笠原小杵を援助した上毛野氏は独立勢力だったのか? 武蔵国造の「反乱」論批判
前稿で安閑天皇紀の武蔵国造の
上毛野氏は朝廷から派遣された豪族であるとも、上毛野政権とでも称すべき独立勢力であったという両説がありますが、『日本書紀』では上毛野氏に関して前稿の武蔵国造の
◇上毛野氏の祖先伝承
⑴『日本書紀』巻五崇神天皇四八年(辛未前五〇)正月
四十八年春正月己卯朔戊子。天皇豐城命勅。活目尊曰。汝等二子。慈愛共齊。不知曷爲嗣。各宜夢。朕以夢占之。二皇子於是被命。淨沐而祈寐。各得夢也。會明。兄豐城命以夢辭奏于天皇曰。自登御諸山向東。而八廻弄槍。八廻撃刀。弟活目尊以夢辭奏言。自登御諸山之嶺。繩絚四方。逐食粟雀。則天皇相夢。謂二子曰。兄則一片向東。當治東國。弟是悉臨四方。宜繼朕位。
(四十八年
⑵『日本書紀』巻五崇神天皇四八年(辛未前五〇)四月
夏四月戊申朔丙寅。立活目尊爲皇太子。以豐城命令治東國。是上毛野君。下毛野君之始祖也。
(
⑴⑵解説
崇神天皇の御世に、夢の内容によって
⑶『日本書紀』巻六垂仁天皇五年(丙申前二五)十月己卯朔
五年冬十月己卯朔。天皇幸來目。居於高宮。時天皇枕皇后膝而晝寢。於是。皇后既無成事。而空思之。兄王所謀。適是時也。即眼涙流之落帝面。天皇則寤之。語皇后曰。朕今日夢矣。錦色小蛇。繞于朕頚。復大雨從狹穗發而來之濡面。是何祥也。皇后則知不得匿謀。而悚恐伏地。曲上兄王之反状。因以奏曰。妾不能違兄王之志。亦不得背天皇之恩。告言則亡兄王。不言則傾社稷。是以一則以懼。一則以悲。俯仰喉咽。進退而血泣。日夜懷悒。無所訴言。唯今日也。天皇枕妾膝而寢之。於是。妾一思矣。若有狂婦成兄志者。適遇是時不勞以成功乎。茲意未竟。眼涕自流。則擧袖拭涕。從袖溢之沾帝面。故今日夢也。必是事應焉。錦色小蛇則授妾匕首也。大雨忽發則妾眼涙也。天皇謂皇后曰。是非汝罪也。即發近縣卒。命上毛野君遠祖八綱田。令撃狹穗彦。時狹穗彦與師距之。忽積稻作城。其堅不可破。此謂稻城也。踰月不降。於是皇后悲之曰。吾雖皇后。既亡兄王。何以面目莅天下耶。則抱王子譽津別命。而入之於兄王稻城。天皇更益軍衆。悉圍其城。即勅城中曰。急出皇后與皇子。然不出矣。則將軍八綱田放火焚其城。於焉皇后令懷抱皇子。踰城上而出之。因以奏請曰。妾始所以逃入兄城。若有因妾子免兄罪乎。今不得免乃知妾有罪。何得面縛。自經而死耳。唯妾雖死之。敢勿忘天皇之恩。願妾所掌後宮之事。宜授好仇。丹波國有五婦人。志並貞潔。是丹波道主王之女也。〈道主王者。稚日本根子太日日天皇之孫。彦坐王子也。一云。彦湯産隅王之子也。〉當納掖庭以盈後宮之數。天皇聽矣。時火興城崩。軍衆悉走。狹穗彦與妹共死于城中。天皇於是美將軍八綱田之功。號其名謂倭日向武日向彦八綱田也。
(五年
⑶解説
この記事の前段に、垂仁天皇四年秋九月条に垂仁天皇の皇后(狭穂姫)の同母兄である狭穂彦王が、妹の狭穂姫に垂仁天皇を短剣で殺す様に命じる記事があります。
⑶では狭穂姫が天皇を殺そうとしますが殺せず、目を覚ました天皇から、狭穂姫が泣いている夢を見て何かの前兆では無いかと言われ、事が成らぬことを悟った狭穂姫が夢の内容を解析し、狭穂彦王の反逆の意志を伝えます。そして、天皇は
この時、狭穂姫は天下に申し訳が立たないという理由で稲城の中で兄と運命を共にするのですが、後宮に丹波の五婦人を推薦したり、健気な最期を迎えます。愛する兄と天皇の狭間で揺れながら、最後には天皇を立てる事も忘れなかった狭穂姫の姿は感動的でもありますので、小説の題材には持って来いであるかと思いますが、そんな作品はあるのでしょうかね……、と話がズレました。
