大和王権初期の争乱

大和王権初期の争乱① 手研耳命の反逆

 過去の稿で見て来たとおり、歴史学会では記紀に描かれた初期の天皇、そして旧辞的な記事を伝承として史実性を否定しています。井上光貞氏の『帝紀からみた葛城氏』は記紀の中でも海外文献や金石文などと比較して、大体応神・仁徳以降の帝紀のみは信用していいという結論に至りましたが、それ以前の記事の史実性については虚構であるという考えが歴史学会では一般的になりました。


 以前も述べました様に、私見では応神以前の神功皇后は実在したと考えていますが、それ以前となると実在の証明が難しく、上宮記を信用して垂仁天皇まで遡るのが限界かとも思っていますが、記紀文献の伝える旧辞的な内容も全てと一括りにしてよいのか? 全て創作として切り捨てて良いものだろうか? という疑問もあります。


 その為、本稿から数回に渡り大和王権初期の反乱について取り上げ、やはり伝承に過ぎないのか? それとも少しでも史実と呼べる妥当性があるのかを分析をしていきたいと思います。



◇記紀の伝えるタギシミミノミコトの反逆


⑴『日本書紀』巻四綏靖天皇即位前紀

神渟名川耳天皇。神日本磐余彦天皇第三子也。母曰媛蹈鞴五十鈴媛命。事代主神之大女也。天皇風姿岐嶷。少有雄拔之氣。及壯容貎魁偉。武藝過人。而志尚沈毅。至四十八歳神日本磐余彦天皇崩。時神渟名川耳尊孝性純深。悲恭無已。特留心於喪葬之事焉。其庶兄手研耳命。行年已長。久歴朝機。故亦委事而親之。然其王立操厝懷。本乖仁義。遂以諒闇之際威福自由。苞藏禍心。圖害二弟。于時太歳己卯。


神渟名川耳かみぬなかはみみの天皇すめらみこと神日本磐余彦天皇かむやまといはれひこのすめらみこと第三子みはしらにあたりたまふみこなり。いろは媛蹈鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみことまうす。事代主神の大女えむすめなり。天皇 風姿みやび岐嶷いこよかなり。をさなくして雄拔之氣ををしきいき有します。おとこさかるに及びて容貎魁偉みかたちすぐれてたたはし武藝たけきわざ人にすぎたまふ。而して志尚沈毅みこころざしおここし。四十八歳に至りて神日本磐余彦天皇 かむあがりましぬ。時に神渟名川耳尊かみぬなかはみみのみこと孝性純深おやにしたがふひととなりあはらにして深し悲恭已無しのぶることやむことなし。特に心を喪葬みはふりの事にとどめたまへり。其の庶兄いろね手研耳命たぎしみみのみこと行年とし已長いて、久しく朝機みかどのまつりごとたり。また事を委ねてみづからせしむ。然れども其のきみ立操こころはへ厝懷こころおきて、本より仁義うつくしきことわりそむけり。遂に諒闇みものおもひの際を威福自由いきほひほしきままなり禍心苞藏まがのこころをかくして二弟ふたはしらのいろどそこなはむことをはかる。時に太歳たいさい己卯つちのとのう。)


⑴概略

 神渟名川耳天皇綏靖天皇神日本磐余彦天皇神武天皇の第三子である。母は媛蹈鞴五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみことと申します。事代主神の長女である。天皇は幼い頃より聡明で、若くして雄々しい気迫があった。歳の盛りに及び背も高く立派であった。武芸は人よりもすぐれ、高い理想があり、沈着かつ決断力があった。四十八歳に至り神日本磐余彦天皇が崩じた。その時に神渟名川耳尊かみぬなかはみみのみことは親を想う心が深く、悲しみ慕う気持ちは止む事がなかった。特に心を葬儀の事は心を砕いていた。その庶兄の手研耳命たぎしみみのみことは年齢を重ね、久しく朝政を経験してきた。そこで(神渟名川耳は手研耳命に)政事を委ね、親政を行わせた。しかし、その王(手研耳命)は心ばせは本より仁義にもとっており、遂に服喪の際にも賞罰を欲しい儘に行った。反逆の心を隠して、二人の弟を殺害しようと謀った。この時、太歳たいさい己卯つちのとのう(紀元前五八二年)だった。


