有間皇子
有間皇子➀ 有間皇子の変
いきなり関係ない話で申し訳ありませんが、NHKで2週に渡り弥生後期から古墳時代について古代ミステリー番組が放送されました。意見が分かれる内容について全く諸説を紹介しなかったり(例えば邪馬台国については近畿説のみ取り上げ、狗奴国に関しては古くから存在する熊襲説を取り上げなかったり、倭王讃を応神とするなど)広開土王碑や『宋書』で「任那」と書かれている部分をワザワザ「伽耶」と言い換えたり、非常に偏りがある内容な上、所謂「謎の四世紀」に関して「歴史書が存在しない」などと語る始末……いや、一次文献や中国文献に存在しないというのは確かですが、この時代は信憑性に関する一般的な評価はとにかくとして(個人的には多くの史実性を見出していますが)、一応記紀に書かれているのですが、2週放送された番組全体を通して日本書紀の記述が出てくるのが覚えている限りでは、雄略天皇紀の高句麗を大いに打ち破った内容のみという、なんともツッコミどころ満載過ぎる内容でした。
もっとも以前もお話させて頂いた「英雄たちの選択」なるトンデモ番組で「雄略が高句麗との戦争を避けた」という如何なる文献にも登場しないような虚構を雄略が選択したという、あたかも視聴者が日本書紀すら読んでいないのかと思われているかのような舐めきったトンデモが、この番組によって事実上撤回されたことや、馬育成を東国で行われていたことは本エッセイでも上毛野氏に関する稿で紹介させて頂いたことがあるので、この辺りは番組の数少ない良かった点であると思います。又、韓国に点在する前方後円墳に関しては、過去のNHKの放送では韓国学者を忖度した内容で放送することが多かったのですが、前方後円墳が朝鮮半島由来であるという珍説に対し、出土品から分析して日本人による支配を肯定し得る内容に踏み込んだのは大きいと思います。
あとは富雄丸山古墳の被葬者について何らかの説を取り上げて欲しかったですね。鹿島神宮のフツノミタマは平安期に作られた全長2.7メートルに及ぶ長大な剣ですが、発掘された蛇行剣がそれに及ばぬまでも相当な長さ(約2.3メートル)であることから、この剣がフツノミタマと関係あるのでしょうかね? だとすれば物部氏関係の被葬者を想像できますが、恐らく部民制度成立以前なのでその線は低そうです。でも、ハッキリし無い分想像は膨らみますね。と、冒頭から関係ない話が長くて申し訳ございません。本題に入ります。
前稿(大化の改新の詔と郡評論争)で大化の改新と、その経過について取り上げました。この改革は東国豪族に対する締め付け、そして皇室の財政面で成果がある程度上げられた一方、改革による歪みも生じ、それはやがて有間皇子の悲劇に繋がっていくことになります。
『日本書紀』で非業の死を遂げた皇子は過去の稿でも何人か取り上げましたが、中でも最も悲劇的な運命を辿ったと思われる、有間皇子について取り上げてみます。
◇有間皇子の変に至る背景
⑴『日本書紀』巻二五大化元年(六四五)七月
大化元年秋七月丁卯朔戊辰。立息長足日廣額天皇女間人皇女爲皇后。立二妃。元妃阿倍倉梯麻呂大臣女曰小足媛。生有間皇子。(以下略)
(大化の元年の
⑵『日本書紀』巻二五白雉四年(六五三)是歳
是歳。皇太子奏請曰。冀欲遷于倭京。天皇不許焉。皇太子乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟等。往居于倭飛鳥河邊行宮。于時公卿大夫。百官人等皆隨而遷。由是天皇恨欲捨於國位。令造宮於山碕。乃送歌於間人皇后曰。
舸娜紀都該。阿我柯賦古麻播。比枳涅世儒。阿我柯賦古麻乎。比騰瀰都羅武箇。
(是歳、
*皇太子……本文では中大兄皇子を指す。
⑴⑵解説
孝徳天皇と中大兄皇子の対立は日本書紀で伝えられており、⑵によれば白雉四年(六五三)中大兄皇子は、都を大和に遷すように孝徳天皇に進言しますが、これを天皇は受け入れず、中大兄皇子は皇極上皇・間人皇后・大海人皇子をはじめ、公卿大夫、百官にいたるまで、みな引き連れて飛鳥河辺の行宮に遷ってしまいました。一人、難波に取り残された天皇は、中大兄皇子の専横を恨みながら翌白雉五年(六五四)十月十日に崩御します。
