地方豪族(上毛野氏・武蔵国造・出雲臣)

武蔵国造の騒動と稲荷山古墳鉄剣銘文

 話の流れが全く関係ないのですが、安閑天皇紀の武蔵国造の騒動(一般的には「乱」又は「反乱」と表現されていますが、次稿でこの呼び方を批判するのであえて「騒動」と表現しています)について調べる機会があったので、本稿はその話を進めていきたいと思います。


 なお、歴代大臣・大連の紹介が終わったので、今後は時代の流れは考慮せず、興味がある出来事を取り上げて行く事になるかと思います。


 なお、物部守屋の記事以降は、日本書紀の書き下し分は黒坂勝美氏の日本書紀を参考にしていましたが、書き写すのが負担なため、今後は極力国史大系の訓読文のみを参考にして書き下し文を書き不自然な部分は諸本を参考に適宜修正していく事にしました。その為、少し変な書き下し文になる場合もあるかと思いますので、不自然な場合はご指摘くださればと思います。



⑴『日本書紀』巻十八安閑天皇元年(甲寅五三四)閏十二月是月

(中略)武藏國造笠原直使主與同族小杵相爭國造。〈使主。小杵皆名。也。〉經年難決也。小杵性阻有逆。心高無順。密就求授於上毛野君小熊、而謀殺使主。使主覺之走出、詣京言状朝庭。臨斷以使主爲國造而誅小杵。國造使主悚憙交懷、不能默已。謹爲國家、奉置横渟。橘花多氷。倉樔。四處屯倉。


(武藏の國造くにのみやつこ笠原かさはらあたひ使主おみ同族うから小杵おき國造くにのみやつこあらそひて。〈使主。小杵はみな名なり。〉年を經て決しがたし也。小杵おき性阻ひととなりうぢはやにしてさかふこと有り。心高ぶりてまつろふこと無し。密かにきてたすけ上毛野君かみつけのきみ小熊をぐまに求めて、しかうして使主おみを殺さんとはかる。使主おみさとりてで、みやこまひりてそのかたちまうす。朝庭みかどさだめたまひ使主おみを以て國造くにのみやつこと爲して小杵をころす。國造くにのみやつこ使主おみ悚憙しょうぎこころちて、もだむことあたはず。つつしみて國家みかどために、横渟よこぬ橘花たちばな多氷おほひ倉樔くらす四處よところの屯倉みやけを置きたてまつる。)



・横渟=和名類聚抄の武蔵国横見郡(埼玉県比企郡吉見村・東村山市)

・橘花=和名類聚抄の武蔵国橘樹郷(神奈川県川崎市住吉、横浜市日吉付近か)

・多氷=集解に武蔵国久良郡大井郷とするが疑わしい。日本書紀通証・日本書紀通釈は氷は末の誤記で多摩郡であろうとす。

・倉樔=日本書紀通証・日本書紀通釈は樔は樹の誤で、和名類聚抄の武蔵国久良〈久良岐〉郡、(今、横浜)かとする。

*上記注参考文献⑵





⑴解説

 武蔵国造の地位を巡る争いで、笠原小杵が上毛野君小熊を頼って、笠原直使主を殺そうとし、難を逃れた使主が都でその事を告げて、朝廷は使主を国造と定め、小杵を殺した。その事に感謝して使主が国の為に四か所に屯倉(皇族の直轄領)を置いたという筋です。


 朝廷が笠原使主の地位を保証することにより、武蔵の地に屯倉を獲得している様に、安閑天皇紀は屯倉の設置に関する記事が多く登場しますが、これら多数の屯倉の設置は磐井の乱の様な族長の反乱が全国各地に起り、それらが鎮圧された結果として多くの屯倉が設置された⑶との説もあるようです。


