大和王権初期の争乱④ 王朝交代の事実か? 麛坂王。忍熊王の乱

 ここまで、記紀が伝える大和王権初期の争乱(帝位を巡る争い)を見てきましたが、どの時期までを「初期」と定義すべきか恐らく議論が分かれる事かと思います。そこで、仮に王朝交代説の主張する「古王朝」の次の「中王朝」との狭間にあたる神功皇后の時代までを「大和王権初期」と定義し、「大和王権初期の争乱」に関しては本稿で締めくくらせて頂きたいと思います。実際、本稿の話は王朝交代説の根拠として取り上げられやすい話なのでご覧ください。




⑴『日本書紀』巻九神功皇后摂政元年(辛巳二〇一)二月

爰伐新羅之明年春二月。皇后領群卿及百寮。移于穴門豐浦宮。即收天皇之喪。從海路以向京。時麛坂王。忍熊王。聞天皇崩。亦皇后西征并皇子新生。而密謀之曰。今皇后有子。群臣皆從焉。必共議之立幼主。吾等何以兄從弟乎。乃詳爲天皇作陵。詣播磨興山陵於赤石。仍編船絙于淡路嶋。運其嶋石而造之。則毎人令取丘而待皇后。於是犬上君祖倉見別。與吉師祖五十狹茅宿禰。共隷于麛坂王。因以爲將軍。令興東國兵。時麛坂王。忍熊王。共出菟餓野。而祈狩之曰。〈祈狩。此云于氣比餓利。〉若有成事。必獲良獸也。二王各居假庪。赤猪忽出之登假庪。咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰。是事大怪也。於此不可待敵。則引軍更返屯於住吉。時皇后聞忍熊王起師以待之。命武内宿禰懷皇子。横出南海泊于紀伊水門。皇后之船直指難波。于時皇后之船廻於海中以不能進。更還務古水門而卜之。於是天照大神誨之曰。我之荒魂不可近皇居。當居御心廣田國。即以山背根子之女葉山媛令祭。亦稚日女尊誨之曰。吾欲居活田長峽國。因以海上五十狹茅令祭。亦事代主尊誨之曰。祠吾于御心長田國。則以葉山媛之弟長媛令祭。亦表筒男。中筒男。底筒男。三神誨之曰。吾和魂宜居大津渟中倉之長峽。便因看徃來船。於是隨神教以鎭坐焉。則平得度海。忍熊王復引軍退之。到菟道而軍之。皇后南詣紀伊國。會太子於日高。以議及群臣。遂欲攻忍熊王。更遷小竹宮。〈小竹。此云之努。〉適是時也。晝暗如夜。已經多日。時人曰。常夜行之也。皇后問紀直祖豐耳曰。是恠何由矣。時有一老父曰。傳聞。如是恠謂阿豆那此之罪也。問。何謂也。對曰。二社祝者共合葬歟。因以令推問。巷里有一人曰。小竹祝與天野祝共爲善友。小竹祝逢病而死之。天野祝血泣曰。吾也生爲交友。何死之無同穴乎。則伏屍側而自死。仍合葬焉。蓋是之乎。乃開墓視之實也。故更改棺櫬。各異處以埋之。則日暉炳爃、日夜有別。


