田辺氏と馬に関わる伝承

 前稿で上毛野氏と結びついた田辺氏について述べ、馬文化の東国への伝播を担った話をしましたが、雄略天皇紀と新撰姓氏録に田辺氏と馬に関わる伝承があるので、これを取り上げ、後に上毛野氏を名乗る事になる田辺氏について掘り下げてみます。


⑴『日本書紀』巻十四雄略天皇九年(乙巳四六五)七月壬辰朔

秋七月壬辰朔。河内國言。飛鳥戸郡人田邊史伯孫女者。古市郡人書首加龍之妻也。伯孫聞女産兒。往賀聟家。而月夜還。於蓬蔂丘譽田陵下。〈蓬譽。此云伊致寐姑。〉逢騎赤駿者。其馬時濩略而龍翥。欻聳擢而鴻驚。異體峯生。殊相逸發。伯孫就視而心欲之。乃鞭所乘驄馬。齊頭並轡。爾乃赤駿超攄絶於埃塵。驅騖迅於滅沒。於是馬後而怠足。不可復追。其乘駿者知伯孫所欲。仍停換馬相辭取別。伯孫得駿甚歡。驟而入廐。解鞍秣馬眠之。其明旦赤駿變爲土馬。伯孫心異之。還覔譽田陵。乃見驄馬在於土馬之間。取而代而置所換土馬。


秋七月あきふみづきの壬辰みづのえたつのついたちのひ河内國かふちのくにまうさく。「飛鳥戸あすかべ郡人こほりのひと田邊たなべふひと伯孫はくそんむすめひとは、古市ふるいちこほりの人 書首ふみひとのおひと加龍かりょうなり。伯孫はくそんむすめむを聞きて、往きてむこいへよろこびて、月夜つくよ蓬蔂いちひこの丘の譽田陵ほむたのみささぎもとかへる。〈蓬譽いちひこ。此を伊致寐姑イチヒコと云ふ。〉赤騎あかむま駿れるひとに逢ふ。其の馬時に濩略もこよかにしてたつのごとくにぶ。あからさまたかぬけいでてかりのごとくに驚く。あやしきかたちかとくなりて殊相ことなかるかたちすぐれててり。伯孫はくそんちかづて心に欲りす。乃ち乘れる所のまだらをの馬にむちうちて、頭をひとしくくちを並ぶ。爾乃とき赤駿あかうま超攄絶於こえのびてぬけたゆること埃塵ちりくもにみゆ驅騖迅於滅沒はしりさきだつことかたちほるもかにしてうせぬ。是に於てまだらをの馬後れて怠足おそし、復た追ふべからず。其の駿に乘れる者、伯孫はくそんが欲ふ所を知りて、仍りて停めて馬を換へて、相辭りて取別わかれぬ。伯孫はくそん駿ときうまを得て甚だよろこび、をどらしてうまやに入り、鞍をおろして馬にまぐさかひてぬ。其の明旦くるつあした赤駿あかうまかはりて土馬はにまれり。伯孫心にあやしみて、還りて譽田陵ほむたのみささぎもとむるに、乃ち驄馬みだらをのうま土馬はにまの間に在るを見る。取りて代へて、かへる所の土馬を置く。」)


⑴概略

 秋七月の壬辰みづのえたつのついたちのひに河内國より言上げがあって、

飛鳥戸あすかべ郡人こほりのひと田邊たなべふひと伯孫はくそんの娘は、古市ふるいちこほりの人 書首ふみひとのおひと加龍かりょうの妻である。


 伯孫はくそんの娘の子をむと聞いて、婿の家に慶んで行き、月夜に蓬蔂いちひこの丘の譽田陵ほむたのみささぎ(応神天皇陵)の下で、〈蓬譽いちひこ。此を伊致寐姑イチヒコと云ふ。〉赤馬に乗る人に出会った。


 其の馬はその時うねりながら龍のごとく飛び、突然高く跳び上がって、雁のように驚いた。怪しいからだが峰のようになり、ただならぬ形相が、きわだって現れた。伯孫はくそんは近付いてみて欲しいと思った。


 そこで乗っている葦毛の馬に鞭を打って、頭をそろえて、くつわを並べた。すると赤馬が、おどりあがるさまは、塵埃のようにさっとあがっては消え、先に走ってい行くさまはあっと言う間に姿が見えなくなってしまうという風であった。


 一方、葦毛の馬は後れてしまい遅く、追いつくことが出来なかった。その駿馬に乗っている人は、伯孫はくそんが駿馬を欲しがっていることを知りて、止まって馬を交換して別れた。伯孫はくそんは駿馬を得て大いに喜び、走らせて帰りうまやに入れ、鞍を下ろして馬にまぐさを与えて寝た。