⑴の記述によれば有間皇子の母は阿倍倉梯麻呂大臣の娘の小足媛であり、父は憤死した孝徳天皇の皇子とあります。当時は兄弟で帝位を相続するのが通例であり、有間皇子が位を継ぐことはありませんでしたが、中大兄皇子は自ら皇位には就かず、老齢の皇極上皇を推して重祚、つまり再び皇位に就かせることにより、自らへの非難をかわすと供に、亡き孝徳天皇の支持者、或いは同情派への牽制の意味があったのかと思われます。
なお、⑵の「舸娜紀都該(
◇有間皇子の保身
⑸『日本書紀』巻二六斉明天皇三年(六五七)九月
九月。有間皇子性黠。陽狂云々。徃牟婁温湯僞療病。來讃國體勢曰。纔觀彼地。病自蠲消云云。天皇聞悦思欲徃觀。
(
⑸解説
有間皇子は即位どころか、逆に皇位継承権の高さ故に、中大兄皇子に睨まれていたであろうことは、文中の「有間皇子性黠。陽狂(有間皇子は
狂人の演技がどんな様子であったのか、個人的には想像し難いですが、もし演技が下手であれば却って自身の首を絞めかねません。後の有間皇子の経緯などを見ると、川崎氏が推測するような聡明な皇子であったのか甚だ疑問であり、(万葉集に有間の歌が伝わっており、この歌から有間が聡明であったとする声もありそうですが、本人の歌であるか判然としない上、もし歌の才能があったとしても、それが聡明であることに結びつくとは限らない為。)本当に聡明であったとしても、当時まだ十七歳だった有間皇子にとってそれが限界であったのかも知れません。
又、この記事によれば斉明天皇三年(六五七)九月、有間皇子は療養と称して牟婁の湯(和歌山県白浜温泉)に行き、その風光に接しただけでおのずから癒された、天皇も是非お出かけになられたら如何ですか? と斉明天皇に奏上したところ、天皇は喜び、翌四年(六五八)十月十五日に皇太子以下を引き連れて出かけました。
◇有間皇子の事件
⑺『日本書紀』巻二六斉明天皇四年(六五八)十一月
十一月庚辰朔壬午。留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰。天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財。一也。長穿渠水損費公糧。二也。於舟載石運積爲丘。三也。有間皇子乃知赤兄之善己而欣然報答之曰。吾年始可用兵時矣。
(
⑺解説
十一月三日、留守官の蘇我赤兄が市経(奈良県生駒市壱分町か)の有間皇子の家を訪れ、斉明天皇の政治について、
第一に大いに倉庫を立てて民の財を集積すること
第二に長い溝を掘って税を浪費すること
第三に船に石を載せて運び、無駄に積んで丘にする事
以上の三つの失政があると批判しました。
実際、これらの事業は評判が悪かったらしく、日本書紀では以下のように伝わっています。
⑻『日本書紀』巻二六斉明天皇二年(六五六)是歳
是歳。於飛鳥岡本更定宮地。時高麗。百濟。新羅。並遣使進調。爲張紺幕於此宮地而饗焉。遂起宮室。天皇乃遷。號曰後飛鳥岡本宮。於田身嶺冠以周垣。〈田身山名。此云太務。〉復於嶺上兩槻樹邊起觀。號爲兩槻宮。亦曰天宮。時好興事。迺使水工穿渠。自香山西至石上山。以舟二百隻載石上山石。順流控引於宮東山。累石爲垣。時人謗曰。狂心渠。損費功夫三萬餘矣。費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣。山椒埋矣。又謗曰。作石山丘随作自破。〈若據未成之時作此謗乎。〉又作吉野宮。(以下略)
(是歳、飛鳥岡本に於て更に宮
⑻解説
大化の改新により主に東国豪族たちの締め付け、そして皇室の財政面である程度成功を収めたと言って良いことは前稿(大化の改新の詔と郡評論争)で見てきましたが、豪族たちが農民から無制限な搾取が出来なくなった一方、石母田正氏の「従来にない巨大な権力を掌握した皇室の本質的な変化はなかった」⑼という主張の通り、本文で見られる様な開発事業が押し進められ、民衆達の不興を買った様で、考古学的な裏付けからも、こういった開発が史実であった可能性は高い様です。