ここ新羅しらきちたまひし明年くるつとし春二月はるきさらぎ皇后きさき群卿まちきみたち及び百寮つかさつかさを率ゐて、穴門豐浦宮あなとのとようらのみやに移ります。即ち天皇すめらみことみもがりをさめて、海路うみつぢより以てみやこいでます。時に麛坂王かごさかのみこ忍熊王おしくまのみこ天皇すめらみことかむあがりりまして、また皇后きさき西にしのかたちたまひ、并に皇子みこ新たに生れりと聞きて、ひそかはかりていはく、「今 皇后きさきみこまします、群臣まへつきみ皆從へり、必ず共にはかりて幼主わかきみこを立てむ。吾等何ぞこのかみを以ておととに從はむや」。乃ち天皇のためみささぎを作るといつはりて、播磨に詣りて山陵みささぎを赤石につ。仍りてふねみて淡路嶋あはぢのしまわたして、其の嶋の石を運びて造る。則ち人毎ひとごといくさを取らしめて皇后きさきを待つ。是に犬上君いぬかみのきみおや倉見別くらみわけ吉師きしおや五十狹茅宿禰いさちのすくねと共に麛坂王かごさかのみこきぬ。因りて以て將軍いくさのきみとして東國あづまのくにいくさおこさしむ。時に麛坂王かごさかのみこ忍熊王おしくまのみこ、共に菟餓野とがぬに出でて、祈狩うけひがりして曰く、〈祈狩、此をばウケヒガリと云ふ。〉「し事を成すこと有らば、必ず良獸よきししむ」。二王ふたりのみこおのおの假庪きすきに居ます。赤きたちまちに出でて假庪きすきに登り、麛坂王かごさかのみこひて殺しつ。軍士いくさびとふつくづ。忍熊王おしくまのみこ倉見別くらみわけかたりていはく、「是の事大ことおほきなるしるましなり。此に於てあだを待つべからず」。則ちいくさを引きて更に返りて住吉すみのえいはむ。時に皇后、忍熊王おしくまのみこいくさを起し以て待つと聞きて、武内宿禰たけしうちのすくねみことおほせて、皇子すめらみこいだきて、横さまに南海みなみのみちより出でて紀伊水門きのくにのみなとに泊らしめ、皇后の船は直に難波を指す。時に皇后のみふね海中わたなかに廻りて以て進むことあたはず。更に務古水門むこのみなとに還りましてうらへたまふ。是に天照大神あまてらすおほみかみをしへまつりてのたまはく、「我が荒魂あらみたまをば皇居おほむもとに近づくべからず。まさ御心みこころの廣田國ひろたのくにに居らしむべし」。即ち山背根子やましろのねこむすめ葉山媛はやまひめを以ていははしむ。また稚日女尊わかひめのみことをしへまつりてのたまはく、「吾れ活田いくたの長峽國ながをのくにに居らむと欲す」。りて海上五十狹茅うなかみのいさちを以て祭はしむ。また事代主尊ことしろぬしのみことをしへまつりてのたまはく、「吾を御心長田國みこころのながたのくにに祠れ。則ち葉山媛はやまひめ弟長媛いろとながひめを以て祭はしむ。亦 表筒男うはつつのを中筒男なかつつのを底筒男そこつつのを、三はしらの神 をしへて曰く、「吾が和魂にきみたまをば宜しく大津渟中倉おほつぬなくら長峽ながをに居け。便ち因りて徃來ゆきかふねみそなはむ」。是に神のみことまにまに以て鎭坐しづめまさしむ。則ちたひらかわたわたること得たまふ。忍熊王おしくまのみこいくさを引きて退き、菟道うちに到りていくさだちす。皇后南のかた紀伊國きのくにいたりまして、太子ひつぎのみこ日高ひたかひたまひぬ。はかりことを以て群臣まへつきみに及ぼして、遂に忍熊王おしくまのみこを攻めむと欲ひて、更に小竹宮しぬのみやうつる。〈小竹。此をばシヌと云ふ。〉是の時に適りて、ひる暗きこと夜の如くて、已に多くの日を經たり。時人ときのひと、「常夜行とこやみゆく」と曰ふなり。皇后きさき紀直きのあたひおや豐耳とよみみに問ひて曰く。「是のしるしまは何のゆゑぞ」。時にひとりの老父おきな有りて曰く、「つてに聞く、かかるしるしまをば阿豆那此あつなひの罪と謂ふ」。問ふ。「何の謂ぞ」。こたへて曰く、「二社ふたつのやしろ祝者はふりら共に合葬あはせをさむるか。りて以て推問はしむ。巷里むら一人ひとひとり有りて曰く、「小竹祝しぬのはふり天野祝あまののはふりと共に善友うるはしきともたり。小竹祝しぬのはふり逢病やまひしてみまかりぬ。天野祝あまののはふり血泣いさちて曰く、『吾れ生けるとき交友うるはしきともたりき。何ぞ死して穴を同じくすること無かむらや』。則ちかばねほとりに伏して自ら死りぬ。りて合せをさむ。けだし是れか」。乃ち墓を開きてるにまことなり。故れ更に棺櫬ひつきを改めて、おのおのところことにして以てうづむ。則ち日のひかり炳爃てりて日夜別ひるよるわきだめ有り。)