 翌朝、赤馬あかうまは埴輪の馬に変わっていた。伯孫はあやしんで、譽田陵ほむたのみささぎに戻って探してみると、葦毛の馬が埴輪の馬の間に立っているのを見つけた。取り代えて、代わりに埴輪の馬を置いた。」と言った。



 上記とほぼ同様の伝承は『新撰姓氏録』に書かれています。


 

⑵『新撰姓氏録』左京皇別下 上毛野朝臣

下毛野朝臣同祖、豊城入彦命五世孫多奇波世君之後也。大泊瀬幼武天皇謚雄略御世。努賀君男百尊。為阿女産向聟、家犯夜而帰。於応神天皇御陵邊、逢騎馬人相共話語、換馬而別。明日看所換馬、是土馬也。因負姓陵邊君。百尊男徳尊、孫斯羅。謚皇極御世、賜河内山下田。以解文書、為田邊史。宝字称徳孝謙皇帝天平勝宝二年。改賜上毛野公。今上弘仁元年改賜朝臣姓。


(下毛野の朝臣同祖、豊城入彦命の五世の孫 多奇波世たきはせ君の後なり。大泊瀬幼武天皇おほはつせわかたけるのすめらみことおくりなは雄略の御世。努賀の君の男 百尊はくそん阿女産あめのひこが為、むこの家に向ひ夜をおかしめ帰る。応神天皇の御陵みささきの邊に於て、馬に騎人に逢ふ相の共に話語かたりて、馬をかへて別る。明日あすかへる所の馬を看に、是れ土馬はにまなり。よりかばね陵邊おおきべの君と負ふ。百尊の男徳尊、孫斯羅。おくりなは皇極の御世、河内の山下の田をたまはひて、以て文書ふみを解しむ、田邊たなべのふひととなる。宝字称徳孝謙の皇帝みかど天平勝宝二年。改て上毛野の公と賜ふ。今上弘仁元年に改て朝臣の姓を賜ふ。)


⑵概略

 下毛野の朝臣と同祖。豊城入彦命の五世の孫、多奇波世たきはせ君(仁徳天皇紀の竹葉瀬)の後裔である。雄略天皇の御世、努賀の君の子、百尊はくそん阿女産あめのひこの為に、婿の家に向い夜になってから帰った。応神天皇の御陵みささきのほとりにおいて、馬に乗った人に逢い、共に語り、馬を交換して別れた。翌日、交換した馬を見ると、これは埴輪の馬だった。これによって陵邊おおきべの君のかばねを負うようになった。百尊の子、徳尊。孫、斯羅。おくりなは皇極の御世、河内の山下の田を賜わい、文書ふみを解することを以て、田邊たなべのふひとと為った。宝字称徳孝謙の皇帝みかど天平勝宝二年。改めて上毛野の公を賜わう。今上弘仁元年に改めて朝臣の姓を賜わった。


⑴⑵解説

 ⑴の伯孫が⑵では百尊となっていますが、『新撰姓氏録』原文の古訓ではハクソンと記されており、更に赤字で隣に「伯孫紀」と書き止められている上に、(⑵参考文献原文参照)話も類似している事から同一人物とみて良いかと思います。


 伯孫の娘が子供を産み、喜んで婿の家に行った帰り、応神天皇陵の近くで馬に乗っていた人の駿馬と自分の栗毛の馬を交換し、朝に成ったら馬が埴輪の馬と化しており、再び応神天皇陵に戻ったら、並んでいる埴輪の馬の間に自分の栗毛の馬が居たので、埴輪の馬と取り換えて帰ったという説話で、古代には古墳に埴輪の馬が並べてあったことと田辺氏が馬を扱っていたことから、この様な説話が想像されたのかと思われます。


  獨協大学・国際教養学部教授の飯島一彦氏によれば、「田辺氏の本拠が応神天皇陵の近くであったらしいことが推定されている(田辺廃寺の付近)から、誉田陵に立てられていると思われる埴輪の馬(発掘では外周の周庭帯から実際に出土した)は田辺史一族にとって親しいものであったろう。日本書紀の表現自体は『文選』などを借りた文芸的な修辞が施されているが、本来田辺氏によって語られていたものとみてよい。伯孫の娘婿の書首加龍の同族には河内に居住する武生連(馬史)がいたが、この一族は朝廷と内蔵寮の関係で馬匹を管理していたともみられる。書首も百済から渡来人王仁を祖とする一族で、その王仁を推挙して朝廷に呼ばしめた百済人阿直伎は良馬二匹を伴って渡来している。これらの人々が馬に親しんでいたのは当然であろう」⑶と仰られている通り、来日した田辺氏の祖が馬に関わる説話を持っていた事は、馬文化の伝播に大きな影響があった事が想像できます。


