大和王権初期の争乱② 武埴安彦命の反乱は邪馬台国畿内説を取れば史実か?

 前稿に引き続き、本稿でも大和王権初期の騒乱を見ていきます。本稿で取り扱う武埴安彦たけはにやすひこの反乱も伝承に過ぎないと言われていますが、一方で武埴安彦は椿井大塚山古墳の被葬者とも言われているほか、事実上の初代天皇という説が有力な崇神天皇、稲荷山古墳鉄剣銘文にその名が見られる大彦命、そして卑弥呼と同一人物という説が根強い倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめのなど、実在の可能性を否定しきれない人物が複数登場することと、倭迹迹日百襲姫が関わる事で邪馬台国畿内説の立場を取るとすれば、ある程度史実性も考慮可能なのかも知れません。


 以下、実際の記事を読んでみましょう。



⑴『日本書紀』巻五崇神天皇十年(癸巳前八八)九月 壬子廿七日

壬子。大彦命到於和珥坂上。時有少女歌之曰。〈一云。大彦命到山背平坂。時道側有童女歌之曰。〉瀰磨紀異利寐胡播揶。飫逎餓鳥塢。志齊務苔。農殊末句志羅珥。比賣那素寐殊望。〈一云。於朋耆妬庸利。于介伽卑氏。許呂佐務苔。須羅句塢志羅珥。比賣那素寐須望。〉於是大彦命異之。問童女曰。汝言何辭。對曰。勿言也。唯歌耳。乃重詠先歌忽不見矣。大彦乃還而具以状奏。於是天皇姑倭迹迹日百襲姫命。聰明叡智。能識未然。乃知其歌恠。言于天皇。是武埴安彦將謀反之表者也。吾聞。武埴安彦之妻吾田媛。密來之取倭香山土。裹領巾頭。而祈曰。是倭國之物實。乃反之。〈物實。此云望能志呂。〉是以知有事焉。非早圖必後之。於是更留諸將軍而議之。未幾時。武埴安彦與妻吾田媛。謀反逆興師忽至。各分道而夫從山背。婦從大坂。共入欲襲帝京。時天皇遣五十狹芹彦命。撃吾田媛之師。即遮於大坂皆大破之。殺吾田媛悉斬其軍卒。復遣大彦與和珥臣遠祖彦國葺。向山背撃埴安彦。爰以忌瓮鎭坐於和珥武鐰坂上。則率精兵。進登那羅山而軍之。時官軍屯聚而蹢跙草木。因以號其山曰那羅山。〈蹢跙。此云布瀰那羅須。〉更避那羅山。而進到輪韓河。與埴安彦。挾河屯之。各相挑焉。故時人改號其河曰挑河。今謂泉河訛也。埴安彦望之問彦國葺曰。何由矣汝興師來耶。對曰。汝逆天無道。欲傾王室。故擧義兵欲討汝逆。是天皇之命也。於是各爭先射。武埴安彦先射彦國葺。不得中。後彦國葺射埴安彦。中胸而殺焉。其軍衆脅退則追破於河北。而斬首過半。屍骨多溢。故號其處曰羽振苑。亦其卒怖走。屎漏于褌。乃脱甲而逃之。知不得兔。叩頭曰我君。故時人號其脱甲處曰伽和羅。褌屎處曰屎褌。今謂樟葉訛也。又號叩頭之處曰我君。〈叩頭。此云逎務。〉


(壬子みづのえねのひ大彦命おほひこのみこと和珥わにの坂の上に到る。時に少女をとめ有りて歌ひて曰く。〈一に云ふ、大彦命おほひこのみこと山背やましろ平坂ひらさかに到る。時に道のほとり童女わらはめ有りて歌ひて曰く。〉