 確かに血筋が怪しい継体以降の大王に対する不信感や、過去の稿で取り上げた大伴金村が大河内直味張おほしかふちのあたひあじはりに行った様に、当時の大和王権が有力豪族に対して土地を献上する様に圧力をかけたりしていたので、それらの不満から反乱が起きると言う可能性は考えられそうですが、六世紀頃、国造支配下の小豪族が自分の土地を屯倉として皇室に差し出すのは、国造から自立する意図があったという説⑷の方が個人的にはしっくりきます。


 中小豪族にとってご近所の金持ちぶって威張り返っている地元の名士にデカイ顔をされるよりも、遠方にあって、あまりうるさくないけれど権威がありそうな大王直轄の支配下であるという形を取った方が主権を守るには何かと都合が良かったのかも知れません。⑴の記事は武蔵国造家という規模が大きい豪族の争いとは言え、笠原使主が更に規模が上回る大豪族の上毛野君小熊と対立していたとすれば、構図的には似た様なものと言えます。


 また、磐井の乱以外に各地に反乱が起こっていたという説を裏付ける文献も遺構も見当たらないので、⑶は仮説に過ぎないと思われますが、唯一該当する可能性があるとすれば⑴の武蔵国造の記事であったのかもしれません。私見ではこれは反乱では無く、内紛に過ぎないと思いますが、この事件を稲荷山古墳出土鉄剣銘文と関連させて解釈する見方もあるので、それらをご紹介していきます。



◇稲荷山古墳出土鉄剣銘文の解釈


⑸稲荷山古墳出土鉄剣銘文内容

(表)

辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比


(辛亥の年七月中記す。乎獲居をわけの臣。上祖とほつおや、名は意富比垝おほひこ。其の児、多加利足尼たかりのすくね、其の児、名は弖已加利獲居てよかりわけ、其の児の名、多加披次獲居たかひしわけ、其の児の名、多沙鬼獲居たさきわけ、其の児の名、半弖比はひて、)


(裏)

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也


(其の児の名、加差披余かさはよ、其の児の名、乎獲居臣をわけのおみ世々に、杖刀人じょうとうじんかしらと為り、奉事つかへまつりし来り今に至る。獲加多支鹵大王わかたけるおほきみの寺、斯鬼しきの宮に在る時、あれ天下あめのした左治たすけおさめ、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事つかへまつる根原を記す也。)


意富比垝おほひこ=一般的に崇神天皇紀九年四月条に登場する、第八代孝元天皇の第一皇子の、所謂四道将軍の一人、大彦命と解釈されている。大彦が阿倍臣の祖であることから、笠原氏と阿倍氏は同族と見られている。⑸解説参照。

乎獲居臣をわけのおみ=⑸解説参照。

多加披次獲居たかひしわけ=高橋氏の事か? 『新撰姓氏録考証』左京皇別上によれば「高橋朝臣阿倍朝臣同祖、大稲輿命之後也」とあり、高橋氏と阿倍氏は同族なので、銘文の系譜が正しいとすれば笠原氏が高橋氏とも同族であったと言える。

多沙鬼獲居たさきわけ=『日本書紀』神功皇后 五〇年五月の条の「多沙城」(多沙は任那の地名)に由来する名とも言われている。⑹

杖刀人じょうとうじん=トネリやタチハキのような武官。杖刀人を阿部氏と関りを持つ丈部にあてる説もある。⑺

・寺=役所をあらわす漢語。仏教普及以前の寺は役所を意味する。⑻




⑸解説

 この銘文の辛亥年は通説では471年と解釈されており、獲加多支鹵わかたける大王おほきみが『日本書紀』の伝える大泊瀬幼武おほはつせわかたける天皇、つまり雄略天皇に比定するのが通説ですが、国語学者・文学博士の大野晋氏は「稲荷山古墳が六世紀に築造された事からみて、鉄剣銘が製作された時期も六世紀であるとし、そう考えると、鉄剣は『日本書紀』の安閑元年(534)閏12月条にみえる武蔵国造の地位を巡る争いの中でつくられた可能性が高く、稲荷山古墳出土鉄剣は大彦命を祖とする阿倍氏系の笠原氏が、天皇の助力を求めるために、自分の先祖が雄略朝に天皇家につかえたことをしめす銘文を刻んで、天皇家に献上したものである」⑼と考えました。