⑴概略

 新羅をお討ちになられた翌年の春二月。皇后は、群卿及び百寮を率いて、穴門豐浦宮あなとのとようらのみやにお移りになられた。そうして(仲哀)天皇のお遺骸を納め、海路よりみやこに向かわれた。その時、麛坂王かごさかのみこ忍熊王おしくまのみこが天皇が御崩おかくれになり、また皇后が西方を討ち、そして皇子が新らしくお生まれになったと聞き、密かに謀をして

「今、皇后のみこが居ます、群臣まへつきみは皆従っている。必ず協議して幼さないみこを立てるだろう。吾等は何ぜ兄であるのに弟に従うことが出来ようか」と仰せられた。


 そこで天皇のためみささぎを作ると偽りを言い、播磨にやってきて山陵みささぎを赤石に建てた。そしてふねを編成して淡路嶋あはぢのしまに渡り、その島の石を運んで造った。その時、人ごとに武器を持たせて皇后を待伏せしようとした。是に犬上君いぬかみのきみの先祖である倉見別くらみわけと、吉師きしの先祖である五十狹茅宿禰いさちのすくねと共に麛坂王かごさかのみこに付き従った。そこで、將軍いくさのきみとして東國あづまのくにの兵を起こさせた。その時、麛坂王かごさかのみこと、忍熊王おしくまのみこは共に菟餓野とがぬを出て、祈狩うけいがりして、〈祈狩、此をウケヒガリと言う。〉

「もし事を成就することが出来れば、必ず良い獣が獲れるだろう」と仰せられた。


 二人の王は各々、桟敷に居られた。赤い猪が急に出てきて、桟敷に登ると、麛坂王かごさかのみこを喰い殺してしまった。兵士たちは悉く怖気づいた。忍熊王おしくまのみこは、倉見別くらみわけに、

「これはたいへん不吉な前兆である。ここで敵を待つべきではない」と仰せられた。


 そこで軍勢を率いて退却し、住吉すみのえ(摂津国住吉郡、現在の大阪市住吉区)に駐屯した。その時、皇后は忍熊王おしくまのみこが挙兵して待ち伏せしていると聞き、武内宿禰たけしうちのすくねに命じ、皇子すめらみこを抱いて、迂回して南海より出て紀伊水門きのくにのみなとに停泊させた。皇后の御船は直に難波を目指された。その時、皇后の御船は海中で廻り、進むことが出来なかった。更に務古水門むこのみなとに帰られて、占われた。これに天照大神あまてらすおほみかみがお教えし、

「我が荒魂あらみたまを皇居のみもとに近づけてはならない。廣田國ひろたのくに(摂津国武庫郡広田神社の地、現在の兵庫県西宮市)におらしめなければならない」と仰せられた。


