神の言に違はじ。この葦原中つ國は、天つ神の御子の命のまにま獻らむ」とまをしたまひき。


かれ更にまた還り來て、其の大國主神に問ひたまひしく、「汝が子ども事代主神。建御名方神の二神ふたはしらは、天つ神の御子の命のまにまに違はじと白しぬ。かれ汝が心 奈何いかに」ぞとひたまひき。ここに答へまをししく、「僕が子ども二神の白せるまにまに、僕も違はじ。この葦原中國はみことまにま既に獻らむ。唯僕が住所すみかをば、天つ神の御子の天津日繼あまつひつぎ知ろしめさむ、富足とだ天之御巢あまのみすなして、底津石根そこついはね宮柱みやばしらふとりし、高天原に氷木高りして治めたまはば、僕は百足ももたらず八十坰手やそくまでに隱りてさもらひなむ。また僕が子ども百八十神ももやそがみは卽ち八重事代主神を御尾前みをさきとして仕へまつらば。違ふ神はあらじ」と、かく白して出雲國の多藝志たぎし小濱をばまに、天の御舍みあをかを造りて、(中略)

建御雷神たけみかずちのかみかへまゐのぼりて、葦原あしはらの中つ國を言向ことむやはしぬるさまをまをしたまひき。)


⑴解説

 彼の有名な出雲の国譲りの神話です。説明不用かと思われるので大まかに説明すると、アマテラスの意志を受けて、タケミカヅチがアメノトリフネをそへて遣わされ、オオクニヌシに国譲りを迫り、オオクニヌシの二人の子の意志を確かめると、コトシロヌシは従いましたが、タケミナカタはこれを拒否し、タケミカヅチと力比べをしたところ、タケミカヅチの両手が氷柱となり、剣となって御名方神の両手を斬ると、これに恐れたタケミナカタは信濃(長野県)へ逃走し、諏訪に追い詰められ殺されそうになったところで降伏し、信濃から出ない事とオオクニヌシやコトシロヌシの命に背かず、天津神の御子に葦原中国(地上)を献上すると約束させます。


 タケミカヅチはこの事を大国主に伝えると、オオクニヌシは葦原中国を譲る代わりに天津神の御子と同じくらい立派な宮を造ってくれるように頼み、出雲国の多芸志の小浜に天の御殿を建立したという筋です。


 天の御殿は出雲大社と解されており、神話を裏付けるように「心御柱しんのみはしら」や「宇豆柱うずばしら」と呼ばれる鎌倉時代に遡る巨大な柱の跡が見つかっています。


 この様に『古事記』では大活躍のタケミカヅチですが、実は本来の伝承ではタケミカヅチは存在しなかったのではないかと思われる痕跡が『日本書紀』や『出雲国風土記』から見えてきます。


 続いて『日本書紀』の出雲の国譲りはどの様な内容なのか見ていきます。


(なお、タケミナカタに関してはオオクニヌシの子では無く無関係であり、諏訪から出てはいけない神であることを大和朝廷が利用し、オオクニヌシの系譜に組み込まれてしまったという松前健氏の説や、『伊勢国風土記』逸文のイセツヒコの話と似ている事からイセツヒコと同神とする仮説もあるらしいですが、歴史学とは離れてしまうので本稿では説明を省略します。)




⑵『日本書紀』巻二神代下第九段本文

天照太神之子。正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊。娶高皇産靈尊之女栲幡千千姫。生天津彦彦火瓊瓊杵尊。故皇祖高皇産靈尊。特鍾憐愛以崇養焉。遂欲立皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊以爲葦原中國之主。然彼地多有螢火光神及蝿聲邪神。復有草木咸能言語。故高皇産靈尊召集八十諸神。(中略)