⑵『日本書紀』巻四綏靖天皇即位前紀己卯年(前五八二)十一月

冬十一月。神渟名川耳尊。與兄神八井耳命。陰知其志而善防之。於山陵事畢。乃使弓部稚彦造弓。倭鍛部天津眞浦造眞麛鏃。矢部作箭。及弓矢既成神渟名川耳尊欲以射殺手研耳命。會有手研耳命於片丘大窨中獨臥于大牀。時渟名川耳尊謂神八井耳命曰。今適其時也。夫言貴密。事宜愼。故我之陰謀本無預者。今日之事唯吾與爾自行之耳。吾當先開窨戸。爾其射之。因相随進入。神渟名川耳尊突開其戸。神八井耳命則手脚戰慄不能放矢。時神渟名川耳尊。掣取其兄所持弓矢。而射手研耳命。一發中胸。再發中背。遂殺之。於是神八井耳命懣然自服。讓於神渟名川耳尊曰。吾是乃兄。而懦弱不能致果。今汝特挺神武。自誅元惡。宜哉乎。汝之光臨天位以承皇祖之業。吾當爲汝輔之奉典神祇者。是即多臣之始祖也。


冬十一月ふゆしもつき神渟名川耳尊かみぬなかはみみのみこといろね神八井耳命かむやゐみみのみことひそかに其のこころしろしめして善くほせぎたまふ。山陵みささぎ事畢わざをはるに至りて、乃ち弓部稚彦ゆげべのわかひこをして弓を造り、倭鍛部やまとのかぬちべ天津眞浦あまつまうらをして眞麛鏃まかごのやさきを造り、矢部やはぎべをしてがしむ。弓矢既に成りぬるときにいたりて、神渟名川耳尊かみぬなかはみみのみこと以て手研耳命たぎしみみのみことを射殺さむとおもほす。手研耳命の片丘かたをか大窨おほむろの中に有して、ひと大牀おほみとこねふせるにたまたまひぬ。時に渟名川耳尊ぬなかはみみのみこと神八井耳命かむやゐみみのみことかたりて曰く。「今、たまたま其の時なり。夫れ言はしのぶを貴び、わざは宜しく愼むべし。れ我が陰謀本ひそかなるはかりごとより預者あひいふひと無し。今日けふの事は唯吾ただわいましと自ら行ひたまはくのみ。吾れまさむろの戸を開けむ。いまし其れ射よ」。りて相随あひしたがひて進み入る。神渟名川耳尊かみぬなかはみみのみこと其の戸を突き開く。神八井耳命かむやゐみみのみこと則ち手脚てあし戰慄ふるひをののき、矢をること能はず。時に神渟名川耳尊、其の兄の持たる弓矢を掣取ひきとりて、手研耳命を射たまふ。一たびはなちて胸にて、再びはなちてそびらに中て、遂に殺しつ。是に於て神八井耳命かむやゐみみのみこと懣然はぢて自服したがひぬ。神渟名川耳尊に讓りてまうさく。「やつかれ是れ乃兄いましのこのかみなれども、懦弱つたなくよわくて不能致果いしきなし。今、汝特挺神武いましみことすぐれたけくて、自ら元惡あだつみなふ。宜哉乎うべなるかな、汝の天位あまつひつぎ光臨しろしめし、以て皇祖みおやつぎてけむこと。吾はまさに汝のたすけて、神祇あまつやしろくにつやしろ奉典つかさどりまつらむ。即ち是れ多臣おほのおみ始祖はじめのおやなり。)


⑵概略

 冬十一月。神渟名川耳尊かみぬなかはみみのみことは兄の神八井耳命かむやゐみみのみことと密かに手研耳命の意図を知らせて、これをよく防いだ。先帝を山陵みささぎへの埋葬を終えると、乃ち弓部稚彦ゆげべのわかひこに弓を作らせ、倭鍛部やまとのかぬちべ天津眞浦あまつまうらをして眞麛鏃まかごのやさきを作らせ、矢部やはぎべに矢を作らせた。弓矢が全て出来上がると、神渟名川耳尊かみぬなかはみみのみこと手研耳命たぎしみみのみことを射殺そうと思った。