 そこで山背根子やましろのねこの娘の葉山媛はやまひめにお祭りをさせた。また、稚日女尊わかひめのみことがお教えして、

「吾れは活田いくたの長峽國ながをのくに(摂津国八部郡生田神社の地、現在の神戸市中央区)に居りたい」と仰せられた。


 そこで海上五十狹茅うなかみのいさちにお祭りをさせた。また、事代主尊ことしろぬしのみことがお教えして、

「吾を御心長田國みこころのながたのくに(摂津国八部郡長田神社の地、現在の神戸市長田区)に祠れ」と仰せられた。


 そこで葉山媛はやまひめの妹の長媛ながひめにお祭りをさせた。また、表筒男うはつつのを中筒男なかつつのを底筒男そこつつのを、三は柱の神がお教えして、

「吾が和魂にきみたまを大津の渟中倉ぬなくら長峽ながを(現在の神戸市住吉市)におらしめなさい。そこで往来するふねを見守りたい」と言われた。


 そこで神の教えのままに、鎭坐申し上げると、平安に海を渡る事がお出来になった。


 忍熊王おしくまのみこはまた軍勢を率いて退き、菟道うじに到って駐屯した。皇后は南の方の紀伊國きのくにに至られて、太子ひつぎのみこ日高ひたか(現在の和歌山県日高郡)にお会いになられた。群臣とおはかりになられて、遂に忍熊王おしくまのみこを攻めようと思い、更に小竹宮しぬのみやにおうつりになられた。〈小竹。これをシヌと言う。〉


 この時に、昼が夜の如く暗くなり、多くの日数を経ていた。時の人が「常夜を行く」と言ったという。皇后は、紀直きのあたひの先祖である豐耳とよみみにお尋ねになって

「この不吉な現象の理由は何だ」と仰せられた。


 この時に一人の老父が居て、「伝え聞くことによれば、この様な不吉な前兆を阿豆那此あつなひの罪と言います」と答えた。


「如何いう意味だ」とお尋ねになると。

「二つの神社のはふりを一緒にに合葬したのではありませんか」と答えた。


 そこで問わしめたら、巷里むらに一人の人が居て、

小竹祝しぬのはふり天野祝あまののはふりは共に良い友人でした。小竹祝しぬのはふりは病にかかり死にました。天野祝あまののはふりは血涙を流して、『吾れは生けるとき良き友でした。如何して死んだあとに墓穴を同じにしないことがあろうか』といって、すぐに屍の側に伏して自殺しました。そこで合葬しましたが、おそらくそれでありましょう」と言った。


 そこで墓を開いてみると本当だったので、ひつぎを改めて、それぞれ別の場所に埋葬した。そうしたら、日の光が輝いて、日夜が別になった。



⑵『日本書紀』巻九神功皇后摂政元年(辛巳二〇一)三月 庚子五日

三月丙申朔庚子。命武内宿禰。和珥臣祖武振熊。率數萬衆。令撃忍熊王。爰武内宿禰等選精兵。從山背出之。至菟道以屯河北。忍熊王出營欲戰。時有熊之凝者。爲忍熊王軍之先鋒。〈熊之凝者。葛野城首之祖也。一云。多呉吉師之遠祖也。〉則欲勸己衆。因以高唱之歌曰。烏智箇多能。阿邏々麻菟麼邏。摩菟麼邏珥。和多利喩祇氐。菟區喩彌珥。末利椰塢多具陪。宇摩比等破。于摩譬苔奴知野。伊徒姑播茂。伊徒姑奴池。伊裝阿波那和例波。多摩岐波屡。于池能阿層餓波邏濃知波。異佐誤阿例椰。伊裝阿波那和例波。時武内宿禰令三軍悉令椎結。因以號令曰。各儲弦藏于髮中。且佩木刀。既而擧皇后之命。誘忍熊王曰。吾勿貧天下。唯懷幼王從君王者也。豈有距戰耶。願共絶弦。捨兵與連和焉。然則君王登天業以安席高枕專制萬機。則顯令軍中。悉斷弦解刀。投於河水。忍熊王信其誘言。悉令軍衆。解兵投河水。而斷弦。爰武内宿禰令三軍。出儲弦更張。以佩眞刀。度河而進之。忍熊王知被欺。謂倉見別。五十狹茅宿禰曰。吾既被欺。今無儲兵。豈可得戰乎。曳兵稍退。武内宿禰出精兵而追之。適遇于逢坂以破。故號其處曰逢坂也。軍衆走之。及于狹狹浪栗林而多斬。於是。血流溢栗林。故惡是事至于今。其栗林之菓不進御所也。忍熊王逃無所入。則喚五十狹茅宿禰。而歌之曰。伊裝阿藝。伊佐智須區禰。多摩枳波屡。于知能阿曾餓。勾夫菟智能。伊多氐於破孺破。珥倍廼利能。介豆岐齊奈。則共沈瀬田濟而死之。于時武内宿禰歌之曰。阿布彌能彌。齊多能和多利珥。伽豆區苔利。梅珥志彌曳泥麼。異枳廼倍呂之茂。於是探其屍而不得也。然後。數日之出於菟道河。武内宿禰亦歌曰。阿布瀰能瀰。齊多能和多利珥。介豆區苔利。多那伽瀰須疑弖。于泥珥等邏倍菟。