是後、高皇産靈尊更會諸神選當遣於葦原中國者。僉曰。磐裂〈磐裂。此云以簸娑窶。〉根裂神之子。磐筒男磐筒女所生之子經津〈經津。此云賦都。〉主神、是將佳也。時有天石窟所住神稜威雄走神之子甕速日神。甕速日神之子熯速日神。熯速日神之子武甕槌神。此神進曰。豈唯經津主神獨爲丈夫而吾非丈夫者哉。其辭氣慷慨。故以即配經津主神、令平葦原中國。二神於是降到出雲國五十田狹之小汀。則拔十握劔。倒植於地。踞其鋒端而問大己貴神曰。高皇産靈尊欲降皇孫君臨此地。故先遣我二神駈除平定。汝意何如。當須避不。時大己貴神對曰。當問我子然後將報。是時其子事代主神遊行在於出雲國三穗〈三穗。此云美保。〉之碕。以釣魚爲樂。或曰。遊鳥爲樂。故以熊野諸手船〈亦名天鴿船。〉載使者稻背脛遣之。而致高皇産靈尊勅於事代主神。且問將報之辭。時事代主神謂使者曰。今天神有此借問之勅。我父宜當奉避。吾亦不可違。因於海中造八重蒼柴籬。〈柴。此云府璽。〉蹈船枻〈船枻。此云浮那能倍。〉而避之。使者既還報命。故大己貴神則以其子之辭白於二神曰。我怙之子既避去矣。故吾亦當避。如吾防禦者。國内諸神必當同禦。今我奉避。誰復敢有不順者。乃以平國時所杖之廣矛。授二神曰。吾以此矛卒有治功。天孫若用此矛治國者。必當平安。今我當於百不足之八十隅將隱去矣。〈隅。此云矩磨泥。〉言訖遂隱。於是、二神誅諸不順鬼神等〈一云。二神遂誅邪神及草木石類。皆已平了。其所不服者。唯星神香香背男耳。故加遣倭文神。建葉槌命者則服。故二神登天也。倭文神。此云斯圖梨俄未。〉果以復命。



天照太神あまてらすおほみかみみこ正哉吾勝勝速日まさかあかつかちはやひ天忍穗耳尊あまのをしほみみのみこと高皇産靈尊たかみむすびのみことむすめ栲幡千千姫たくはたちちひめりて、天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこのほににきのみことれます。皇祖みおや高皇産靈尊、こと憐愛めぐしこおもすみこころきて以てかたひたしたまふ。皇孫すめみま天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて以て葦原中國のきみんとおほす。然もくにさは螢火ほたるひかかやく神及び蝿聲さはへなしき神あり、た草木 咸能みなよ言語ものいふこと有り。れ高皇産靈尊 八十諸神やそもろかみたちを召しつどへて。(中略)


是の後に、高皇産靈尊更に諸神もろかんたちつどへて、まさ葦原中國あしはらなかつこくに遣はずべきひとを選びたまふ。僉曰みなもうさく。「磐裂いはさく〈磐裂。此をば簸娑窶イハサクと云ふ。〉根裂神ねさくのかみの子、磐筒男磐筒女いはつつをいはつつめれませるみこ經津ふつ〈經津。此をば賦都フツと云ふ。〉主神ぬしかみ、是れけん」。時に天石窟あまのいはやに住む神、稜威雄走いつつをばしりの神のみこ 甕速日神みかはやひのかみ、甕速日神の子熯速日神みこひはやひのかみ、熯速日神の子武甕槌神みこたけみかづちのかみ。此の神進みてまうさく。「豈唯あにただ經津主神ふつぬしのかみのみひと丈夫ますらをにして、やつがれ丈夫ますらをにあらざらんや」。其のことば氣慷慨いきざしはげし。故れ以て即ち經津主神ふつぬしのかみへて、葦原中國をむ。


