大化の改新

大化の改新の詔と郡評論争

 中大兄皇子、中臣鎌足等が蘇我入鹿・蝦夷親子を滅ぼした、所謂「乙巳の変」の後にはじまる改革を「大化の改新」と呼ぶことは皆さんご存じでしょうが、一時期この大化の改新が存在しなかったという説が取沙汰されたこともあります。本稿では主な大化の改新の研究を振り返り、大化の改新の史実性について取り上げてみたいと思います。




◇大化の改新の詔

⑴『日本書紀』巻二五大化二年(六四六)正月甲子朔

二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。

其一曰。罷昔在天皇等所立。子代之民。處々屯倉及別臣連。伴造。國造。村首所有部曲之民。處々田庄。仍賜食封大夫以上。各有差。降以布帛賜官人。百姓有差。又曰。大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。

其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。驛馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。掌按撿戸口督察姧非。其坊令取坊内明廉强直堪時務者充。里坊長並取里坊百姓清正强幹者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。〈兄。此云制。〉西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來。爲畿内國。凡郡以四十里爲大郡。三十里以下四里以上爲中郡。三里爲小郡。其郡司並取國造性識清廉堪時務者爲大領少領。强幹聰敏工書笇者爲主政主帳。凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。

其三曰。初造戸籍。計帳。班田收授之法。凡五十戸爲里。毎里置長一人。掌按撿戸口。課殖農桑禁察非違。催駈賦役。若山谷阻險。地遠人稀之處。隨便量置。凡田長卅歩。廣十二歩爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。

其四曰。罷舊賦役而行田之調。凡絹絁絲緜並隨郷土所出。田一町絹一丈。四町成疋。長四丈。廣二尺半。絁二丈。二町成疋。長廣同絹。布四丈。長廣同絹絁。一町成端。〈絲綿絇屯諸處不見。〉別收戸別之調。一戸貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄。亦随郷土所出。凡官馬者。中馬毎一百戸輸一疋。若細馬毎二百戸輸一疋。其買馬直者。一戸布一丈二尺。凡兵者。人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者。改舊毎卅戸一人〈以一人充廝也。〉而毎五十戸一人〈以一人充廝。〉以充諸司。以五十戸充仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺。庸米五斗。凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者〈從丁一人。從女二人。〉以一百戸充釆女一人粮。庸布。庸米皆准仕丁。


(二年 春正月はるむつき甲子きのえねのついたちのひ賀正禮みかどをがみのことえいはる。即ちあたらしきに新之あらたむるみことのりのりたまふ。


其の一に曰く、昔在むかし天皇すめらみこと等の立てたまへる子代こしろおほみたから處々ところどころ屯倉みやけ及び別に臣連おみむらじ伴造とものみやつこ國造くにのみやつこ村首むらのおびとたもてる部曲かきべおほみたから處々ところどころところめよ。仍りて食封へひと大夫まへつきみ以上かみつかたたまふことおのおのしな有り、降りては布帛きぬを以て官人つかさ百姓おほみたからたまふことしな有り。又曰く、大夫まへつきみおほみたからを治めしむる所なり。く其のまつりごとつくすときは、則ちおほみたからかふぶる。故れ其の祿たまものを重くすることは、おほみたからめにする所以ゆゑんなり。


