小ネタ 八百万の神は実は三千万以上の神だった?


 令和五年五月二日を以て、元明天皇により『風土記』撰進の命が下った和銅六年(七一三)五月 甲子癸亥朔二から一三一〇年を迎える為、急遽風土記ネタを投下します。……と言っても気付くのが遅すぎた為、大したネタが準備出来ず、詳しく調べられていない内容ですが、ご了承下さい。



◇「八百万の神」という表現は何時頃から使われるようになったのか?

 よく、「八百万の神」という表現が使われています。『古事記』でも例えば天の岩戸の前で天宇受売命あめのうずめのみことが躍った様子を「為神懸而。掛出胸乳。裳緒忍垂於番登也。爾。高天原動而。共咲」と書かれている様に「八百萬」という表現は既に使われていました。そして、延喜五年(九〇五)八月に命が下って編纂されたという『延喜式祝詞』の中でも『鎭火祭ほしづめのまつり』『中臣壽詞なかとみのよごと』等に「八百萬神」という表現が登場するので、遅くても『延喜式』が制定された頃には「八百萬神」という定型化されていたのかも知れません。


 ところが、『古事記』が書かれる以前、日本の神は古来、八百万どころか三千万ぐらい居られたと信じられていたのかも知れないという話が『出雲国風土記』意宇郡安木郷の記事にあるので、見ていきましょう。



⑴『出雲国風土記』意宇郡安木郷

即北海有毘売埼。飛鳥浄御原宮御宇天皇御世甲戌年七月十三日。語臣猪麻呂之女子。逍遥件埼邂逅遇和爾所賊不切。爾時父猪麻呂所賊女子斂浜上。大發聲憤。號天踊地。行吟居嘆。晝夜辛苦無避斂所。作是之閒經歴數日。然後興慷慨志。麻呂箭鋭鋒撰便處居。即擡訴云。天神千五百萬。地祇千五百萬。並當國静坐。三百九十九社及海若等。大神之和魂者静而。荒魂者。皆悉依給猪麻呂之所乞。良有神霊坐者。吾所傷給。以此知神霊之所神者。爾時有須臾而。和爾百餘静圍繞一和爾。徐率依来従於居下。不進不退。猶圍繞耳。爾時挙鋒而刀中央一和爾殺捕。已訖然後百餘和爾解散。殺割者女子之一脛屠出。仍和爾者殺割而挂串立路之垂也。〈安来郷人語臣等之父也。自爾時以来至于今日經六十歳。〉


(即ち北の海に毘売埼ひめさきあり。飛鳥の浄御原の宮の御宇あめのしたしらしめし天皇すめらみこと御世みよ甲戌きのえのいぬ七月ふづき十三日とをかまりみかのひ語臣猪麻呂かたりのおゐまろ女子むすめくだりの埼にあそびて、邂逅たまさか和爾わにひ、そこなはえて帰へらざりき。その時、父猪麻呂、賊はえし女子をほとりをさめ、大發聲おほごゑいきどほり、天にこばつちに踊り、行きてはき、居てはなげき、晝夜辛苦よるひるたしなみてをさめし所をることなし。かくするほど數日ひかずを經たり。しかして後、慷慨いきどほりこころを興し、麻呂、箭の鋭きさきを撰りて便たよりの處に居り、やがてをがうたへて云ひしく、「天つ神千五百萬かみちいほよろづ地祇千五百萬くにつかみちいほよろづならびの國にしづま三百九十九みももまりここのそぢまりここのつやしろ及海若等またわたつみたち大神おほかみ和魂にぎみたまは静りて、荒魂あらみたまは、皆悉ことごとく猪麻呂ゐまろむ所に依り給へ。 まこと神霊みたましまさば、いためるを助け給へ。ここを以て神霊みたまの神たるを知らむ」といひしかば、その時、須臾しましありて、和爾わに百餘ももあまりしづかに一つの和爾をかこめぐり。おもぶるに率て、居るところ来従きよりて、進まず退かず、なほかくめぐれるのみなりき。その時、ほこを挙げて中央まなかなる一つの和爾をし殺し捕りき。已にへて、しかして後、百餘ももあまりの和爾 解散あらけき。ち割けば女子のはぎ一つをほふり出しき。りて和爾をち割きてくしけて路のほとりに立てき。〈安来の郷の人語臣等が父なり。その時より以来、今日に至るまで六十歳を經たり。〉)