垂仁天皇の将軍として活躍するのが上毛野君の祖、八綱田と伝わっています。『古事記』垂仁天皇条では同工異曲の記事があることから記紀で共通の『旧辞』を基礎文献としている事が伺えますが、『古事記』では八綱田の名が伝わっておらず、この人物に関しては所謂「
⑷『日本書紀』巻七景行天皇五五年(乙丑一二五)二月
五十五年春二月戊子朔壬辰。以彦狹嶋王拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑。臥病而薨之。是時。東國百姓悲其王不至。竊盜王尸葬於上野國。
(五十五年
⑸『日本書紀』巻七景行天皇五六年(丙寅一二六)八月
五十六年 秋八月。詔御諸別王曰。汝父彦狹嶋王。不得向任所而早薨。故汝専領東國。是以御諸別王承天皇命。且欲成父業。則行治之早得善政。時蝦夷騷動。即擧兵而撃焉。時蝦夷首帥。足振邊。大羽振邊。遠津闇男邊等。叩頭而來之。頓首受罪。盡獻其地。因以免降者而誅不服。是以東久之無事焉。由是其子孫於今有東國。
(五十六年
⑷⑸解説
豊城命の孫、
⑹『日本書紀』巻十応神天皇十五年(甲辰二八四)八月
十五年秋八月壬戌朔丁卯。百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。即養於輕坂上厩。因以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。阿直岐亦能讀經典。即太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有耶。對曰。有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別。巫別於百濟。仍徴王仁也。其阿直岐者。阿直岐史之始祖也。
(十五年
⑹解説
応神天皇の世、百済人の
群馬県太田市内ケ島町の太田山天神古墳は岡山県岡山市造山古墳、宮崎県西都原女狭穂塚と相似形古墳であり、荒田別が被葬者として考えられています。
この古墳では
◇上毛野氏の新羅討伐。
以下の記事以外では、神功皇后紀では荒田別が新羅に派遣され、新羅征討を行っていますが、仁徳天皇紀にも新羅征討の記事が見られます。なお、神功皇后紀の記事は過去に「七支刀は何故七枝なのか?」の稿で取り上げましたのでそちらを参考にしてください
⑺『日本書紀』巻十一仁徳天皇五三年(乙丑三六五)五月
五十三年。新羅不朝貢。夏五月。遣上毛野君祖竹葉瀬。令問其闕貢。是道路之間獲白鹿。乃還之献于天皇。更改日而行。俄且重遣竹葉瀬之弟田道。則詔之日。若新羅距者擧兵撃之。仍授精兵。新羅起兵而距之。爰新羅人日日挑戰。田道固塞而不出。時新羅軍卒一人有放于營外。則掠俘之。因問消息。對曰。有強力者。曰百衝。輕捷猛幹。毎爲軍右前鋒。故伺之撃左則敗也。時新羅空左備右。於是。田道連精騎撃其左。新羅軍潰之。因縱兵乘之。殺數百人。即虜四邑之人民以歸焉。
(五十三年。新羅
⑺解説
五十三年。新羅が朝貢しなかったので、上毛野君の
新羅は兵をだして防戦した。ここに新羅人は日々に戦いを挑んできたが、田道は塞を固めて出なかった。ある時に新羅兵の一人が陣営の外に出て来たので、すぐに捉えた。そして消息を問うと「
ある時に新羅は左翼が空いており、右翼に備えがある。是に、田道は精れた騎兵を連れてその左翼を討った。新羅軍は潰走し、そこで兵を放って入り乱れ、数百人を殺し、四邑の人民を虜囚として連れて帰った。
この話や神功皇后紀の荒田別による新羅征討記事などは、舒明天皇九年に登場する上毛野氏の祖の話と関りがあると考えられることから、古くから伝わっていた可能性があります。