其のつぎに曰く、初めて京師みさとを修め、畿内うちつくに國司みこともち郡司こほりのみやつこ關塞せきそこ斥候うかみ防人さきもり驛馬はゆま傳馬つたはりうま、及び鈴契すずしるしを造り、山河やまかはを定めよ。おほよみさとには坊毎まちごとをさ一人ひとたりを置き、よつのまちうながし一人を置き、ひとかんがをさめ、かたましくあしきただることをつかさどれ。其のまちうながしまちうちいさぎよくこはただしくて、時のまつりごとへたるものを取て充てよ。さとまちの長には並にさとまち百姓おほみたからきよくただしく强幹いさをしきものを取りて充てよ。若し里坊さとまちに人無くはならひ里坊さとまちえらもちゐるをゆるす。おほよ畿内うちつくには、ひむがし名墾なはり横河よこかは以來このかた、南は紀伊のせの山自以來このかた、〈兄。此をと云ふ。〉西は赤石あかし櫛淵くしふち以來このかた、北は近江の狹々波ささなみの合坂あふさかやま以來このかた畿内國うちつくにと爲す。おほよこほり四十里よそさとを以て大郡おほこほりと爲す。三十みそさとより以下しもさとより以上かみ中郡なかつこほりと爲す。さとすくなきこほりと爲す。其の郡司こほりのみやつこ並びに國造くにのみやつこ性識清廉ひととなりたましひいさきよときのまつりごとたふる者取ておほみやつこすけのみやつこと爲す。强幹いさをしき聰敏さとくて書笇てかきかずしるたくみなる者を主政まつりごとひと主帳ふみひとと爲す。おほよ驛馬はいま傅馬つたはりうまを給は、みなすずつたへしるしきざみのかずに依れ。おほよもろもろの國及びせきにはすずしるしを給ふ。並びに長官かみれ、無くば次官すけ執れ。


其のつぎに曰く、初めて戸籍へふむだ計帳かずのふむだ班田あかちだをさめ授之法さづくるのりを造る。おほよ五十戸いそへを里と爲し、里毎に長一人を置く。ひとかむがをさめ、なりはひくわ課殖おほせ、非違のりにたがへるいさめあきらめし、賦役みつぎえたち催駈うながすことをつかさどれ。若し山谷やまはさま阻險うかしくて、ところ遠く人稀なる處には、便たよりしたがひてはかりて置け。おほよそ田は長さ卅歩みそあし、廣さ十二とをあまりふたあしきたと爲し、きだところと爲し、きたごとにたちからのいね二束ふたつか二把ふたたまりところごとに租稻たちからのいね廿はたちあまり二束ふたつかとす。


其のつぎに曰く、もと賦役みつぎえたちめて田の調みつぎを行ふ。おほよかとりふとぎぬいとわたは並びに郷土くにの出す所にしたがへ。田一町たひとところかとり一丈ひとつゑところにてむらを成す。長さ四丈よつゑ、廣さ二尺ふたさかあまりいつきふとぎぬ二丈ふたつゑふたところにてむらを成す。長さ廣さはかとりに同じ、布は四丈よつゑ、長さ廣さはかとりふとぎぬに同じ。ひとところにてむらを成す。〈いと綿わたみせもろもろのところに見えず。〉別にごと調みつぎれ、ひとさよみ布一丈ぬのひとつゑあまり二尺ふたさかとす。おほよ調みつぎ副物鹽そはりものにへと、亦 郷土くにの出す所にしたがへ。おほよつかさうまは、中馬なかのしな一百戸ももへごと一疋ひとつぎいたし、若し細馬よきうまならば、二百ふたももごと一疋ひとつぎいたせ。其の馬を買はむあたひは、一戸ひとへぬの一丈ひとつゑ二尺ふたさかとす。おほよつはものは、人の身ごとにたちよろひ、弓、矢、はたつづみわたせ。おほよそはつかへのよほろは、もとみそ毎に一人せしを改め、〈一人を以てつ。〉五十戸いそへ毎に一人〈一人を以て廝に充つ。〉以て諸司つかさつかさに充てよ。五十戸いそへを以て仕丁つかへのよほろ一人のかてに充てよ。一戸にちからしろぬの一丈ひとつゑあまり二尺ふたさかちからしろ米五斗こめいつはことす。おほようぬは、こほりすけのみやつこ以上かみつかた姉妹いろも、及び子女むすめ形容かほ端正きらきらしき者をたてまつれ。〈とも丁一人、從女とものめのこ二人。〉一百戸ももへを以てうぬ一人がかてに充てよ。ちからしろの布、ちからしろの米は皆 仕丁つかへのよほろなぞらへ。)