 手研耳命は片丘かたをか大窨おほむろの中に居て、一人で大床で臥せっていた。この時、渟名川耳尊ぬなかはみみのみこと神八井耳命かむやゐみみのみことに「今が丁度良い時です。謀にあたっては言行は慎重にすべきです。だから私の密かな謀は関与する者はありません。今日の事は唯、私と貴方が自ら決行しましょう。先ず私がむろの戸を開けます。貴方はそれを射って下さい」と言った。


 そして共に進み入ると、神渟名川耳尊かみぬなかはみみのみことは其の戸を突き開けた。神八井耳命かむやゐみみのみこと手脚てあしが震え慄き、矢をることが出来なかった。その時、神渟名川耳尊はその兄の持つ弓矢を引き抜き、手研耳命を射った。一度放ち胸に当て、再び放ち背に当て、遂に殺した。そこで神八井耳命かむやゐみみのみことは煩悶して恥じ入り、自ら服従した。神渟名川耳尊を立てて「私はあなたの兄でありますが、意気地なしで果敢に敵を殺す事が出来ん戦。今、貴方はとりわけ神の如き武勇を有し、、自ら大悪の人を誅しました。貴方が皇位に臨んで、皇祖の業を受け継がれるのがよろしいでしょう。私は貴方の助け、天神地祇を奉斎しましょう」と言った。即ちこれ多臣おほのおみの始祖である。



⑶『古事記』中巻 神武天皇条(綏靖天皇即位前記)

故天皇崩後。其庶兄當藝志美々命。娶其嫡后伊須気余理比売之時。将殺其三弟而謀之間、其御祖伊須気余理比売患苦而。以歌。令知其御子等。歌曰。佐韋賀波用。久毛多知和多理。宇泥備夜麻。許能波佐夜芸奴。加是布加牟登須。又歌曰。宇泥備夜麻。比流波久毛登韋。由布佐礼婆。加是布加牟登會。許能波佐夜牙流。於是其御子聞知而。驚乃為将殺當藝志美々之時。神沼河耳命。白其兄神八井耳命。那泥此二字以音。汝命。持兵入而。殺當藝志美々。故持兵入以。将殺之時。手足和那那岐弖、此五字以音。不得殺。故爾其弟神沼河耳命。乞取其兄所持之兵。入殺當藝志美々。故亦称其御名。謂建沼河耳命。爾神八井耳命。譲弟建沼河耳命曰。吾者不能殺仇。汝命既得殺仇。故吾雖兄不宜為上。是以汝命為上治天下。僕者扶汝命為忌人而。仕奉也。故其日子八井命者。茨田連、手島連之祖。神八井耳命者。意富臣。小子部連。坂合部連。火君。大分君。阿蘇君。筑紫三家連。雀部臣。雀部造。小長谷造。都祁直。伊余国造。科野国造。道奥石城国造。常道仲国造。長狭国造。伊勢船木直。尾張丹波臣。島田臣等之祖也。神沼河耳命者。治天下也。


(かれ天皇すめらみことかむあがりまして後に、其の庶兄まませ當藝志美々たぎしみみの命、其の嫡后おほきさき伊須気余理比売いすけよりひめよばへる時に、其の三柱みはしらおとみこたちをせむとして、謀れるほどに、其の御祖みおや伊須気余理比売いすけよりひめ患苦いれひまして、歌よみして其の御子たちにしらしめたまひき。歌曰く、


狭井河よ 雲起ち亙り

畝火山 木の葉 喧擾さやぎぬ

風吹かむとす。


また歌曰ひしく、


畝火山 晝は雲と居

夕されば 風吹かむとぞ

木の葉 喧擾さやげる。


ここに其の御子たち聞き知りまして、驚きて當藝志美々を殺せむとしたまひし時、神沼河耳の命、其のいろせ神八井耳命にまをしたまひしく、『なねが命、つはものを持ち入りて、當藝志美々をころせたまへ』とまをしたまひき。かれ兵を持ちて、入りて殺せむとしたまふ時に、手足わななぎて得殺せたまはさりき。かれここに其のいろと神沼河耳命、其の兄の持たせる兵を乞ひ取りて、入りて當藝志美々をころせたまひき。かれまた、其の御名をたたへて、建沼河耳たけぬなかはみみの命とまをす。

