邪馬台国畿内説による大和王権初期の王統譜について考古学的知見

◇記紀の古い王統譜について考古学的な知見。

 前稿で邪馬台国畿内説について触れたので、この説の立場から大和王権初期の王統譜について、考古学者の白石太一郎氏の見解を取り上げてみます。


 白石氏の「考古学からみた応神以前の王統譜」によれば、考古学の立場から五世紀以前の王統譜を検討するとすれば、それはこの時期の巨大な前方後円墳のあり方と記紀の帝紀的な部分に含まれていたと思われる陵墓に関する記載を比較検討するのが一つの方法であろうとし、記紀によれば、応神の一代前の仲哀以降、六世紀前半の継体以前の王墓はすべて河内と和泉に営まれており、それと符合するかのように、四世紀末から五世紀末葉までの時期において他と隔絶するような規模を持つ巨大な前方後円墳はいずれも河内の古市古墳群と和泉の百舌鳥古墳群に営まれることを取り上げ、記紀の帝紀的な部分の検討に古墳群を利用する方法を示しました。


 白石氏は仲哀以前の成務から崇神天皇まで遡り、応神以前の歴代の陵墓が奈良盆地北部の佐紀・菅原ないし盆地東南部の山辺道付近に営まれたことになっているのであるが、これは四世紀代の前方後円墳が四世紀後半には奈良盆地北部に、それ以前の四世紀中葉以前には盆地東南部に営まれたことと巨視的には一致し、三~四世紀の巨大古墳の編年研究の成果によれば、大阪平野の古市古墳群や百舌鳥古墳群に王墓が営まれるようになる以前の四世紀後半には、盆地北部の佐紀の付近に二~四代の王墓と想定しうる巨大古墳がみられ、そしてそれ以前の四世紀中葉より前の王墓と想定しうる巨大古墳はすべて奈良盆地東南部の大和・柳本古墳群やその周辺に所存することが知られているとし、応神以前の記紀の帝紀的部分にみられる陵墓の記載が、まったく後世の創作であれば生じ得ず、応神以前崇神に至る歴代の王の名前や続柄、宮の所在、后紀と皇子・皇女などがすべて正しく伝えられたとは考えられないが、すくなくとも王統譜とその記載に関しては、下敷きとなる何らかの伝承が存在したことは疑いないと述べました。


 これは過去に取り上げました井上光貞氏の「帝紀から見た葛城氏」が主に記紀の帝紀的な記述を金石文や海外文献の比較で史実性を検討した方法と併せて、大変有効な方法と言えます。又、井上氏の論文から一歩進んで記紀の応神以前の記述からも史実性を見出そうとする姿勢にも同意します。


 画一的な内容をもって各地に造営される定型化した大型前方古墳の出現年代は三世紀中庸過ぎと考えられるようになり、奈良盆地東南部の現在の天理市南部から桜井市にかけて、三輪山の西麓を中心に南北に展開し、北から大和古墳群の西殿塚古墳(現手白香皇女陵、墳丘長234メートル)、柳本古墳群の行燈山古墳(現崇神天皇陵、墳丘長242メートル)と渋谷向山古墳(現景行天皇陵、310メートル)、箸中古墳群の箸墓古墳(現倭迹迹日百襲姫命陵、280メートル)、鳥見山古墳群の外山茶臼山古墳(208メートル)とメスリ山古墳(約250メートル)の六基の巨大な前方後円墳が展開しています。


 六基の巨大な前方後円墳の構築順序は研究者の意見はほぼ一致しており、吉備系の古式特殊壺形・特殊器台形埴輪を持つ箸墓古墳であり、三角縁神獣鏡の年代研究による出現期古墳の年代観からも、三世紀中葉すぎと考える研究者も多く、考古学的な立場から古墳を材料として考える時、最古の倭国王墓ということになります。


 ついで吉備系の古式特殊壺形・特殊器台形埴輪が明らかに箸墓のものより新しい西殿塚古墳、埴輪の変遷過程からメスリ山古墳、あるいは一部副葬品から外山茶臼山古墳がメスリ山古墳を遡るとも言われており、行燈山古墳、渋谷向山古墳と続くであろうと言われており、これら六基の古墳がいずれもその造営時期を少しずつ異にし、三世紀中葉すぎから四世紀中葉までの約百年間に順次造営された倭王墓であることは疑い無いとのことです。