三月やよひの丙申ひのえのさるの朔庚子ついたちかのえのねのひ。武内宿禰、和珥臣わにのおみおや武振熊たけふるくまに命せて、數萬よろづあまりいくさを率ゐて忍熊王を撃たしむ。爰に武内宿禰たけしうちのすくね精兵ときつはものを選びて山背より出で、菟道に至りて以て河の北にいはむ。忍熊王 いほりを出でて戰はむと欲す。時に熊之凝くまのこりといふ者有りて、忍熊王のいくさ先鋒さきる。〈熊之凝は葛野城かどののきのおびとおやなり。一に云ふ、多呉吉師たごきし遠祖とほつおやなり。〉則ち己がいくさすすめむと欲し、因りて以て高唱之おとたかく歌ひて曰く、


彼方ヲチカタノ、荒松原アラマツバラ松原マツバラニ、渡行ワタリユキテ、槻弓ツクユミニ、鳴箭令副マリヤヲタグヘ、貴人ウマヒトハ、貴人共ウマヒトドチヤ、従兄弟イトハコモ、従兄弟共イトコドチ率遇我イザアハナワレハ、タマキハル、宇治朝臣ウヂノアソガ、腹内ハラヌチハ、砂有イサゴアレヤ、率遇我イザアハナワレハ。


 時に武内宿禰、三軍みたむろのいくさのりごとしてことごとく椎結かみあげせしむ。因りて以て號令のりこちて曰く、

おのおの儲弦をさゆづるを以てたきふさの中にをさめ、木刀こだちけ」


 既にして皇后の命をのたまひあげて、忍熊王ををこづりて曰く、

「吾れ天下あめのしたむさぶらず、ただ幼きみこうたきて君王きみたちに從はむ。豈距あにほせぎ戰ふこと有らむや。願はくは共にゆづるを絶ち、兵を捨てとも連和うるはしからむ。しからば則ち君王きみ登天業あまつひつぎしらして、以てみましに安く枕を高くして、たうめ萬機制よろづのまちりごとしらせ」


 則ちあきらか軍中みいくさのなかのりごとして、ことごとくに弦を斷ち刀を解きて、河水かはに投げいる。忍熊王其の誘言をこつりことけて、悉に軍衆いくさびとのりごとして、兵を解きて河水に投げて弦を斷たしむ。爰に武内宿禰 三軍みたむろのいくさのりごとして、儲弦をさゆづるを出し更に張りて、以て眞刀まかたちを佩き、河を度りて進む。忍熊王欺かれたることを知りて、倉見別くらみわけ五十狹茅宿禰いさちのすくねかたりて曰く、