二神ふたはしらのかみ是に出雲國の五十田狹いたさ小汀をばま降到あまくだりまして、則ち十握とつか劔を拔きて、さかしまに地につきたてて、其の鋒端さきしりうたげて、大己貴神おほあなむちのかみに問ひてのたまはく、「高皇産靈尊たかみむすびのみこと皇孫すめみまくだしまつりて此のくに君臨きみとしたまはんとおほす、故れ先づ我二神われふたはしらのかみつかはして駈除はら平定けしむ、いまし意何如こころいかん、避りまつらんやいなや」といふ。時に大己貴神對へてまうさく。「まさに我が子に問ひて、然して後にかへりことまうさん」。是の時に其の子事代主神ことしろぬしのかみ遊行きて出雲國の三穗みほ〈三穗。此をば美保みほと云ふ。〉のさきいます、釣魚つりするを以てわざと爲す。あるに曰く。遊鳥とりあそびわざと爲す。故れ熊野諸手船くまぬのもろたふね〈亦の名は天鴿船あまのはとふね。〉を以て使者つかひ稻背脛いなせはぎせて遣はして、高皇産靈尊たかみむすびのみことみことのり事代主神ことしろぬしのかみいたし、かつかへりことまうさんことばを問ふ。時に事代主神ことしろぬしのかみ使者つかひかたりていはく。「今 天神あまつかみ此の借問とひたまふみことのり有り、我がかぞ宜しくまつるべし、吾れ亦 たがひまつらじ」。因て海の中に八重蒼柴籬やへあをふしがきを造りて、〈柴、此をば府璽ふしと云ふ。〉船枻ふなのへを蹈んで〈船枻、此をば浮那能倍ふなのへと云ふ。〉避りぬ。使者つかひ既に還りて報命かへりことまうす。故れ大己貴神おほあなむちのかみ則ち其の子のまうすことを以て二神ふたはしらのかみまうしてのたまはく。「我がたのめし子だにも既に避去りまつりぬ、故れれ亦避りまつるべし、し吾れ防禦ほせがましかば、國の内の諸神もろかんたち必ずまさに同じくほせぎてん、今我れ避りまつる、たれた敢てまつろはぬ者あらん」といひて、乃ち平國くにむけし時にけりし廣矛ひろほこを以て、二神ふたはしらのかみに授け奉りてのたまはく、「吾れ此の矛を以てつひ治功なせることあり、天孫あめみまし此の矛を用て國を治めたまはば、必ず平安さきくましまさん、今我れまさ百不足ももたらず八十隅やそくまで隱去かくれなん」。〈くまで。此をば矩磨泥クマデと云ふ。〉言ひおはりて遂に隱れましぬ。是に二神ふたはしらのかみもろもろまつろはぬ鬼神等かんたちつみなひて、〈一に云ふ、二神遂に邪神あしきかみ及び草木くさきいはたぐひの誅ひて、皆已に平けぬ。其のうべなはぬ者、唯星ただほしの神 香香背男かかせをのみ。故れまた倭文神しづりかみ建葉槌命たけはつちのみことを遣はせば、則ちうべなひぬ。二神ふたはしらのかみあめに登る。倭文神しづりかみ、此をば斯圖梨俄未シヅリカミと云ふ。〉つひに以て復命かへりことまうす。)


⑵解説

 フツヌシの神が出雲平定の遣いに選ばれると、タケミカヅチの神がこれに不平を言ったので、フツヌシに伴いタケミカヅチも出雲の平定に向かった。この二神が剣の上に座り威圧をしながらオホアナムチに天神の意志を伝えると、子のコトシロヌシと相談するとコトシロヌシはこれに従い退去し、父にも従う様に言うと、オオアナムチも従い、国を平定した時に使った広矛を二神に授け、自分も隠れた。


 その後、二神は従わぬ鬼神などを殺し、平定したが、星の神カカセオのみ従わなかったので、倭文神しづりかみのタケハツチノミコトを遣わし、服従させると二神は天に昇り帰って行ったという神話です。


 『日本書紀』では主神はフツヌシで副えて遣わされたのはタケミカヅチですが、『古事記』では出雲国平定の主神はタケミカヅチでアメノトリフネを副えて遣わされ、フツヌシの名前は無く、『日本書紀』には載っていないタケミナカタとの力比べの話があることは、物部氏の氏神であったフツヌシの神話が物部氏の衰退と中臣氏の成長により、中臣氏の氏神となったタケミカヅチの話に置き換えられていったものであると推測されます。本来は⑵の様にフツヌシが主体の神話であったかと思われ、『古事記』よりも『日本書紀』の方がより古い話を伝えているのかと思います。


 後程取り上げますが、『出雲国風土記』には複数のフツヌシの説話が登場するにも拘らず、タケミカヅチに関しては影も形も見えない(それどころか御膝元の地史である『常陸国風土記』ですら登場しない)事から、タケミカヅチに関する神話は後世に挿入された話である可能性が高いと言えます。


