笠原小杵を援助した上毛野氏は独立勢力だったのか? 武蔵国造の「反乱」論批判

 前稿で安閑天皇紀の武蔵国造の騒動反乱について、当事者である笠原氏を取り上げましたが、本稿では笠原小杵が頼ったという上毛野氏について分析してみたいと思います。


 上毛野氏は朝廷から派遣された豪族であるとも、上毛野政権とでも称すべき独立勢力であったという両説がありますが、『日本書紀』では上毛野氏に関して前稿の武蔵国造の騒動反乱のみならず、主に朝鮮侵攻や蝦夷討伐に関する数々の逸話が伝えられています。先ずはそれらの記事を取り上げ、上毛野氏が実際はどのような豪族であったのか探っていきたいと思います。



◇上毛野氏の祖先伝承


⑴『日本書紀』巻五崇神天皇四八年(辛未前五〇)正月 戊子十日

四十八年春正月己卯朔戊子。天皇豐城命勅。活目尊曰。汝等二子。慈愛共齊。不知曷爲嗣。各宜夢。朕以夢占之。二皇子於是被命。淨沐而祈寐。各得夢也。會明。兄豐城命以夢辭奏于天皇曰。自登御諸山向東。而八廻弄槍。八廻撃刀。弟活目尊以夢辭奏言。自登御諸山之嶺。繩絚四方。逐食粟雀。則天皇相夢。謂二子曰。兄則一片向東。當治東國。弟是悉臨四方。宜繼朕位。


(四十八年 春正月はるむつきの己卯つちのとのうのついたち戊子つちのえねのひ天皇すめらみことみことのり豐城命とよきのみこと活目尊いくめのみことに曰く。「汝等いましたち二子ふたりのみこ慈愛共うつくしびともひとし。いづれひつぎむことを知らず。おのおのいめみるべし。われいめを以てうらへむ」。二皇子ふたりのみこ是を於ておほみことうけたまはり、淨沐ゆかはあみてみてたり。おのおのいめを得つなり。會明あけほのに、このかみ豐城命とよきのみこといめことばを以て天皇にまうして曰く。「自ら御諸みもろの山に登て東に向ひ、八廻やたび弄槍ほこゆけし。八廻やたび撃刀たちかきす」。おとと活目尊いくめのみこといめことばを以てまうしてまうさく。「自ら御諸の山の嶺に登りて、繩を四方よもへて、粟をすずめる。則ち天皇すめらみこと相夢いめあはせして、二子ふたりのみこかたりて曰く。「兄は則ち一片ひとかたあづまに向きてまさ東國あづまのくにしらすべし。弟は是れあまね四方よもに臨みて、宜しく朕がたかみくらを繼ぐべし」。)


⑵『日本書紀』巻五崇神天皇四八年(辛未前五〇)四月 丙寅十九日

夏四月戊申朔丙寅。立活目尊爲皇太子。以豐城命令治東國。是上毛野君。下毛野君之始祖也。


夏四月なつうづきの戊申朔丙寅ついたちひのえのとらのひ活目尊いくめのみことを立て皇太子ひつぎのみこと爲す。豐城命とよきのみことを以て東國あづまを治めむ。これ上毛野君かみつけのきみ下毛野君しもつけのきみ始祖はじめのおやなり。)


⑴⑵解説

 崇神天皇の御世に、夢の内容によって活目尊いくめのみこと(後の垂仁天皇)を皇太子とし、豊城命を東国に遣わして治めさせましたが、この豊城命が上毛野君かみつけのきみ下毛野君しもつけのきみの始祖と伝えています。ですが、豊城命が東国に赴いた記事は無く、孫の記事が景行天皇紀にあります。



⑶『日本書紀』巻六垂仁天皇五年(丙申前二五)十月己卯朔

五年冬十月己卯朔。天皇幸來目。居於高宮。時天皇枕皇后膝而晝寢。於是。皇后既無成事。而空思之。兄王所謀。適是時也。即眼涙流之落帝面。天皇則寤之。語皇后曰。朕今日夢矣。錦色小蛇。繞于朕頚。復大雨從狹穗發而來之濡面。是何祥也。皇后則知不得匿謀。而悚恐伏地。曲上兄王之反状。因以奏曰。妾不能違兄王之志。亦不得背天皇之恩。告言則亡兄王。不言則傾社稷。是以一則以懼。一則以悲。俯仰喉咽。進退而血泣。日夜懷悒。無所訴言。唯今日也。天皇枕妾膝而寢之。於是。妾一思矣。若有狂婦成兄志者。適遇是時不勞以成功乎。茲意未竟。眼涕自流。則擧袖拭涕。從袖溢之沾帝面。故今日夢也。必是事應焉。錦色小蛇則授妾匕首也。大雨忽發則妾眼涙也。天皇謂皇后曰。是非汝罪也。即發近縣卒。命上毛野君遠祖八綱田。令撃狹穗彦。時狹穗彦與師距之。忽積稻作城。其堅不可破。此謂稻城也。踰月不降。於是皇后悲之曰。吾雖皇后。既亡兄王。何以面目莅天下耶。則抱王子譽津別命。而入之於兄王稻城。天皇更益軍衆。悉圍其城。即勅城中曰。急出皇后與皇子。然不出矣。則將軍八綱田放火焚其城。於焉皇后令懷抱皇子。踰城上而出之。因以奏請曰。妾始所以逃入兄城。若有因妾子免兄罪乎。今不得免乃知妾有罪。何得面縛。自經而死耳。唯妾雖死之。敢勿忘天皇之恩。願妾所掌後宮之事。宜授好仇。丹波國有五婦人。志並貞潔。是丹波道主王之女也。〈道主王者。稚日本根子太日日天皇之孫。彦坐王子也。一云。彦湯産隅王之子也。〉當納掖庭以盈後宮之數。天皇聽矣。時火興城崩。軍衆悉走。狹穗彦與妹共死于城中。天皇於是美將軍八綱田之功。號其名謂倭日向武日向彦八綱田也。


