学習のポイント

記紀の歴史学的な捉え方のポイント

 記紀研究の著書を何冊も読んでいると、大体歴史学者が如何言った思考で記紀を分析しているのか分かって来るので、自分なりに気付いた最低限のポイントをザックリと列挙していきます。(個人的には思うところもある説も複数ありますが、取り敢えず批判は置いて、取り上げます)詳細は過去の稿を見てきた方ならば大体ご理解頂けるかと思います。また、過去の稿で取り上げていなくても、今後取り上げる予定の物やよく知られている物なども取り上げてみます。



・記紀の共通する資料には『帝紀』と『旧辞』がある。


・『帝紀』には天皇の続柄、御名、皇居と治天下、崩御の年月日、山陵(『帝紀』研究の先鞭の武田祐吉氏はこれに皇子・皇女の事績、事績の簡単な記事を含む)の記事が書かれており、『旧辞』は説話や伝承である。(井上光貞)


・記紀で共通の記事で、『日本書紀』で名が伝わりながら『古事記』では名が伝わっていない人物に関しては「削偽定実いつわりをけずりてまことをさだめ」られている。


・『日本書紀』の各豪族の伝承で『帝紀』や『旧辞』に含まれないものは持統天皇5年(691年)8月13日に18の氏族より献上させた『墓記おくつきのふみ』によるもの。


・『墓記』的な内容は殆ど創作。


・『芸文類聚げいもんるいじゅう』による潤色が含まれる記載は内容によっては


・神武天皇の大和入りの経路は継体天皇の大和入りの際の経路、あるいは壬申の乱時の天武天皇の進軍経路を擬えており、史実ではない。(直木孝次郎)


・神武と崇神天皇の間、第二代綏靖天皇 から第九代 開化天皇までの系譜のみ記載され事績が記されていない八代の天皇は後世創作された天皇であり、これを「欠史八代」という。


・但し、近年の研究では欠史八代の天皇の中でも、例えばオホヤマトヒコスキトモ(懿徳天皇)の「スキトモ」など古風な語を含む和風諡号の天皇数名は実在した可能性もある。(上田正昭・黛弘道)


・仲哀天皇紀以前の事績に史実は含まれない。(津田左右吉)


・仲哀以前の和風諡号に「タラシ」が付く天皇は7世紀頃に「タラシ」を称する天皇が多かった事から、この頃に創作された天皇である。(直木孝次郎)


・ヤマトタケルは複数の将軍をモデルに創作された人物である。(津田左右吉)


・古い時代の大夫・大連と言った官職に関する記事は後世の同氏族が高官に任命されたことに基づいており、史実ではない。例えば物部十千根大連は右大臣正二位石上朝臣麻呂爲左大臣を参考にしている。(篠川賢など)


・神功・応神紀の内容は120年後にずらせば史実の出来事が認められる。(那珂通世)


・古代氏族で初めて実在が認められる人物は葛城襲津彦。(井上光貞)


・『宋書』倭国伝の倭の五王の記述により、仁徳あるいは履中以降の天皇の存在は認められる。(井上光貞)


・熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳と埼玉県行田市埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文にワカタケル大王と書かれていることから、雄略天皇の頃には大和王権の勢力が九州から関東まで及んでいた。


・埼玉稲荷山古墳出土鉄剣銘文に記された系譜のうち、古い世代は創作されたものである。(直木孝次郎)


・上記銘文で既に地方豪族ですら家系図が書かれているので、この頃には大王家でも家系図は作られていた。


・上記銘文により、「大王」を初めて称したのは雄略天皇である。


・「天皇」を初めて称したのは以前は推古からというのが通説だったが、藤原京付近から発見された「大津皇(子)」木簡などにより、近年は天武からというのが通説。


・漢風諡号を定めたのは淡海御船で大体762年~763年の頃に定められた。


・646年(大化2)の改新詔によって郡が地方行政区画として定められたという記事は虚構であり、実際は大宝令施行以前の地方行政区画は評だった事が藤原京址から発見された木簡により明らかになっている。


・記紀の記述が史実、あるいは史実に近い内容の場合「認めざるを得ない」と悔しがる。(何様?)

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