「吾れ既に欺かれぬ。今 まうけの兵無し。あにたたかひ得べけむや」

といひて、兵をきてややに退く。武内宿禰たけしうちのすくね精兵ときつはものを出して追ふ。たまたま逢坂あふさかに遇ひて以て破る。故に其のところなづけて逢坂あふさかと曰ふなり。軍衆いくさびとぐ。狹狹浪栗林ささなみのくるすおひつきてさはに斬りつ。是に血流れて栗林にく。故れ是の事をにくみて今に至るまで、其の栗林くるす菓御所このみおものに進らず。忍熊王逃げてかくるる所無し。則ち五十狹茅宿禰を喚びて歌ひて曰く、


率吾君イザアキ五十狹茅宿禰イサチスクネ、タマキハル、内朝臣ウチノアソガ、頭槌カブツチノ、痛手不負イタデオハズハ、鳰鳥ニホドリノ、潜爲カツキセナ


 則ち共に瀬田濟せたのわたりに沈みて死りぬ。時に武内宿禰歌ひて曰く、


淡海海アフミノミ瀬田渡セタノワタリニ、潜鳥カツクトリ目不見メニミシエネバ、イキトホロシモ。


是に於て其のかばねけども得ず。然してのち數日ひへて菟道河うぢがはに出でたり。武内宿禰 また歌ひて曰く。


淡海海アフミノミ瀬田渡セタノワタリニ、潜鳥カツクトリ田上過タカミスギテ、菟道ウチトラヘツ。)


⑵概略

 三月五日。武内宿禰と和珥臣わにのおみの祖の武振熊たけふるくまに命じて、数万の軍を率いさせて忍熊王を撃たそうとした。ここに武内宿禰たけしうちのすくね等は精兵を選んで山背に進出し、菟道に至り河の北に駐屯した。忍熊王は陣営を出て戦おうとした。この時に熊之凝くまのこりと言う者が有り、忍熊王の軍の先鋒となった。〈熊之凝は葛野城かどののきのおびとの祖である。一説には、多呉吉師たごきしの遠祖であるという。〉そのとき、自分の軍勢を鼓舞しようして、声高らかに歌を詠んで、


彼方をちかたの、あら松原まつばらに、松原まつばらに、渡り行きて、槻弓つくゆみに、まり矢をたぐへ、貴人うまひとは、貴人うまひとどちや、従兄弟いとこはも、従兄弟どち、いざはな、たまきはる、宇治朝臣うちのあそが、腹内はらぬちは、小石いさごあれや、いざはな、我は。


(遠方の松の疎林に進んで行って、槻弓に鏑矢をつがえ、貴人は貴人同士、親友は親友同士、さあ闘おう。我々は武内朝臣の腹の中には、小石が詰まっているはずがない)


 その時、武内宿禰は全軍に命令をして、みな髪をつちのような形に結わせ、そして号令を発して、

「各々、控えの弓づるを髮に隠し、また木刀を佩刀せよ」

と言った。


 こうして皇后の命令を宣揚して、忍熊王を欺いて、

「私は天下あめのしたをむさぼろうとしてはおりません、ただ、幼い王子をいだいて君王(忍熊王)に従おうとしているだけです。どうして防戦する事がありましょうか。願はくば、共に弓づるを絶ち、武器を捨てて共に連合して和解しましょう。こうしてから、ただちに君王は皇位に登られて、安んじてその地位におられ、帝王のよろずのまつりごとを独断でおとり下さい」

と言った。


 そして、はっきりと軍の中に命令をして、ことごとくに弓づるを切り、刀を解いて、河の中に投げいれた。忍熊王はその欺きの言葉を信じて、軍衆全員に命令して、武器を解いて河の中に投げいれて、弓づるを切らせた。ここに武内宿禰は全軍に命令して、控えの弓づるを出して改めて張らせ、真刀を佩いて、河を渡って進軍した。忍熊王は欺かれたことを知り、倉見別くらみわけ五十狹茅宿禰いさちのすくねに語って、