竹葉瀬の出自は『新撰姓氏録』によれば崇神天皇の御子、豊城入彦命の五世孫であり、田道も同じ出自で
なお、兄の残した課題を弟が解決するという形の類話は神武天皇・日本武尊などに見られ、この形態で語られる英雄譚の一つと言えます。
◇上毛野氏の蝦夷征討
既に⑸の記事でも蝦夷征討記事をご紹介しましたが、それ以外にも複数蝦夷征討記事が見られます。
⑻『日本書紀』巻十一仁徳天皇五五年(丁卯三六七)
五十五年。蝦夷叛之。遣田道令撃。則爲蝦夷所敗。以死于伊寺水門。時有從者。取得田道之手纒與其妻。乃抱手纒而縊死。時人聞之流涕矣。是後蝦夷亦襲之略人民。因以掘田道墓。則有大蛇發瞋目自墓出。以咋蝦夷悉被蛇毒而多死亡。唯一二人得兔耳。故時人云。田道雖既亡遂報讎。何死人之無知耶。
(五十五年。
・⑻解説
蝦夷が叛いたので上毛野君の田道が派遣されたものの、蝦夷に敗れて敗死した。従者が田道の妻に遺品の手纒を渡すと、それを抱きながら死んでしまった。その後、蝦夷は人民を襲い、田道の墓を掘ったところ、蛇が現れて蝦夷を喰らい、毒を吐き、多くの死者が出た。時の人は「田道は死んでも仇に報いた。どうして死んだ人に知覚が無いと言えよう」と噂しました。
⑺では新羅を征討して凱旋した田道が⑻ではあっさりと蝦夷に敗死し、蛇となって蝦夷に復讐を果たすという筋です。『古事記』には無い内容なので、『旧辞』ではなく、持統天皇五年八月辛亥(六九一年八月十三日)に上進したという毛野氏の
⑼『日本書紀』巻二三舒明天皇九年(六三七)是歳
是歳。蝦夷叛以不朝。即拜大仁上毛野君形名。爲將軍令討。還爲蝦夷見敗而走入壘。遂爲賊所圍。軍衆悉漏城空之。將軍迷不知所如。時日暮踰垣欲逃。爰方名君妻歎曰。慷哉。爲蝦夷將見殺。謂夫曰。汝祖等。渡蒼海。跨萬里。平水表政。以威武傳於後葉。今汝頓屈先祖之名。必爲後世見嗤。乃酌酒強之令飮夫。而親佩夫之劔。張十弓。令女人數十俾鳴弦。既而夫更起之取伏仗而進之。蝦夷以爲。軍衆猶多。而稍引退之。於是。散卒更聚。亦振旅焉。撃蝦夷大敗以悉虜。
(是の歳。
・⑼解説
蝦夷が叛いたので
何とも凄まじい形名の奥さんの逸話は、寧ろ戦国時代に出て来そうな女傑を想像させますが、これも説話と解釈されているそうです。只、西暦六三七年と時代的にはそれ程古くない記事であり、少なくても蝦夷と戦を行っていた事は史実かと思います。
「汝祖等。渡蒼海。跨萬里。平水表政。以威武傳於後葉。」が神功皇后紀の荒田別や、仁徳天皇紀の田道の事(⑺の記事参照)を指しているとすれば、荒田別や田道の伝承は古くから存在したのかも知れません。
余談ですが、諏訪大社では
◇毛野氏は朝廷に服属していなかったという説
石井良助氏は⑺、⑻にみえる竹葉瀬、及び弟田道、⑼にみえる形名のことなどは説話に過ぎず、書記編纂に際して、上毛野氏によって提供されたものに他ならぬとし、これらの記事から上毛野氏が大和王権の支配下にあったとは考えられないとし、ただ例外として安閑天皇元年閏十二月条ににみえる武蔵国造の争いで、笠原小杵が上毛野小熊に援助を求めて使主を殺そうとしたが、使主は逃走して朝廷に訴え、朝廷は使主を国造として、小杵を殺したという記事を上げ、小杵が上毛野君に援助を求めた事、また小杵が殺されても援助した小熊はなんら処罰されなかったことから、上毛野君の東国における地位と大和朝廷に対する関係を憶測し、たとえその勢力が減退していたとしても、大化に至るまで独立国として大和朝廷と対立していたという説を唱えました。⑽