 この大野氏の説は研究書類ではよく取り上げられ、通説を否定しうる有力な仮説の一つになっています。確かに雄略が五世紀後半の時代の人物であり、稲荷山古墳が六世紀に造営されている事を考えれば、説得力があります。ですが、この説には別視点から反証の材料があるので、それは後程取り上げます。


 また、歴史学者の関和彦氏は、鉄剣銘にみえるワカタケル大王を欽明天皇に当てた上で、乎獲居臣を笠原大別使主と解読して、それを安閑朝に笠原小杵の国造の地位を争って勝った笠原使主に比定しています。⑽


 上記関氏の説は別書(『古代史入門ハンドブック』武光誠 雄山閣)の孫引きで、論文全ての内容は確認出来ていませんが、欽明天皇の和風諡号は天國排開廣庭天皇あめくにおしはらきひろにはのすめらみことであり、より古い表記を取り上げれば七世紀の資料である『天寿国繡帳』では阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等あめくにおしはるきひろにわのみことの用字なので、これを獲加多支鹵大王わかたけるおほきみと結びつけるのは無理がありそうです。既に尊号では無く和風諡号が使われている時代であることから生前の呼び名が不明な為、完全には否定はしきれないとはいえ、確たるエビデンスが無いのでこれも仮説に過ぎません。但し、乎獲居臣を笠原大別使主と解読する可能性については考慮しても良さそうです。




◇考古学・刀剣の専門家による知見

 しかし、他分野の視点から見ると、上記の解釈では説明しきれない知見も存在します。


 日本考古学協会会員、美術刀剣保存協会常任審査委員を務められた石井正國氏によれば、「辛亥の年が刻まれた稲荷山古墳出土鉄剣(以下、辛亥剣)の特徴の中で、刃方の地鉄には錆色の違いがあり、刃縁には、紫色の細い強い鉄が見える。焼き入れされたものであろう。将軍塚(古墳)の剣にも切先一〇㎝程の弱い焼き入れが施されており、そのほか大刀や刀の中にも、切先だけに焼き入れをした例がかなりある。これらは五世紀中葉から後半にかかるものが多い。」⑾とし、他の副葬刀剣の特徴も述べた上で、「稲荷山古墳の大刀や剣の推測される年代は、五世紀中葉から六世紀前半に渡っている。この古墳の被葬者は、二~三代の可能性もあると考えている」⑿と結論付けられています。


 つまり、辛亥剣は五世紀中葉から後半、雄略天皇の世に作成され、複数発掘された大刀は作成年代がバラけていることから稲荷山古墳の被葬者は複数存在し、辛亥剣は作成後、数代に渡り伝えられたという事になります。後世の事例で言えば、童子切の大刀が源氏重代で引き継がれていったような事と同じ感覚だったのかも知れません。


 後程詳しく述べますが、元々は武蔵国南部(多摩川流域)の支配者であった使主が、武蔵国北部の支配者であった小杵を倒した後、現在の埼玉県行田市、あるいは隣接する鴻巣市(旧武蔵国埼玉郡笠原郷)辺りに移動し、行田市に稲荷山古墳を造営し、使主の祖父や父等もそこに改葬されたとも解釈出来ます。


 この様に考えると、大野氏や関氏の説は当てはまらない事に成ります。そして、武蔵国造の騒動を遡り、遅くても雄略の頃には大王家の勢力が武蔵にまで及んでいた証左となります。