ここに神八井耳命、弟建沼河の耳命に譲りてまをしたまひしく、『吾は仇を得殺せず、が命既に得殺せたまひぬ仇。かれ吾は兄なれども、上とあるべからず、是を以ちて汝が命上とまして、天の下治らしめせ。僕は汝が命を扶けて、忌人いはひびととなり仕へ奉らむ』とまをしたまひき。かれ其の日子八井の命は、〈茨田連、手島連の祖なり。〉神八井耳の命は、〈意富臣をほのおみ小子部連ちいさこべのおみ坂合部連さかあいべのむらじ火君ひのきみ大分君おほきたのきみ阿蘇君あそのきみ筑紫つくしの三家連みやけのむらじ雀部臣ささきべのおみ雀部造ささきべのみやつこ小長谷造をはつせのみやつこ都祁直つけのあたひ伊余国造いよのくにのみやつこ科野国造しなののくにのみやつこ道奥みちのくの石城国造いわきのくにのみやつこ常道ひたちの仲国造なかのくにのみやつこ長狭国造ながさのくにのみやつこ伊勢船木直いせのふなきのあたひ尾張丹波臣おはりのにはのおみ、島田臣等が祖なり。〉神沼河耳命は天の下治らしめしき。)


⑶概略

 神武天皇が崩じた後に、その庶兄の當藝志美々たぎしみみの命、其の嫡后おほきさき伊須気余理比売いすけよりひめと結婚した時に、その三人の弟たちを殺そうとして、謀をしていることを、その御祖である伊須気余理比売いすけよりひめが憂い、歌よみをしてその御子たちに知らせようとして、歌って仰られた。


狭井河の方から雲が一面に湧き起り

畝火山は木の葉がさやさやと鳴り騒いでいる

風が吹こうとしているのだ。


また歌って仰られた。


畝火山は昼は雲が揺れ動いている

夕方には 風が吹く前兆として

木の葉がさやさやと鳴り騒いでいる。


 この歌を御子たちが聞き知り、驚いて當藝志美々を殺そうとした時、神沼河耳の命、其のいろせ神八井耳命に言った、「ねえ兄さま、武器を持って、當藝志美々を殺してください」と言った。神八井耳命は武器を持ち入り當藝志美々を殺そうとした時に、手足がわなないて殺せなかった。そこで弟の神沼河耳命は、兄に持たせた武器を奪い取り、入って當藝志美々を殺した。また、其の御名を称えて、建沼河耳たけぬなかはみみの命と言った。


 ここに神八井耳命、弟建沼河の耳命に自分の身を引いて「私は仇を殺せず、貴方は仇を殺せた。私は兄ですが、天皇となるべきではない。是を以って貴方が天皇となって、天下を治めて下さい。私は貴方を助けて、神祇を祀り、貴方に仕えます」と言った。その日子八井の命は、〈茨田連、手島連の祖である。〉神八井耳の命は、〈意富臣をほのおみ小子部連ちいさこべのおみ坂合部連さかあいべのむらじ火君ひのきみ大分君おほきたのきみ阿蘇君あそのきみ筑紫つくしの三家連みやけのむらじ雀部臣ささきべのおみ雀部造ささきべのみやつこ小長谷造をはつせのみやつこ都祁直つけのあたひ伊余国造いよのくにのみやつこ科野国造しなののくにのみやつこ道奥みちのくの石城国造いわきのくにのみやつこ常道ひたちの仲国造なかのくにのみやつこ長狭国造ながさのくにのみやつこ伊勢船木直いせのふなきのあたひ尾張丹波臣おはりのにはのおみ、島田臣等が祖である。〉神沼河耳命は天下を治めた。



・⑴⑵⑶解説

 神武天皇の皇子で、綏靖天皇の異母兄であるタギシミミノミコトの反逆伝承です。

神武天皇記ではカムヤイミミノミコト、カムヌナカハミミノミコトにタギシミミノミコトの謀を知らせる二皇子の生母、イケスヨリヒメの歌謡二首が共に載せられており、綏靖即位前紀でカムヌナカハミミノミコトの即位の正当性を置く日本書紀とは、その扱いが異なっています。


 歌謡二首を取り入れる事でストーリーとしては自然な形に話を持って行った古事記の方が文学性と作為性が高い事から、恐らく日本書紀の方が本来の旧辞原文に近い内容であったのではないかと個人的には推測しています。