この「大化に至るまで独立していた」という部分が独り歩きし、例えば武光誠氏の解説書にこの部分だけ切り取って引用されていました。昔流行った所謂「九州王朝説」の亡霊も相まって一般読者の中には信じてしまう方も居るかも知れませんが、石井氏の説をきちんと見る限りではこれを信用するのは如何なのか? と疑問に思わざるを得ません。
例えば石井氏が取り上げた竹葉瀬、田道、形名らの話が上毛野氏によって提出された伝承である事は理解出来ますが、この伝承を以て上毛野氏が独立していたと見るのは想像の飛躍としか言えませんし、安閑天皇紀の記事で小熊が処罰された記事が無いのは、上毛野氏の提出した
他にも、井上光貞氏は石井説の様に毛野国を独立国とまではみなくても、東国の行政組織が未熟であり、そのなかで毛野国の勢力が強かったとすれば、その半独立性の失われたのは大化の時とみて⑾、又、六世紀には、まだ大和朝廷による毛野の経営が充分はかどっていなかったと考え、⑶の上毛野君八網田が狭穂彦王の謀反の平定に功を立てた事、⑹の荒田別・巫別が百済を渡って王仁を連れて来た事、竹葉瀬と、弟田道が新羅と蝦夷を征討した事⑺⑻などは上毛野氏の
どの話も説話じみており、潤色が含まれていることは確かかと思いますが、井上氏が何を以って七世紀以降の潤色と主張しているのか、基準がよく分かりません。例えば推古朝の遺文と文章が似ているといった、具体的なエビデンスがありません。旧辞に無いから墓記から出たものであり、持統朝以後の編纂過程に取り入れられた疑いが濃厚であるという言い分⑿は理解出来ますが、それら全ての内容に関する史実性は別の問題と言えます。
又、荒田別の話は伝承と解されていますが、太田天神山古墳の被葬者とも見られていることや、過去の稿で取り上げた様に、七支刀が七枝の理由は、荒田別等が平定した新羅の七国を指すという説⒀と関連して考えると、荒田別も伝承の存在であるとばかりは言い切れず、寧ろ実在の可能性は高いのではないでしょうか。
しかし、井上氏の説を受け、関晃氏は毛野における名代・子代の分布に注目し、白髪部以降の舎人部系統のものなので、毛野の服属は五世紀末或いは六世紀初頭以降である⒁という説を唱えましたが、これは参考にすべきです。
補足すると、『古事記』では雄略天皇条と清寧天皇条、『日本書紀』では清寧天皇紀には白髪部が設置された記事があり、継体天皇紀でも大伴金村が白髪部について言及しているので、関氏が毛野の服属時期を五世紀末或いは六世紀初頭以降とするのは、雄略あるいは清寧から継体天皇の時代までの間に白髪部が設置されたとお考えだったのかと思います。
なお、継体天皇紀の白髪部の記事については「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(9) 元祖キングメーカー大伴金村①」で『日本書紀』巻十七継体天皇元年(丁亥五〇七)二月
因みに、舎人とは東国を中心に国造または一族から大和王権に貢進され、名代・子代として天皇・皇族に隷属し、近習・護衛にあたったものであると言われています。⒂
◇馬文化の移動から毛野氏の動きを読み解く。
佐伯有清氏などの本来(土着)の上毛野氏と帰化系の上毛野氏で峻別しようとする説⒃に対し、日朝関係の古代史研究で著名な三品彰英氏は、「上毛野氏が始祖として豊城入彦命を系譜に加上したのは、書記編纂時代で、多奇波世(竹葉瀬)や荒田別の子孫とする伝承の方がより古く、河内の帰化系氏族と東国の上毛野・下毛野の諸氏が、荒田別の子孫と結びついていることは、かつて馬文化の荷担当者が河内方面から東国へと、その文化を伝播させたことを想定せしめ、かつ騎馬戦をよくした田道が半島方面と東国方面に活動している伝説も、右の歴史的事実に照応するもので、帰化系の田辺氏が皇別に入っているのも、そうした歴史を背景として造られたものである」⒄という説を唱えました。