◇概要

 全体は四か条の主文と十四項目の細部から成ります。四か条を簡易的に纏めると以下になります。


・第一条=部民および屯倉みやけどころ(私有地)を廃し、公地公民制にすること。


・第二条=京師(都)を修め、畿内・国司・郡司以下の地方行政の制度を整え、軍事・交通の機関を設けること。


・第三条=戸籍・計帳および班田収授の法を採用すること。


・第四条=古い税制を廃し、田調(一定の田の広さに対して課する調)ほか新しい税制によること。また、官馬・仕丁・うぬなどの制をたてること。


 これらの条項は多くを唐の制度にならい、全体としては体系的な律令制的制度を示しており、いかにして税を徴収するかが基本にあります。中央の決定がまちがいなく地方で実行される為には、地方行政の組織が整理していなければならず、中央政府が地方を掌握することは、ひいては天皇の権力が地方までに及ぶことになり、基本理念は、公地公民制の基盤に立った中央集権国家の確立にありました。⑵


 ところが、この様な詔が当時本当にあったのか、様々な点から疑われるようになります。



◇古い時代の大化の改新論と群評論争

 大化の改新の研究史について、新井白石以来、昭和初期までの研究史の流れを大まかに准えば、政治史的史観より文化史的史観へ、文化史的史観より社会経済史的史観へと変遷して行きました。昭和初期の頃は唯物史観を奉じる人々が史的経過の必然性を強調し、氏族制度より古代国家への移行の公式を当て嵌めようとしましたが、事実の穿鑿せんさくを遠くし、理法の適用にのみ焦る弊害もありました。その様な時代の流れの中、津田左右吉氏が従来の手法に捕らわれない、昭和初期という時代からすれば画期的とも評価される手法で大化の改新の記事に関する批判を行いました。


 具体的に言えば、この詔について、部曲が諸家の「所有」とあることから奴隷の如きものであるという憶測され、そこから特殊階級の解放であるという主張に対して、津田左右吉氏は事実は却ってその反対で、唐制に倣って良賤の区別を明らかにした事により、従来そこまで分け隔てが無かった普通の民とそれに使役させられるヤツコとの限界を明確にし厳格にしようとしたのであり、改新は政治上の制度に於いてのことであり、改新その事は社会改革ではなかったと主張しました。⑶


 又、詔の諸条の始まりには必ず「凡」という字が置いてあることから、これは令の書き方の通例であることを指摘し、この部分を詔勅の原文のままではないとし、後世の近江令か持統朝の令の文字であるかを推測し、田の段積の規定及び租法は持統朝の令とは違っていること等から、この詔を近江令の転載であるとしました。⑷


 ⑶に関しては如何にもマルクス主義を嫌っていた津田氏らしい主張ですが、それはとにかく、⑷の主張に関して坂本太郎氏は詔の不備不足から大化の詔の伝来の不備を示すものとし、大体の趣旨は大なる矛盾なき限り之を信じるのが穏当な立場であろうとし、津田氏を批判し⑸、又、大化の改新の直接の結果は大宝律令制定となってあらわれ、改新の効果もしくは影響が後世に及び、国家の発展に対しては好ましい効果という物があったものの、官人優位の跋扈、社会全般の基調が型式に捉われたこと、人民の生活が実質的に向上したか疑わしいことなどを述べられています。⑹