 なお、この話ではオホアナムチが国の平定に使用したという広矛(『古事記』の倭建命が東国平定の際、天皇より授けられた比比羅木之八尋矛ヒヒラギノヤヒロホコと関係あるという説もあります。)を二神に授けていますが、これが人代に登場する出雲国の神宝とも関りがあったのかも知れません。


 私事ですが2012年11月24日に東京国立博物館の特別展「出雲―聖地の至宝―」に行き、荒神谷遺跡出土の銅矛の実物を見ましたが、67.5センチ~81.4センチという巨大な広形銅矛はそれだけでも威容を誇り、これが作成された当時であれば青銅は光り輝き、特に古代人にとっては太陽を喚起させ、まさしく神宝と呼ぶのに相応しいものであったのではないかと想像できます。


以下、東京国立博物館で撮影した広形銅矛の画像。

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817330650238541883


 一般的に神宝の授与は服属を意味し、出雲が大和に服属した話に他なりません。この記事自体は神話に過ぎないとしても、出雲国の神宝に物部氏が関わった記事が人代において登場します。



◇人代の出雲国の服従譚


⑶『日本書紀』巻五崇神天皇六〇年(癸未前三八)七月 己酉十四日

六十年秋七月丙申朔己酉。詔群臣曰。武日照命。〈一云。武夷鳥。又云。天夷鳥。〉從天將來神寶。藏于出雲大神宮。是欲見焉。則遣矢田部造遠祖武諸隅〈一書云。一名大母隅也。〉而使獻。當是時。出雲臣之遠祖出雲振根主于神寶。是徃筑紫國而不遇矣。其弟飯入根則被皇命。以神寶付弟甘美韓日狹與子鸕濡渟而貢上。既而出雲振根從筑紫還來之。聞神寶獻于朝廷。責其弟飯入根曰。數日當待。何恐之乎。輙許神寶。是以既經年月。猶懷恨忿有殺弟之志。仍欺弟曰。頃者於止屋淵多生菨。願共行欲見。則隨兄而往之。先是。兄竊作木刀。形似眞刀。當時自佩之。弟佩眞刀。共到淵頭。兄謂弟曰。淵水清冷。願欲共游沐。弟從兄言。各解佩刀置淵邊。沐於水中。乃兄先上陸。取弟眞刀自佩。後弟驚而取兄木刀。共相撃矣。弟不得拔木刀。兄撃弟飯入根而殺之。故時人歌之曰。椰勾毛多菟。伊頭毛多鷄流餓波鷄流多知。菟頭邏佐波磨枳。佐微那辭珥。阿波禮。於是甘美韓日狹。鸕濡渟。參向朝廷曲奏其状。則遣吉備津彦與武渟河別。以誅出雲振根。故出雲臣等畏是事。不祭大神而有間。時丹波氷上人。名氷香戸邊。啓于皇太子活目尊曰。己子有小兒。而自然言之。玉菨鎭石。出雲人祭。眞種之甘美鏡。押羽振。甘美御神底寶御寶主。山河之水泳御魂。靜挂甘美御神底寶御寶主也。〈 菨。此云毛。〉是非似小兒之言。若有託言乎。於是。皇太子奏于天皇。則勅之使祭。