「私は欺かれてしまった。今は控えの武器も無い。どうして戦うことが出来ようか」

と言い、兵を率いて次第に退却した。武内宿禰たけしうちのすくねは精兵を出して追い、近江の逢坂おうさかの地で遭遇して撃破した。そこで、その場所を名付けて逢坂と言う。軍衆は逃走し、狹狹浪ささなみ栗林くるす(近江国滋賀郡粟津の栗栖、現在の滋賀県大津市膳所)で追いつき、多くを斬り殺した。ここに血が流れて栗林に満ち溢れた。そこで、この事を不快に思い今に至るまで、その栗林の木の実は御所に進上させていない。忍熊は逃げて隠れる場所もなく。五十狹茅宿禰を呼び、歌を詠んだ。


いざ吾君あき五十狹茅宿禰いさちのくすね、たまきはる、内朝臣うちのあそが、頭槌かぶつちの、痛手いたで負わずば、鳰鳥におどりの、かづきせな

(さあ、わが君、五十狹茅宿禰よ。内朝臣(武内宿禰)の、手痛い攻撃を身に受けずに、鳰鳥のように水に潜って死のう)


 そうして、共に瀬田の渡に沈んで死んだ。その時、武内宿禰が歌い詠んで、


淡海あふみの海、瀬田のわたりに、潜鳥かつくとり、目に見しえねば、いきどおろしも

淡海あふみの海の瀬田の渡で、水に潜った鳥が見当たらなくなったので、不安だ)


 ところで、その屍を探しても見つからず。こうして後、日数がたってから、菟道河で発見された。武内宿禰はまた歌い詠んだ。


淡海の海、瀬田の渡に、潜鳥かつくとり田上過たかみすぎて、菟道にとらえ

(淡海の海で、瀬田の渡で、水に潜った鳥は、田上(近江国栗田郡上田上村・田上村。現在の大津市田上関津町付近から栗田郡瀬田町桐生付近にかけての地付近)を過ぎて、菟道で捕えた)



◇⑴⑵解説

 神功皇后が新羅征討後、穴門豐浦宮あなとのとようらのみやに移り、仲哀天皇の遺骸を葬った後、麛坂王かごさかのみこ忍熊王おしくまのみこが謀反を起こしますが、祈狩うけいがり中に麛坂王かごさかのみこは猪に喰い殺され、忍熊王は退却を余儀なくされます。これに対し武内宿禰等は計略で降伏を偽り、反乱軍を撃退するという筋です。過去の稿で見て来た争乱や、日本武尊が行った手段を思い起こせば、最早善意を利用した武内宿禰の計略が卑怯だとすら感じなくなっている自分が居ます(苦笑)。


 なお、『古事記』にも同様の話が伝わっている為、記紀共通の資料として『旧辞』が利用されていることが伺えますが、『日本書紀』の方が詳細を伝えており、二つの神社のはふりの伝承などは書かれておらず、武内宿禰の歌も若干異なっている為、本話に関しては『古事記』の方がより『旧辞』本来の伝承に近い形で描かれているのかと思われます。


 本話は神功皇后―応神天皇親子側からの視点となりますが、麛坂王・忍熊王にも皇位継承権があり、視点を変えれば大中姫―麛坂王・忍熊王側との皇位継承争いとなります。こうしてみれば互いに皇位継承権を持つ同士、一見対等な立場と言えますが、祈狩で麛坂王が殺された忍熊王陣営は神から見放されており、逆に神々の教えに従い祀った後、小竹宮で「常夜を行く」現象を合葬された二つの神社のはふりを別々に葬る事で解決した神功陣営は、その事により暗に神の加護を得られたことを指し、皇位継承が正当化されていると解釈出来るのかも知れません。


 この話や前段の新羅征討などの記事をひっくるめて、直木孝次郎氏は七世紀の女帝らの時代に「伝説の主要部分」が形成されたと考え、斉明朝の百済の役が神功紀の新羅征討、持統天皇のもとでの草壁皇子と大津皇子らの対立が本話のモチーフ成立に大きな影響を与えたと主張しています。⑶