御間城入彦ミマキイリヒコハヤ、オノヲ、弑殺シセムト、不知シラニ、姫遊爲ヒメナソビスモ。

〈一に云ふ、オホ城門キトヨリ、ウカガヒテ、殺サムト、スラクヲ不知シラニ、ヒメナソビスモ。〉


是に大彦命おほひこのみことあやしびて、童女わらはめに問ひて曰く、「いましが言ひつることは何辭なにことぞ」こたへて曰く、「勿言也ものもいはず唯歌耳うたをのみうたひつらくのみ」。乃ち重ねて先の歌をうたひて忽に見えずなりぬ」。大彦乃ち還りてつぶさありつるかたちを以て奏す。是に天皇のみをば倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめのみこと聰明叡智さとくさかしくして、能く未然ゆくさきのことを識りたまへり。乃ち其の歌のしるましを知りて天皇にまうす。「是れ武埴安彦たけはにやすひこ謀反みかどかたぶけむとするしるしならむ。吾れ聞く、武埴安彦たけはにやすひこ吾田媛あたひめひそかに來りてやまと香山かごやまの土を取りて、領巾ひれつつみて、是れ倭國の物實ものしろみ曰ひて乃ちかへると。〈物實。此をばモノシロと云ふ。〉是を以て事有らむと知りぬ。すみやかはかるに非ずば必ず後れなむ」。


 是に於て更にもろもろの將軍いくさのきみを留めてはからひたまふ。幾時いくばくらずして、武埴安彦たけはにやすひこ吾田媛あたひめと、謀反逆みかどかたふけんとして、師を興して忽に至る。各道をくばりて、をとこは山背より、は大坂より、共に入りて帝京みやこを襲はむと欲す。時に天皇 五十狹芹彦命いさせりびこのみことを遣して吾田媛の師を撃たしめたまふ。即ち大坂にさいきりて、皆大みなおほきに破りつ。吾田媛を殺してことごとくに其の軍卒いくさひとを斬りつ。た大彦と和珥臣わにのおみ遠祖とほつおや彦國葺ひこくにふくとを遣して、山背におもむきて埴安彦を撃たしめたまふ。ここ忌瓮いはひべを以て和珥武鐰わにのたけすきの坂の上に鎭坐う。則ち精兵ときつはものを率ゐて、進んで那羅ならやまに登りていくさだちす。時に官軍みいくさ屯聚いはみて草木を蹢跙ふみならす。りて以て其の山をなづけて那羅ならやまと曰ふ。〈蹢跙。此をばフミナラスと云ふ。〉那羅ならやまを避りて、進みて輪韓わから河に到りぬ。埴安彦はにやすひこと河を挾みていはみておのおの相挑あひいどむ。れ時の人改めて其の河をなづけて挑河いとみかはと曰ふ。今 泉河いづみかはふはよこなばれるなり。埴安彦はにやすひこおせりて彦國葺ひこくにふくに問ひて曰く。「何に由りて、汝、いくさを興して來るや」。こたへて曰く。「汝、あめさか無道あぢきなし王室みかどを傾けむつらむとほりす。故れ義兵ことわりのつはものを擧げて汝がさかふるつみなはむ。是れ天皇のおほせことなり」。是におのおの先に射ることを爭ふ。武埴安彦たけはにやすひこ先づ彦國葺ひこくにふくを射るに得中えあたらず。後に彦國葺ひこくにふく埴安彦はにやすひこを射るに、胸にあたりて殺しつ。其の軍衆脅退いくさのひとどもおびえにぐ。則ち追ひて河の北に破り、首を斬ること半ばに過ぐ。屍骨多しかばねさははふれたり。故れ其のところなづけて羽振苑はふりそのと曰ふ。また其のいくさ怖走おぢにげて、屎褌くそはかまよりちたり。乃ちかわらを脱いで逃ぐまぬかるまじきことを知りて、叩頭みて我君あぎと曰ふ。故れ時の人其のかわらを脱ぎしところなづけて伽和羅かわらと曰ふ。褌よりくそちしところ屎褌くそばかまと曰ふ。今 樟葉くすはふはよこなばれるなり。又 叩頭みしところなづけて我君あぎと曰ふ。〈叩頭。此をばノムと云ふ。〉)