(六十年 秋七月あきふみづきの丙申ひのえのさるのついたち己酉つちのとのとりのひ群臣まへつきみたちみことのりして曰く。「武日照命たけひなてるのみこと。〈一に云ふ。武夷鳥たけひなとり。又云ふ。天夷鳥あめのひなとり。〉天より將來もちきたれ神寶かむだから。出雲大神の宮におさむ。是れ見まし」則ち矢田部造やたべのみやつこ遠祖とほつおや武諸隅たけもろすみを遣し〈一書あるふみに云ふ。一名またのな大母隅おほもろすみなり。〉たてまつらしむ。まさに是の時。出雲臣いづものおみ遠祖とほつおや出雲振根主いづものふるね神寶かむだからつかさどれり。是れに筑紫國つくしのくにまかりてまゐあはず。其のいろど飯入根いりね則ち皇命をほむことうけたまはりて、神寶を以ていろど甘美韓日狹うましからひさ鸕濡渟うかつくぬとにさずけて貢上たてまつりあぐ。既にして出雲振根いづものふるね筑紫より還りまゐきて、神寶を朝廷みかどたてまつりつと聞きて、其の弟飯入根を責めて曰く。「數日當待ひをへてまたなむ。何をかしこみてか、たやすく神寶を許しし」是を以て既に年月を經れども、なほ恨忿うらみいかることうだきて、弟を殺さむと志有り。仍りて弟をあざむきて曰く。「頃者このごろ止屋淵やむやのふちに於てさは菨生もおひたり。願はくは共に行きて見まし」。弟則ち兄にしたがひて往けり。是より先に、兄 ひそか木刀きだちを作り、かたち眞刀またちに似たり。當時ときに自らけり。弟眞刀を佩けり。共に淵の頭に到りて、兄、弟にかたりて曰く。「淵の水 清冷いさぎよし。願はくは共に游沐かはあみせむとおもふ」弟、兄の言に從ひて、おのおの佩かせるたちきて、淵のはたに置きて、水中みづなかかはあむ。乃ち兄先づ陸に上りて、弟の眞刀を取りて自ら佩く。後に弟驚きて兄の木刀を取りて、共に相撃つ。弟木刀を拔くことを得ず。兄、弟飯入根を撃して殺しつ。故れ時の人歌ひて曰く。


八雲起やくもたつ、出雲梟帥いづもたけるが、佩ける太刀、黒葛つづらさは巻き、さ身無しに、あはれ


是に於て、甘美韓日狹うましからひさ鸕濡渟うかつくぬ朝廷みかど參向まゐでて、つまびらかに其のかたちまうす。則ち吉備津彦と武渟河別たけぬなかはわけとを遣して、以て出雲振根を誅す。故れ出雲臣等の事におそれて、大神を祭らずして間有しましあり。時に丹波たには氷上ひかみの人。名は氷香戸邊ひかとべ、皇太子活目尊にまうして曰く。「やつがれが子 小兒わかこはべり、自然言おのづからまうさく、玉菨鎭石たまもしづし、出雲人祭れ。眞種またね甘美鏡うましかがみ押羽振おしはふれ。甘美御神うましみかがみ底寶御寶主そこたからみたからぬし、山河の水泳御魂みくりみたましづけよ。甘美御神うましみかみ底寶御寶主そこたからみたからぬしなり。〈 菨。此をばと云ふ。〉是れ小兒わくごことらず。しくはつきて言ふもの有るか」是に於て皇太子ひつぎのみこ天皇すめらみことに奏す。則ちみことのりしていはひまつらしめたまふ。)



⑷『出雲国風土記』(出雲郡健部郷)

健部郷、郡家正東一十二里二百二十四歩。先所以號宇夜里者、宇夜都弁命、其山峯天降坐之。即彼神之社、至今猶坐此處。故云宇夜里。

而後改所以號健部者、纏向檜代宮御宇天皇、勅、不忘朕御子倭健命之御名、健部定給。爾時、神門臣古禰健部定給。即健部臣等、自古至今 猶居此處。故云健部。


健部たけべさとは、郡家の正東一十二里二百二十四歩なり。先に宇夜うやの里となづ所以ゆゑは、宇夜都弁命うやつべのみこと、その山峯みね天降あもしき。すなはの神のやしろ、今に至るまでなお此處このところせり。かれ宇夜やうの里といふ。

しかるに後に改めて健部たけべなづくる所以ゆゑは、纏向まきむく檜代ひしろの宮にあめ下知したしらしめし天皇すめらみことみことのりして、「が御子、倭健命やまとたけるのみこと御名みなを忘れじ」と健部を定め給ひき。その時、神門臣古禰かむとのおみふるねを健部と定め給ひき。即ち健部臣たけべのおみ等、古より今に至るまで、なお此處このところめり。かれ健部たけべといふ。)


*健部

交通上の要地などに設けられた軍事的部民。(上田正昭)