(五年 冬十月ふゆかみなづきの己卯つちのとのうのついたちのひ天皇すめらみこと來目くめいでまして、高宮にします。時に天皇すめらみこと皇后きさきの膝をみまくらにしひるみねませり。是に、皇后既にげたまふ事無く、しかうしてむなしく思はく、兄王このかみのおほきみの謀る所は、ただ是時いまなり。即ち眼涙なみだくだりて帝面みおもてに落つ。天皇則ちめて皇后に語りて曰く。「われ今日けふ夢むらく。錦色にしきなる小蛇すこしきをろち。朕が頚にまつはる。大雨ひさめ狹穗さほよりりて來て面を濡らすとみつる。是れ何もさがならむ」。皇后則ち不得匿謀えかたくしたまふまじきことを知りて、かしこみて地に伏して、つまびらか兄王このかみのおほきみ反状そむけるさままうしたまふ。因りて以てまうして曰く。「やつこ兄王このかみのおほきみの志にたがふこと能はず。また天皇のみうつくしびに背くことを得ず。告言まうさば則ち兄王このかみのおほきみほろぼはむ。まうさずば則ち社稷くにを傾けてむ。是を以て一たびは則ち以ておそれ。一たびは則ち以て悲ぶ。あふぎて喉咽むせび、進退しじまひて血泣いさち、日に夜に懷悒いきどほりて、無所訴言えまうすまじただ今日けふ、天皇妾が膝に枕してみねませり。是に於て、やつこひとはし思へらく。若し狂へるめのこ有りてこのかみこころを成す者ならば、適遇ただいま是の時にいたつかずして以てことけむ。こころ未だをへらず。眼涕なみだ自らくだる。則ち袖を擧げてなみだのごふに、袖よりりて帝面みおもてぬらしつ。今日けふやつこに授けし匕首ひもかたななり。大雨ひさめたちまちるは則ち妾が眼涙なみだなり。天皇皇后すめらみこときさきかたりてのたまはく。「是れいましの罪にあらざるなり」。即ち近縣ちかきほとりつはものおこして、上毛野君かみつけのきみ遠祖とほつおや八綱田やつなたおほせて、狹穗彦さほびこを撃ためたまふ。時に狹穗彦さほびこいくさおこしてふせぐ。たちまちに稻を積みてに作る。其の堅きこと破るべからず。此を稻城いなきと謂ふなり。月をゆるまでしたがはず。是を於て皇后悲びて曰く「吾れ皇后なりといふとも、既に兄王このかみのおほきみうしなひては、何の面目おもてりてか天下あめのしたのぞまむや」。則ち王子みこ譽津別命ほむつわけのみことを抱きて、兄王このかみのおほきみ稻城いなきに入りましぬ。天皇更に軍衆いくさのひとどもを益して、ことごとくに其の城をかくみ、即ち城中きのなかみことのりして曰く「すみやかに皇后と皇子みことを出せ」と。然るに出でまゐらせず。則ち將軍いくさのきみ八綱田やつなた火をけて其の城をく。於焉ここに皇后きさき皇子みこ懷抱うだかしめて、城の上をえて出でたまへり。因りて以て奏請まうして曰く、「やつこ始め兄の城に逃入りし所以ゆゑは、やつこと子に因りて兄の罪をゆるさるること有らむか。今免るることを得ずば、乃ち妾が罪有ることを知りぬ。何ぞ面縛みづからとらはるることを得む。自經わなぎてまかるらくのみ。ただしやつこまかるといふとも、敢て天皇のみうつくしびを忘れじ。願はくは妾がつかさどりし後宮きさきのみやの事は、好仇よきをみなどもたまへ。丹波國たにはのくに五婦人いつとりのをみな有り、志並こころならび貞潔いさぎよし。是れ丹波道主王たにはのちぬしのおほきみむすめなり。〈道主王は、稚日本根子太日日わかやまとねこふとひひの天皇すめらみことみまご彦坐王ひこいますのみこみこなり。一に云ふ、彦湯産隅王ひこゆむすみのみこみこなり。〉まさ掖庭うちつみやめしいれて以て後宮きさきのみやひとかずつかひたまへ」。天皇すめらみことゆるしたまふ。時に火興ひおこくづれて、軍衆悉いくさびとどもことごとくにぐる。狹穗彦さほびこいろもと共に城の中にまかりぬ。天皇是に將軍いくさのきみ八綱田やつなだいさほしめたまひて、其の名をなづけて倭日向武日向彦八綱田やまとひむかたけひむかひこやつなだふ。)