 一方、井上光貞氏は津田説を部分的に参考にし、詔の第二条(井上氏は第二章と表現)の郡条には、下級地方機構を郡と記し、その長・次官を大・少領と記すが、それは大宝律令とほぼ同文と考えられる事と、大化から半世紀の後の大宝律令発布の年までの金石文にはこのような表現は全くなく、そこでは郡にあたるものを必ず評、役人は評造・評督などと書いてあることと、古記録にも全く同じ表現が多く用いられているという事実を指摘し、詔の原文には評系統の文字が用いられ、近江令でも浄御原令でも、そうであって、大宝令ではじめて郡系統に改めた。従って郡系統を用いる現詔は、必ず、書記編纂当時の現行法たる大宝律令で修飾されていたに違いないと述べましたが⑺、坂本氏は大体において実録的と考えられる日本書紀の天武・持統紀に用いられている郡字をも、国史の編者の修飾と考えられるのであろうかと言った反駁を行い⑻、かの有名な所謂「郡評論争」に発展しました。(因みに坂本氏は井上氏の師であり、言わば師弟対決でもあったのですが、現在の歴史学会に於いても、二人の関係の様に、例え教え子であっても師に遠慮しない姿勢や気概はまだあるのでしょうかね?)


 このような改新否定論も盛んに取りざたされる中、石母田氏は改革を執行した主体について、大化の東国国司詔を取り上げ分析し、東国における国造は強力で、伴造・屯倉を包摂していたことに特色があり、彼らが改新の主体として登場することに注目し、それを評造とすることによって評が成立し、領域的国家が成立したといいます。即ち孝徳朝の東国郡司が派遣され、校田や民戸の調査や地方における軍事的拠点の設定が行われ、そのような改革を通じて各「氏」とその部民がカバネナを負うことにより王権に奉仕するタテ割り的な体制から、評制の元公民制によるヨコ割の支配が可能になったとし、又、国造軍を国家体制の一部として編成したこと等を古代の軍政史の一つの画期を成したと見なされました。⑼


 改新の詔は改新論からしばらく外すとして、大化元年から二年の五つほどの詔・奏を第一次資料と認定して、改新に取り組む姿勢は、当初資料の認定が恣意的と批判されたそうですが、改新肯定論が活発になる流れを生んだきっかけが石母田氏の論文からであるそうです。



◇郡評論争の行方

 一九六六年から藤原宮址で発掘が実施され、最終的に二〇〇〇点の木簡が発見されました。その中に以下のように書かれた荷札が発掘され、大きな注目を集めました。


 己亥年十月上捄國阿波評松里


 「己亥年」は六九九年にあたり、「上捄國かずさのくに」は上総国の古い表記であり、「わのこほり」は七一八年に安房国となりますが、元々は上総国の一部でした。「松里まつさと」はのちの「松樹郷」で、現在の千葉県南房総市千倉町あたりと推定されています。この木簡には六九九年に「評」字が使われていたことを示す同時代史料であり、この時代に於いて「阿波」ではなく、「阿波」と書かれていたことが証明されました。


 その後、藤原宮址からは七百年に相当する「庚子年」の荷札木簡も出土され、現在に至るまで多数の木簡が出土しましたが、地方行政区分のコホリは、七百年までは「評」、七〇一年以降は「郡」で例外は全くないそうです。こうして、『日本書紀』の改新の詔の記述は大宝律令の知識に基づいて「郡」と表記したことが明らかになり、「郡評論争」に決着がつくことになりました。⑽


 また、「里」に先行して「五十戸」、「庸」に先行して「養」という字が使われていた事も近年発掘された木簡により確認されていますが、これらも大宝律令による知識によるものとは断定出来ないそうです。「辛巳年鴨評加毛五十戸」と書かれた木簡が飛鳥の石神遺跡出土より発見され、「辛巳年」は六八一年になり、この頃にはまだ五十戸が使われていたことが解ります。一方「里」に関しては藤原宮造営時の運河から出土された「癸未年十一月三野大野評阿漏里□漏人□□白米五斗」と書かれた木簡により、「癸未年」つまり六八三年に登場しており、六八一年に編纂が始まり、六八九年に施行される浄御原令の一部は六八五年の四八階冠制など、浄御原令の一部が先行的に施行されており、サトの切り替えについても、同様のことが考えられ、六八三年~八五年に実施された国境画定事業がサトの表記を「五十戸」から「里」に切り替えた可能性が十分にあると言います。


