欠史八代

綏靖天皇が何故高志国の王を名乗っているのか? 推測しました(ついでに欠史八代について)

 昨年、晁衡さまより近況ノートにこの様なコメントを頂きました。



////////////////////////////////


2022年12月18日 23:54


タケミナカタは信濃の諏訪大社の御祭神ですよね。父は大国主命ですが、母は奴奈川姫


この「ヌナカワヒメ」のヌナカワは糸魚川市の姫川のことで宝石の川の意らしいですが、「渟名川」とも書きます。

神渟名川耳天皇とは、第二代綏靖天皇ですよね。


なぜ天皇が、越の国の王を名乗っているのか不思議です


//////////////////////////////////


 コメントに対して私は以下の様なご返事をさせて頂きました。


////////////////////////////////////



2022年12月19日 00:25


 大変ためになるコメントありがとうございます。


 本ノートのリンク先の記事に掲載させて頂きました様に、タケミナカタに関しては諏訪から出てはいけない事を大和朝廷が利用してオオクニヌシの系譜に組み込まれてしまったという、神話学研究で著名な松前健氏の説がありますね。


 エッセイが歴史学中心なので、神話的な話は極力避けていたのですが、いずれ機会があれば詳しく調べていきたいと思っています。


 津田史観的には第14代仲哀天皇以前の存在や事績は否定されている事や、当方も『上宮記』逸文により辛うじて存在を信じて良いのは第11代天皇垂仁天皇以降かな、と思っていたので、正直欠史八代には詳しくないので、その視点は無く、勉強になりました。


 素人的な予想で恐縮ですが、記紀の基礎文献である『旧辞』に基づいた記事が顕宗天皇までで終わっている事から、『旧辞』が書かれたのが継体天皇あるいは近い時代という歴史学者(確か津田左右吉?)の説に基づいて考えると、越の国の王であった継体天皇の時代に作成された天皇であり、それが『帝紀』に反映されたのかも知れません。


////////////////////////////



https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817330650238541883



 この時は特に調べずにお答えしてしまったのですが、『日本書紀』の記述を信じてもまだ大和内にしか勢力範囲が及ばないと思われる2代天皇綏靖が越の国の王を名乗るのは違和感がありますね。


 記紀でみられる綏靖天皇の事績らしいものを取り上げると


手研耳命たぎしみみのみこと神渟名川耳尊かむぬなかわのみこと(後の綏靖天皇)と神八井耳命かみやいみみのみことを亡き者にしようとしたが、この密計を察知して片丘(奈良県北葛城郡上牧町)の地下で手研耳命を射殺する。


②この時手足が震え弓を射る事が出来なかった神八井耳命が神渟名川耳尊に天皇の座に就く事を勧め、自分は神渟名川耳を支え神祇を祀ると宣言される。


③葛城(奈良県御所市一円から葛城市、香芝市、王子町あたり)に都を定め(高岳宮)、母の五十鈴依媛命いすずよりひめのみことを皇后とする。


④神八井耳命が薨去され、畝傍山の北に葬られた。


⑤皇子の磯城津彦玉手看尊しきつひこたまてみのみことを皇太子に立てた。


⑥病気で崩御後、桃花鳥田丘上陵つきだのおかのうえのみささぎ(奈良県橿原市大字四条字田井ノ坪)に葬りまつられた。


 これだけであり、その活動範囲は奈良盆地内、特に殆どが後世大和国に併合される以前の葛城国と呼ばれた地域に限られており、和風諡号に反して越の国との関係を思わせる記事は見当たりません。



◇津田左右吉の帝紀・旧辞論

 近況ノートにはちゃんと調べてご返事出来なかったので、津田左右吉による記紀の批判論について具体的にとりあげます。


 津田氏によれば『古事記』序文の解釈によって、帝紀は皇室の系譜、旧辞は物語と解するのは以前の稿(初学者が先ず参考にすべき論文・井上光貞『帝紀からみた葛城氏』)でご紹介させて頂いた井上光貞氏等の説とほぼ同じですが、津田氏は旧辞=物語が存在するのは顕宗天皇記までであることから、旧辞は「其の時から程遠からぬ後、即ち継体・欽明朝ごろに一通りはまとめられてゐた」と判断し、その物語の内容が応神以降は、津田氏の批判したそれまでの政治的なものから、非政治的なものになります。


 帝紀=系譜においても「御名の書き方」が応神以降の簡単で実名的であるのに対し(例:応神天皇=誉田別)、仲哀以前は荘重で諡号的であると指摘します。(例:神武天皇=神日本磐余彦)この事は過去に「専門家でも間違えやすい和風諡号と尊号」で触れましたので詳細はそちらをご覧ください。


 この様な諡号的な名を付けたのは欽明朝(欽明天皇=天国排開広庭)前後である事から、「仲哀天皇以前の帝紀が記述された時代」を推測し、旧辞と同じ継体・欽明朝による成立論を導き出しました。⑴


 つまり、津田史観的には仲哀天皇以前の帝紀・旧辞は継体あるいは欽明朝辺りに成立されたものという事になります。但し、津田氏の記紀批判の内容があくまでも仲哀以前のに関する批判であり、「どの物語も歴史的事件ではないといふ研究の結果は、一般的には御系譜について疑問を起こすことにはならない」として、応神以前に遡る数代の実在性も認めています。⑵


 この考え方により、仲哀以前の崇神天皇辺りの実在性を認めながらも、旧辞的な記事は事実ではないという見方が一般的になりましたが、「ハツクニシラススメラミコト」である崇神天皇以前の所謂「欠史八代」に関しては更に実在性が薄いと言われています。



◇欠史八代とは?