⑶解説

 この記事の前段に、垂仁天皇四年秋九月条に垂仁天皇の皇后(狭穂姫)の同母兄である狭穂彦王が、妹の狭穂姫に垂仁天皇を短剣で殺す様に命じる記事があります。


 ⑶では狭穂姫が天皇を殺そうとしますが殺せず、目を覚ました天皇から、狭穂姫が泣いている夢を見て何かの前兆では無いかと言われ、事が成らぬことを悟った狭穂姫が夢の内容を解析し、狭穂彦王の反逆の意志を伝えます。そして、天皇は上毛野君かみつけのきみの遠祖 八綱田やつなたに命じて、狹穗彦を撃たせました。


 この時、狭穂姫は天下に申し訳が立たないという理由で稲城の中で兄と運命を共にするのですが、後宮に丹波の五婦人を推薦したり、健気な最期を迎えます。愛する兄と天皇の狭間で揺れながら、最後には天皇を立てる事も忘れなかった狭穂姫の姿は感動的でもありますので、小説の題材には持って来いであるかと思いますが、そんな作品はあるのでしょうかね……、と話がズレました。


 垂仁天皇の将軍として活躍するのが上毛野君の祖、八綱田と伝わっています。『古事記』垂仁天皇条では同工異曲の記事があることから記紀で共通の『旧辞』を基礎文献としている事が伺えますが、『古事記』では八綱田の名が伝わっておらず、この人物に関しては所謂「削偽定実いつわりをけずりてまことをさだめ」られた形跡が見受けられ、また、『古事記』の方が文学性が高い事から、『日本書紀』の方が『旧辞』本来の伝承に近い内容が記されているかと思います。




⑷『日本書紀』巻七景行天皇五五年(乙丑一二五)二月 壬辰五日

五十五年春二月戊子朔壬辰。以彦狹嶋王拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑。臥病而薨之。是時。東國百姓悲其王不至。竊盜王尸葬於上野國。


(五十五年 春二月はるきさらぎの戊子つちのえのついたち壬辰みづのえのたつのひ彦狹嶋王ひこさしまのみこを以て東山道ひがしのやまのくに十五國とほあまりいつくに都督かみけたまふ。是れ豐城命とよきのみことみまなり。然るに春日の穴咋あなくひむらに到り。やまひに臥してみまかりぬ。是の時、東國あづま百姓おほみたから其のみこの至らざることをかなしみて。ひそかみこのかばねぬすみ上野國かみつけぬのくにはぶりぬ。)



⑸『日本書紀』巻七景行天皇五六年(丙寅一二六)八月

五十六年 秋八月。詔御諸別王曰。汝父彦狹嶋王。不得向任所而早薨。故汝専領東國。是以御諸別王承天皇命。且欲成父業。則行治之早得善政。時蝦夷騷動。即擧兵而撃焉。時蝦夷首帥。足振邊。大羽振邊。遠津闇男邊等。叩頭而來之。頓首受罪。盡獻其地。因以免降者而誅不服。是以東久之無事焉。由是其子孫於今有東國。


(五十六年 秋八月あきはづき御諸別みもろわけみこみことのりし曰く。「いましかぞ彦狹嶋王ひこさしまのみこ任所ことよさすところまかることを得ず。しかうして早くみまかりぬ。故れいましもは東國あづまをさめよ」。是を以て御諸別王みもろわけのみこ天皇すめらみことおほみことうけたまはりて。まさかぞついでを成むと欲す。すなはち行き治めてすみやか善政よきまつりごとを得つ。時に蝦夷えみしさわとよむ。即ちいくさあげて撃つ。時に蝦夷の首帥ひとごのかみ足振邊あしふりべ大羽振邊おほはふりべ遠津闇男邊とほつくらをべ等。叩頭みてまうけり。頓首をがみて罪をうべなひて、ふつくに其の地をたてまつる。因りて以て降者したがふひとゆるし不服まつらはざるを誅す。是を以てひがしのかたひさしく事無ことなし。是に由て其の子孫うみのこ今に東國あづまに有り。)


⑷⑸解説

 豊城命の孫、彦狹嶋王ひこさしまのみこが病死し、王が来ない事を悲しんだ東国の百姓が王の屍を盗み、上野国に葬られました。その後、彦狹嶋王ひこさしまのみこの子、御諸別王みもろわけのみこが天皇に東国を治める様に命じられ、父の業を成就しようとして東国を治め、善政を引き、騒動を起こした蝦夷を討った。蝦夷の首領達は全ての地を献じたので、降伏したものを許し、服従しないものを誅した。こうして東国は久しく安定し、御諸別王みもろわけのみこの子孫が書記編纂の時代に至っても存在したと書かれています。



⑹『日本書紀』巻十応神天皇十五年(甲辰二八四)八月 丁卯六日

十五年秋八月壬戌朔丁卯。百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。即養於輕坂上厩。因以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。即太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有耶。對曰。有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別。巫別於百濟。仍徴王仁也。其阿直岐者。阿直岐史之始祖也。


