大和王権初期の争乱② 武埴安彦命の反乱は邪馬台国畿内説を取れば史実か?
前稿に引き続き、本稿でも大和王権初期の騒乱を見ていきます。本稿で取り扱う
以下、実際の記事を読んでみましょう。
⑴『日本書紀』巻五崇神天皇十年(癸巳前八八)九月
壬子。大彦命到於和珥坂上。時有少女歌之曰。〈一云。大彦命到山背平坂。時道側有童女歌之曰。〉瀰磨紀異利寐胡播揶。飫逎餓鳥塢。志齊務苔。農殊末句志羅珥。比賣那素寐殊望。〈一云。於朋耆妬庸利。于介伽卑氏。許呂佐務苔。須羅句塢志羅珥。比賣那素寐須望。〉於是大彦命異之。問童女曰。汝言何辭。對曰。勿言也。唯歌耳。乃重詠先歌忽不見矣。大彦乃還而具以状奏。於是天皇姑倭迹迹日百襲姫命。聰明叡智。能識未然。乃知其歌恠。言于天皇。是武埴安彦將謀反之表者也。吾聞。武埴安彦之妻吾田媛。密來之取倭香山土。裹領巾頭。而祈曰。是倭國之物實。乃反之。〈物實。此云望能志呂。〉是以知有事焉。非早圖必後之。於是更留諸將軍而議之。未幾時。武埴安彦與妻吾田媛。謀反逆興師忽至。各分道而夫從山背。婦從大坂。共入欲襲帝京。時天皇遣五十狹芹彦命。撃吾田媛之師。即遮於大坂皆大破之。殺吾田媛悉斬其軍卒。復遣大彦與和珥臣遠祖彦國葺。向山背撃埴安彦。爰以忌瓮鎭坐於和珥武鐰坂上。則率精兵。進登那羅山而軍之。時官軍屯聚而蹢跙草木。因以號其山曰那羅山。〈蹢跙。此云布瀰那羅須。〉更避那羅山。而進到輪韓河。與埴安彦。挾河屯之。各相挑焉。故時人改號其河曰挑河。今謂泉河訛也。埴安彦望之問彦國葺曰。何由矣汝興師來耶。對曰。汝逆天無道。欲傾王室。故擧義兵欲討汝逆。是天皇之命也。於是各爭先射。武埴安彦先射彦國葺。不得中。後彦國葺射埴安彦。中胸而殺焉。其軍衆脅退則追破於河北。而斬首過半。屍骨多溢。故號其處曰羽振苑。亦其卒怖走。屎漏于褌。乃脱甲而逃之。知不得兔。叩頭曰我君。故時人號其脱甲處曰伽和羅。褌屎處曰屎褌。今謂樟葉訛也。又號叩頭之處曰我君。〈叩頭。此云逎務。〉
(
〈一に云ふ、
是に
是に於て更に
⑴概略
崇神天皇十年九月二七日。いわゆる四道将軍の大彦尊が
是に
大彦はすぐに還り、
是を於て更に諸將軍を留めて軍議を開いた。幾ばくもせず、
ここに
是に各々、先を争い矢を射った。
・⑴解説
崇神天皇紀にみられる反逆伝承で、反逆者の
崇神天皇の叔父にあたる武埴安彦が、天皇に対して反逆を企て、天皇の伯父にあたる大彦命の軍に打たれる事を語り、腰裳(古代のスカート)をつけた少女が、なぞめいた歌をうたって姿を消したというのは、この少女が神意を告げる巫女であって、風刺の歌は、神の下した神託の一種と考えられたのであり、『日本書紀』に「
ほぼ共通した記事が『古事記』にも伝わっていますが、本文の様に童女の歌を
武埴安彦の妻の吾多媛が「
「倭国の物実」すなわち倭国の土をひそかにとることは倭国を奪取する意味し、武埴安彦とその妻は、天皇一族の中で天皇の位を争ったのではなく、倭国そのものを奪取する戦いに立ち上がったのであり、ここには天皇位をめぐる争いとは異質なものがあります。⑷
もしかすると、甲子園児が敗退した後、土を持って帰る習慣は元を辿ればこの話から来ているのでしょうかね? だとすると一寸怖いものがありますが……。
大和王権初期の皇位継承争いの話は皇位継承のルールが確立していないところに生じる事件と見られており、神武天皇紀の
この条の地名起源譚は武埴安彦の逃走ルートが大和と樟葉の重要な関係が浮かび、継体記(樟葉宮)・仁徳記をみると大和への出入りに関し、樟葉が重要な位置を占めていたことを知るとの事です。⑹
◇武埴安彦の反乱の史実性。
記紀に共通する話が伝わっている事から、記紀編纂以前から恐らく『帝紀』や『旧辞』には既に伝わっていた話かと思われます。『古事記』では倭迹迹日百襲姫が登場しない事から、姫に関しては『日本書紀』の方が本来の伝承に近かったのが、『古事記』編纂時に
津田左右吉氏は、武埴安彦の話について、「四方計略という概念によって作られた物語」に結び付けられている事や、「タケハニヤスヒコの名」が「説話的人物に通用な形」であることから事実譚とは考えられない、のみならず、この話は所謂四道将軍の経路とは本質的に関係のないことであるから、多分後になって添加されたものであろうと推測しています。⑺
ですが、最期を遂げたとされる場所が椿井大塚山古墳(三世紀末造営)のある辺りとなり、小林行雄氏等はこの古墳の被葬者を武埴安彦であるとしており⑻、田中琢氏によれば、「木津川曲流地点に多量の三角縁神獣鏡の贈与を受けた族長がいたこと、四世紀中頃にその支配者の系譜が断絶したと思われることが推測され、奈良盆地から北方の支配者に対して、山辺地域の支配者は三角縁神獣鏡の贈与に象徴される行為を通じて、まず友好の絆を強化した。しかし、両者のあいだで永遠に平和が確保できたのではなく、わずか二代で山城最南端地域の族長は消滅する。武埴安彦の伝承を想起すると、かれらは南の勢力によって滅ぼされた、と推定できる。これ以降、この地域はその勢力下にはいる」⑼との説を述べられています。
