有間皇子

有間皇子➀ 有間皇子の変

 いきなり関係ない話で申し訳ありませんが、NHKで2週に渡り弥生後期から古墳時代について古代ミステリー番組が放送されました。意見が分かれる内容について全く諸説を紹介しなかったり(例えば邪馬台国については近畿説のみ取り上げ、狗奴国に関しては古くから存在する熊襲説を取り上げなかったり、倭王讃を応神とするなど)広開土王碑や『宋書』で「任那」と書かれている部分をワザワザ「伽耶」と言い換えたり、非常に偏りがある内容な上、所謂「謎の四世紀」に関して「歴史書が存在しない」などと語る始末……いや、一次文献や中国文献に存在しないというのは確かですが、この時代は信憑性に関する一般的な評価はとにかくとして(個人的には多くの史実性を見出していますが)、一応記紀に書かれているのですが、2週放送された番組全体を通して日本書紀の記述が出てくるのが覚えている限りでは、雄略天皇紀の高句麗を大いに打ち破った内容のみという、なんともツッコミどころ満載過ぎる内容でした。


 もっとも以前もお話させて頂いた「英雄たちの選択」なるトンデモ番組で「雄略が高句麗との戦争を避けた」という如何なる文献にも登場しないような虚構を雄略が選択したという、あたかも視聴者が日本書紀すら読んでいないのかと思われているかのような舐めきったトンデモが、この番組によって事実上撤回されたことや、馬育成を東国で行われていたことは本エッセイでも上毛野氏に関する稿で紹介させて頂いたことがあるので、この辺りは番組の数少ない良かった点であると思います。又、韓国に点在する前方後円墳に関しては、過去のNHKの放送では韓国学者を忖度した内容で放送することが多かったのですが、前方後円墳が朝鮮半島由来であるという珍説に対し、出土品から分析して日本人による支配を肯定し得る内容に踏み込んだのは大きいと思います。


 あとは富雄丸山古墳の被葬者について何らかの説を取り上げて欲しかったですね。鹿島神宮のフツノミタマは平安期に作られた全長2.7メートルに及ぶ長大な剣ですが、発掘された蛇行剣が同等の長さであることから、この剣がフツノミタマと関係あるのでしょうかね? だとすれば物部氏関係の被葬者を想像できますが、恐らく部民制度成立以前なのでその線は低そうです。でも、ハッキリし無い分想像は膨らみますね。と、冒頭から関係ない話が長くて申し訳ございません。本題に入ります。



 前稿(大化の改新の詔と郡評論争)で大化の改新と、その経過について取り上げました。この改革は東国豪族に対する締め付け、そして皇室の財政面で成果がある程度上げられた一方、改革による歪みも生じ、それはやがて有間皇子の悲劇に繋がっていくことになります。


 『日本書紀』で非業の死を遂げた皇子は過去の稿でも何人か取り上げましたが、中でも最も悲劇的な運命を辿ったと思われる、有間皇子について取り上げてみます。



◇有間皇子の変に至る背景

⑴『日本書紀』巻二五大化元年(六四五)七月 戊辰

大化元年秋七月丁卯朔戊辰。立息長足日廣額天皇女間人皇女爲皇后。立二妃。元妃阿倍倉梯麻呂大臣女曰小足媛。生有間皇子。(以下略)


(大化の元年の秋七月あきふみづき丁卯ひのとのうのついたち戊辰つちのえたつのひ息長おきながたらしひろぬかの天皇すめらみことみむすめ間人はしひとの皇女を立てて、皇后と爲す。ふたはしらみめを立て、元のみめべの倉梯くらはし麻呂まろ大臣おほおみの女をたらしひめと曰ふ。有間ありまの皇子みこを生み(以下略))


⑵『日本書紀』巻二五白雉四年(六五三)是歳

是歳。皇太子奏請曰。冀欲遷于倭京。天皇不許焉。皇太子乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟等。往居于倭飛鳥河邊行宮。于時公卿大夫。百官人等皆隨而遷。由是天皇恨欲捨於國位。令造宮於山碕。乃送歌於間人皇后曰。