*和爾……『標註風土記』の註に「和爾ハ、鰐也」とある。爬虫類の鰐ではなく、サメの事を指す。

 今日でも各地でエドアブラザメ・シュモクザメなどのサメ類を、ワニ、ワニザメなどという。⑵


⑴概略

 安木郷の北の海に毘売埼ひめさきあり。天武天皇の御世みよ甲戌きのえのいぬ(六七四年)七月十三日、語臣猪麻呂かたりのおゐまろの娘がこの埼を散歩していて、偶々に鰐に遭遇し、殺されて帰らなかった。その時、父の猪麻呂は、ころされた娘をほとりに埋葬し、激しく怒り、天を仰いで叫び、地に踊り上がり、歩いてはうめき、座りこんではなげき、昼も夜も悩み苦しむ、埋葬したところから去ろうとしなかった。こうしている間に数日が経った。そしてついに、憤激の心を奮い起こし、麻呂、矢の先を研ぎ、鉾を鋭くし、場所を選んで座った。やがて神を拝んで訴え、「天つ神千五百萬かみちいほよろづ地祇千五百萬くにつかみちいほよろづそれにこの国に鎮座なさる三百九十九の神社、また海神達、大神の和魂にぎみたまは静り、荒魂あらみたまは、皆ことごとく猪麻呂ゐまろが願うところに憑りつきたまえ。 まことに神霊みたまがいらっしゃるなら、わたしが鰐を殺す事をお助け下さい。それを以って神霊が真の神たるをことを知るでしょう」と言った。その時、暫くして、百匹余りの鰐が静に一匹の鰐を取り囲み、ゆっくりと連れ寄って来て、猪麻呂の座る場所の下に付き従い、進まず退きもせず、ただ取り囲むばかりであった。その時、ほこを挙げて真ん中の一匹の鰐を刺し殺し捕まえ終えた後、百匹の鰐は 散り散りに去っていった。殺した鰐を裂くと娘の脛が一つをこぼれ出て来た。それで鰐を切り裂いて串刺しにし、路のほとりに立てた。〈猪麻呂は安来の郷の人語臣等の父である。その時から今日に至るまで六十年経った。〉


⑴解説

 サメに喰われた娘の敵を父親が取る話ですが、『標注古風土記』の註で粟田寛が「コノ猪麻呂ガ事ヲ見テモ、大和魂アル古ヘノマスラ男ノ雄々シキサマヲ知レ」と、絶賛していることに現在の学者との温度差を感じます。


 大海の中のただ一匹のサメを探し出しうる点に神話性の名残を、また「良有神霊坐者」という父親の叫びに、神話をすでに信じ切れない古代人の悲痛さをその両者を整理統合することなく、むき出しのままに投げ出すにとどまっており、その生硬さが、純然たる文学とはまた異なる、独徳の迫力を生んでいます。⑶


 さて、本稿の趣旨に話を戻しますと、本書では「天神千五百萬。地祇千五百萬」と合計三千万の神に加え、「並當國静坐。三百九十九社及海若等」と更に多くの神に祈りを捧げています。この祈りのことばは、延喜式祝詞よりもずっと古い時代の祈りがわかる貴重な資料であるそうです。⑷


 本書の舞台が天武天皇十三年(六七四年)なので、実際に七世紀後半の時点ではまだ神が八百万と定められていなかったのかも知れず、祝詞の形式も決まっていなかったのかも知れません。


 因みに安来市黒井田町の毘売塚古墳(五世紀前半)からは、この伝承さながらに、脛骨の欠損した人骨を納めた石棺が発掘されていますが、成人骨で、時代も本書が伝える天武朝とは二百年以上の隔たりがあるそうです。⑸


*追記

 岩波文庫版『日本書紀』⑹によれば、『日本書紀』一巻神代条第四段の記事にある「千五百秋」について「千五百は極めて多い数の意。千五百秋で永久という程の意」とあります。又、『日本書紀通釈』巻之五⑺にも『日本書紀』一巻神代条第五段の記事にある「千五百頭」について「千五百はたた多き大方を云言なり」と、実数ではなく多い数の意味であるとしています。つまり、本稿で取り上げた「天神千五百萬。地祇千五百萬。」も実数ではなく、多数を比喩した古い表現のようです。



◇参考文献

⑴『標注古風土記』 粟田寛 纂註 大日本図書

https://dl.ndl.go.jp/pid/993215/1/38


⑵『出雲国風土記 全訳注』 荻原千鶴 講談社学術文庫 49ページ


⑶『出雲国風土記 全訳注』 荻原千鶴 講談社学術文庫 50ページ


⑷『日本の古典をよむ3 日本書紀下 風土記』 小島憲之 直木孝次郎 西宮一民 蔵中進 毛利正守 校注/訳/植垣節也  小学館 259ページ


⑸『出雲国風土記 全訳注』 荻原千鶴 講談社学術文庫 50~51ページ


⑹『日本書紀㈠』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 27頁 注一一


⑺『日本書紀通釈 第1 増補正訓』飯田武郷 日本書紀通釈刊行会 231頁

https://dl.ndl.go.jp/pid/1115770/1/123

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る