 そして、藤原宮址の北外濠から出土した「(表)甲午年九月十二日知多評(裏)阿具比里五□部皮嶋□養米六斗」と書かれた荷札木簡により、浄御原令制下の六九四年時点では「養」字が使用されていたことを示しています。七世紀の木簡で「庸」と書かれたものは皆無であり、八世紀の「庸」と書かれた荷札は多数存在することから、七〇一年の大宝律令を契機として、「養」から「庸」へ変化したのであり、改新の詔は「庸」の字を用いていますが、これも大宝令の知識によったものであるとのことです。⑾



◇現在の大化の改新の理解

 こうして「郡評論争」は決着しましたが、それにより、大化の改新を完全に否定するといった極端な発想で考えられるようになったという訳ではない様です。理由の一つとして難波長柄豊碕宮なにわのながらとよさきのみや(以下、難波宮)の発掘が進んできたことが大きな原因があるようです。


 大坂市中央区馬場町、法円一丁目にある難波宮址は上下二層からなり、このうち、下層の遺構を前期難波宮と称されており、前期難波宮の造営時期については、かつて、孝徳朝説と天武朝説が対立していましたが、前期難波宮内裏北西部の調査見つかった木簡に「戊申年」(六四八年=大化)の年紀が記されていたことで、難波長柄豊碕宮であることがほぼ確定しました。⑿


 ここは孝徳天皇が即位した場所であり、大化の改新の詔が出された場所ですが、もし大化の改新が無かったとすると、難波宮のウェイトも軽く、その規模も小さかったであろうことが推測されますが、ところが、みつかった難波宮址は意外なほど大規模な構造を持ったものでありました。


 前期難波宮は内裏をはじめとして、朝堂院や八角堂、及び複廊、倉庫群などが検出されており、それぞれの規模が大きいのみならず、建設プランの点から注目されており、まず第一には、天皇の私的空間である内裏と公的な政治の場である朝堂院とが明確に分けられている点であり、第二には、難波宮の中軸線上に左右対称の建物群が整然と配置されていて、プラン的には、のちの宮の原点といってもよいそうです。

難波宮はそれまでの宮と異なり、中国の都城の要素をとり入れ、恒久的な都城を目指したものであるとも指摘もなされており、こうした造都に象徴される政治姿勢、そして、造都のための大規模な動員の背景には、大化の改新のような大国内改革の存在が考えられるというわけだそうです。⒀


 つまり、詔にみられる文章は部分的に大宝律令、或いは浄御原令による表現が見受けられるものの、大化の改新自体は実際に行われた、というのが妥当な理解のようです。




◇大化の改新の経過

⒁『日本書紀』巻二五大化元年(六四五)八月 庚子

八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。與百姓倶。又國司等在國不得判罪。不得取他貨賂令致民於貧苦。上京之時。不得多從百姓於己。唯得使從國造。郡領。但以公事往來之時。得騎部内之馬。得飡部内之飯。介以上奉法。必須褒賞。違法當降爵位。判官以下。取他貨賂。二倍徴之。遂以輕重科罪。其長官從者九人。次官從者七人。主典從者五人。若違限外將者。主與所從之人。並當科罪。若有求名之人。元非國造。伴造。縣稻置而輙詐訴言。自我祖時。領此官家。治是郡縣。汝等國司。不得隨詐便牒於朝。審得實状而後可申。又於閑曠之所。起造兵庫。收聚國郡刀甲弓矢。邊國近與蝦夷接境處者。可盡數集其兵而猶假授本主。其於倭國六縣被遣使者。宜造戸籍幷校田畝。〈謂檢覈墾田。頃畝及民戸口年紀。〉汝等國司。可明聽退。即賜帛布各有差。(以下略)