これは中々説得力があり、大和からみれば遥か東の国造である上毛野氏なのに、何故朝鮮征討の記事が多いのか理由の裏付けになります。『日本歴史学会の回顧と展望』⒅によれば、河内の帰化系の上毛野氏と、東国の上毛野氏は、応神~雄略の時代に、半島における戦いによって、新帰化人と騎馬文明が渡来し、同時にこの騎馬勢力によって東国征服が行われ、東国の牧も設定されたという時代背景のもとで、同族的結合を生じたもので、いわば、両氏を結ぶパイプは、五~六世紀に行われた「東征」と騎馬文化複合の「東漸」という具体的な史実であり、たんに別系氏が、八世紀に、系譜上結合したという、いわゆる「反映法」をしりぞけた。大筋の正しい好論であると評価されています。
⑺の記事で「田道連精騎撃其左」とある様に、上毛野氏が馬や騎兵技術に優れていた事を表しているのは、広開土王の時代、騎馬戦の能力が低かった倭国が高句麗に敗退した後、馬の飼育が急務になった倭国が馬の生産地として東国を選び、それを担ったのが毛野氏であり、毛野氏に馬の技術を伝えたのが渡来人であり、これらの結びつきが強く、何時しか大和王権・毛野氏・渡来人が結びついて同じ一族であると語られる様になっていったという事が考えられます。
これら三品氏と関氏の説を併せて導きだせる毛野氏の経歴を想像すると以下の流れになります。
①4世紀後半から5世紀初頭の神功から応神朝頃に馬文化や飼育技術を伝える為、田辺氏の祖等が来日。
②その技術や文化は河内から東国へ伝わると共に、田辺氏と毛野氏の祖が結びつく。
③5世紀後半以降(雄略か清寧、遅くても継体天皇の時代までの間)、毛野に白髪部が設置され、皇室へ舎人を派遣するようになる。
この流れをみると6世紀の武蔵国造の騒乱時に、毛野が独立地域だったと考えるのはやはり無理があると思います。武蔵国に屯倉が置かれるよりも以前に上毛野に名代が置かれていることは、武蔵国造よりも大和王権寄りであったと言えます。だとすれば、笠原小杵の意図としては、上毛野君に軍事的な援助を求めたのではなく、寧ろ大和王権に自分を認めさせる為に上毛野君にロビー活動を頼んでいたとも解釈出来ます。
◇騒乱の主体は小杵VS使主ではなく、上毛野氏VS阿倍氏?(若干想像混じってます)
上毛野小熊が処分されなかったのは、笠原小杵に兵を貸したのではなく、小杵に加担して使主を殺そうとした訳でも無く、単なるロビイストに過ぎなかった為であり、逆に笠原使主の方は大和王権により強力な後ろ盾、具体的に上げるのであれば、同族と言われている阿倍臣の阿倍大麻呂大夫とのパイプの存在により、政争で勝利を得たのではないかと個人的には推測しています。
阿倍臣は大彦命を祖とする一族で、東国に多くの同族が存在しました。阿倍大麻呂大夫の
若干想像を逞しくすれば、武蔵国造の騒乱の主体は小杵VS使主ではなく、上毛野氏と阿倍氏との東国の利権に関するイニシアティブ争いであった可能性もあります。阿倍氏の同族である笠原使主に屯倉の地を献上させ、大和王権に国造の地位を保証されることにより、北武蔵から上毛野氏の影響力を排除させる狙いがあり、また、武蔵国の複数地域の屯倉を献上させた功績により、阿倍大麻呂は大和王権において大夫の地位を得られたのかも知れません。
過去の稿でも述べましたように、大伴金村・蘇我稲目等は地方豪族に屯倉の地を献上させる事により、その地位を確立・維持していたと思われるので、阿倍臣も彼らに習っていたとしても不思議ではありません。
◇武蔵国造の反乱と表現するのはあやまりでは?