(十五年 秋八月あきはづきの壬戌みづのえいぬのついたちの丁卯とのうのひ百濟王くだらのこきぢ阿直岐あちきまだして、良馬よきうま二匹ふたつたてまつる。すなは輕坂上かるのさかのうへのうまやはしむ。より阿直岐あちきを以てつかさどりかはむ。れ其の馬養うまかひところなづけて厩坂うまやさかふなり。阿直岐あちきまた經典ふみめり。即ち太子ひつぎのみこ菟道稚郎子うぢのわきのいらつこみふみよみとしたまふ。是に天皇すめらみこと阿直岐あちきとひて曰く。「いましまされる博士ふみよみひとまたありや」。こたへて曰く。「王仁わにといふひと有り。是 すぐれたり」。時に上毛野君祖かみつけのおみのおや荒田別あらたわけ巫別かむなきわけを百濟につかはして、より王仁わにさしむなり。其の阿直岐あちき阿直岐あちきのふむひと始祖はじめのおやなり。)



⑹解説

 応神天皇の世、百済人の阿直岐あちきが渡来し、経典を読む事に優れていたので、天皇が「お前よりも優れたものが居るのか」と尋ねると、王仁わにと言う者の紹介をした。そこで、上毛野君の祖である荒田別あらたわけ巫別かむなきわけを百済に派遣し、王仁を召した。この王仁を紹介した人物が阿直岐史の始祖であり、王仁来日に上毛野君の祖が関わっていたという内容です。


 群馬県太田市内ケ島町の太田山天神古墳は岡山県岡山市造山古墳、宮崎県西都原女狭穂塚と相似形古墳であり、荒田別が被葬者として考えられています。


 この古墳では長持形石棺ながもちがたせっかんの破片が見つかっており、これは5世紀代の畿内大和政権における大王の古墳、あるいは地方の巨大前方後円墳に採用されている石棺で、このことからも畿内大和政権とのつながりがあり、強大な権力をもった毛野地方における首長の墓であったことをうかがい知ることができます。(参考文献「国指定史跡天神山古墳・国指定史跡女体山古墳」 参照)



◇上毛野氏の新羅討伐。


 以下の記事以外では、神功皇后紀では荒田別が新羅に派遣され、新羅征討を行っていますが、仁徳天皇紀にも新羅征討の記事が見られます。なお、神功皇后紀の記事は過去に「七支刀は何故七枝なのか?」の稿で取り上げましたのでそちらを参考にしてください


⑺『日本書紀』巻十一仁徳天皇五三年(乙丑三六五)五月

五十三年。新羅不朝貢。夏五月。遣上毛野君祖竹葉瀬。令問其闕貢。是道路之間獲白鹿。乃還之献于天皇。更改日而行。俄且重遣竹葉瀬之弟田道。則詔之日。若新羅距者擧兵撃之。仍授精兵。新羅起兵而距之。爰新羅人日日挑戰。田道固塞而不出。時新羅軍卒一人有放于營外。則掠俘之。因問消息。對曰。有強力者。曰百衝。輕捷猛幹。毎爲軍右前鋒。故伺之撃左則敗也。時新羅空左備右。於是。田道連精騎撃其左。新羅軍潰之。因縱兵乘之。殺數百人。即虜四邑之人民以歸焉。


(五十三年。新羅 朝貢みつきたてまつらず。夏五月なつさつき。上毛野君のおや竹葉瀬たかはせつかはして、その闕貢みつきたてまつることを問はむ。是の道路みちの間に白鹿しろきかつ。すなはかへりて天皇すめらみことたてまつる。更に日を改めて行く。俄且しばらくありてかさねて竹葉瀬のおとと田道たぢを遣して、則ちみことのりしてのたまはく。「新羅しらきふせかばいくさを擧げて撃て」。より精兵すぐれるいくさ授けたまふ。新羅しらきいくさを起してふせぐ。ここ新羅人しらきひと日日ひびに挑み戰ふ。田道たぢそこを固めて出でず。時に新羅の軍卒一人いくさびとひとり營外いほりのといでたるもの有り。則ち掠俘とらふより消息あるかたちを問ふ。こたへてまうさく。「強力者ちからひと有り。百衝ももつきふ。かろくしてたけつよし。つねいくさみぎのかた前鋒さき爲れり。かれうかがひてひだりのかたを撃たば則ち敗れなむ」。時に新羅しらきひだりのかたむなしくみぎのかたそなふ。是に、田道たぢ精騎すぐれるうまいくさを連れて其のひだりのかたを撃つ。新羅軍しらきのいくさにげあかれぬ。因りていくさはなちてみて、數百人ももあまりのひとを殺しつ。即ち四邑よつのむらの人民たみとらへて以てかへる。)


⑺解説

 五十三年。新羅が朝貢しなかったので、上毛野君のおや竹葉瀬たかはせつかはして、その貢を行う様に問うた。しばらくして竹葉瀬の弟の田道たぢを遣して、「もし新羅が防戦しようとするなら兵をあげて討て」と詔し、精兵を授けた。

 新羅は兵をだして防戦した。ここに新羅人は日々に戦いを挑んできたが、田道は塞を固めて出なかった。ある時に新羅兵の一人が陣営の外に出て来たので、すぐに捉えた。そして消息を問うと「強力者ちからひとが有り。百衝ももつきと言う。軽快で猛々しく強い。常に軍の右翼の先鋒に居り、故に様子を伺って左翼を討てばすぐに敗れる」と答えた。

 ある時に新羅は左翼が空いており、右翼に備えがある。是に、田道は精れた騎兵を連れてその左翼を討った。新羅軍は潰走し、そこで兵を放って入り乱れ、数百人を殺し、四邑の人民を虜囚として連れて帰った。