奈良明日香村の酒船石遺跡は七世紀中頃に造営され、⑻の記事の「宮の東山に
こうした考古学的な成果からも、斉明天皇の失政と民衆の不満は史実であろうことが伺え、赤兄の言葉を若い有間皇子は信じてしまったとしても不思議ではありません。
又、石母田氏によれば、⑻の記録を「徭役労働に対する人民の抗議をはじめて歴史に公然とした文字であった。蘇我赤兄はこのような憤りと抗議を有間皇子を叛乱に誘うために利用したのであり、誘われた皇子も同様であったから、皇子の叛が成功すれば、彼もまた天皇と同じ失敗を繰り返していたであろう。したがって有間皇子と皇太子中大兄との対立は政策の相違や階級的基盤の相違にもとづく政治的対立ではなかった。有間皇子が孝徳天皇と故左大臣阿倍麻呂の女小足媛とのあいだに生まれた皇子であるという事実が、孝徳天皇の晩年に見られた皇太子と天皇のはげしい対立のなかでは、皇子の運命を決定する大きな要因となったとみられる」と述べられています。⑾
要は徭役労働に対する人民の抗議は叛乱の口実に過ぎず、赤兄も有間も、更に言えば斉明天皇も本質的に変わらないと石母田氏は仰りたいのでしょうかね? 有間皇子に関しては専門家の間ですら同情的な見方が圧倒的に多いのですが、一方で石母田氏のような冷静な見方―それはイデオロギーに基づくものであるかどうかはとにかくとして、こういった視点も歴史学を携わる者としては必要なのかも知れません。
⑿『日本書紀』巻二六斉明天皇四年(六五八)十一月
甲申。有間皇子向赤兄家。登樓而謀。夾膝自斷。於是知相之不祥。倶盟而止。皇子歸而宿之。是夜半赤兄遣物部朴井連鮪。率造宮丁圍有間皇子於市經家。便遣驛使奏天皇所。
(
⑿解説
赤兄をすっかり信用してしまった有間皇子は、自ら市経(奈良県生駒市壱分町)にある赤兄の家に行き、謀議をめぐらしましたが、脇息が折れ、これを不吉のしるしと知った皇子は謀反の計画を取りやめにします。ところが、夜半に赤兄が
本文のみから推察すれば、この赤兄の手際の良さからすると、最初から有間皇子を騙すつもりであったとしか言いようが無いですが、そうとも断定しきれないことも後日の
⒀『日本書紀』巻二六斉明天皇四年(六五八)十一月
戊子。捉有間皇子與守君大石。坂合部連藥。鹽屋連鯏魚。送紀温湯。舎人新田部連米麻呂從焉。於是皇太子親問有間皇子曰。何故謀反。答曰。天與赤兄知。吾全不解。
(
⒀解説
有間皇子や彼の共謀者等は捉えられ、天皇が行幸している紀の牟婁湯に送られました。中大兄皇子が(白々しくも?)自ら尋問すると、「天と赤兄とが知っている。私は全く解らない」と答えたのは精一杯の抵抗であり、赤兄に裏切られたと知った有間皇子の無念が伝わってきます。
⒁『日本書紀』巻二六斉明天皇四年(六五八)十一月
庚寅。遣丹比小澤連國襲絞有間皇子於藤白坂。是日。斬鹽屋連鯯魚。舎人新田部連米麻呂於藤白坂。鹽屋連鯯魚臨誅言。願令右手作國寶器。流守君大石於上毛野國。坂合部藥於尾張國。〈或本云。有間皇子與蘇我臣赤兄。鹽屋連小代。守君大石。坂合部連藥。取短籍卜謀反之事。或本云。有間皇子曰。先燔宮室。以五百人。一日兩夜邀牟婁津。疾以船師斷淡路國。使如牢圄。其事易成。或人諌曰。不可也。所計既然而无徳矣。方今皇子年始十九。未及成人。可至成人而得其徳。他日有間皇子與一判事謀反之時。皇子案机之脚无故自斷。其謨不止。遂被誅戮也。〉
(
⒁解説
有間皇子は都へ送還される途次、藤白の坂(和歌山県海南市藤白)で絞首されました。この日、
◇乱の真相
蘇我赤兄は罰せられることもなく、その後、天智朝では左大臣にまで昇格しているので、この事件は若い有間皇子が、老獪な赤兄に、そしてその背後に存在する中大兄皇子の陰謀に陥れられたと見る説と⒂、この事件は全くのでっち上げかというと、実際はある程度進んでいたらしいという説⒃がありますが、私見ではどちらかといえば後者を取りたいと思います。
理由としては、⒁の或本に有間皇子の言葉として、「先づ