 多くの方がご存じかと思いますが、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇は『帝紀』的な系譜のみ伝わり、殆ど事績が記されていない事などから、「欠史八代」と呼ばれ、これらの天皇は存在しなかったと言われています。


 欠史八代に関しては記紀以前の古い文献資料(逸文・銘文など)にその名が見られないことも実在性の低さに拍車をかけていますが、稲荷山古墳出土鉄剣の銘文にはオオヒコの名が見れる事から、オオヒコの父である第8代孝元天皇の実在性は考慮しても良さそうですが、直木孝次郎氏⑶はこの銘文の古い系譜は作成されたものと主張しています。


 直木氏の主張により、五世紀頃には地方豪族でもこの程度の系譜が伝えられている事から、当然大王家にもそれなりの系譜がとして、やはり欠史八代の実在性に関しては否定的に捉えられています。



 「欠史八代」の根拠として


①八代すべてが八世紀の風習である父子相続をしている

②八代の天皇の名前の中には7・8世紀の天皇と共通する「ヤマトネコ」の語がある。

③八代の天皇の后紀に大和の県主出身者が多く見えるが、これは壬申の乱以後、県主の家がその子女を後宮に入れて天皇と密接な関係を持ったことの反映である。⑷


 以上の指摘がされています。


 ②を具体的に取り上げてみると

大日本根子彦太瓊天皇おおやまとねこひこふとにのすめらみこと(孝霊天皇)

大日本根子彦国牽天皇おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと(孝元天皇)

稚日本根子彦大日日天皇わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと(開化天皇)


 ③を具体的に取り上げてみると

・磯城県主の娘、川派媛かわまたひめ(孝元天皇紀一書)

・磯城県主葉江の娘、川津媛かわつひめ(安寧天皇紀一書)

・磯城県主 太真稚彦ふとまわかひこの娘、飯日姫いいひひめ(懿徳天皇紀一書)

・磯城県主葉江の娘、名城津媛なきつひめ(孝昭天皇紀一書)

・磯城県主葉江の娘、長媛ながひめ(孝安天皇紀一書)

・磯城県主大目の娘、細姫命(孝元天皇即位前紀。孝霊天皇の皇后)


 以上となりますが、②③については問題点があります。


 ②については次項「欠史八代でも実在の可能性がある天皇?」で取り上げますが、孝霊天皇に関しては実在の可能性も指摘されています。


 ③については確かに磯城県主の影響力を感じさせますし、安寧から懿徳を挟み、孝昭、孝安の三代に磯城県主葉江の娘を後宮に入れたという杜撰な記述は創作としか言いようがありませんが、孝元天皇即位前紀以外は「一書」による記述であり、磯城県主との婚姻を正伝として扱っていないので、これらは後世に付け加えられたものが確実であるとしても、この記述をもって婚姻関係にあったとされる天皇の実在まで否定の材料にするのは無理があるのではないかと思います。


 また、以下の様に、古代史研究を代表する歴史学者の中にも欠史八代の主張を否定する説もあります。



◇欠史八代でも実在の可能性がある天皇?


 上田正昭⑸、黛弘道⑹の両氏は、欠史八代の天皇名からヤマトネコなどの後世的な部分を取り去ると、スキトモ(懿徳天皇)・フトニ(孝霊天皇)のような実名と思われる名称が残る事、欠史八代のうちの前の五代の皇紀はすべて一人ずつであり、そのなかには磯城県主につながるものが多いのにたいし、のちの三代は三、四人の皇紀をもち、その中に磯城県主に繋がる者が無い事が指摘されている。そのことからただちに欠史八代の天皇の実在を説く事は出来ないが、右の諸説は欠史八代の天皇系譜がまとめてつくられたものではなく、それらは前の五代と後の三代が別々に幾つ度かの改訂を経て、かなり長い時期をかけてつくりあげられたものと主張しました。


 あくまで系譜に関する説であり、実在性に関しては歴史学者としての立場としては記紀の記述を容易く認められないという事かも知れませんが、及び腰ながら、第4代懿徳天皇・第7代天皇孝霊・第8代天皇孝元・第9代天皇開化辺りは実在の可能性もあるとお考えだったのでしょうかね?


 仮にこれらの天皇を認めるとしても、歴史学の立場から第2代天皇綏靖の実在性を認める学者は寡聞にして知りません。かつて文化人類学者の鳥越憲三郎氏が著書『神々と天皇の間』(朝日文庫)等で所謂「葛城王朝説」を唱え「欠史八代」の天皇の実在性を唱え、多大な影響を与えたこともありましたが、門脇禎二氏の『葛城と古代国家』(教育社)により否定されています。(確か天皇陵に比定されている陵の位置が信用出来ないという根拠だったかと思いますが、本を紛失した為に確認出来ませんorz 古代史研究では割と有名な書籍なので、宜しければ図書館でお探しください)


◇結論。津田説を裏付けか?

 津田左右吉の帝紀・旧辞論で取り上げました様に仲哀以前の天皇の実在性は疑問があり、帝紀・旧辞作成時に古い系譜が作成された可能性があるとすれば、2代天皇綏靖はやはり高志の国の王であった継体天皇(厳密に言えば三国出身ですが、令制以前、分割前の高志国には越前、つまり三国も含まれていた)の時代に作成された為なのかな? と、想定するより他に無いかと思われます。




◇参考

⑴『津田左右吉全集』別巻第一 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/pid/2941381/1/119

⑵『津田左右吉全集』第二四巻 岩波書店

⑶『日本神話と古代史』直木孝次郎 講談社学術文庫

⑷『古代史入門ハンドブック』武光誠 雄山閣

⑸『大王の世紀』上田正昭 小学館

⑹「古代王朝交代論」黛弘道(『日本歴史』三二三、一九七五)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る