八月はつきのひのえさるのついたち庚子かのえねのひあづまの國等の國司みこともちす。仍りてくにのみこともちたちみことのりしてのたまはく、「あまつかみよさしたまひしままに、方今いま始めて將に萬國くにぐにを修めむとす。凡そ國家あめのしたありとある公民おほむたからおほきにいささけあづかれる人衆ひとどもを、いましたちまけどころまかりて皆 戸籍へふむだを作り、及びはたけかむがへよ。薗池水そのいけみずくぬがとほさ百姓おほみたからともにせよ、またくにのみこともちたち、國に在りて罪をことわることを得ず。ひと貨賂まひなひを取りて、おほみたから貧苦まづしきに致さしむることを得ず。みやこのぼらむ時には、さは百姓おほみたからおのれに從ふことを得ず。國造くにのみやつこ郡領こほりのみやつこを從はしむることを得む。但し公事おほやけを以て往來かよはむ時には、部内くにのうちの馬にることを部内くにのうちの飯をくらふことを得。すけよりかむつかたのりうけたまはらば、必ず褒賞たまものすべく、のりに違はば當に爵位かうぶりを降さむ。まつりごとびとより以下、ひと貨賂まひなひを取らば、二倍ふたへにしてはたらむ。遂に輕さ重さを以て、罪をおほせむ。其の長官かみ從者ともならむひとここのたり次官すけ從者ともならむひと七人ななたり主典ふむひと從者ともならむひと五人いつたり、若しかぎりぎて外にたらむ者は、きみ所從ともならむ人と、並びに當に罪をおほせむ。若し名を求むる人有りて、元よりくにのみやつことものみやつこあがたぬし稻置いなぎに非ずしてたやすく詐り訴へてまをさく、我が祖の時より、此の官家みやけを領りて、是の郡縣こほりを治むと。いましたちくにのみこともち、詐りのまま便たやすまをすことを得ず。つばひらかかにまことかたちを得て、而る後に申すべし。又、閑曠いたづらなる所に於いて、つはものやぐら起造つくり、くにこほりたちよろひ弓矢ををさあつめよ。ほとりの國の近く蝦夷えみしさかひまじふる處には、ことごとくに其のつはものを數へ集めて、なほ本主もとのあるじ假授あづけたまふべし。其のやまとのくにむつのあがたに遣はさる使者つかひは、宜しく戸籍へふむだを造り、幷せてはたけかむがふべし。〈はりの頃、はたけ及びおほみたからくち年紀とし檢覈あなぐるを謂ふ。〉いましたちくにのみこともち、明かにうけたまはりて退まかるべし」とのたまふ。即ち帛布きぬを賜ふことおのおのしな有り。)




⒂『日本書紀』巻二五大化二年(六四六)二月 戊申十五

二月甲午朔戊申。天皇幸宮東門。使蘇我右大臣詔曰。明神御宇日本倭根子天皇詔於集侍卿等。臣連。國造。伴造及諸百姓。朕聞。明哲之御民者。懸鍾於門而觀百姓之憂。作屋於衢而聽路行之謗。雖芻蕘之説親問爲師。由是。朕前下詔曰。古之治天下。朝有進善之旌。誹謗之木。所以通治道而來諌者也。皆所以廣詢于下也。管子曰。黄帝立明堂之議者。上觀於賢也。尭有衢室之問者。下聽於民也。舜有告善之旌而主不蔽也。禹立建鼓朝而備訊望也。湯有總術之廷。以觀民非也。武王有靈臺之囿。而賢者進也。此故聖帝明王所以有而勿失得而勿亡也。所以懸鍾設匱。拜收表人。使憂諌人納表于匱。詔收表人毎旦奏請。朕得奏請。仍又示羣卿。便使勘當。庶無留滯。如群卿等或懈怠不懃。或阿黨比周。朕復不肯聽諌。憂訴之人。當可撞鍾。詔已如此。既而有民明直心、懷國土之風。切諌陳疏納於設匱。故今顯示集在黎民。其表稱。縁奉國政到於京民。官官留使於雜役云々。朕猶以之傷惻。民豈復思至此。然遷都未久。還似于賓。由是不得不使而强役之。毎念於斯。未甞安寢。朕觀此表。嘉歎難休。故隨所諌之言。罷處々之雜役。昔詔曰。諌者題名。而不隨詔。今者自非求利而將助國。不言題。不。諌朕癈忘。又詔。集在國民所訴多在。今將解理。諦聽所宣。其欲决疑。入京朝集者。且莫退散聚侍於朝。(以下略)


