大和王権初期の争乱③ 兄妹愛の悲話。沙本毘古王の乱

 ラノベでは兄妹の恋愛モノは(何故か)人気分野ですが、現実世界では倫理的に許されるものではなく、それは記紀が描かれる時代よりも以前から共通しています。ラノベではギャグやほのぼのとした内容が許容されていても、古代では兄妹の恋愛は命がけのものでした。そんな話が記紀にも数例話があります。


 本稿では『古事記』の中でも兄妹愛の悲話として知られている沙本毘古王の乱を取り上げてみます。



⑴『古事記』中巻 垂仁天皇条

此天皇。以沙本毘賣為后之時。沙本毘賣命之兄。沙本毘古王。問其伊呂妹曰。孰愛夫与兄歟。答曰。愛兄。爾。沙本毘古王謀曰。汝。寔思愛我者。将吾与汝治天下而。即作八鹽折之槽小刀。授其妹曰。以此小刀刺殺天皇之寝。故。天皇不知其之謀而。枕其后之御膝。為御寝坐也。爾。其后以槽小刀為刺其天皇之御頚。三度擧而。不忍哀情。不能刺頚而。泣涙落溢於御面。乃天皇驚起。問其后曰。吾見異夢。従沙本方暴雨零来。急沾吾面。又。錦色小蛇纏繞我頚。如此之夢。是有何表也。爾。其后以為不応爭。即白天皇言。妾兄沙本毘古王。問妾曰。孰愛夫与兄。是。不勝面問故。妾答曰。愛兄歟。爾。誂妾曰。吾与汝共治天下。故。当殺天皇云而。作八鹽折之槽小刀授妾。是以。欲刺御頚。雖三度擧。哀情忽起。不得刺頚而。泣涙落沾於御面。必有是表焉。爾。天皇詔之。吾殆見欺乎。乃興軍撃沙本毘古王之時。其王作稲城以待戦。此時。沙本毘賣命。不得忍其兄。自後門逃出而。納其之稲城。此時。其后妊身。於是。天皇。不忍其后懐妊及愛重至于三年。故。廻其軍不急攻迫。如此逗留之間。其所妊之御子既産。故。出其御子。置稲城外。令白天皇。若此御子矣。天皇之御子所思看者。可治賜。於是。天皇詔。雖怨其兄。猶不得忍愛其后。故。即有得后之心。是以。選聚軍士之中。力士軽捷而。宣者。取其御子之時。乃掠取其母王。或髪或手。当随取獲而。掬以控出。爾。其后予知其情。悉剃其髪。以髪覆其頭。亦腐玉緒。三重纏手。且以酒腐御衣。如全衣服。如此設備而。抱其御子。刺出城外。爾。其力士等。取其御子即。握其御祖。爾。握其御髪者。御髪自落。握其御手者。玉緒且絶。握其御衣者。御衣便破。是以。取獲其御子。不得其御祖。故。其軍士等。還来奏言。御髪自落。御衣易破。亦所纏御手之玉緒便絶。故。不獲御祖。取得御子。爾。天皇悔恨而。悪作玉人等。皆奪取其地。故。諺曰不得地玉作也。亦。天皇。命詔其后言。凡。子名必母名。何称是子之御名。爾。答白。今。当火焼稲城之時而。火中所生。故。其御名宜称本牟智和気御子。又。命詔。何為日足奉。答白。取御母。定大湯坐・若湯坐。宜日足奉。故。随其后白以日足奉也。又。問其后曰。汝所堅之美豆能小佩者誰解。美豆能三字以音也。答白。旦波比古多々須美智宇斯王之女。名兄比賣・弟比賣。茲二女王。浄公民。故。宜使也。然。遂殺其沙本比古王。其伊呂妹亦従也。