 渋谷向山古墳を最後に、奈良盆地東南部では200メートルを超える大型前方後円墳の造営は終わり、四世紀中葉以降の200メートルを超える巨大な前方後円墳は盆地北部の奈良市佐紀古墳群とその周辺に営まれるようになり、埴輪や墳丘・周濠の形態、一部知られている副葬遺品などから五社神古墳→宝来山古墳→佐紀陵山古墳(現日葉酢媛命陵、210メートル)→佐紀石塚山古墳(現成務天皇陵、220メートル)の順に営まれたと考えられるそうです。


 この頃から例えば奈良盆地西南部の葛城地位の馬見古墳群など、畿内の他の地域にも、ほぼ同規模の大型前方後円墳が出現する為、これら佐紀山古墳群西郡とその南方の二基を全て倭王墓と断定するのは難しく、考古学的には四世紀後半の王墓を確定するのは困難だそうです。


 さきにふれました様に、奈良盆地東南部に営まれた初期の六代の倭国王墓のうち最初の箸墓古墳は三世紀中葉まで遡る事から、白石氏はその年代を三角縁神獣鏡の編年研究などから二六〇年頃と想定し、『日本書紀』崇神天皇十年九月条のヤマトトトヒモモソヒメを卑弥呼に擬する説を上げ、卑弥呼の没年が『魏志』倭人伝によれば二四七年かその直後であり、白石氏の想定と十年以上開きがあるのも、倭人たちがこうした巨大古墳を造営するのははじめてであり、その造営に十年余り要したことは当然であり、卑弥呼の墓の造営がその没後に行われたと考えてよければ、この箸墓古墳の想定年代は卑弥呼の墓にぴたりということになろうと述べられています。


 更に白石氏は箸墓古墳に次いで営まれた西殿塚古墳は卑弥呼の後継者である壱与である可能性が高いとし、奈良盆地東南部の六代の初期倭国王墓が、この地域、狭義の意味での“やまと”、いいかえれば本来の“やまと”の四つの古墳群に別れて営まれていることは、この時期の王が“やまと”の幾つかの集団から交互に選ばれたことを示しており、卑弥呼の死後、後継者としてその宗女である壱与が選ばれたこととも符合し、この段階では記紀が描く初期の男系世襲制などとは程遠いものであったことは疑いなかろうとしながら、ただ、三代目、四代目の外山茶臼山古墳・メスリ山古墳がともに鳥見山古墳群に、五代目・六代目の行燈山古墳・渋谷向山古墳がともに柳本古墳群に営まれている事を重視すると、この段階には、あるいは男系世襲制の萌芽が認められるのかもしれないとのことです。


 この説で思い起こすのは、中国神話では太陽が十個あり、火烏という太陽を乗せる烏がおり、毎日代わる代わる一個ずつ昇っていましたが、ある時、十個の太陽が一斉に昇り、これを地上を治めていた帝のギョウは弓の名手である羿ゲイに命じて一羽を残し火烏を射落としたという話が伝わっており、この太陽が十干、すわなち甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸と関りがあるとされ、殷王朝では王族が十干に因む諱であることは、殷の十支族が交代で王族を担っており、羿が一つの太陽を残し射落としたのは、徐々にある特定の一族が台頭した事をこの伝承が示すとも言われていますが、奈良盆地東南部に萌芽した原始倭国王権もこういった殷王権の様な政権の変遷を経験したという事になるのかも知れませんね。


 いずれにしても、記紀の帝紀的な部分に見られる王墓に関する記載では、この奈良盆地東南部に墓を営んだ王としては崇神と景行の二代の王の名が伝えられているに過ぎず、その後、王墓は奈良盆地北部に営まれるようになり、この地の王墓を営んだ王として、垂仁と成務の二代(神功皇后含めて三代)の王の名が伝承され、さらに四世紀末用以降になると、王は代々大阪平野の古市付近や百舌鳥にその墓を営むようになります。



◇崇神天皇以前の王の実在性について


 この様に、白石氏は(崇神天皇以降)記紀の帝紀的な部分で陵墓の記載に関する記述はある程度認めながらも、崇神から四代の王に関してはヤマトトトヒモモソヒメに関する説話的な伝承をのぞき、全く信憑性のある記事は見いだせないとし、崇神以前の九代の天皇に関しては、その和風諡号などからも実在性にとぼしい。さらに崇神がハツクニシラススメラミコトと呼ばれたことからなども、崇神こそ最初の倭国王と考える研究者も少なくないが、奈良盆地東南部には、崇神、景行の二代だけではなく六代もの倭国王墓の存在を確認する事ができ、箸墓古墳を卑弥呼、次いで営まれた西殿塚古墳を壱与の墓と想定すると、外山茶臼山古墳とメスリ山古墳については、埋葬施設は後円部の型穴式石室一基だけで、多数の武器・武具と呪術的な石製品の副葬などからも、ともに聖・俗の王権を兼ね備えた男王の墓と想定され、鳥見山の地はまさに磐余の地であり、この二代の王は、まさに二代にわたるイワレヒコの墓であろうと推測なさっています。