⑴概略

 崇神天皇十年九月二七日。いわゆる四道将軍の大彦尊が和珥わにの坂の上に到着した時、少女がこう歌っていた。〈一に、大彦命おほひこのみこと山背やましろ平坂ひらさかに到着した時に、道のほとりに童女がいて歌っていたという。〉


御間城入彦ミマキイリヒコよ。自分の命を殺そうと、時をうかがっている事を知らずに、若い娘と遊んでいて。〈一に、「宮の大きな門から隙を窺って殺そうとしていることも知らずに、若い娘と戯れて遊んでいることよ」という。〉


 是に大彦命おほひこのみことは怪しんで、童女に「お前が言うことは何の事だ」と尋ねると、童女は答えて「何も言っていません。唯歌を歌っているだけです」と答えた。そして再び先の歌を歌って忽然と姿を消した。


 大彦はすぐに還り、つぶさにことの有様を奏しあげた。是に天皇の大姑の倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめのみことは聡明で叡智があり、先の事を未然に知る能力があった。そして、其の歌の不吉な前兆を知って天皇に「是れは武埴安彦たけはにやすひこが謀叛を起こそうとするしるしである。私は武埴安彦たけはにやすひこの妻の吾田媛あたひめひそかに来てやまと香山かごやまの土を取って、領巾ひれの裹に包んで祈願し、『是れは倭國の物実ものしろである』と言ってすぐに帰ったということです。〈物実。これをモノシロと言う。〉これにより事が起ころうとしていると知りました。早急に手を打たなければ必ず手遅れになるでしょう」と申した。


 是を於て更に諸將軍を留めて軍議を開いた。幾ばくもせず、武埴安彦たけはにやすひこと妻の吾田媛あたひめが反逆を謀り、軍を起こして攻めてきた。行軍を別けて、夫(武埴安彦)は山背より、婦(吾田媛)は大坂より、共に入りて都を襲おうとした。天皇はその時、五十狹芹彦命いさせりびこのみことを遣して吾田媛の師を撃たせた。即ち大坂で遮り、皆大いに打ち破った。吾田媛を殺してことごとく其の軍兵を斬った。また大彦と和珥臣わにのおみ遠祖とほつおや彦國葺ひこくにふくとを遣し、山背に赴いて埴安彦を撃たせた。


 ここに忌瓮いはひべ和珥武鐰わにのたけすきの坂の上に祝い鎮め、則ち精兵を率いて、進んで那羅ならやまに登って軍陣を敷いた。時に官軍は群がり集まって草木を蹢鳴らし、これによりその山を那羅ならやまと名付けた。〈蹢跙。これをフミナラスと言う。〉また那羅ならやまから進軍して輪韓わから河に到着し、埴安彦はにやすひこと河(木津川)を挾んで向かい陣を敷き、互いに挑みかけた。そこで時の人は改めて其の河を挑河いとみかはと名付けた。今、泉河いづみかわと言うのは訛りである。埴安彦はにやすひこ彦國葺ひこくにふくに望んで「何の理由があって、お前は軍を起こしてやって来たのか」と問いかけて言った。(彦國葺は)「お前は天に逆らい道理もなく、王室を傾けようとしている。これに義兵をあげて、お前の反逆を討つ為だ。これは天皇の命である」と答えた。


 是に各々、先を争い矢を射った。武埴安彦たけはにやすひこは先に彦國葺ひこくにふくを射るが当たらず、後に彦國葺ひこくにふく埴安彦はにやすひこを射ると胸にあてて殺した。其の軍は脅えて撤退すると、追って河の北で撃ち破り、首を斬った数は敵の半数を超え、屍の骨が多く満ち溢れた。それでその場所を羽振苑はふりそのと名付けた。また、その軍兵が恐れて逃げて、屎が褌より漏れ落ち、そこで鎧を脱いで逃げたが、まぬがれないことを知り、頭を地に付けて許しを乞い、「我が君よ」と言った。それで、時の人は其の鎧を脱いだ場所を伽和羅かわらと名付け、褌よりくそを漏らした場所を屎褌くそばかまと言った。今、樟葉くすはと言うのは訛りである。又、頭を地に付けて許しを乞った場所を名付けて我君あぎと言う。〈叩頭。これをノムと言う。〉)



