大津皇子

文献で読む大津皇子の変

 一九八五年に飛鳥宮跡近くで発見された木簡にもその名が確認されるなど、実在が確実視される大津皇子ですが、彼の死については不穏な点があり、息子の草壁皇子のライバルであるから持統天皇の計略で殺されたという見方が有力です。


 天皇から叛逆者のレッテルを貼られて死んだ被害者というイメージがあるせいなのか? 歴史学者の御爺様方に何故か似ても似つかない日本武尊と結び付けたられたり、(古事記を引き合いに出して倭建命は天皇から嫌われていたという話から無理矢理大津皇子と結び付けたがるのですが、日本書紀の日本武尊は天皇から愛されているのですが……。)彼らが大大大好きな大津皇子について、叛逆者というのは持統から押し付けられたレッテルであったのか? あるいは火が無いところに煙は立たないと言いますが、『日本書紀』の書いてある通り大津の謀叛であったのか? あるいは第三者の黒幕が居たのか? 最近興味を持ったので一寸調べてみました。



◇大津皇子ってどんな人物?

 彼については『日本書紀』と『懐風藻』で詳しく触れられていますので実際に記事を取り上げてみます。


・『日本書紀』巻三〇持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十月 庚午三日

皇子大津、天渟中原瀛眞人天皇第三子也。容止墻岸、音辭俊朗。爲天命開別天皇所愛。及長辨有才學。尤愛文筆。詩賦之興、自大津始也。


(大津皇子。天渟中原瀛眞人天皇あめのぬはらおきのまひとすめらみこと第三子みはしらにあたりたまふみこなり。容止墻みかほたかさがしくして。音辭俊みことばすぐれあきらかなり。天命開別天皇あめのみことひらわけのすめらみことためめぐまれたてまつりふ。ひととなりいたりてわきわきしく、才學有がどます。もと文筆ふみつくることこのみたまふ。詩賦しふおこり、大津より始まれり。)


*『日本書紀(五)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

440ページ及び236ページ引用。


・『日本書紀』巻二九天武天皇十二年(六八三)二月癸未 一日

二月己未朔、大津皇子、始聽朝政。

二月きさらぎ己未つちのとのひつじつひたちのひに、大津皇子、始めてみかどまつりごときこしめす。)


*『日本書紀(五)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

425ページ及び188ページ引用。



・『懐風藻』大津皇子四首(大津皇子伝)より抜粋

皇子者淨御原帝之長子也。狀貌魁梧。器宇峻遠。幼年好學。博覽而能屬文。及壯愛武。多力而能撃劍。性頗放蕩。不拘法度。降節禮士。由是人多附託。

(皇子は淨御原帝きよみはらのみかどの長子なり。狀貌魁梧じょうぼうかいご器宇峻遠きうしゅうえん。幼年にして學を好み、博覽にしてく文をしょくす。壯に及よびて武を愛し、多力にして能く劍を撃つ。性頗せいすこぶる放蕩ほうたうにして、法度ほうどに拘らず。節を降して士をらいす、是によりて人多く附託ふたくす)


https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977945/262

(国立国会図書館デジタルコレクション『新撰名家詩集』塚本哲三 編 有朋堂書店 262コマ参照)



・概略

 大津皇子は高市皇子、草壁皇子に次ぐ天武天皇の第三子です。上記の『懐風藻』では「皇子者浄御原帝之長子也」とありますが、これは大田皇子の長男という意味らしいです。(『懐風藻』辰巳正明 新典社)容姿がたくましくことばが明朗で、天智天皇に愛され、成人した後には学問に優れ、特に文学に優れていて、漢詩文は大津皇子から始まったと称えられています。(但し、『懐風藻』序文では「雕章麗筆。非唯百篇。但時経乱離。悉從煨燼。(雕章てうしゃう麗筆。唯百篇のみにあらず。但し時の乱離を経て、悉く煨燼わいじんに従ふ)。」とあり、近江朝には既に文運が興っていたのが、壬申の乱で詩文がことごとく焼けてしまったとのこと。)天武天皇十二年(六八三)には国政にも参加しています。


 『懐風藻』の大津皇子伝は皇子について『日本書紀』以上に詳しく書かれており、「体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた」という完璧超人ぶりで、他にも『懐風藻』序文では「龍潛王子(淵に潜む龍。まだ帝位に就かないもの。皇太子を指す)」と称されており、叛逆者とは思えない程の賞賛っぷりです。