この様にして見ていくと、解説書でたまに見かける様な、安閑天皇紀の武蔵国造の権力闘争を武蔵国造の「反乱」或いは「乱」などと表現する事に違和感があります。この呼び方だと、後世の平将門の如く、独立王国の樹立を目指して戦争でもしたのかと疑ってしまい、【大和王権+使主】VS【上毛野氏+小杵】などと大袈裟に捉えて語る向きもありますが、それは小説の如き妄想でしかありません。
『日本書紀』の記述をよくよく見れば、戦いの記録は一切無く、唯一人、笠原小杵の血が流れたに過ぎません。反乱であれば、大和王権に対して反旗を翻して戦闘が行われた事が記されているハズですが、そう言った記述は記紀にも他の文献にも一切見かけませんし、裏付けする遺構も発見されていません。それに、今まで見てきたように、小杵が頼りにした上毛野氏はとっくに大和王権の支配下に組み込まれていました。
『日本書紀』が都合の悪い事実を隠しているという、確たるエビデンスも無い、お決まりの禅問答の様な主張をする方も居るかも知れませんが、吉備臣にせよ、筑紫君にせよ、反乱を起こした豪族は軍勢を動かしている描写があるのにも関わらず、上毛野君だけ軍勢を動かした描写が無いのは、事実、上毛野君が大和王権に逆らうような事は無かっただけとしか言いようがありません。上毛野君小熊が何も罰されていない事や、今までご紹介させて頂いた様に、寧ろ大和王権の先兵として朝鮮や蝦夷を討伐していた記事が殆どなのは、その裏付けとなります。その為、上毛野君は関係なく、戦すら行われなかったので、笠原氏の内紛に過ぎず、これを「反乱」と表現するのは的外れな感が否めません。(但し、前稿でも述べましたように「笠原」は使主が南武蔵から北武蔵に移動した時に地名の「加佐波良」に因んで名乗ったのかと思われるので、過去には国造の通例通り「胸刺」を名乗っていたのではないかと推測しています)
後世で例えれば「お家騒動」と言ったところで、所謂江戸時代の三大お家騒動(加賀騒動、黒田騒動、伊達騒動)で、幕府に対して兵を出して抵抗したという記録がないのと同じなので、「武蔵国造の騒動」と言った表現の方が誤解を招かずに、相応しい表現では無いかと個人的には感じています。
◇参考文献
⑴⑵『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/65
⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/68
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/69
⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/83
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/84
⑸『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/84
⑹『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/100
⑹解説
『先代旧事本紀[現代語訳]』 安本美典【監修】志村裕子【訳】 雄山閣 576ページ
⑹解説
「国指定史跡天神山古墳・国指定史跡女体山古墳」 (PDF)(太田市作成リーフレット)太田市教育委員会教育部文化財課。
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/kankoubutu/files/shi02.tenjinyama.leaf.pdf
⑺『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/111
⑺解説
『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 200頁
⑻『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/111
⑼『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/210
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/211
⑽『大化改新と鎌倉幕府の成立 増補版(法制史論第一巻)』石井良助 創文社 57-63頁
「東國と西國 ―上代および上世における―」
⑾『大化改新』井上光貞 要書房 104頁
「第四章 国造制の地域的多様性 東国の特殊性」
⑿『萬葉集大成 5巻 歴史社会篇』平凡社 327-328頁
所収「古代の東国」井上光貞
⒀『日本建築史』福山敏男 墨水書房 540頁
「石上神宮七支刀の銘文 再補」
⒁『日本書紀㈠』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 415-416頁
「補注(五巻)五 上毛野・下毛野の始祖」
⒂『日本書紀㈡』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 444頁
「補注(十一巻)六 舎人」
⒃『新撰抄氏録の研究(研究篇)』佐伯有清 吉川弘文館 490-506頁
「附篇 日本古代氏族の諸問題 第三 上毛野氏の性格と田邊氏」
⒄『日本書紀㈠』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 415-416頁
『朝鮮学報』三一巻 朝鮮学会
所収「荒田別、田道の伝承―帰化人と上毛野氏」
⒅『日本歴史学会の回顧と展望4(日本古代1 1949~70)』史学会編 山川出版社
312-313頁
「一九六四年 74編」
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