舸娜紀都該。阿我柯賦古麻播。比枳涅世儒。阿我柯賦古麻乎。比騰瀰都羅武箇。


(是歳、皇太子ひつぎのみこ奏請まうしてまうさく、「ねがはくやまとみやこうつらんとおもふ」とまうす。天皇すめらみこと許したまはず。皇太子乃ちすめおやのみことはしひとの皇后きさきヰたてまつり、あはせすめいろどたちすべて、きて倭の飛鳥の河邊のかりみやに居ます。時に公卿まへつ大夫きみたち百官つかさつかさの人等ひとども、皆 したがひて遷る。是に由りて天皇恨らみて國の位をさりたまはんとおもほして。おほみやを山碕に造らしめたまふ。乃ち歌を間人皇后に送りてのたまはく、


かなきつけ、我が飼ふ駒は、引きせず、我が飼う駒を、人見つらむ


*皇太子……本文では中大兄皇子を指す。



⑴⑵解説

 孝徳天皇と中大兄皇子の対立は日本書紀で伝えられており、⑵によれば白雉四年(六五三)中大兄皇子は、都を大和に遷すように孝徳天皇に進言しますが、これを天皇は受け入れず、中大兄皇子は皇極上皇・間人皇后・大海人皇子をはじめ、公卿大夫、百官にいたるまで、みな引き連れて飛鳥河辺の行宮に遷ってしまいました。一人、難波に取り残された天皇は、中大兄皇子の専横を恨みながら翌白雉五年(六五四)十月十日に崩御します。


 ⑴の記述によれば有間皇子の母は阿倍倉梯麻呂大臣の娘の小足媛であり、父は憤死した孝徳天皇の皇子とあります。当時は兄弟で帝位を相続するのが通例であり、有間皇子が位を継ぐことはありませんでしたが、中大兄皇子は自ら皇位には就かず、老齢の皇極上皇を推して重祚、つまり再び皇位に就かせることにより、自らへの非難をかわすと供に、亡き孝徳天皇の支持者、或いは同情派への牽制の意味があったのかと思われます。


 なお、⑵の「舸娜紀都該(かなきつけ)」の歌に関しては、孝徳天皇が大和に連れていかれた寵愛する間人皇后に送った歌で「厠の中の棒に頸を繋いで、私の飼っている駒は、引き出すこともせずに、大切に飼っているのであるが、その駒を人がみたことだろうか」⑶という口語訳になりますが、作者の言わんと欲することが、やや明瞭に欠きます。この歌は橘守部の『稜威言別』⑷によれば、もとは「舸娜紀都該カナギツケ阿我柯賦古麻乎アガカフコマヲ比枳涅世湏ヒキデセス比騰湏瀰羅武箇ヒトミスラムカ阿我柯賦古麻乎アガカフコマヲ」とあるべきで、実は中大兄を恨み給いし御歌であったとの趣旨の事を述べていますが、これは守部の推測に過ぎません。



◇有間皇子の保身

⑸『日本書紀』巻二六斉明天皇三年(六五七)九月

九月。有間皇子性黠。陽狂云々。徃牟婁温湯僞療病。來讃國體勢曰。纔觀彼地。病自蠲消云云。天皇聞悦思欲徃觀。


九月ながつき有間ありまの皇子みこひととなりさとし。陽狂いつはりくるひし云々しかしかいふ。牟婁むろ温湯に徃て、病ををさむるまねして、來て國の體勢すがたほめて曰く、「ひた彼の地をるに、病 おのづからに蠲消のぞこりぬ」云云しかしかといふ。天皇すめらみことこしめて悦びておはしましてみそなはさんとおもす。)


⑸解説

 有間皇子は即位どころか、逆に皇位継承権の高さ故に、中大兄皇子に睨まれていたであろうことは、文中の「有間皇子性黠。陽狂(有間皇子はひととなりさとし。陽狂いつはりくるひし)」と伝えられているように、狂人を装わなければならないほど命の危険にも晒されていたことは想像に難くありません。川崎庸之氏は、「父天皇にもまして孤立無援な立場にあり、自己を知るのに聡明であった彼は人々の目が彼に注がれはじめたのを知ると、あらわに狂人を装いて、不用意にその渦中に捲き込まれることを回避しようとしたのであった。だが、そのうような彼の態度は却って人目を引くようになったのであって、中大兄らの心をとらえるにいたったのである」と推測しました。⑹


 狂人の演技がどんな様子であったのか、個人的には想像し難いですが、もし演技が下手であれば却って自身の首を絞めかねません。後の有間皇子の経緯などを見ると、川崎氏が推測するような聡明な皇子であったのか甚だ疑問であり、(万葉集に有間の歌が伝わっており、この歌から有間が聡明であったとする声もありそうですが、本人の歌であるか判然としない上、もし歌の才能があったとしても、それが聡明であることに結びつくとは限らない為。)本当に聡明であったとしても、当時まだ十七歳だった有間皇子にとってそれが限界であったのかも知れません。