・⑴解説

 崇神天皇紀にみられる反逆伝承で、反逆者の武埴安彦たけはにやすひこは「命」の字を欠いていますが孝元天皇の皇子です。


 崇神天皇の叔父にあたる武埴安彦が、天皇に対して反逆を企て、天皇の伯父にあたる大彦命の軍に打たれる事を語り、腰裳(古代のスカート)をつけた少女が、なぞめいた歌をうたって姿を消したというのは、この少女が神意を告げる巫女であって、風刺の歌は、神の下した神託の一種と考えられたのであり、『日本書紀』に「童謡わざうた」と呼んでいる歌にも、このような事件を風刺予告した歌とされるものが少なくありません。⑵


 ほぼ共通した記事が『古事記』にも伝わっていますが、本文の様に童女の歌を倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめが解釈する話は描かれていません


 武埴安彦の妻の吾多媛が「やまと香山かごやまの土を取って、領巾ひれの裹に包んで祈願し、『是れは倭国の物実ものしろである』」と言ったのは、神武天皇即位前紀戌午年九月条に山門の平定にあたり天香山の土を取り、祭祀を行う話があり、ここでも謀叛の成功の為に天香山の土を取り、呪言を行ったと解釈されています。⑶


 「倭国の物実」すなわち倭国の土をひそかにとることは倭国を奪取する意味し、武埴安彦とその妻は、天皇一族の中で天皇の位を争ったのではなく、倭国そのものを奪取する戦いに立ち上がったのであり、ここには天皇位をめぐる争いとは異質なものがあります。⑷


 もしかすると、甲子園児が敗退した後、土を持って帰る習慣は元を辿ればこの話から来ているのでしょうかね? だとすると一寸怖いものがありますが……。


 大和王権初期の皇位継承争いの話は皇位継承のルールが確立していないところに生じる事件と見られており、神武天皇紀の手研耳命たぎしみみのみことの反逆と話が似ています。また、ワニ氏(遠祖・彦國葺)の登場は説話的要請に基づくと言い、ワニはハニの産地であり、その両者の音の連想から、「建ハニ安」に結合したといいます。⑸


 この条の地名起源譚は武埴安彦の逃走ルートが大和と樟葉の重要な関係が浮かび、継体記(樟葉宮)・仁徳記をみると大和への出入りに関し、樟葉が重要な位置を占めていたことを知るとの事です。⑹


◇武埴安彦の反乱の史実性。

 記紀に共通する話が伝わっている事から、記紀編纂以前から恐らく『帝紀』や『旧辞』には既に伝わっていた話かと思われます。『古事記』では倭迹迹日百襲姫が登場しない事から、姫に関しては『日本書紀』の方が本来の伝承に近かったのが、『古事記』編纂時に削偽定実いつわりをけずりてまことをさだめられているかも知れませんが、この時代の記事は一般的に史実とは捉えられていません。


 津田左右吉氏は、武埴安彦の話について、「四方計略という概念によって作られた物語」に結び付けられている事や、「タケハニヤスヒコの名」が「説話的人物に通用な形」であることから事実譚とは考えられない、のみならず、この話は所謂四道将軍の経路とは本質的に関係のないことであるから、多分後になって添加されたものであろうと推測しています。⑺


 ですが、最期を遂げたとされる場所が椿井大塚山古墳(三世紀末造営)のある辺りとなり、小林行雄氏等はこの古墳の被葬者を武埴安彦であるとしており⑻、田中琢氏によれば、「木津川曲流地点に多量の三角縁神獣鏡の贈与を受けた族長がいたこと、四世紀中頃にその支配者の系譜が断絶したと思われることが推測され、奈良盆地から北方の支配者に対して、山辺地域の支配者は三角縁神獣鏡の贈与に象徴される行為を通じて、まず友好の絆を強化した。しかし、両者のあいだで永遠に平和が確保できたのではなく、わずか二代で山城最南端地域の族長は消滅する。武埴安彦の伝承を想起すると、かれらは南の勢力によって滅ぼされた、と推定できる。これ以降、この地域はその勢力下にはいる」⑼との説を述べられています。