確かに謀反の気配を予め察していた中大兄皇子陣営が有間皇子を陥れるために、それに赤兄が協力したということも考えられますが、もし斉明の失政を語った赤兄の気持ちは事実だとすれば、元々は有間皇子陣営だった蘇我赤兄ですが、正伝でみられるような有間皇子の優柔不断ぶりに失望して、事が発覚した際に自分に被害が及ぶことを恐れ、保身の為に心変わりしたという可能性も無い訳ではありません。ですが、⒂の説の様に、後の赤兄の出世ぶりをみると、元から有間皇子を陥れるつもりだったというのもうなづけるものがあります。何れにせよ、限られた
ですが、斉明天皇二年(六五六)是歳条の如き天皇の失政批判をも包括している日本書紀が「不都合な事実を隠している」「歴史は勝者が創るもの」といった類の性質の書ではないことは確かなので、恐らく日本書紀編纂時期に至っても同情的にみられていた有間皇子の事件の真相について、既に二通りの説があり、有力である赤兄による謀略を正伝としながらも、有間皇子が積極性を見せていた或本も引用することで、公平性を維持し、ある意味後世の読者の判断に委ねようとしている日本書紀の編纂者の姿勢は評価すべきかも知れません。
◇参考文献
⑴『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社
https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/263
⑵前掲書
https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/280
⑶『記紀歌謡全註解』相磯貞三 有精堂出版 535頁
「日本書紀歌謡篇 一一五 孝徳天皇の御製」
⑷『稜威言別』橘守部 著, 橘純一 校訂 富山房
https://dl.ndl.go.jp/pid/1069688/1/252
⑸『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社
https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/283
⑹『天武天皇』川崎庸之 岩波書店 46頁
「有間皇子の反」
⑺『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社
https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/284
⑻前掲書
https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/282
⑼『萬葉集大成 歴史社会篇 第5巻』平凡社 168-169頁
所収「初期萬葉とその背景 ―有間皇子・間人連老・軍王の作品については―」石母田正
⑽「酒船石遺跡の発掘調査成果とその意義」相原嘉之 177-179頁
⑾『萬葉集大成 歴史社会篇 第5巻』平凡社 169頁
所収「初期萬葉とその背景 ―有間皇子・間人連老・軍王の作品については―」石母田正
⑿~⒁『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社
https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/284
⒂『万葉集を知る事典』桜井 満【監修】尾崎 富義・菊地 義裕・伊藤 高雄【著】東京堂出版 71頁
「有間皇子の変」
『大化の改新』北山茂夫 岩波書店 161頁
「1 有間皇子の変」
『日本書紀通釈 第5 増補正訓』飯田武郷 日本書紀通釈刊行会
「日本書紀通釈巻之六十」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1115865/1/130
等
⒃『万葉集ハンドブック』多田一臣 編 三省堂 17頁
「有間皇子の自傷歌」
◇関連稿
・大化の改新の詔と郡評論争
https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16818023212035132911
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます