有間皇子② 万葉集に伝わる歌

 前回有間皇子の変について取り上げたので、本稿では『万葉集』に伝わる皇子の歌や、皇子を偲んだ歌を取り上げます。



◇有真皇子の歌

⑴『萬葉集』巻二 一四一・一四二

有間皇子自傷結松枝歌二首


磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武


家有者 笥尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉尓盛



(有間皇子の、みづから傷みて松が枝を結ぶ歌二首


 磐城いはしろの 濱松がを 引き結び 眞幸まさきくあらば またかへり見む〔141〕


 家にあれば に盛るいひを 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る〔142〕)




◇⑴解説

 江戸時代の萬葉集研究の集大成である『萬葉集古義』によると、〔141〕の歌は、「事の終止の申し開き、それをきこしめしわけてなだめ給うはば、この結びあわせを置結松を平安さきくて又かへり見むとなり、いともかなしくあはれなる御歌なりけり」〔142〕の歌は、「常さへあるに、いみじき御大事を、おもほしめしたち給ふ事あらはれて、趣かせ給ふご旅中の、いともわびしく堪えがたきさまをのたまへるにて、かくれたるすぢなし、*契沖もいひし如く、此の二首の御歌に、その時の御心たまひしとなりてやどれるにや、いと身にしみてかなしきことかぎりなし」⑵。とある様に有間皇子のことが同情的にみられています。


*江戸前期の万葉集の注釈『万葉集代匠記』の著者。万葉集の研究史において、漢籍や仏典まで渉猟し、文献学的な考証態度による緻密な注釈書で知られている。


 現代の解釈では〔141〕は、枝結びの呪術を歌い、魂を松の枝に結び込め、それとの再会を期して前途を祈る呪術であり、磐代は現在の和歌山県日高郡の地。その地名は岩石信仰を背景に永遠を保証する意味を持っていたと言います。〔142〕の「椎の葉に盛る」は道祖神への手向けの行為とみる説*もありますが、人間の食事と見て、「家」と「旅」を対比的にうたうのは、旅の不自由さを示す為だそうです。⑶


*椎の葉を食器がわりにすることは、たとえ歌の世界であっても現実性に欠けること、熊野地方では地の神をまつるのに木の葉を皿がわりに用いる習慣があること、題詞に「自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」とあって二首がともに手向けの呪術であることなどを考慮して、岩代の神への神饌と解釈する説。⑷


 確かに椎の葉を食器がわりにするのは考えずらいですが、弥生時代に起源を持ち、現在に至り続いている、ちまきの様に笹の葉で包む食料もあるので、或いは椎の葉が使われていた可能性も否定できないのかと個人的には思いました。


 又、『新編日本古語辞典』⑸によれば、この歌の椎を今でいう椎と異なり、その葉は相当大きく、ヒラデ(葉盤)に出来たものと思われるとの事です。葉盤とは平らな皿状の食器のことで、『日本書紀』巻三神武天皇即位前紀戊午年(前六六三)十一月己巳の記事によれば、「即作葉盤八枚。盛食饗之(即ち葉盤ひらでひらして、らひものを盛て)ふ」⑹つまり、葉盤ひらで八枚をもって神饌を供えたことが記されており、同文に「葉盤。此云毘羅耐(葉盤。此、毘羅ひらと云ふ)」と注があることから、太古には葉を材料にしていたと思われるそうです。⑺



⑻『萬葉集』巻二 一四三・一四四

長忌寸意吉麿見結松哀咽歌二首


磐代乃 岸之松枝 将結 人者反而 復将見鴨


磐代之 野中爾立有 結松 情毛不解 古所念[未詳]


長忌寸ながのいみき意吉おき麿まろの、結び松を見て、かなしびせるうた二首ふたつ


 磐代いはしろの 岸の松が 枝結びけむ 人はかへりて また見けむかも〔143〕


 磐代いはしろの  野中に立てる むすび松 こころも解けず いにしへおもほゆ[いまだ詳ならず]〔144〕)