 これは非常に興味深い説です。もし、邪馬台国畿内説及び、倭迹迹日百襲姫=卑弥呼説を取り、想像を膨らませるとすれば、魏志が伝える「卑彌呼以死(中略)更立男王。國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定」つまり、「卑弥呼の死亡後、男の王が立ったところ国内が従わず互いに殺し合い千人程が殺され、卑弥呼の宗女である13歳の台与を女王として立てたら、国内は遂に安定した」という話が、『日本書紀』では武埴安彦の乱直後に倭迹迹日百襲姫の死が伝えられているのは、もしかすると混乱して伝承が伝わっており、倭迹迹日百襲姫卑弥呼?死後の内乱を生前の出来事として誤って伝えられていたのか、あるいは『古事記』編纂者がその事実に気付いて倭迹迹日百襲姫夜麻登登母母曽毘売の事績に関しては削偽定実いつわりをけずりてまことをさだめたのかと勘繰りたくなりますが、いずれにせよ、それなりに史実に近い形で話が伝わっていた可能性も推測出来ます。


 武埴安彦の妻・吾田媛も一軍を率いていたのは、卑弥呼の死後、倭国に男の王がなったところ反発にあった邪馬台国の事情に似たものがあったのかも知れず、「倭国の物実」の逸話など卑弥呼同様な巫女によるシャーマニズム的な信仰による政治が、まだ萌芽の段階に過ぎなかった王権よりも政治力で勝っていた時代の名残を伝えているのかも知れません。


 又、稲荷山古墳出土鉄剣銘文の意冨比垝おほひこがこの話が伝える大彦命と同一人物であると言われていますが、直木孝次郎氏は「稲荷山古墳出土鉄剣銘文について、乎獲居臣の八代の祖に意冨比垝おほひこという人物がいたと伝えられていることであって、この人は『記・紀』の系譜で雄略より九世代さかのぼった崇神朝にいたという大彦命に想定する可能性は強いと思われる」と認める一方で、「しかし乎獲居の祖がオオヒコと伝えられていることと、オオヒコが実在することは別の問題である。鉄剣銘からわかることは、ワカタケル大王すなわち雄略天皇の時代に大彦命に関する伝承が存在したらしいことだけであって、大彦命の実在は証明されていない」とも述べられ、大彦命の実在性に関しては疑問視されています。⑽


 ですが、普通に考えれば卑弥呼死後の倭国の安定が台与一人によってもたらされたものとは考えづらく、当然武力による鎮圧もなされた事かと思うので、その際に活躍した人物として大彦命、あるいは大彦命のモデルにあたる人物が実在した可能性も考慮して良いかと思いますし、卑弥呼死後に邪馬台国から大和王権、即ちハツクニシラススメラミコトである崇神天皇の世へ争乱も経験しながら段階的に政権交代して行った出来事として語るのであれば、それ程時代的にはかけ離れておらず、矛盾は感じません。


 もっとも、当方はどちらかと言うと邪馬台国北九州説派なんですけどね(マテ)。

倭迹迹日百襲姫誕生後、孝霊・孝元・開化・崇神天皇が即位しており、女王としても事績は見つからず、日本書紀の記述を信じるとすれば、その死後も「畿内に事無し」(崇神天皇十年十月条)と、魏志倭人伝が伝えるような混乱も見られませんし、台与に符合する人物も居ません。


 また、21世紀に入る直前ぐらいの時期から、箸墓古墳が3世紀中頃に築造されたという説が有力になり、魏志倭人伝の伝える卑弥呼死亡時期の記事と一致するとも言われていますが、年代の測定に利用された炭素14年代測定法において、耐用年数が長く再生利用が可能なヒノキを用いるとずっと古い年代を得られ、桃核を用いた場合の測定値とは約三五〇倍の誤差が生じる為、考古学遺物の実年代については慎重に対処すべきという意見⑾も決して軽視してはならないと思います。これは、かつて同様の意見を歴史学会の重鎮・上田正昭氏も仰られていました⑿。