(この天皇すめらみこと沙本毘賣さぼひめきさきとしたまひし時に、沙本毘賣命さぼひめのみこといろえ沙本毘古王さぼひこのみこ、其の同母妹いろもに、『いろえとはいずれかしき』と問ひしかば、『兄ぞしき』と答へたまひき。ここに沙本毘古王さぼひこのみこはかりけらく、『いましまことあれしく思ほさば、あれいましあめの下を治らさむとす』といひて、やがて八鹽折やしほをり紐小刀ひもがたなを作りて、其のいろもに授けて、『この小刀かたなもちて、天皇すめらみことみねませらむを刺し殺しまつれ』といふ。かれ天皇其のはかりごとを知らずしめさずて、其のきさき御膝みひざきて、御寝ましき。ここに其のきさき紐小刀ひもがたなもちて、其の天皇すめらみこと御頚おほみくびを刺しまつらむとして、三度みたびまでりたまひしかども、哀しきこころにえへずして、御頚おほみくびを得刺しまつらずて、泣きたまふ涙、御面おほみおもに落ちながれき。かれ天皇驚き起ちたまひて、其のきさきに問ひたまひしく、『あやしき夢を見たり。沙本さぼの方より、暴雨はやさめり来て、にはかに吾が面をぬらしつ。又 錦色にしきなる小蛇へみ、我がくびにもまつへりし。かかる夢は何のしるしにあらむ』と問ひたまひき。


 ここに其の后、あらそはえじと以為おもほして、やがて天皇に白し給ひしく、『いろえ沙本毘古王さぼひこのみこ、妾に、いろえとはいづれかしきと問ひたり。ここにのあたり問へるにへずて、兄こそ愛しきと妾が答へつれば、あれあとらへけらく、あれいましあめの下治らさむ。かれ天皇をせまつれといひて、八鹽折やしほをり紐小刀ひもがたなを作りて、妾に授けつ。是を以ちて御頚おほみくびを刺しまつらむとして、三度擧みたびふりしかども、哀しき情忽こころまちまちに起りて、得刺しまつらずて、泣きつる涙の落ちて、御面おほみおもぬらしつ。必ずこのしるしにあらむ』とまをしたまひき。


 ここに天皇『ほとほとあざむかれつるかも』と詔りたまひて、乃、いくさを興して、沙本毘古王さぼひこのみこり給ふ時に、其のみこ稲城いなぎを作りて、待ち戦ひき。この時、沙本毘賣命さぼひめのみこと、其のいろえにえ忍へずして、しりみかどより逃げ出でて、それの稲城いなぎりましき。


 このをりしも其のきさき妊身はらましたりき。ここに天皇、其のきさき懐妊はらみまし、また愛重うつくしみしたまふことも、三年みとせになりぬるに、へ給はずして、かれ其のいくさかへしてすむやけくも攻めたまはざりき。かく逗留とどこほれる間に、其のはらませりし御子既にれましぬ。かれ其の御子を出して、稲城いなぎの外に置きまつりて、天皇に白さしめたまひしく、『しこの御子をば、天皇の御子と思ほしめさば、治めたまはね』とまをさしめたまひき。ここに天皇、『其のいろえきらへども、なほしき其のきさき忍びず」とりたまひて、きさきを得たまむ心ましき。是を以ちて軍士いくさびとの中に力士ちからびとはやきを選りあつへて、。りたまひしくは、『かの御子を取らむ時、其の母王ははみこをもかそり取りてよ。髪にまれ、手にまれ、取りむまにまに、つかみてき出でまつれ』とのりたまひき。ここに其のきさきかねて其の御心を知りたまひて、ことごとくに其の髪を剃りて、其の御髪もちてかしらを覆ひ、また玉の緒をくたして、御手に三重みへかし、また酒もちて御衣みけしくたして、またみそのごとせり。かくけ備へて、其の御子みこむだきて、に刺し出でたまひき。かれ其の力士ちからびとども、其の御子みこを取りまつりて、やがて其の御祖みおやりまつらむと、其の御髪を握れば、御髪自落ち、其の御手をれば、玉の緒また絶え、其の御衣みけしを握れば、御衣みけし便すなはち破れつ。是を以ちて、其の御子みこを取り獲まつりて、其の御祖みおやをば得とりつらざりき。かれ其の軍士いくさびとども、還りまゐ来て、まをしけらく、『御髪自落ち、御衣破れ易く、御手にかせる玉の緒も絶えにしかば、御祖みおやを獲まつらず、御子を取り得まつりき』とまをす。ここに天皇すめらみこと悔いて恨みたまひて、玉作たまつくりし人どもをにくまして、其のところを皆 りたまひき。かれことわざに、ところ得ぬ玉作たまつくりとはいへり。