 この話や神功皇后紀の荒田別による新羅征討記事などは、舒明天皇九年に登場する上毛野氏の祖の話と関りがあると考えられることから、古くから伝わっていた可能性があります。


 竹葉瀬の出自は『新撰姓氏録』によれば崇神天皇の御子、豊城入彦命の五世孫であり、田道も同じ出自で止美連とみのむらじといい、同じ半島系であり、なかでも百済とは密接なかかわりが指摘できるようですが、本伝承のごとく、この二人が兄弟という確実な証拠は見出せません。


 なお、兄の残した課題を弟が解決するという形の類話は神武天皇・日本武尊などに見られ、この形態で語られる英雄譚の一つと言えます。




◇上毛野氏の蝦夷征討


 既に⑸の記事でも蝦夷征討記事をご紹介しましたが、それ以外にも複数蝦夷征討記事が見られます。


⑻『日本書紀』巻十一仁徳天皇五五年(丁卯三六七)

五十五年。蝦夷叛之。遣田道令撃。則爲蝦夷所敗。以死于伊寺水門。時有從者。取得田道之手纒與其妻。乃抱手纒而縊死。時人聞之流涕矣。是後蝦夷亦襲之略人民。因以掘田道墓。則有大蛇發瞋目自墓出。以咋蝦夷悉被蛇毒而多死亡。唯一二人得兔耳。故時人云。田道雖既亡遂報讎。何死人之無知耶。


(五十五年。蝦夷えみしそむきぬ。田道たぢを遣して撃たたまふ。則ち蝦夷の爲めに敗れられて、以て伊寺水門いしのみとに死す。時に從者つかひびと有り。田道の手纒たてまきを取り得て其のあたふ。乃ち手纒たまきを抱きてわなき死ぬ。時の人聞きて流涕かなしぶ。是後こののちに蝦夷亦襲ひて人民おほみたからかすむ。因て以て田道が墓を掘る。則ち大なるをろち有て、目を發瞋いからして墓自ら出で、以て蝦夷をくらふ。ことごとくをろちあしきいきかうぶりて多く死亡す。唯一二ただひとりふたり人兔ひとまぬかるることを得たるのみ。故に時の人の云はく。「田道既ににきといへどつひあたむくゆ。何ぞ死人しにたるひとさとり無からんや」。)


・⑻解説

 蝦夷が叛いたので上毛野君の田道が派遣されたものの、蝦夷に敗れて敗死した。従者が田道の妻に遺品の手纒を渡すと、それを抱きながら死んでしまった。その後、蝦夷は人民を襲い、田道の墓を掘ったところ、蛇が現れて蝦夷を喰らい、毒を吐き、多くの死者が出た。時の人は「田道は死んでも仇に報いた。どうして死んだ人に知覚が無いと言えよう」と噂しました。


 ⑺では新羅を征討して凱旋した田道が⑻ではあっさりと蝦夷に敗死し、蛇となって蝦夷に復讐を果たすという筋です。『古事記』には無い内容なので、『旧辞』ではなく、持統天皇五年八月辛亥(六九一年八月十三日)に上進したという毛野氏の墓記おくつきのふみを基にした思われ、伝承性が強く、史実とは思えませんが、実際に毛野氏の祖と蝦夷の間で戦があり、毛野氏側に大きな損害があったという出来事が説話的に表現されているものかも知れません。この話も日本武尊が先ずは西征で勝利を得ながらも、東伐で敗れる事と共通し、死後は白鳥と化したという人外への変化まで共通しており、英雄譚の一つの形態と言えます。


 

⑼『日本書紀』巻二三舒明天皇九年(六三七)是歳

是歳。蝦夷叛以不朝。即拜大仁上毛野君形名。爲將軍令討。還爲蝦夷見敗而走入壘。遂爲賊所圍。軍衆悉漏城空之。將軍迷不知所如。時日暮踰垣欲逃。爰方名君妻歎曰。慷哉。爲蝦夷將見殺。謂夫曰。汝祖等。渡蒼海。跨萬里。平水表政。以威武傳於後葉。今汝頓屈先祖之名。必爲後世見嗤。乃酌酒強之令飮夫。而親佩夫之劔。張十弓。令女人數十俾鳴弦。既而夫更起之取伏仗而進之。蝦夷以爲。軍衆猶多。而稍引退之。於是。散卒更聚。亦振旅焉。撃蝦夷大敗以悉虜。


(是の歳。蝦夷えみしそむきて以てまゐらず。即ち大仁だいにん上毛野君形名かみけぬのきみかたなして、將軍いくさのきみとして討たむ。かへりて蝦夷のめに敗られるを見て走てそこに入る。遂にあだの爲めにかくまる。軍衆いくさのひとどもことごとくにげりて城空きむなし。將軍迷いくさのきみまよひ所如せむすべを知らず。時に日暮れかきえて逃げむと欲す。ここ方名君かたなのきみの妻歎きて曰く。「慷哉うれたきかな。蝦夷のめに殺さ見將れむとするところ」。をうとかたりいはく。「いまし祖等おやたち蒼海あをうなばらを渡て。萬里とほきみちあふどこびて。水表をちかたのまつりごとをひらむけし。威武かしこくたけきを以て後のつたへき。今汝頓いまいましひたぶる先祖おやの名をくぢかば。必ず後の世の爲めにわらなむ」。乃ち酒を酌みひて夫に飮せて。しかうして親を夫がつるぎを佩き。十の弓を張て。女人めのこ數十とをあまるのりごとしてゆるを鳴てさしむ。既にして夫更にたち伏仗をけるつはもの取て進む。蝦夷えみし以爲おもへらく。軍衆いくさびとほ多しと。やうやくに引て退りぬ。是に於いて、散卒あられいくさども更にあつまり。また振旅いくさととのふ。蝦夷を撃ておほきに敗りて以てことごとくとりこにす。)