(二月きさらぎのきのえうまのついたち戊申つちのえさる天皇すめらみことおほみやの東の門にいでまして、がのみぎの大臣おほおみをしてみことのりをしてのたまはく、「あらみかみ御宇あめのしたしらす日本倭やまとこの天皇すめらみことうごなはり侍る卿等まちきみたちおみむらじくにのみやつことものみやつこ、及びもろもろ百姓おほみたからみことのりすらく、朕れ聞く、さかしひとの民ををさむるは、鍾をみかどに懸けて百姓のうれひ、屋をちまたに作りて路行みちゆきひとそしりを聽く、芻蕘くさかりわらはこといへども、親ら問ひてしるべたまふ。是に由りて、朕れさきに詔を下して曰く、いにしへ天下あめのしたを治ること、みかどに善を進むるはた誹謗そしりの木有り。治道まつりごといたして諌むるひともとむ所以ゆゑなり。皆廣くしもとぶら所以ゆゑなり。くわん曰く、くわうてい明堂めいだうを立つるは、かみけんもとるなり。げうしつの問有るは、しもたみに聽くなり。しゅん、善を告ぐるはた有りてぬしかくれず。けんみかどに立ててとぶらひ望むに備ふ。たう總術そうすゐには有りて、以て民のあしきを觀る。わうれいだいいう有りて、賢者進む。此の故に聖帝ひじりの明王きみたもちて失ふことく、得てうしなふこと所以ゆゑんなり。所以ゆゑかねを懸けひつを設け、ふみる人をす。うたへ諌むる人をしてふみひつに納めしめ、ふみる人に詔して、旦毎あさごと奏請まをさしむ。朕れまをを得て、仍りて又 羣卿まちきみたちせて、便ちかむへしむ。こひねがはくは留滯とどこほること無からむことを。群卿まちきみたち或は懈怠おこたりて、ねもごろならず、或は阿黨比周かたむけかたはひせむ、朕れ復た諌を聽くことを肯せずば、憂へ訴ふる人、當に鍾を撞くべし。のたまふことすでに此の如し。既にして民明直をさをさしき心に國土くにおものり有らば、たしかいさむまをしふみを設の匱にれよ。故に今 うごはなはべ黎民おほみたから顯示す。其のふみいはく、くにのまつりごとつかまつるにりて京に到れる民をば、つかさに留めてくさぐさのえたちに使ふとしかしかいへり。朕れなほこれを以て傷惻いたむ。民 た此に至ると思はむや。然るに都を遷して未だ久しからず、還りてたびびとに似たり。是に由りて使はざることを得ず。ひてつかふ。斯をおもふ毎に、未だ甞て安くねず。朕れ此のふみを觀て嘉歎よみしはむることむこと難し。故に所諌いさむる言にしたがひて、處々ところどころくさぐさのえたちめむ。さきに詔して曰く、諌むる者は名をしるせと、而るを詔命みことのりしたがはざるは、自ら利を求むるに非ずして、將に國を助けむとするなり。うはぶみを言はず、朕か癈忘おこたりを諌めよ」とのたまふ。又詔したまはく、「うごなははべる國民、訴ふる所 さはに在り、今將にことはりを解かむとす。あきらかに宣所のたまふ所を聽け、其の疑をさだめむとおもひて、京にまゐまゐできうごはなる者は、しばら退まかり散ることく、みかどつどはべれ」とのたまふ。)