 又、この記事によれば斉明天皇三年(六五七)九月、有間皇子は療養と称して牟婁の湯(和歌山県白浜温泉)に行き、その風光に接しただけでおのずから癒された、天皇も是非お出かけになられたら如何ですか? と斉明天皇に奏上したところ、天皇は喜び、翌四年(六五八)十月十五日に皇太子以下を引き連れて出かけました。



◇有間皇子の事件

⑺『日本書紀』巻二六斉明天皇四年(六五八)十一月 壬午

十一月庚辰朔壬午。留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰。天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財。一也。長穿渠水損費公糧。二也。於舟載石運積爲丘。三也。有間皇子乃知赤兄之善己而欣然報答之曰。吾年始可用兵時矣。


十一しもつき庚辰かのえたつのつひたち壬午みずのえうまととまりまもるつかさがの赤兄臣あかへのおみ、有間皇子に語りて曰く、「天皇すめらみこと所治しら政事まつりごと三のあやまち有り。おほひ倉庫くらたておほみたからの財を積聚みむ。一なり。とほ穿ほり公糧ひとのくひものおとしつひやす。二なり。舟に石をつみて運び積てつかに爲す。三なり」といふ。有間皇子乃ちあかおのれうるはしきを知るを欣然よろこび報答こたへを曰く、「吾年始めて兵を用ふべき時なり」といふ。)



⑺解説

 十一月三日、留守官の蘇我赤兄が市経(奈良県生駒市壱分町か)の有間皇子の家を訪れ、斉明天皇の政治について、


 第一に大いに倉庫を立てて民の財を集積すること

 第二に長い溝を掘って税を浪費すること

 第三に船に石を載せて運び、無駄に積んで丘にする事


 以上の三つの失政があると批判しました。


 実際、これらの事業は評判が悪かったらしく、日本書紀では以下のように伝わっています。



⑻『日本書紀』巻二六斉明天皇二年(六五六)是歳

是歳。於飛鳥岡本更定宮地。時高麗。百濟。新羅。並遣使進調。爲張紺幕於此宮地而饗焉。遂起宮室。天皇乃遷。號曰後飛鳥岡本宮。於田身嶺冠以周垣。〈田身山名。此云太務。〉復於嶺上兩槻樹邊起觀。號爲兩槻宮。亦曰天宮。時好興事。迺使水工穿渠。自香山西至石上山。以舟二百隻載石上山石。順流控引於宮東山。累石爲垣。時人謗曰。狂心渠。損費功夫三萬餘矣。費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣。山椒埋矣。又謗曰。作石山丘随作自破。〈若據未成之時作此謗乎。〉又作吉野宮。(以下略)


(是歳、飛鳥岡本に於て更に宮 ところを定む。時に高麗、百濟、新羅、並びに使を遣し調を進む。ためふかきはなだあげはりを此の宮 ところに張りてあへたまふ。遂に宮室おほみやつ。天皇すめらみこと乃ち遷りたまひ。なづけて後飛鳥岡本宮と曰ふ。田身嶺たたむのたけに於てかうぶらしむるにめぐれるかきを以てす。〈田身は山名。此を太務たむと云ふ。〉復たたけうへふたつのつきの樹の邊に於てたかどのつ。なづけて兩槻宮ふたつきのみやと爲す。亦たあまつ宮と曰ふ。時におこしつくるを好む。すなは水工みづたくみみぞ穿ほらしむ。かぐやまの西自り石上の山に至る。舟二百隻を以て石上の山石をつみて、みづままに宮の東山に控引ひき、石をかさねて垣と爲す。時の人謗りて曰く、「狂心たぶれこころみぞ功夫ひとちからおとそこな萬餘よろづあまり。垣を造る功夫ひとちからつひやそこななな萬餘よろづあまり。宮のただれ、山のすえ埋矣うづもれり」といふ。又謗て曰く、「石の山の丘を作るも作らんままに自づからにこほれむ」といふ。〈若くは成ら未る時に據り此のそしりす。〉又、吉野の宮を作る。(以下略))