 この事実を裏付ける第三国による客観的な文献を上げるのであれば、『隋書』倭国伝では「有軍尼一百二十人、猶中國牧宰」⒀、とあり、「猶中國牧宰」は中国の地方長官の様なものと言う意味で、「軍尼」は「国造」の事であると解釈されており⒁、つまり『隋書』によれば倭国は百二十の国々を支配していたと伝えているのですが、『宋書』倭国伝でも既に「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」⒂と書かれており、雄略天皇の頃には推古朝とほぼ同じ勢力があった可能性が推測出来ます。


 その支配地域は、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳と埼玉県行田市埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文にワカタケル大王と書かれていることから、雄略天皇の頃には大和王権の勢力が九州から関東まで及んでいたというのが通説です。(尚、ネット上でこの通説を批判しているのは、両鉄剣銘文により持論が破綻した古田武彦の九州王朝説論者の悪あがきか、過去に取り上げたトンデモ学者、李進熙イジニの支持者なので、その手の情報は一切無視して良いです。)



◇南武蔵地域の考古学的知見

 南武蔵の情勢を考古学的にみると、多摩川下流地域で、多摩川を見下ろす左岸台地(大田区田園調布、世田谷区野毛地域)と、右岸の神奈川県鶴見川、矢上川地域である。発見される遺物(銅鏡、碧玉製玉製品)などから、大和政権を盟主とする勢力関係に組み込まれていたと推定されており、古くは三世紀の後半から大和政権の覇者の大型古墳である「前方後円墳」が、多摩川河口部の大田区田園調布古墳群(宝来山古墳、97m、4C前半)と対岸の鶴見川流域の川崎市日吉加瀬台古墳群(白山古墳、87m、4C前半)、矢上川流域の横浜市日吉台古墳群(観音松古墳、90m、4C前半)などがみられ、4世紀後半~5世紀末頃になると、南武蔵の盟主たちの前方後円墳が、田園調布古墳群(亀甲山古墳、107m、5C前半)、世田谷区砧中7号墳、5C前半)、円墳に小さな前方部が付いた帆立貝式と呼ばれる野毛・大塚古墳群(野毛大塚古墳、82m、5C後半)、狛江古墳群(狛江市亀塚古墳(5C後半)などに残されていますが、多摩川流域の前方後円墳が5世紀後半以降消滅します。この現象は、大和政権(上毛野の小熊)に助けを求めた北武蔵(埼玉県比企、児玉地方)の国造(笠原直使主)が、南武蔵(多摩川下流域)の国造(同族の小杵)を破ったことで、当時の権力が「埼玉古墳群」に移行したのではないかと解釈されているようです。⒃


 補足すれば、『先代旧事本紀』第十巻「国造本紀」によれば後世の武蔵国には「无耶志」、「胸刺」、「知々夫」と三ヵ所に国造が置かれており、「知々夫」を現在の秩父方面として、「无耶志」、「胸刺」を北武蔵埼玉方面と東京都の多摩川方面に分けて考える見解もあり⒄、『新編武蔵国風土記稿』巻之一三五 安達郡之一によれば、「胸刺の府は今の府中なるべし、牟差志无耶志の府は則 當郡足立郡の大宮宿の邊ならん」⒅とあり、これを凡そ⒃の解釈に当て嵌めれば「无耶志」は使主、「胸刺」は小杵の支配領域だったと考えられます。


 『埼玉県史』によれば四屯倉が置かれる地域を笠原使主の併合した新附の土地であって、小杵の據っていた場所と考えられ、使主は新附の一部を割いて献上したものと思われ、新附の領域が胸刺の領域であったと想像させられるとし、両国造の間が上述の間であったとしたら胸刺国造は極めて短期の存在であって、従って地上に多く聞こえなかったであろうと⒆推測しました。


 胸刺に関しては『大日本史』『国造本紀考』『大日本地名辞書』等により古くから誤記であるという説も有力であり、否定的な考え方をする専門家も多いですが、四屯倉が小杵の支配地域であったという説については現在でも支持する意見が多いです。