⒁⒂解説

 石母田正氏によれば、大化の改新の根本問題として、人民の徭役労働があり、経過としては東国の国司に対する詔(⒁の記事)において、国司の状況にさいして多くの百姓を従えることを禁止し、改新の必要が臣連・伴造・国造等の悉くの私民の駅使や宮殿・園陵の造築の徭役労働の行き詰まりにあることを指摘し、二年二月(⒂の記事)に「處々の雑役」を停止し、さらに墳墓の規模と徭丁の数を制限し、農節における営田を制限する等の法令または施策は、すべて部民制における人民の自由かつ無制限な収奪がもはや維持し得なくなったこと、従ってそれを制限し負担を固定することによって危機に瀕していた支配体制の再建を図ろうと試みたものであることはあきらかであるらしく、この改新によって、従来にない巨大な権力を掌握した皇室の本質的な変化はなかったのであるといいます。⒃


 つまり、改新時に進められた政策により、豪族たちが大化以前のような、支配下にある人民の無制限な搾取は出来なくなった、更に言えば皇室の財政が安定したという意味では改新はある程度成功したと言えます。しかし、それにより、皇室の権限が巨大化し、皇室による人民の収奪は変化が無かったということになります。こういった意見を、石母田氏のイデオロギー的なものによるものだと決めつけて、石母田氏を批判される方も居られるかも知れませんが、肝心な『日本書紀』自体が、この後の記録で石母田氏の意見を首肯せざるを得ない展開を見せることになり、それは有間皇子の悲劇につながる遠因となります。これらの内容につきましては、次稿で説明したいと思います。




◇参考文献

⑴『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/266


⑵『万葉集を知る事典』桜井 満 (監修) , 尾崎 富義 , 伊藤 高雄 , 菊地 義裕 (著) 東京堂出版 68-69頁

「改新の詔」


⑶『上代日本の社会及び思想』津田左右吉 岩波書店 440-441頁

「第三章 大化の改新の研究 七 社会組織の問題」

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1041708/1/228


⑷津田、前掲書 298-299頁

「第三章 大化の改新の研究  四 官制に關する疑問、孝徳紀の本文批判」

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1041708/1/157


⑸『大化改新の研究』坂本太郎 至文堂 317-320頁

「第二章 大綱の宣布」


⑹坂本、前掲書 599-603頁

「第三章 改新の影響」


⑺『日本古代国家の研究』井上光貞 岩波書店 385頁

「第2章 大化の改新とその国制」

『古代学1-2』所収「郡司制度の成立年代について」


⑻『歴史地理 83-1』日本歴史地理学会 1-9頁

所収「大化の改新詔の信憑性について」坂本太郎


⑼『日本の古代国家』石母田正 岩波文庫 119-221頁

「第2章 大化の改新の史的意義」


⑽『飛鳥の木簡――古代史の新たな解明』中央公論新社 市大樹

 電子書籍版107-111頁

「1 改新の詔の信憑性 ― 「郡評論争」を決着させた木簡」


⑾市、前掲書 電子書籍版111-116頁

「1 改新の詔の信憑性 ― 「里」に先行する「五十戸」、「庸」に先行する「庸」」


⑿『歴史考古学大辞典』小野正敏・佐藤信・舘野和己・田辺征夫 編 吉川弘文館

879-880頁「難波宮」


⒀『古代日本の歩き方』瀧音能之 青春出版社 電子書籍版 264-267頁

「第2章 ヤマト政権の成立 ― 22 大化の改新は本当にあった出来事なのか」


⒁『六国史 : 国史大系 日本書紀 再版』経済雑誌社

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/264


⒂前掲書

https://dl.ndl.go.jp/pid/950693/1/267


⒃『萬葉集大成 歴史社会篇 第5巻』平凡社 168-169頁

所収「初期萬葉とその背景 ―有真皇子・間人連老・軍王の作品については―」石母田正

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