◇大津皇子の事件の顛末


・『日本書紀』巻三〇持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十月 己巳二日

冬十月戊辰朔己巳、皇子大津、謀反發覺。逮捕皇子大津、并捕爲皇子大津所詿誤直廣肆八口朝臣音橿。小山下壹伎連博徳。與大舍人中臣朝臣臣麻呂。巨勢朝臣多益須。新羅沙門行心、及帳内砺杵道作等、卅餘人。

冬十月ふゆかむなづき戊辰つちのえたつ己巳つちのとのみのひに、皇子大津、謀反みかどかたぶけむとして發覺あらはれぬ。皇子大津を逮捕からめて、あはせて皇子大津が爲に詿誤あざむかれたる直廣肆八口朝臣音橿ぢきくわしやくちのあそみおとかし小山下壹伎連博徳せうせんげゆきのむらじはかとこと、大舍人中臣朝臣臣麻呂おほとねりなかとみのあそみおみまろ巨勢朝臣多益須こせのあそみたやす新羅沙門行心しらきのほふしかうじむ、及び帳内砺杵道作とねりときのみちつくりたち三十余人みそたりあまりのひとからむ。)


・『日本書紀』巻三〇持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十月 庚午三日

庚午、賜死皇子大津於譯語田舍。時年廿四。妃皇女山邊被髪徒跣、奔赴殉焉。見者皆歔欷。

庚午かのえうまのひ、皇子大津を訳語田をさだいへ賜死みまからしむ。時に年二十四としはたちあまりよつなり。妃皇女山邊みめひめみこのやまのへ、髪をくだしみだして徒跣そあしにして、はしきてともにしぬ。見るひと皆歔欷みななげく。)


・『日本書紀』巻三〇持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十月 丙申二十九日

丙申、詔曰、皇子大津謀反。詿誤吏民帳内不得已。今皇子大津已滅。從者當坐皇子大津者、皆赦之。但砺杵道作流伊豆。又詔曰、新羅沙門行心、與皇子大津謀反、朕不忍加法。徙飛騨國伽藍。

丙申ひのえのさるのひに、みことのりしてのたまはく、「皇子大津、謀反みかどかたぶけむとす。詿誤あざむかれたる吏民つかさひと帳内とねりむこと得ず。今皇子大津、ほろびぬ。從者ともびとまさに皇子大津にかかれらば、皆 ゆるせ。但し、砺杵道作ときのみちつくりは伊豆にながしつかはせ」とのたまふ。又詔してのたまはく、「新羅沙門行心しらきのほふしかうじむ。皇子大津 謀反みかどかたぶけむとするにくみせれど、朕加法われつみするにしのびず。飛騨國ひだのくに伽藍てらうつせ」とのたまふ。)


・『日本書紀』巻三〇持統天皇即位前紀朱鳥元年(六八六)十一月 壬子十六日

十一月丁酉朔壬子、奉伊勢神祠皇女大來、還至京師。

十一月しもつき丁酉ひのとのとり朔壬子ついたみづねのえねのひに、伊勢神祠いせのかみまつりつかへまつれる皇女大來ひめみこおほくかへりて京師みやこいたる。)


*『日本書紀(五)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

440ページ及び234、236ページ引用。


・概略

 朱鳥元年(六八六)十月二日、大津皇子の謀反が発覚し、逮捕されます。合わせて大津皇子に欺かれた三十余人が捕らえられました。


 翌日の三日、訳語の家で死を賜ります。享年二十四歳。妃の山辺皇女は髪を振り乱し、裸足で走り出て殉死し、見る者は皆啜り泣いたと伝えられています。


 二十九日、(持統天皇が)みことのりして、「皇子大津が謀叛を企て、これに欺かれた官吏や舎人は止むを得なかった。今、皇子大津はすでに滅んだので、従者で皇子に従った者は、みな赦す。但し、砺杵道作ときのみちつくりは伊豆に流し、新羅沙門行心しらきのほふしかうじむは皇子大津の謀反に与したが、罪するのに忍びないから飛騨国の寺に移せ」と言われました。


 また、同年十一月十六日、伊勢神宮の斎宮であった大来皇女は同母弟の大津の罪により、任を解かれて京師みやこに帰らされました。


 長くなりましたので、次稿に『懐風藻』から大津皇子の事件の背景や黒幕を探ってみたいと思います。


◇参考

『日本書紀(五)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫


・『新撰名家詩集』塚本哲三 編 有朋堂書店

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977945/262 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る