 田辺氏には別系統の上毛野朝臣に改姓していない田辺氏の話も伝わっており、『続日本紀』巻四十延暦九年(七九〇)秋七月辛巳には「其後輕嶋豊明朝御宇應神天皇。命上毛野氏遠祖荒田別。使於百濟搜聘有識者。國主貴須王恭奉使旨。擇採宗族。遣其孫辰孫王〈一名智宗王〉隨使入朝。天皇嘉焉。特加寵命。以爲皇太子之師矣。於是。始傳書籍。大闡儒風。文教之興。誠在於此(其の後 輕嶋豊明朝かるしまとよあきらのみかど御宇あめのしたしらしめし應神天皇わうじんのすめらみこと。上毛野氏の遠祖とほつおや荒田別にみことのりし、百濟に使して有識の者を搜聘せしむ。國主くにのこきし貴須王くゐすわう恭んで使つかひの旨をたてまつりし、宗族を擇採し、其のみま辰孫王を遣し〈一名智宗王〉使に隨て入朝まゐいせしむ。天皇すめらみこと嘉焉よみして、特に寵命みめぐみを加へ、以て皇太子ひつぎのみこの師と爲したまふ。是に於て、始て書籍をつたへて、大に儒風を闡けり。文教の興る。誠に於て此に在り)⑷」つまり「応神天皇の御世に天皇が上毛野氏の遠祖・荒田別に命じ百済の有識者を招聘させ、貴須王は謹んで使いの旨を奉り、宗族を採択し、孫の辰孫王(智宗王)を遣し、使いに伴い入朝した。天皇は喜び、寵愛し、皇太子(仁徳天皇)の師とした。これで初めて書籍が(朝廷に)伝えられ、大いに儒学を聞いた。文教の興りはこれにある」と記されています。


 儒学に関しては『懐風藻』序文の「辰爾終敷教於訳田。 遂使俗漸洙泗之風。人趨斉魯之学(辰爾しんにつひに教へを訳田をさだに敷く。 つひに俗をして洙泗しゅしの風にすすみ、人をして斉魯せいろの学におもむかしむ)⑸」つまり、「敏達天皇の御代に、辰爾が都に駅田で文字を教え広め、その結果、洙泗しゅし(孔子の学風)が広まり、人々は斉魯せいろの学(孔子の学。洙泗と同じ。)が広がった」と記されている様に儒教的な思想が広まったのは敏達朝以降と見るのが現実的かと思いますが、それはとにかくとして、⑷の智宗は毛野氏の遠祖、荒田別が連れて来た人物として伝えられ、『新撰姓氏録』右京諸藩上に「出自漢王之後知惣也(漢王の後知惣自のいでしなり)⑹」と記されており、この知惣は⑷の智宗と同じと考えられており、百済系の王族の末裔であり、史の姓に恥じない始祖伝承と言えます。


 ⑵の百尊や右京皇別の田辺氏が豊城入彦命(崇神天皇の子。上毛野氏・下毛野氏の祖)の子孫と伝えられており、⑷の百済系と2系統の田辺氏に別れており、これを同族と見るか、別と見るか、議論は分かれているようですが、前稿で述べましたように、上毛野氏と田辺氏が4世紀後半から5世紀初頭の応神朝頃に馬文化や飼育技術を伝える為、田辺氏の祖等が来日し、その技術や文化は河内から東国へ伝わると共に、田辺氏と毛野氏の祖が結びついたと思われます。


 系譜が複数存在する事は、天平勝宝2年(750年)に田辺史難波たなべのふひとなにわらが上毛野氏を称する頃には本来の系譜を捨て、上毛野氏と同じく豊城入彦命の子孫であると称する事によって上毛野氏を名乗る事が許され、上毛野に入らず河内にとどまった田辺氏の一族にはより古い系譜が残されていたのかも知れません。




◇参考文献

⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/132


⑵『新撰姓氏録』 万多親王

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553144/30


⑶『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣

219ページ


⑷『国史大系. 第2巻 続日本紀』

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991092/387


⑸『新撰名家詩集』塚本哲三 編 有朋堂書店(257コマから『懐風藻』)

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977945/257


⑹『新撰姓氏録』 万多親王

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553144/33

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