 只、⒃の説で笠原使主が上毛野小熊に頼ったというのは『日本書紀』の記述とは正反対となるので疑問を覚えます。それに、先程取り上げた様に六世紀に造営された稲荷山古墳から、五世紀中葉から六世紀に渡る複数代の鉄剣が出土し、古墳の被葬者は二~三代の可能性もあるという説から推測すれば、別地域から支配者が移動してきた可能性も考慮可能であり、⒃の解釈とは逆に南武蔵胸刺の支配者が使主であり、北武蔵无耶志の支配者である小杵を殺害後、使主が北武蔵无耶志に移動したと考えた方が自然で、この後に武蔵国埼玉郡笠原郷の地名「加佐波良」⒇の地名に因んで笠原を称したのでは無いかと思います。


 この様に考えれば津田左右吉氏が唱える「武蔵国造が笠原という氏であること自体おかしいから、この記事は事実でない」(21)という説の反証にもなります。もしかすると、使主が勝利する以前は笠原直ではなく、通例通り「胸刺直」などと名乗っていたのかも知れませんね。


 他にも、上毛野を大和 政権王権側の勢力とする考え方と異なり、小杵が頼った上毛野氏が大化前まで独立勢力であり、大和王権と対立していたという説もある為、上毛野氏の立場も明かさなければ武蔵国で本当に反乱があったのか、事実は見えて来ません。


 次稿ではもう一方の当事者である上毛野氏について触れてみたいと思います。




⑴『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/160


⑵『日本書紀㈢』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 223頁


⑶『日本書紀㈢』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 398頁


⑷『日本古代史「記紀・風土記」総覧』 別冊歴史読本 新人物往来社 127頁


⑸『古代史入門ハンドブック(第二版)』武光誠 雄山閣 255頁


⑹『原始日本語と民族文化』三一書房 村山七郎,国分直一


⑺『古代史入門ハンドブック(第二版)』武光誠 雄山閣 257頁 


⑻『古代史入門ハンドブック(第二版)』武光誠 雄山閣 258頁


⑼「鉄剣の銘文・私はこう読む」大野晋(『諸君』1979年2月号)


⑽『稲荷山古墳出土鉄剣と継体・欽明朝の内乱』関和彦(『共立女子第二高校研究論集』一、一九七九)


⑾『増補版 古代刀と鉄の化学』石井正國・佐々木稔 雄山閣 59~60頁


⑿『増補版 古代刀と鉄の化学』石井正國・佐々木稔 雄山閣 62頁


⒀『倭国伝 中国正史に書かれた日本』全訳注 藤堂明保・竹田晃・影山輝國 講談社学術文庫 467頁


⒁『倭国伝 中国正史に書かれた日本』全訳注 藤堂明保・竹田晃・影山輝國 講談社学術文庫 189頁 注15・16


⒂『倭国伝 中国正史に書かれた日本』全訳注 藤堂明保・竹田晃・影山輝國 講談社学術文庫 454頁


⒃『考古学的視点から見た多摩川の歴史』 小田静夫 (国土交通省関東地方局ホームページ 第1回多摩川流域歴史セミナー・レジウメ 2014年11月16日、大田区立郷土博物館)

http://ac.jpn.org/kuroshio/oda201411.htm


⒄『先代旧事本紀 現代語訳』監修者・安本美典 現代語訳者・志村裕子 批評社 569頁 注30


⒅『大日本地誌大系 第11巻 風土記稿7 新編武蔵国風土記稿. 第1至11』蘆田伊人 編雄山閣

https://dl.ndl.go.jp/pid/1214877/1/68


⒆『埼玉県史 第2巻 奈良平安時代』埼玉県 編 埼玉県

https://dl.ndl.go.jp/pid/1049481/1/31


⒇『姓氏家系大辞典 第1巻』太田亮 著 姓氏家系大辞典刊行会

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/799


(21)『津田左右吉全集 第2巻』岩波書店 81頁

「第三章 武烈紀から敏達紀までの初期の記載」

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