・⑶⑷解説

 ⑶は崇神天皇が出雲大神の宮に収められた神宝を見たいと言い、矢田部造やたべのみやつこ遠祖とほつおや武諸隅たけもろすみを遣したが、この時、出雲臣の遠祖であり、出雲大社の神宝を掌る出雲振根主が筑紫国に出かけて不在であった為、その弟の飯入根いりねが皇命を承って、神宝を弟の甘美韓日狹うましからひさと子の鸕濡渟うかつくぬの授けて貢上した。


 筑紫国から帰り、これを知った振根が怒り、年月が経っても治まらずに一計を案じた。止屋淵やむやのふちに飯入根を誘い、水浴びをする時に飯入根の剣を木刀に変えた後、飯入根に剣で襲い掛かり、木刀で抵抗出来なかった飯入根を殺してしまう。(ご存じかと思いますが、『古事記』景行天皇条の倭建命が全く同じことをする記事がありますが詳細は省きます)


 甘美韓日狹うましからひさ鸕濡渟うかつくぬ、朝廷に申し出て、詳細を奏上すると。吉備津彦と武渟河別たけぬなかはわけとを遣して、出雲振根を誅した。


 その後、暫くの間大神を祭らなかったが、出雲で祭られている宝について氷香戸邊ひかとべと言う者の子供が語っており、これが神が憑いて語ってのでは無いかと皇太子の活目尊に申し上げ、この事を天皇に奏上すると大神を祭った。とのことです。


 ⑶に登場する振根を、⑷に登場する神門臣古禰として、神門臣と出雲臣の対立と見る意見や、更に中央勢力の物部氏が出雲国内を統一した史実を想定してその反映とする松前健氏の説⑸があります。⑶文中の止屋淵やむやのふちは塩冶郷にちなみ、塩冶郷は肥の川をはさみ、健部郷の対岸の地にあるので、⑷の記事は健部郷が、大和王権と結んで出雲郡の土着勢力を制圧した国造家の勢力の拠点として抑えられたことを示す事ものとみることが出来ます。


 因みに、武諸隅たけもろすみは『先代旧事本紀』巻五「天孫本紀」によれば「(饒速日命)八世孫物部武諸隅連公。新河大連之子」とあり、物部氏の一族と見られています。




⑹『日本書紀』巻六垂仁天皇二六年(丁巳前四)八月 庚辰三日

廿六年秋八月戊寅朔庚辰。天皇勅物部十千根大連曰。屡遣使者於出雲國。雖検校其國之神寶。無分明申言者。汝親行干出雲。宜検校定。則十千根大連校定神寶。而分明奏言之。仍令掌神寶也。


廿六年二十六年秋八月あきはづきの戊寅つちのえのとらのついたち庚辰かのえたつのひ天皇すめらみこと物部十千根もののべのとをちねの大連おほむらじみことのりを曰く。「しばしば使者つかひおいて出雲國につかわして。其の國の神寶かむたから校検かんがへしむといへども、分明わいわい申言者もうすひと無く、いまし親ら出雲にまかりて検校かんがさだむべし」則ち十千根大連とをちねのおほむらじ神寶かむたからかんがさだめて、分明に奏言まうす。仍りて神寶かむたからつかさどむなり。)


⑺『出雲国風土記』(出雲郡美談郷)

美談郷、郡家正北九里二百四十歩。所造天下大神御子和加布都努志命。天地初判之後、天御領田之長供奉坐之。即彼神坐郷中。故云三太三。〈神亀三年改字美談〉即有正倉。


美談みだみさとは、郡家の正北九里二百四十歩。あめ下造所したつくらしし大神おほかみ御子みこ和加布都努志わかふつぬしみこと天地あめつち初じまりしのち天御領田あめのみしろた長供奉かみつかへまつりましき。すなは彼神そのかみさとうちす。三太三みたみと云ふ。〈神亀三年字を美談に改め〉すなは正倉みくら有り。



⑹⑺解説

 ⑹は出雲国の神宝の検校に物部氏の祖、物部十千根大連が関わる記述です。十千根大連が後世の石上氏により創作された人物であることは過去の稿で述べましたが、大和王権が出雲国を屈服させるために物部氏が関わっていた事は⑺の記述を始め、『出雲国風土記』にその痕跡が見られる為、否定しきれません。