⑼『萬葉集』巻二 一四五

山上臣憶良追和歌一首


鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武


やまの上臣憶へのおみおくの、追ひてなぞらふるうた一首ひとつ


 翔成ばさなす がよひつつ 見らめども 人こそ知らね 松は知るらむ〔145〕)



⑽『萬葉集』巻二 一四六

大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松作歌一首 〈柿本朝臣人磨呂歌集中出也〉


後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞


(大寶元年 辛丑かのとうし。紀伊の國にいでましし時、結松を見るうた一首ひとつ〈柿本朝臣人磨呂の歌集の中に出づ〉


 のち見むと 君が結べる 磐代の 小松がうれを 又見むかも〔146〕)


◇⑻~⑽解説

 前述の有間皇子の歌の後ろに、長忌寸意吉麿・山上臣憶良・柿本人磨呂がそれぞれ歌を配しており、その歌から、この頃には既に有間皇子が叛逆者とみなされていたというよりは、寧ろ同情的にみられていたであろうことが伝わってきます。


 ⑴の〔141〕〔142〕二首について、処刑直前の緊迫感や悲痛な心情が伝わらないとして、伝承性や虚構性を主張する説もあるそうですが、少なくても『万葉集』の編者とその周辺では、二首を皇子の謀反事件と絡めて享受したであろうことは確かで、そうでなければ二首を挽歌部の冒頭にすえることもなかっただろうし、〔143〕~〔146〕の歌を配することもなかったはずであり、追和歌がひとしなみ「岩代の結び松」をとおして皇子の霊を鎮める歌になっていることは、当時すでに有間皇子は悲劇の皇子として享受されていたことを示すと言います。⑾


 有間皇子の歌から悲痛な心情が伝わらないという受け取り方に関しては前述の『萬葉集古義』では逆に捉えており、自分のような素人からすれば個人の受け取り方の違いに過ぎない様な気もしますが、有間皇子の御作であるか客観的な判断材料を上げるとすると、万葉集以前の時代に編纂された漢詩集の『懐風藻』序文に「雕章麗筆非唯百篇。但時経乱離悉従煨燼。(雕章ちょうしょう麗筆れいひつただ百篇のみに非ず。但し時にらんを経て、ことごと煨燼かいじんしたがふ。)⑿」つまり、「よく練られた文章や美しい詩賦は百篇程度ではなかった。しかし、この時代に壬申の乱が起きて、悉く焼けて灰になってしまった」とあることから、漢詩だけでなく、恐らく和歌も焼けてしまったことを想像すると、仮に有間皇子が歌を残していたとしても、壬申の乱より前の時代を生きた有間皇子の和歌もおそらく戦禍から免れるのは困難であるかと思うので、有間皇子に仮託された伝承歌である可能性が高いのかも知れません。ですが、それは重要な事ではなく、有間皇子がこの様な歌を残していたと信じられていたことこそが肝心な様です。




⑴⑻⑼⑽『定本万葉集 第1』佐佐木信綱, 武田祐吉 編 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/pid/1687801/1/30


⑵『万葉集古義 第1』鹿持雅澄 著, 国書刊行会 編 大観堂出版社

https://dl.ndl.go.jp/pid/1127514/1/248


⑶『万葉集ハンドブック』多田一臣 三省堂 18頁

「第一期の和歌 有間皇子の自傷歌」


⑷⑾『万葉集を知る事典』桜井 満【監修】尾崎 富義・菊地 義裕・伊藤 高雄【著】東京堂出版 268-269頁

「有間皇子」


⑸『新編日本古語辞典』松岡静雄 刀江書院

「シヒ(椎)」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1207239/1/169


⑹『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/59


⑺松岡、前掲書

「ヒラデ(比羅傳、葉盤)」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1207239/1/263


⑿『新撰名家詩集』塚本哲三 有朋堂書店

所収「懐風藻」

https://dl.ndl.go.jp/pid/977945/1/257

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る