 また天皇すめらみこと、其のきさきみこと詔りたまひしく、『すべて子の名は、必ず母のくるを。この御名を何とかいはむ』と詔りたまひき。かれ御答白したまひしく『今。稲城を焼く時にしも、中にれませば、其の御名は、本牟智和気御子ほむちわけのみことぞつけまつるべき』とまをしたまひき。また『いかにして日足ひたしまつらむ』と詔らしめたまひしに、『御母みおもを取り、大湯坐おほゆゑ若湯坐わかゆゑを定めて、日足ひたしまつるべし』とまをしたまひき。かれ其のきさきのまをしたまひしまにま、日足しまつりき。また其のきさきに、『汝の堅めしみず小佩をひもは誰かも解かむ』と問ひ給ひしかば、『旦波たには比古多々須美智宇斯王ひこたたすみちうしのみこむすめ、名は兄比賣えひめ弟比賣おとひめ。このふたはしら女王ひめみこは、浄き公民おほみたからにませば、使ひたまはね』とまをしたまひき。しかりて遂に其の沙本比古王さぼひこのみこりたまへる。其の同母妹いろもも従ひたまひき。)


⑴概略

 (垂仁)天皇が沙本毘賣さぼひめきさきとした時に、沙本毘賣命さぼひめのみことの兄、沙本毘古王さぼひこのみこ同母妹いろもに、「夫と兄とはどちらが愛しいか」と問うと、「兄上が愛しいです」と答えた。ここに沙本毘古王さぼひこのみこは反逆を計画して、「お前が本当に私を愛しく思うのであれば、私とお前であめの下を治めよう」と言って、やがて八塩折やしほをり(何度も繰り返し打ち鍛えた)の紐小刀ひもがたなを作り、妹に授け、「この小刀かたなもって、天皇の寝ておられるところを刺し殺しなさい」と言った。そして天皇はその陰謀を御存じなくて、そのきさきのお膝を枕にして、お休みになられた。ここできさきは、紐小刀ひもがたなを持ち、天皇の御首を刺そうとして、三度も振り上げたが、悲しみに耐えられず、御首を刺す事が出来ず、泣く涙がお顔に落ち流れた。すると天皇は驚いて起き、きさきに、「私は妖しい夢を見た。沙本の方より、暴雨が降って来て、にはかに私の顔を濡らした。また錦色の小蛇が私の首に巻き付いた。こういう夢は何のしるしであろうか」とお尋ねになった。


 そこで后は、抗弁する事は出来ないと思い、即座に天皇に打ち明けて、「私の兄、沙本毘古王さぼひこのみこが私に、夫と兄とどちらが愛しいかと問われました。面と向かって言われ、堪えきれなかったので、「兄の方が愛しいです」と私が答えると、私に依頼し進め、私とお前とであめの下を治めよう。だから天皇を殺しなさいと言って、八塩折やしほをり紐小刀ひもがたなを作り、私に授けました。それで御首を刺そうとして、三度振り上げましたが、急に悲しくなり、お刺しできず、泣く涙が落ちて、お顔を濡らしてしまいました。この事の前兆でしょう」と申した。


 そこで天皇は「私は危うく騙し討ちにあうところだった」と仰せられて、軍勢を出して、沙本毘古王さぼひこのみこを討とうとした時に、沙本毘古王は稲城いなぎを作り、待ち受けて戦った。この時、沙本毘賣命さぼひめのみこと、其の兄を想う情に耐えられず、後門より逃げ出でて、稲城いなぎの中にお入りになった。


 丁度その時、皇后は懐妊しておられた。そこで天皇は皇后が、懐妊しておられること、また寵愛されること、三年にも及ぶことを想い、堪えがたい思いをされていた。それで其の軍勢に囲ませ、急にお攻めにはならなかった。こうして戦いが停滞している間に、その懐妊しておられる御子がついに御生まれになった。それで、その御子を出して、稲城いなぎの外に御置きになられて、天皇に、「もし、この御子を天皇の御子とおぼしめすのでありましたら、引き取ってお育て下さい」と申し上げさせた。そこで天皇は「お前の兄は恨んでいるが、やはり皇后を愛おしく思う気持ちは耐えがたいものがある」と仰せられた。