⑻解説

 大化の改新により主に東国豪族たちの締め付け、そして皇室の財政面である程度成功を収めたと言って良いことは前稿(大化の改新の詔と郡評論争)で見てきましたが、豪族たちが農民から無制限な搾取が出来なくなった一方、石母田正氏の「従来にない巨大な権力を掌握した皇室の本質的な変化はなかった」⑼という主張の通り、本文で見られる様な開発事業が押し進められ、民衆達の不興を買った様で、考古学的な裏付けからも、こういった開発が史実であった可能性は高い様です。


 奈良明日香村の酒船石遺跡は七世紀中頃に造営され、⑻の記事の「宮の東山に控引ひき、石をかさねて垣と爲す」にあたる遺跡であることが判明してきており、その範囲は未だ明らかではありませんが、現状では酒船石のある丘陵と周辺の谷部が推定されること。酒船石遺跡の性格については、亀形石槽を含む北部地域の調査により、丘陵上に検出された砂岩石垣と大規模な造成事業について、丘陵中腹に石垣を巡らす遺跡としては北部九州から瀬戸内にかけて築かれた朝鮮式山城、あるいは神籠石と呼ばれる古代山城があり、酒船石遺跡の構造は、基本的にこれらの山城の構造と類似し、(但し、防御を重視する山城とは性格については異なる)、造営時期は七世紀中頃と推定され、遺跡の位置と立地、構造、石垣の材質など共通する点が多く、石垣の倒壊土があることから「石の山の丘を作るも作らんままに自づからにこほれむ」の記述に対応していること等から、酒船石遺跡のうち、丘陵部及び北部地域並びに東部地域については、⑻の記事との整合性が極めて高いそうです。⑽


 こうした考古学的な成果からも、斉明天皇の失政と民衆の不満は史実であろうことが伺え、赤兄の言葉を若い有間皇子は信じてしまったとしても不思議ではありません。


 又、石母田氏によれば、⑻の記録を「徭役労働に対する人民の抗議をはじめて歴史に公然とした文字であった。蘇我赤兄はこのような憤りと抗議を有間皇子を叛乱に誘うために利用したのであり、誘われた皇子も同様であったから、皇子の叛が成功すれば、彼もまた天皇と同じ失敗を繰り返していたであろう。したがって有間皇子と皇太子中大兄との対立は政策の相違や階級的基盤の相違にもとづく政治的対立ではなかった。有間皇子が孝徳天皇と故左大臣阿倍麻呂の女小足媛とのあいだに生まれた皇子であるという事実が、孝徳天皇の晩年に見られた皇太子と天皇のはげしい対立のなかでは、皇子の運命を決定する大きな要因となったとみられる」と述べられています。⑾


 要は徭役労働に対する人民の抗議は叛乱の口実に過ぎず、赤兄も有間も、更に言えば斉明天皇も本質的に変わらないと石母田氏は仰りたいのでしょうかね? 有間皇子に関しては専門家の間ですら同情的な見方が圧倒的に多いのですが、一方で石母田氏のような冷静な見方―それはイデオロギーに基づくものであるかどうかはとにかくとして、こういった視点も歴史学を携わる者としては必要なのかも知れません。



⑿『日本書紀』巻二六斉明天皇四年(六五八)十一月 甲申

甲申。有間皇子向赤兄家。登樓而謀。夾膝自斷。於是知相之不祥。倶盟而止。皇子歸而宿之。是夜半赤兄遣物部朴井連鮪。率造宮丁圍有間皇子於市經家。便遣驛使奏天皇所。


甲申きのえさる。有間皇子、赤兄が家にきて、たかどのに登りて謀るに、夾膝おしまづきおのづからをれぬ。於是ここしるましの不祥さかなきを知り、倶に盟て止む。皇子歸て宿やどる。是の夜半に赤兄、物部もののべの朴井えのヰのむらじしびを遣て、宮を造る丁を率て有間皇子を市經いちふの家にかくましむ。便ち驛使はいまを遣て天皇所おもとに奏す。)


⑿解説

 赤兄をすっかり信用してしまった有間皇子は、自ら市経(奈良県生駒市壱分町)にある赤兄の家に行き、謀議をめぐらしましたが、脇息が折れ、これを不吉のしるしと知った皇子は謀反の計画を取りやめにします。ところが、夜半に赤兄が物部もののべの朴井えのヰのむらじしびを遣わし、「率造宮丁(宮を造る丁を率て)」つまり宮造りの人夫が(人夫も武装すれば兵になる為)赤兄の家を囲みました。