・⑼解説

 蝦夷が叛いたので大仁だいにん上毛野君形名かみけぬのきみかたなが将軍として蝦夷征討に向かうが、敗れて賊に囲まれ、兵たちは皆逃げて城は空になってしまった。将軍は迷い、日が暮れると逃げようとすると、妻が嘆き、「蝦夷の手にかかって死ぬなど悔しい」と言い「あなたの祖は青海原を渡り、万里の道を踏み越えて、海の彼方の国を平らげ、武勇を後の世にまで広げました。今あなたが先祖の名を汚せば、必ず後世の笑い者になります」と言って、夫に酒を飲む事を強いて、みずから夫の剣を佩き、十の弓を張った。女子数十人に号令して、女にその弦を鳴らさせると、夫は立ち上がり、武器を取って進撃した。蝦夷はなお軍勢が多いと思い、少し引き下がった。ここで散り散りになった兵がまた集まり、隊を整え、蝦夷を討って大いに破り、悉く虜囚とした。


 何とも凄まじい形名の奥さんの逸話は、寧ろ戦国時代に出て来そうな女傑を想像させますが、これも説話と解釈されているそうです。只、西暦六三七年と時代的にはそれ程古くない記事であり、少なくても蝦夷と戦を行っていた事は史実かと思います。

 「汝祖等。渡蒼海。跨萬里。平水表政。以威武傳於後葉。」が神功皇后紀の荒田別や、仁徳天皇紀の田道の事(⑺の記事参照)を指しているとすれば、荒田別や田道の伝承は古くから存在したのかも知れません。


 余談ですが、諏訪大社では蟇目鳴弦ひきめめいげんと呼ばれる弓の弦を鳴らして邪を祓う儀式がありますが、元々は本記事の様に弦を鳴らして大軍に見せかける事で敵を追い払うということが戦場で実際にあったか、あるいはその逸話を参考にして誕生した儀式なのかも知れません。あるいは、逆に儀式の方を戦闘描写に取り入れた。という可能性も考えられますね。




◇毛野氏は朝廷に服属していなかったという説

 石井良助氏は⑺、⑻にみえる竹葉瀬、及び弟田道、⑼にみえる形名のことなどは説話に過ぎず、書記編纂に際して、上毛野氏によって提供されたものに他ならぬとし、これらの記事から上毛野氏が大和王権の支配下にあったとは考えられないとし、ただ例外として安閑天皇元年閏十二月条ににみえる武蔵国造の争いで、笠原小杵が上毛野小熊に援助を求めて使主を殺そうとしたが、使主は逃走して朝廷に訴え、朝廷は使主を国造として、小杵を殺したという記事を上げ、小杵が上毛野君に援助を求めた事、また小杵が殺されても援助した小熊はなんら処罰されなかったことから、上毛野君の東国における地位と大和朝廷に対する関係を憶測し、たとえその勢力が減退していたとしても、大化に至るまで独立国として大和朝廷と対立していたという説を唱えました。⑽


 この「大化に至るまで独立していた」という部分が独り歩きし、例えば武光誠氏の解説書にこの部分だけ切り取って引用されていました。昔流行った所謂「九州王朝説」の亡霊も相まって一般読者の中には信じてしまう方も居るかも知れませんが、石井氏の説をきちんと見る限りではこれを信用するのは如何なのか? と疑問に思わざるを得ません。


 例えば石井氏が取り上げた竹葉瀬、田道、形名らの話が上毛野氏によって提出された伝承である事は理解出来ますが、この伝承を以て上毛野氏が独立していたと見るのは想像の飛躍としか言えませんし、安閑天皇紀の記事で小熊が処罰された記事が無いのは、上毛野氏の提出した墓記おくつきのふみなどの記事が基であったと仮定すれば、不都合なことは載せないのは当たり前です。そもそも、『古事記』にも載っていない記事なので、『旧辞』や『帝紀』にも無く、磐井の乱の様に大きな反乱では無く、『古事記』には載せる程のものではなかったと推定できますし、ましてや独立勢力などと言う程大袈裟なものでは無かったのでしょう。


 他にも、井上光貞氏は石井説の様に毛野国を独立国とまではみなくても、東国の行政組織が未熟であり、そのなかで毛野国の勢力が強かったとすれば、その半独立性の失われたのは大化の時とみて⑾、又、六世紀には、まだ大和朝廷による毛野の経営が充分はかどっていなかったと考え、⑶の上毛野君八網田が狭穂彦王の謀反の平定に功を立てた事、⑹の荒田別・巫別が百済を渡って王仁を連れて来た事、竹葉瀬と、弟田道が新羅と蝦夷を征討した事⑺⑻などは上毛野氏の墓記おくつきのふみから出たものである事、⑴⑷⑸の伝承も上毛野氏から出たものであって、これらの伝承のはじめの部分は造作であり、全体として七世紀以降の潤色が濃厚であろう⑿と考えました。