 それは皇后を取り返そうという心があったからである。そこで、兵士の中でも力が強く敏捷な者を選び集め、仰せられるには、「その御子を引き取る時、母君をも奪い取れ。髪であろうと、手であろうと、捕まえ次第に引き出せ」と仰せになられた。ところが皇后は予てからその御心を知っておられ、髪を全て剃り、その御髪で頭を覆い、また玉の緒を腐らせ、それを三重にして手にお巻きになられた。また酒で御衣みけしを腐さらせて、それを完全な衣服の様にお召しになった。この様にして準備を整え、その御子みこを抱いて、稲城の外に刺し出された。そこで力のつよい兵士たちは、御子みこを受け取るや否や、その母君を捕まえようとし、その御髪を握れば、御髪が自然に落ち、その御手を握ろうとすれば、手に巻いた玉の緒が切れ、その御衣みけしを握れば、御衣みけしがすぐに破れた。この様にして、その御子みこを受け取る事は出来たが、その母君は捕らえる事は出来なかった。


 そこで、其の兵士たちは、帰って来て、申し上げるには、「御髪が自然に落ち、御衣は破れ易く、御手に巻かれた玉の緒も切れてしまい、母君を捕まえる事が出来ず、御子だけ捕まえる事が出来ました」と申し上げた。それで天皇は悔しさと恨みのあまり、玉作りしの人どもを憎み、その土地を皆取り上げてしまった。それでことわざに、「ところ得ぬ玉作たまつくり」と言うのである。


 また天皇が、其の皇后に仰せられるには、「すべて子の名は、必ず母が名付けるものであるが、この子の名を何と言うのか」と仰せられた。そこで皇后はお答えし、「今、稲城を焼く時にしも、火の中に生まれたので、その御名は、本牟智和気御子ほむちわけのみこと名付けましょう」と申された。また「如何養育すればよいのか」と仰せられると、「御乳母をつけ、大湯坐おほゆゑ若湯坐わかゆゑを定めて、ご養育申し上げて下さい」と申された。そこで皇后の申された通りにご養育された。また皇后に、「そなたの結び固めた私の衣の下紐は誰が解くのだろうか」と問われると、「旦波たには比古多々須美智宇斯王ひこたたすみちうしのみこの娘、名は兄比賣えひめ弟比賣おとひめ。この二人の女王ひめみこは、心が貞潔な人民なので、お使いください」と申し上げた。こうして遂に沙本比古王さぼひこのみこを討ち取ると、妹も従って亡くなった。



⑴解説

 『日本書紀』の記事にも同様の記事がありますが、上毛野氏を取り上げた際の稿に原文の引用を載せてあるのでそちらを参考にしてください。


・笠原小杵を援助した上毛野氏は独立勢力だったのか? 武蔵国造の「反乱」論批判

(⑶『日本書紀』巻六垂仁天皇五年(丙申前二五)十月己卯朔)

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817139558917280899


 本稿で引用した『古事記』垂仁天皇条では登場しませんが、垂仁天皇紀では、この話で将軍として活躍するのが上毛野君の祖、八綱田と伝わっています。『古事記』垂仁天皇条と同工異曲の記事であることから記紀で共通の『旧辞』を基礎文献としている事が伺えますが、『古事記』では八綱田の名が伝わっておらず、この人物に関しては「削偽定実いつわりをけずりてまことをさだめ」られた形跡が見受けられ、また、『古事記』の方が文学性が高い事から、『日本書紀』の方が『旧辞』本来の伝承に近い内容が記されているかと思いますが、西郷信綱氏によれば「書紀のもつ儒教倫理は、后が謀反人であるみずからの兄を撰んで夫の天皇を見捨てる、と言ったやりかたは容認出来なかったのであろう」⑵とのことで、『古事記』よりも『日本書紀』に後世的な要素を見出されており、どちらがより『旧辞』本来の伝承に近いのか判断し難い面があります。


 サボヒコの名前の沙本は地名で奈良市法蓮佐保町あたりと言われており、沙本毘古王と沙本毘賣は、地名+ヒコ・ヒメの対偶称辞であり、その地の首長の代表名と捉えることができ、祭政を司る兄弟の姿は兄妹婚の形で表され、兄と夫の選択を問われた時、兄と答えるのはこの兄妹の本来の姿を暗示すると言います。⑶


 記紀では神代にイザナギ・イザナミの兄妹が子を産む例がありますが、それは神代であるから許された事で、人代においては本話の他にも安康天皇記のキナシカルミコとカルノオホイラツメの兄妹の恋愛により民心を失い、弟のアナホノミコ(安康天皇)により追い詰められ共に自殺する話がある様に、古代においても兄妹の恋愛が不幸を招くだけでなく、道徳的にも許されざる事の説話的表現だったのかも知れません。