 本文のみから推察すれば、この赤兄の手際の良さからすると、最初から有間皇子を騙すつもりであったとしか言いようが無いですが、そうとも断定しきれないことも後日の庚寅十一日で引用した或本の記述で見受けられます。



⒀『日本書紀』巻二六斉明天皇四年(六五八)十一月 戊子

戊子。捉有間皇子與守君大石。坂合部連藥。鹽屋連鯏魚。送紀温湯。舎人新田部連米麻呂從焉。於是皇太子親問有間皇子曰。何故謀反。答曰。天與赤兄知。吾全不解。


戊子つちのえね。有間皇子ともりのきみ大石おほいし坂合部連藥さかあひべのむらじくすり鹽屋しほやのむらじ鯏魚このしろとを捉へ、紀の温湯に送くりたてまたす。舎人とねり新田部連米麻呂 みともなり。於是ここ皇太子ひつぎのみこ親ら有間皇子に問て曰く、「何故か謀反みかどかたぶけむとする」とのたまふ。答て曰く、「あめと赤兄と知る。おのもはしらずを」とまをす。)


⒀解説

 有間皇子や彼の共謀者等は捉えられ、天皇が行幸している紀の牟婁湯に送られました。中大兄皇子が(白々しくも?)自ら尋問すると、「天と赤兄とが知っている。私は全く解らない」と答えたのは精一杯の抵抗であり、赤兄に裏切られたと知った有間皇子の無念が伝わってきます。



⒁『日本書紀』巻二六斉明天皇四年(六五八)十一月 庚寅十一

庚寅。遣丹比小澤連國襲絞有間皇子於藤白坂。是日。斬鹽屋連鯯魚。舎人新田部連米麻呂於藤白坂。鹽屋連鯯魚臨誅言。願令右手作國寶器。流守君大石於上毛野國。坂合部藥於尾張國。〈或本云。有間皇子與蘇我臣赤兄。鹽屋連小代。守君大石。坂合部連藥。取短籍卜謀反之事。或本云。有間皇子曰。先燔宮室。以五百人。一日兩夜邀牟婁津。疾以船師斷淡路國。使如牢圄。其事易成。或人諌曰。不可也。所計既然而无徳矣。方今皇子年始十九。未及成人。可至成人而得其徳。他日有間皇子與一判事謀反之時。皇子案机之脚无故自斷。其謨不止。遂被誅戮也。〉


庚寅かのえとらたぢひのさはのむらじくにを遣して有間皇子を藤 白坂しろのくびをしむ。是日、鹽屋しほやのむらじ鯏魚このしろ、舎人新田部連米麻呂を藤白坂に斬る。鹽屋しほやのむらじ鯏魚このしろころれむとしまをさく、「願はくは右の手をして國の寶器たからものを作らしめよ」とまをす。もりの君大石きみおほいし上毛野國かみつけぬのくにに、坂合部連藥さかあひべのむらじくすりを尾張國に流す。〈或本に云ふ。有間皇子、蘇我臣赤兄、鹽屋しほやのむらじ小代このしろもりの君大石きみおほいし坂合部連藥さかあひべのむらじくすりと、短籍ひねりふみを取て謀反の事を卜ふ。或本に云ふ。有間皇子曰く、「先づ宮室おほみや燔て、五百人を以て一日兩夜、牟婁津をたへて、とく船師を以て淡路國をさとりてし、牢圄ひとやにこもれる如くなら使む、其の事成り易らむ」といふ。或人諌めて曰く、「からず。計る所は既に然しともいきほひし。に今皇子年始て十九、未だ人とるに及ばず。人とるに至りて其のいきほひを得べし」といふ。他日あだしひ、有間皇子、ひとり判事ことわるつかさ謀反みかどかたぶけむとの時に、皇子 案机おしまつきの脚、故无て自からにれぬ。其のはかりごとまずして、遂に誅戮ころされぬ。〉)


⒁解説

 有間皇子は都へ送還される途次、藤白の坂(和歌山県海南市藤白)で絞首されました。この日、鹽屋しほやのむらじ鯏魚このしろ、舎人の新田部連米麻呂も斬首されました。又、もりの君大石きみおほいし上毛野國かみつけぬのくにに、坂合部連藥さかあひべのむらじくすりは尾張國に流されました。正伝では赤兄の謀略に嵌められた感がある有間皇子ですが、本文注が引く或本に見られる謀反の計画を積極的に語る有間皇子の姿は、正伝の⑿で見られる様な優柔不断ともとれる有間皇子とはまるで別人のようにも見えます。