 古事記ではタギシミミノミコトが天皇崩後に適后イケスヨリヒメと結婚していることに注意しなければならず、この結婚には王権の正統な継承者としてのタギシミミノミコトの資格が読み取れ、その意味では彼の反逆伝承と位置付けるべきでないという意見もあります。⑷


 更に言ってしまえば、年長者で長い間政治に関わり、神武東征にも付き従っていたタギシミミノミコトの方が正統な後継者に相応しい様に思えますし、タギシミミノミコトの反逆の意志が本当にあったのか分かりませんし、反乱軍を動かしたという記述もありません。寧ろ綏靖天皇の皇位簒奪にも見える行為の方が、現代人の感覚からすれば正統性を感じませんよね。


 しかし、この様な行為に及んだのは上古特有の事情を孕んでおり、当時の常識や情勢からすれば綏靖天皇の行為は寧ろ正当なものであった様です。


 神武天皇が末弟であって天皇に即位したのは末子成功説話あるいは末子相続制の習俗を反映したものであり、カムヤイミミノミコトが末弟のカムヌナカハミミノミコトに天皇の地位を譲ったというのも、末子相続制の思想によるものであるということはよく知られています。⑸


 ですが、単に末子相続の伝統を語るだけでなく、大国主命の系譜の国津神の勢力の大きさを示すという見方もあります。例えば物部氏のウマシマチノミコトも末子で国津神の系譜と伝えられています。⑹


 それに対してタギシミミノミコトは隼人系なので、大国主命の血統、つまり母方が出雲系の血筋であるカムヌナカハミミノミコトの方が皇位継承の正統性を認められていたのかも知れません。タギシミミノミコトは宮崎神社、吾田神社など主に宮崎県の神社で祀られている事から想像すると、出雲系とは相容れない立場だったのかも知れません。


 また、『古事記』ではイケスヨリヒメが歌によって子に身の危険を知らせ、そこにタギシミミノミコトの謀反を暗示する歌は、母の歌の呪力によって子が助けられるという話の趣向には、女の宗教的な力が重い意味をもった母権的な思考が認められ、そのような母権的な思考を背景としてイケスヨリヒメとその子の正統性が語られると言います。⑺


 古事記の構成史料である帝紀と旧辞の関係は、帝紀に記載する各天皇の系譜は、その正当な即位の敬意を語る旧辞の説話伝承によって保障されています。タギシミミの話にしてもタギシミミが如何に正統性を欠き、タギシミミを殺して即位したカミヌナカハミミノミコトが如何に皇位継承の正統者であったのか説明する伝承であった言えるようです。⑻


 タキシミミのキシは争い競う意のキシルに関わり、綏靖紀で反乱を起こし皇位継承に障碍をなすことに関連する名かとも言われています。⑼


 『名義抄』によれば研はキシルと詠み、手研耳命では「キシ」にあたり、タギシは道路が平坦ならざる貌、また足などの萎えて直立して得ざる貌。従ってタギシミミとは、耳の形が曲がりくねっていることを言うのであろう⑽との事で、皇族に相応しくない如何にも創作された人物の名前としか言いようがありません。


 しかし、ミミが耳ではなく、魏志倭人伝に登場する官名のミミに因んだものであるとしたら解釈も異なって来ますが、ハッキリしません。


 神武東征に付き従い、政治も長年司っていたタギシミミノミコトが寝ている間に殺してしまうという卑怯で残酷極まりない話ですが、儒教的道徳観や後世で言う武士道とは無縁の時代の原始的な権力闘争を現代人の基準で善悪を語るべきではありません。寧ろ、初期王権の脆弱な政治的立場を死守するためにはやむを得ない面もあり手段を選ばなかったとすれば、割とリアリティを感じさせる話しとも解釈出来ます。



◇追記

〇記紀の記述の新旧について。

 本稿初回投稿時に『古事記』よりも『日本書紀』の方が本来の旧辞原文に近い内容であったのではないかという個人的な推測をしましたが、先見の研究で既に『日本書紀』の方が古い言い伝えである事が指摘されていました。