 どの話も説話じみており、潤色が含まれていることは確かかと思いますが、井上氏が何を以って七世紀以降の潤色と主張しているのか、基準がよく分かりません。例えば推古朝の遺文と文章が似ているといった、具体的なエビデンスがありません。旧辞に無いから墓記から出たものであり、持統朝以後の編纂過程に取り入れられた疑いが濃厚であるという言い分⑿は理解出来ますが、それら全ての内容に関する史実性は別の問題と言えます。


 又、荒田別の話は伝承と解されていますが、太田天神山古墳の被葬者とも見られていることや、過去の稿で取り上げた様に、七支刀が七枝の理由は、荒田別等が平定した新羅の七国を指すという説⒀と関連して考えると、荒田別も伝承の存在であるとばかりは言い切れず、寧ろ実在の可能性は高いのではないでしょうか。


 しかし、井上氏の説を受け、関晃氏は毛野における名代・子代の分布に注目し、白髪部以降の舎人部系統のものなので、毛野の服属は五世紀末或いは六世紀初頭以降である⒁という説を唱えましたが、これは参考にすべきです。


 補足すると、『古事記』では雄略天皇条と清寧天皇条、『日本書紀』では清寧天皇紀には白髪部が設置された記事があり、継体天皇紀でも大伴金村が白髪部について言及しているので、関氏が毛野の服属時期を五世紀末或いは六世紀初頭以降とするのは、雄略あるいは清寧から継体天皇の時代までの間に白髪部が設置されたとお考えだったのかと思います。


 なお、継体天皇紀の白髪部の記事については「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(9) 元祖キングメーカー大伴金村①」で『日本書紀』巻十七継体天皇元年(丁亥五〇七)二月 庚子十日を取り上げているのでそちらをご覧ください。


 因みに、舎人とは東国を中心に国造または一族から大和王権に貢進され、名代・子代として天皇・皇族に隷属し、近習・護衛にあたったものであると言われています。⒂




◇馬文化の移動から毛野氏の動きを読み解く。

 佐伯有清氏などの本来(土着)の上毛野氏と帰化系の上毛野氏で峻別しようとする説⒃に対し、日朝関係の古代史研究で著名な三品彰英氏は、「上毛野氏が始祖として豊城入彦命を系譜に加上したのは、書記編纂時代で、多奇波世(竹葉瀬)や荒田別の子孫とする伝承の方がより古く、河内の帰化系氏族と東国の上毛野・下毛野の諸氏が、荒田別の子孫と結びついていることは、かつて馬文化の荷担当者が河内方面から東国へと、その文化を伝播させたことを想定せしめ、かつ騎馬戦をよくした田道が半島方面と東国方面に活動している伝説も、右の歴史的事実に照応するもので、帰化系の田辺氏が皇別に入っているのも、そうした歴史を背景として造られたものである」⒄という説を唱えました。


 これは中々説得力があり、大和からみれば遥か東の国造である上毛野氏なのに、何故朝鮮征討の記事が多いのか理由の裏付けになります。⑺の記事で「田道連精騎撃其左」とある様に、上毛野氏が馬や騎兵技術に優れていた事を表しているのは、広開土王の時代、騎馬戦の能力が低かった倭国が高句麗に敗退した後、馬の飼育が急務になった倭国が馬の生産地として東国を選び、それを担ったのが毛野氏であり、毛野氏に馬の技術を伝えたのが渡来人であり、これらの結びつきが強く、何時しか大和王権・毛野氏・渡来人が結びついて同じ一族であると語られる様になっていったという事が考えられます。


 これら三品氏と関氏の説を併せて導きだせる毛野氏の経歴を想像すると以下の流れになります。


①4世紀後半から5世紀初頭の神功から応神朝頃に馬文化や飼育技術を伝える為、田辺氏の祖等が来日。

②その技術や文化は河内から東国へ伝わると共に、田辺氏と毛野氏の祖が結びつく。

③5世紀後半以降(雄略か清寧、遅くても継体天皇の時代までの間)、毛野に白髪部が設置され、皇室へ舎人を派遣するようになる。


 この流れをみると6世紀の武蔵国造の騒乱時に、毛野が独立地域だったと考えるのはやはり無理があると思います。武蔵国に屯倉が置かれるよりも以前に上毛野に名代が置かれていることは、武蔵国造よりも大和王権寄りであったと言えます。だとすれば、笠原小杵の意図としては、上毛野君に軍事的な援助を求めたのではなく、寧ろ大和王権に自分を認めさせる為に上毛野君にロビー活動を頼んでいたとも解釈出来ます。




◇騒乱の主体は小杵VS使主ではなく、上毛野氏VS阿倍氏?(若干想像混じってます)


 上毛野小熊が処分されなかったのは、笠原小杵に兵を貸したのではなく、小杵に加担して使主を殺そうとした訳でも無く、単なるロビイストに過ぎなかった為であり、逆に笠原使主の方は大和王権により強力な後ろ盾、具体的に上げるのであれば、同族と言われている阿倍臣の阿倍大麻呂大夫とのパイプの存在により、政争で勝利を得たのではないかと個人的には推測しています。