◇乱の真相

 蘇我赤兄は罰せられることもなく、その後、天智朝では左大臣にまで昇格しているので、この事件は若い有間皇子が、老獪な赤兄に、そしてその背後に存在する中大兄皇子の陰謀に陥れられたと見る説と⒂、この事件は全くのでっち上げかというと、実際はある程度進んでいたらしいという説⒃がありますが、私見ではどちらかといえば後者を取りたいと思います。


 理由としては、⒁の或本に有間皇子の言葉として、「先づ宮室おほみや燔て、五百人を以て一日兩夜、牟婁津をたへて、とく船師を以て淡路國をさとりてし、牢圄ひとやにこもれる如くなら使む、其の事成り易らむ」という台詞から察すると相当計画が進んでいた事を伺い知る事と、「皇子案机之脚无故自斷。其謨不止(皇子 案机おしまつきの脚、故无て自からにれぬ。其のはかりごとまずして)」と語れている様に、脇息が折れても謀略を止めようとしなかったという積極的な姿勢を見せているからです。しかし、赤兄が裏切った真相は何とでも解釈可能な為、ハッキリと理由を断定するのは困難であるとしか言いようがありません。


 確かに謀反の気配を予め察していた中大兄皇子陣営が有間皇子を陥れるために、それに赤兄が協力したということも考えられますが、もし斉明の失政を語った赤兄の気持ちは事実だとすれば、元々は有間皇子陣営だった蘇我赤兄ですが、正伝でみられるような有間皇子の優柔不断ぶりに失望して、事が発覚した際に自分に被害が及ぶことを恐れ、保身の為に心変わりしたという可能性も無い訳ではありません。ですが、⒂の説の様に、後の赤兄の出世ぶりをみると、元から有間皇子を陥れるつもりだったというのもうなづけるものがあります。何れにせよ、限られた史料日本書紀からは可能性を推察することしか許されず、真相は闇の中へといったところでしょうか。


 ですが、斉明天皇二年(六五六)是歳条の如き天皇の失政批判をも包括している日本書紀が「不都合な事実を隠している」「歴史は勝者が創るもの」といった類の性質の書ではないことは確かなので、恐らく日本書紀編纂時期に至っても同情的にみられていた有間皇子の事件の真相について、既に二通りの説があり、有力である赤兄による謀略を正伝としながらも、有間皇子が積極性を見せていた或本も引用することで、公平性を維持し、ある意味後世の読者の判断に委ねようとしている日本書紀の編纂者の姿勢は評価すべきかも知れません。



◇参考文献

⑴『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/263


⑵前掲書

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/280


⑶『記紀歌謡全註解』相磯貞三 有精堂出版 535頁

「日本書紀歌謡篇 一一五 孝徳天皇の御製」


⑷『稜威言別』橘守部 著, 橘純一 校訂 富山房

https://dl.ndl.go.jp/pid/1069688/1/252


⑸『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/283


⑹『天武天皇』川崎庸之 岩波書店 46頁

「有間皇子の反」


⑺『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/284


⑻前掲書

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/282


⑼『萬葉集大成 歴史社会篇 第5巻』平凡社 168-169頁

所収「初期萬葉とその背景 ―有間皇子・間人連老・軍王の作品については―」石母田正


⑽「酒船石遺跡の発掘調査成果とその意義」相原嘉之 177-179頁


⑾『萬葉集大成 歴史社会篇 第5巻』平凡社 169頁

所収「初期萬葉とその背景 ―有間皇子・間人連老・軍王の作品については―」石母田正


⑿~⒁『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/284


⒂『万葉集を知る事典』桜井 満【監修】尾崎 富義・菊地 義裕・伊藤 高雄【著】東京堂出版 71頁

「有間皇子の変」

『大化の改新』北山茂夫 岩波書店 161頁

「1 有間皇子の変」

『日本書紀通釈 第5 増補正訓』飯田武郷 日本書紀通釈刊行会

「日本書紀通釈巻之六十」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1115865/1/130


⒃『万葉集ハンドブック』多田一臣 編 三省堂 17頁

「有間皇子の自傷歌」


◇関連稿

・大化の改新の詔と郡評論争

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16818023212035132911

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