 倉野憲司氏は『古事記全註釈第5巻(中巻篇上)』で、書紀では神八井耳命を祖とする氏族はおほのおみ一氏だけであるが、ほのおみを真っ先に挙げて以下十八氏を同族として列挙していること。そして、この十八氏について見てみると、大和・摂津・肥前・肥後・伊予・信濃・常陸・安房・陸奥・尾張・伊勢等、広範囲の地域に亘っていることが知られ、大和朝廷がこのように北は陸奥から南は九州まで支配するに至るのはかなり後のことである事から、これらの氏族が附加されたのが新しいことは言うまでもないとして、『日本書紀』の方が古い言い伝えであることを立証なさっておられます。⑾


〇タギシミミ伝承の反映説

 タギシミミ伝承について、徳光久也氏は「皇極四年条の”入鹿殺し”を想起せしめるとして、皇極女帝が嫡后、入鹿をタギシミミノ命とし、中大兄、中臣連鎌子、倉山田臣、下手人の佐伯連子麻呂や、葛城稚犬養連網田らが、兄の神八井耳命や弟の神沼河耳命に当るであろう。子麻呂や網田らがひるんでいるのをはげまして、”やあ”と叫んで入鹿に斬りつけた中大兄は、勇者神沼河耳命ということである。ともあれ、タギシミミの命の謀反譚が、中大兄らのクーデターにヒントを得ているか、あるいはその事件を反映していることはまちがいないところであろうと思われる。典型的な短歌型が、しかも叙景歌が二首も見られることからも、この想定は支持されると考える。天皇崩御としているところも、舒明崩御後の状況と一致する。この点からも、神武記の成立期を大化改新以後と見ることができるであろう⑿」と述べられています。つまり、この話を反映法で解釈しています。


 しかし、旧辞の作成年代が『日本書紀』巻十九欽明天皇二年(五四一)春三月の伝える『帝王本紀すめらみことのふみ』が帝紀・帝王日継などにあたるという説⒀もあり、旧辞も同時期に作られたとすれば、七世紀の出来事である「乙巳の変」がモデルには成りえません。又、短歌二首が加えられた古事記の記事が新しいものであることは私見で述べており、これと倉野氏が指摘する「十八氏」の記事が古事記に附加されたものであり、『古事記』が新しい記事が含まれることは確かですが、逆に言えば『日本書紀』の記事は古い言い伝えが残されており、即ち記紀共通の部分では『旧辞』原型に近い形で伝わっていると思われます。


 平林章仁氏は「神武天皇伝承の形成に関する従前の研究では、後世の時代を画する大きなできごとをもとにして創作された虚構の物語と理解する。反映法に依拠した説明が主であった。しかし、この立場では、もととするできごとを何に求めるかにより結論が異なるから、諸説が一致しているわけではない。これは恣意的な考えの影響をうけやすい反映法の限界を示している⒁」と仰られている通り、反映法がアテにならない時代遅れの手法であると言って良いでしょう。





◇参考文献

⑴⑵『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/55


⑶『古事記 : 新訂要註』 武田祐吉 編 三省堂

https://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1036263/78


⑷『古事記事典』 尾畑喜一郎 楼楓社 178ページ


⑸『古事記(中) 全訳注』 次田真幸 講談社学術文庫 56ページ


⑹『先代旧事本紀 現代語訳』 監修・安本美典 訳・志村裕子 批評社 418ページ 注26


⑺『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣82ページ


⑻『上代説話事典』 大久間喜一郎・乾克己 編 雄山閣81ページ


⑼『新釈全訳 日本書紀 上巻(巻第一~巻第七)』 神野志隆光 金沢英之 福田武史 三上喜孝・著 講談社 293ページ 注13


⑽『日本書紀⑴』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 199ページ 注12


⑾『古事記全註釈第5巻(中巻篇上)』倉野憲司 三省堂 157頁

「3 當藝志美々命の反逆 釈義」


⑿『古事記の批評的研究 英雄時代と英雄後』徳光久也 北海出版 177-178頁

「第2部 英雄物語の分析 第2章 ヤマトイワレビコ物語(上) 三 妻覓説話 14 タギシミミノ命」


⒀『日本書紀㈢』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 245頁

注四


⒁『神武天皇伝承の古代史』平林章仁 志学社 97頁

「第一章 神武天皇東遷伝承形成史論 神武天皇伝承の形成と反映説の検討」

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