 火中で出産というモチーフは日向神話のコノハナサクヤヒメの場合と共通しており、コノハナサクヤヒメがホホデミを火中で生んだもの、サホヒメが燃える稲城の中でホムチワケを生んだのも、ともに穀神の誕生を意味し、穀神を焼く火祭の習俗を背景にしていると高橋正秀氏は論じており、サボヒコの反乱の物語の基礎にある観念は、女は夫よりも兄により親密であり、かつ兄が行わんとする企ては、妹の助力があってはじめて成功するという考えであり、これは、今日、奄美・沖縄諸島において明瞭な、姉妹の兄弟に対する霊的支配を認めるオナリ神信仰が古代日本にもあったことを示唆しているそうです。⑷


 オナリ神とは琉球語では姉妹をヲナリといい、一切の女人はその兄弟からヲナリ神として崇められており、姉妹の生御魂の意味があって、故郷が離れた男子にはヲナリ神が終始つきまとって、守護してくれるという信仰があり、聞得大君きこえおおぎみはすなわち最高のヲナリ神であり、国王の姉妹を以てこれに任ずる定めがあったそうです。本土でも田植えの日に田人に食を運ぶ女を中国西部ではオナリドまたはオナリサマと称するのもこれと関係するらしく、山城賀茂神社の旧記にみえる養女おなりや、筑前のオナリ、阿蘇の宇奈利など、田の神の祭りにすべからざる仕人であったといいます。但し、田植えのオナリには姉妹神としての意義が見出せない点が沖縄と違っており⑸、単純にオナリ神信仰と結びつけられない側面も存在します。


 ここまでみて来たところでは日向神話のコノハナサクヤヒメの出産譚の二番煎じで、穀神を想起させる説話という印象しか浮かび上がって来ませんが、この話は考古学的な視点では必ずしも虚構ばかりとは言えず、又、古代の習慣を知る上でも貴重な資料である可能性もあります。


 例えば「故。諺曰不得地玉作也」という諺(『古事記伝略』によれば「何れも、物のタトエに云ることにて、此は、メデモノを得む事にとて、たる事にヨリて、返りて、トガメを、得得るが如き事の、例えにぞ云ならはしつらむ(此度の事をのみ、云るならば、地奪トコロトラれしなどこそ、云うべきに、不得エヌとしも云るは、然ることの、例ならむか)」⑹との意味。)の由来は実際に古墳時代前期までは、玉の材質が翡翠・碧玉製が一般的で、北陸・山陰・関東地方の特定の玉作工房址で制作されていたのが、それ以降は瑪瑙・滑石など多種の石材が使用される事になり、製作地も限定されなくなります⑺。つまり、現代風に言い換えれば、過去には特権的な地位で、ある地域の部族が利益を独占していた玉作という専門職の市場が垂仁天皇により自由化されたということでしょうかね?


 天照大神が岩戸にかくれた時、八尺瓊勾玉を造った高魂命の孫天明玉(豊玉、櫛明玉)命の後と言い、上代玉を造る事を職業とした部民を玉作部といいますが⑻、本文には「玉作部」ではなく「玉作」と書かれていることは部曲制度が整うとともに各地に玉作の技術が広がって行ったことを示しているかも知れません。この点のみを取り上げて本話を史実と断ずるのは無理がありますが、記紀編纂時よりも数百年も遡る玉作職人の事情が伝わっていたとすれば驚くべきものが有りますね。


 又、本文により「子名必母名」、つまり、子の名前は必ず母が名付けていたという上古の習慣を伺い知る事が出来る為、貴重な民俗資料といえるかも知れません。


 



◇参考文献

⑴『古事記 : 新訂要註』 武田祐吉 編 三省堂

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036263/95


⑵『古事記注釈 第8巻』 西郷信綱 ちくま学芸文庫 309ページ


⑶『古事記事典』 尾畑喜一郎 楼楓社 172ページ


⑷『日本書紀(二)』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

348ページ 補注五


⑸『民俗学辞典』 財団法人民俗学研究所編 東京堂出版 81ページ


⑹『古事記伝略 : 12巻 下 (国民精神文化文献 ; 第19) 』吉岡徳明 国民精神文化研究所

https://dl.ndl.go.jp/pid/1918164/66


⑺『古事記事典』 尾畑喜一郎 楼楓社 306ページ


⑻『万葉集辞典』 折口信夫 文会堂書店

https://dl.ndl.go.jp/pid/958698/1/81

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