 アプローチを変えて中国の史書を参考にした場合、『隋書』倭国伝の「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」つまり、「邪靡堆やまとに都す。則ち『魏志』のう所の邪馬臺やまとなる者なり」という記述を率直に信じれば大和王権と邪馬台国は繋がっており、畿内説で正しく、この争乱も史実の可能性が高くなりますが、一方で『旧唐書』倭国伝では「倭國者古倭奴國也」つまり、「倭國はいにしえ倭奴國わのなこくなり」という記述なので、これを信じれば大和王権は『後漢書』の伝える倭奴國から発祥し、北九州から東遷した事になり、両書の間で矛盾が生じており、中国文献から判断は出来ません。


 仮に邪馬台国畿内説を取るのであれば、この反乱はある程度史実も伝えている可能性があるとはいえ、現在もう一つの邪馬台国の有力候補地である吉野ケ里遺跡の北墳丘墓の西側から東へ約150mの位置にある日吉神社敷地内の発掘が行われており、調査結果によっては再度邪馬台国北九州説の方が有力になる可能性もあり、容易く結論付けられる問題ではないと言えます。


 因みに、この反乱を鎮圧する彦國葺ひこくにふくはワニ氏の祖で、仁天皇二五年春二月丁巳朔甲子条に「詔阿倍臣遠祖武渟川別。和珥臣遠祖彦國。中臣連遠祖大鹿嶋。物部連遠祖十千根。大伴連遠祖武日、五大夫曰」とあるように五大夫いつとりのまえつきみの一人に名を連ねていますが、過去の稿「『日本書紀』で見る各時代の大連・大臣(1)伝承の時代。物部十千根大連」で述べました様に、阿部臣・和珥臣・中臣連・物部連・大伴連という構成が和同元年(708年)3月に任命された議政官の氏族構成と一致しており、和同元年以降に作成された可能性が高いと言われており⒀、この理論に従うとすれば創作された人物という事になります。又、紀年銘をもつ日本最古の遺物「中平(後漢の霊帝の年号で、184~189年)」銘紀の金錯銘花形飾鐶頭大刀の発掘で知られる東大寺山古墳が彦国葺命の墓という見方もあるようですが、在野の研究者による説の様なので、アカデミックな立場からそう言った意見があるのか当方の研究不足もあるかも知れませんが、寡聞にして知りません。


・『前賢故実. 巻之1』より彦國葺の肖像画

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817330656028961150

 



◇参考文献

⑴『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/63


⑵『古事記(中) 全訳注』 次田真幸 講談社学術文庫 97頁解説。


⑶『新釈全訳 日本書紀 上巻(巻第一~巻第七)』神野志隆光 金沢英之 福田武史 三上喜孝 講談社 391頁。注21


⑷『倭人争乱 集英社版 日本の歴史②』 田中 琢 (著), 永原 慶二 (編集), 児玉 幸多 (編集), 林屋 辰三郎 (編集) 集英社 275頁


⑸⑹『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 89頁


⑺『古事記及日本書紀の研究』津田左右吉 岩波文庫 425-426頁

「第五章 崇神天皇垂仁天皇二朝の物語 二 傳説的物語」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1085727/1/219


⑻『古墳時代の研究』小林行雄 青木書店 152頁

「第四章 古墳発生の歴史的要因 3 同範鏡から考えられること」


⑼『倭人争乱 集英社版 日本の歴史②』 田中 琢 (著), 永原 慶二 (編集), 児玉 幸多 (編集), 林屋 辰三郎 (編集) 集英社 275頁


⑽『日本神話と古代国家』直木孝次郎 講談社学術文庫  263頁


⑾『先代旧事本紀 現代語訳』 監修・安本美典 訳・志村裕子 批評社 424頁 注54


⑿『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか-縄文から倭の五王まで』上田正昭 新潮選書 2012


⒀『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』 篠川賢 雄山閣 127頁

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