 『出雲国風土記』には物部氏と関りが深いフツヌシに関する記述が意宇群楯縫郷・意宇群山国郷・秋鹿群大野郷・出雲郡美談郷に見られます。このうち⑺の出雲郡美談郷においてはフツヌシはオホナムチの子とされていますが、これは松前健氏によれば、フツヌシの崇拝は出雲に定着した時期がかなり古い為、オホナムチ信仰に包摂されてしまれてしまったとのことです。⑻


 又、寺村光晴氏は、出雲の玉作でも第二期にあたる古墳時代中期に石製模造品が生産されている事などから、出雲の玉作に物部氏が深く関わっている事を指摘されています。⑼


 この様に、⑵の様な神話や⑺など『出雲国風土記』のフツヌシの説話や⑶⑹で見られ、考古学的な知見からも古い時期から出雲国で物部氏が干渉していた可能性は高いと思われます。



・まとめ

 以上の様に、『日本書紀』の神代と崇神・垂仁天皇紀及び『出雲国風土記』及び考古学的な知見から出雲平定に物部氏が関与してきたことを見てきました。


 出雲国譲りが神話でありながら、人代の崇神・垂仁天皇紀では共通している部分があり、考古学的にも否定出来ない事から、神話と言えども出雲神話に関しては史実に繋がる部分が含まれている可能性もあるのでは無いかと思えてきます。


 出雲が服従した際に大和王権の先兵となったのがフツヌシを氏神とする物部氏であった史実が透けて見えますが、それがタケミカヅチなる武神を包摂したと思われる中臣藤原氏の手柄に挿げ替えられて行った痕跡を『出雲国風土記』→『日本書紀』→『古事記』の順で追っていくと推測可能で、唐突に登場した感が否めないタケミカヅチという新しい存在が神話と史実の距離を広げてしまった一因と言わざるを得ません。


 『古事記』上巻第一段ではイザナキがカグツチを斬った時の剣の天之尾羽張から滴り落ちた血からタケミカヅチが誕生したとありますが、『古事記』中巻の崇神天皇条では「僕者大物主大神。娶陶津耳命之女活玉依毘売、生子名櫛御方命之子、飯肩巣見命之子、子、僕意富多多泥古白⑽」(「僕者やつかれ大物主大神おほものぬしのおほかみ陶津耳命すゑつみみのみことむすめ活玉依毘売いくたまよりびめひて生みませる子、名は櫛御方命くしみかたのみことの子、飯肩巣見命いひかたすのみことの子、建甕槌命たけみかづちのみことの子、やつかれ意富多多泥古おほたたねこ」とまをしき。)と別の系譜があり、このタケミカヅチは神代のタケミカヅチとは別神と解釈されていますが、本来は後者の系譜のタケミカヅチを中臣氏が包摂したという可能性もあるかも知れません。


(私見ではタケミカヅチの神話は誕生時の他の神に「ヒハヤヒ」「ミカハヤヒ」など「ハヤヒ」と名が付くことや、フツノミタマを高倉下に降す事、旧事本紀では尾張氏(高倉下の子孫)と結びついた事などから、本来物部氏の祖神・ニギハヤヒの神話であったものが中臣氏に奪われたものかと思いますが、歴史学的な考察と離れてしまうので、何時か神話について解説する機会があればご説明します)


 戦後津田史観を中心とした記紀批判により、古代史学の研究が発展した事は否定出来ませんが、出雲神話については史実性を顧みる余地もあるのかも知れません。



◇参考文献

・「神代史の研究法」津田左右吉 青空文庫

https://www.aozora.gr.jp/cards/001535/files/53731_47830.html


⑴『国史大系. 第7巻』 経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/38

『古事記 : 新訂要註』 武田祐吉 編 三省堂

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036263/56


⑵『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/28


⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/65


⑷『標注古風土記』 粟田寛 纂註 大日本図書

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993215/65


⑸『古事記事典』尾畑喜一郎 桜楓社 220~221ページ


⑹『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/71


⑺『標注古風土記』 粟田寛 纂註 大日本図書

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993215/66


⑻『日本神話の形成』松前健 壇書房 201ページ


⑼『古代玉作形成氏の研究』寺山光晴 吉川弘文庫 239~264ページ


⑽『国史大系. 第7巻』

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/55

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