 阿倍臣は大彦命を祖とする一族で、東国に多くの同族が存在しました。阿倍大麻呂大夫の大夫まえつきみは大臣・大連に次ぐ地位、つまり大伴大連・物部大連・蘇我大臣に次ぐ、大和王権の家臣ナンバー4の地位になったので、その政治力は上毛野氏よりも上回っていたかと思われます。安閑天皇直後の時代である、宣化天皇元年(五三六)夏五月に阿倍臣(大麻呂か?)は物部麁鹿火、蘇我稲目等と並び、屯倉の稲を配下の豪族に運ばせるという大王と同等の役割を行っています。


 若干想像を逞しくすれば、武蔵国造の騒乱の主体は小杵VS使主ではなく、上毛野氏と阿倍氏との東国の利権に関するイニシアティブ争いであった可能性もあります。阿倍氏の同族である笠原使主に屯倉の地を献上させ、大和王権に国造の地位を保証されることにより、北武蔵から上毛野氏の影響力を排除させる狙いがあり、また、武蔵国の複数地域の屯倉を献上させた功績により、阿倍大麻呂は大和王権において大夫の地位を得られたのかも知れません。


 過去の稿でも述べましたように、大伴金村・蘇我稲目等は地方豪族に屯倉の地を献上させる事により、その地位を確立・維持していたと思われるので、阿倍臣も彼らに習っていたとしても不思議ではありません。




◇武蔵国造のと表現するのはあやまりでは?

 この様にして見ていくと、解説書でたまに見かける様な、安閑天皇紀の武蔵国造の権力闘争を武蔵国造の「反乱」或いは「乱」などと表現する事に違和感があります。この呼び方だと、後世の平将門の如く、独立王国の樹立を目指して戦争でもしたのかと疑ってしまい、【大和王権+使主】VS【上毛野氏+小杵】などと大袈裟に捉えて語る向きもありますが、それは小説の如き妄想でしかありません。


 『日本書紀』の記述をよくよく見れば、戦いの記録は一切無く、唯一人、笠原小杵の血が流れたに過ぎません。反乱であれば、大和王権に対して反旗を翻して戦闘が行われた事が記されているハズですが、そう言った記述は記紀にも他の文献にも一切見かけませんし、裏付けする遺構も発見されていません。それに、今まで見てきたように、小杵が頼りにした上毛野氏はとっくに大和王権の支配下に組み込まれていました。


 『日本書紀』が都合の悪い事実を隠しているという、確たるエビデンスも無い、お決まりの禅問答の様な主張をする方も居るかも知れませんが、吉備臣にせよ、筑紫君にせよ、反乱を起こした豪族は軍勢を動かしている描写があるのにも関わらず、上毛野君だけ軍勢を動かした描写が無いのは、事実、上毛野君が大和王権に逆らうような事は無かっただけとしか言いようがありません。上毛野君小熊が何も罰されていない事や、今までご紹介させて頂いた様に、寧ろ大和王権の先兵として朝鮮や蝦夷を討伐していた記事が殆どなのは、その裏付けとなります。その為、上毛野君は関係なく、戦すら行われなかったので、笠原氏の内紛に過ぎず、これを「反乱」と表現するのは的外れな感が否めません。(但し、前稿でも述べましたように「笠原」は使主が南武蔵から北武蔵に移動した時に地名の「加佐波良」に因んで名乗ったのかと思われるので、過去には国造の通例通り「胸刺」を名乗っていたのではないかと推測しています)


 後世で例えれば「お家騒動」と言ったところで、所謂江戸時代の三大お家騒動(加賀騒動、黒田騒動、伊達騒動)で、幕府に対して兵を出して抵抗したという記録がないのと同じなので、「武蔵国造の騒動」と言った表現の方が誤解を招かずに、相応しい表現では無いかと個人的には感じています。



◇参考文献

⑴⑵『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/65


⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/68

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/69


⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/83

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/84


⑸『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/84


⑹『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/100


⑹解説

『先代旧事本紀[現代語訳]』 安本美典【監修】志村裕子【訳】 雄山閣 576ページ


⑹解説

「国指定史跡天神山古墳・国指定史跡女体山古墳」 (PDF)(太田市作成リーフレット)太田市教育委員会教育部文化財課。

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/kankoubutu/files/shi02.tenjinyama.leaf.pdf


⑺『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/111


⑺解説

『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 200頁


⑻『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/111


⑼『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/210

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/211


⑽『大化改新と鎌倉幕府の成立 増補版(法制史論第一巻)』石井良助 創文社 57-63頁

「東國と西國 ―上代および上世における―」


⑾『大化改新』井上光貞 要書房 104頁

「第四章 国造制の地域的多様性 東国の特殊性」


⑿『萬葉集大成 5巻 歴史社会篇』平凡社 327-328頁

所収「古代の東国」井上光貞


⒀『日本建築史』福山敏男 墨水書房 540頁

「石上神宮七支刀の銘文 再補」


⒁⒄『日本書紀㈠』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 415-416頁

「補注(五巻)五 上毛野・下毛野の始祖」


⒂『日本書紀㈡』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 444頁

「補注(十一巻)六 舎人」


⒃『新撰抄氏録の研究(研究篇)』佐伯有清 吉川弘文館 490-506頁

「附篇 日本古代氏族の諸問題 第三 上毛野氏の性格と田邊氏」

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