 つまり、奈良盆地東南部の王墓が箸墓古墳→西殿塚古墳→外山茶臼山古墳→メスリ山古墳→行燈山古墳→渋谷向山古墳の順に造営されていたとすると、初期大和王権は卑弥呼→壱与→イワレヒコ→イワレヒコ→崇神→景行の順で変遷していったということになるのでしょうか? これが事実であるとすれば、記紀が伝える天皇家初期の王統譜は大分異なる事になります。


 ですが、白石氏は箸墓古墳にまつわる伝承として著しい変形をこうむりながらも、かろうじてその原型を書紀にとどめている事が出来たこと、最初の四代ほどの倭国王に関する伝承が記紀に伝えられていないことは事実でありながら、倭国王の王統譜が四世紀中葉まで遡りうることに驚かれています。



◇邪馬台国研究に関する私見。


 邪馬台国畿内説の見解としては白石氏の見解はかなり胸にストンと落ちるものがありますが、なお、邪馬台国畿内説に対しては幾つかの疑問が消えません。例えば卑弥呼とヤマトトトヒモモソヒメが伝承上で繫がりがを感じさせないこと。この頃、畿内で出土される鉄製品が北九州に比べ極端に少ないこと。『隋書』倭国伝では「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」と記され、これを信じれば邪馬台国は大和にあり、大和王権と繋がりますが、『旧唐書』では倭国伝では「倭國者古倭奴國也」と書かれており、こちらを取ると大和王権は北九州の奴国が発祥という事になり、両書の間で矛盾が生じていること。何より考古学の用いる炭素14年代測定と言った手法では年代測定の幅が大きすぎて信用に足りない事などが挙げられます。又、メスリ山古墳は大王墓級の規模とは言え、記紀や延喜式といった文献に陵墓としての記録が無く、「二代にわたるイワレヒコ」などと都合の良い解釈をして大王墓に比定して良いのかが気になりました。(鳥見山古墳群にあるメスリ山古墳を「二代にわたるイワレヒコ」の陵墓などと解釈する位であれば、天の磐舟で河内国の河上の哮ヶ峯に降臨した後、大和国の鳥見の白庭山に移った饒速日命の伝承があるので、文献的には寧ろ物部氏関係の人物の陵墓と解釈した方が自然ではあります。ですが、直木孝次郎氏によれば物部氏の発祥は部曲の成立以降と言われている為、少なくても歴史学者の間では物部氏の祖の墳墓と考える見解は無さそうです。)


 持論では北九州説寄りですが、邪馬台国論争自体が東大と京大の学閥争い、或いは地域の町おこし、名前を売るのに必死な自称専門家・トンデモ史家やトンデモ小説家・トンデモ漫画家達に利用されている面があるので、個人的には書店の本棚をみるにつけてウンザリしており、この様なエッセイを書いておきながら邪馬台国論争については結構冷めた目で見ています。


 邪馬台国論争は魏から授与された印綬さえ見つかればその地で決まりと言われていますが、建築物ならとにかく、持ち運び可能な物がその地に残っているとは限りません。単純に盗掘された可能性もありますし、例えば北九州にあった邪馬台国が大和王権に滅ぼされて金印が摂取された場合、奈良盆地で見つかると言った可能性も無い訳ではありません。『三国志演義』で孫策から「伝国の玉璽」を得た袁術が都から離れた寿春の地で皇帝を僭称したという小説を思い浮かべるのは容易い事なので、利権やらプライドやらが絡んで、この類の言いがかりをつけて何時までも論争が続いて決着がつかないのではないでしょうか。ある報道番組でキャスターが「分からない方が面白いのかも知れません」と言った趣旨の発言をしていた様な記憶がありますが、本音ではその様に思う関係者が多いのかも知れません。



◇参考文献

『国文学 解釈と教材の研究』二〇〇六年一月号 第五一巻一号 101~109ページ

「考古学からみた応神以前の王統譜」白石太一郎

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