これは非常に興味深い説です。もし、邪馬台国畿内説及び、倭迹迹日百襲姫=卑弥呼説を取り、想像を膨らませるとすれば、魏志が伝える「卑彌呼以死(中略)更立男王。國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定」つまり、「卑弥呼の死亡後、男の王が立ったところ国内が従わず互いに殺し合い千人程が殺され、卑弥呼の宗女である13歳の台与を女王として立てたら、国内は遂に安定した」という話が、『日本書紀』では武埴安彦の乱直後に倭迹迹日百襲姫の死が伝えられているのは、もしかすると混乱して伝承が伝わっており、
武埴安彦の妻・吾田媛も一軍を率いていたのは、卑弥呼の死後、倭国に男の王がなったところ反発にあった邪馬台国の事情に似たものがあったのかも知れず、「倭国の物実」の逸話など卑弥呼同様な巫女によるシャーマニズム的な信仰による政治が、まだ萌芽の段階に過ぎなかった王権よりも政治力で勝っていた時代の名残を伝えているのかも知れません。
又、稲荷山古墳出土鉄剣銘文の
ですが、普通に考えれば卑弥呼死後の倭国の安定が台与一人によってもたらされたものとは考えづらく、当然武力による鎮圧もなされた事かと思うので、その際に活躍した人物として大彦命、あるいは大彦命のモデルにあたる人物が実在した可能性も考慮して良いかと思いますし、卑弥呼死後に邪馬台国から大和王権、即ちハツクニシラススメラミコトである崇神天皇の世へ争乱も経験しながら段階的に政権交代して行った出来事として語るのであれば、それ程時代的にはかけ離れておらず、矛盾は感じません。
もっとも、当方はどちらかと言うと邪馬台国北九州説派なんですけどね(マテ)。
倭迹迹日百襲姫誕生後、孝霊・孝元・開化・崇神天皇が即位しており、女王としても事績は見つからず、日本書紀の記述を信じるとすれば、その死後も「畿内に事無し」(崇神天皇十年十月条)と、魏志倭人伝が伝えるような混乱も見られませんし、台与に符合する人物も居ません。
また、21世紀に入る直前ぐらいの時期から、箸墓古墳が3世紀中頃に築造されたという説が有力になり、魏志倭人伝の伝える卑弥呼死亡時期の記事と一致するとも言われていますが、年代の測定に利用された炭素14年代測定法において、耐用年数が長く再生利用が可能なヒノキを用いるとずっと古い年代を得られ、桃核を用いた場合の測定値とは約三五〇倍の誤差が生じる為、考古学遺物の実年代については慎重に対処すべきという意見⑾も決して軽視してはならないと思います。これは、かつて同様の意見を歴史学会の重鎮・上田正昭氏も仰られていました⑿。
アプローチを変えて中国の史書を参考にした場合、『隋書』倭国伝の「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」つまり、「
仮に邪馬台国畿内説を取るのであれば、この反乱はある程度史実も伝えている可能性があるとはいえ、現在もう一つの邪馬台国の有力候補地である吉野ケ里遺跡の北墳丘墓の西側から東へ約150mの位置にある日吉神社敷地内の発掘が行われており、調査結果によっては再度邪馬台国北九州説の方が有力になる可能性もあり、容易く結論付けられる問題ではないと言えます。
因みに、この反乱を鎮圧する
・『前賢故実. 巻之1』より彦國葺の肖像画
https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817330656028961150
◇参考文献
⑴『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/63
⑵『古事記(中) 全訳注』 次田真幸 講談社学術文庫 97頁解説。
⑶『新釈全訳 日本書紀 上巻(巻第一~巻第七)』神野志隆光 金沢英之 福田武史 三上喜孝 講談社 391頁。注21
⑷『倭人争乱 集英社版 日本の歴史②』 田中 琢 (著), 永原 慶二 (編集), 児玉 幸多 (編集), 林屋 辰三郎 (編集) 集英社 275頁
⑸⑹『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣 89頁
⑺『古事記及日本書紀の研究』津田左右吉 岩波文庫 425-426頁
「第五章 崇神天皇垂仁天皇二朝の物語 二 傳説的物語」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1085727/1/219
⑻『古墳時代の研究』小林行雄 青木書店 152頁
「第四章 古墳発生の歴史的要因 3 同範鏡から考えられること」
⑼『倭人争乱 集英社版 日本の歴史②』 田中 琢 (著), 永原 慶二 (編集), 児玉 幸多 (編集), 林屋 辰三郎 (編集) 集英社 275頁
⑽『日本神話と古代国家』直木孝次郎 講談社学術文庫 263頁
⑾『先代旧事本紀 現代語訳』 監修・安本美典 訳・志村裕子 批評社 424頁 注54
⑿『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか-縄文から倭の五王まで』上田正昭 新潮選書 2012
⒀『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』 篠川賢 雄山閣 127頁
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