 直木氏は他にも似ても似つかない日本武尊のことも無理矢理大津皇子と結び付けたりしていますが、後世の人物を古い時代の人物に当て嵌め、少しでも共通点を見出せれば、古い人物を架空の存在とみなすのは歴史学者の一般的に浸透した手法悪癖になっています。この点は過去に取り上げた物部十千根のように、明らかに後世の人物と被る場合はケースバイケースで認めても良いかと思いますが、それは程度にもよります。


 各地の『風土記』をはじめとした古文献や神社に多くの伝承を残すのみならず、『日本書紀』からある程度史実性が認められる記述が神功紀から始まること、奈良県御所市で行われた南郷遺跡群や秋津遺跡の発掘調査から、神功紀の記事が単なる伝承とは済まされない知見も得られていること等からすれば、神功の実在性や事績の全てを否定しうるものでは無いかと思われます。


 本話に関しても伝説色が強いですが、仲哀天皇死後の権力の空白期に、麛坂王と忍熊王のモチーフにあたる皇族の人物が、その座を狙い反乱を起こす可能性は充分有り得るかと思います。


 又、過去の稿で触れた様に、王権初期の帝位は末子相続が行われていたようですが、本文の「吾等何以兄從弟乎」、つまり「何故兄が弟に従わなければならないのか」という文は儒教思想から来ているものらしく⑷、伝統的な末子相続を基本とした古い価値観と、儒教を取り入れた当時からすれば新しい価値観の衝突も見て取れ、結局は守旧派が勝利した結末を伝えているのかのようにも見えます。



◇王朝交代の事実を伝えるのか?

 応神誕生譚や本話の二人の王の乱に関して、井上光貞氏は応神天皇の系図を景行―五百城入彦―品陀真若の子仲姫がめとった古い形の系譜が存在したと考え、外から入って皇統を継いだという観点に立つと、四世紀中葉―五世紀初頭の朝鮮経営の中で出現した一つの新しい王権の始祖であり、旧辞又は記紀はそれ故に神秘化し、旧辞又は帝紀は、この事実を隠蔽するばかりではなく、応神の出現を荘厳化するためにも、玄界灘の海神の祭儀における若神の誕生としてその出生を語ろうとしたのではないだろうかとし、応神が筑紫で生まれ、朝廷の二王を倒して皇位につくという話も、決して「物語」の付加的な部分ではなく、であるとみることができる⑸。と仮説として私説をかかげ、言い換えるならば、王朝交代説の立場を取れば事実を伝えている可能性を示唆しました。


 井上氏の様に勝手に系譜を弄ってしまえば、幾らでも都合が良い系譜が創作が可能な為、一体どちらが信用できないのかと言いたくもなりますが、勝手に天皇を削ったりする王朝交代説の論者の主張などをみると、この様な強引な手法も結構受け入れられていたようです。


 仮に王朝交代説の立場を取ったとすれば、井上氏が示唆する様に史実が含まれる可能性があるものの、王朝交代説は現在否定されています。(その事に関しては次稿で解説予定です。)そもそも神功皇后の伝説自体が七世紀に創作された物であり、その伝説を根拠に史実性を語るのは意味がないと現在の歴史学者は考えているのではないでしょうか。


 個人的には、王朝交代説などとは無関係に、記紀が伝える皇族間の争いの記事が多いことは、皇位継承のルールが定まる以前は実際に争乱が多かった事実を伝えているかと思いますし、日本に限らず何処の国の王権でも普遍的に行われていた事かと思いますが、どの時代の記事から認めればよいのか困難な面があります。そう言った意味では史実性を認めるのは現状では不可能と言わざるを得ないのでしょうか。


 以上で、「大和王権初期の争乱」に関しては締めくくりますが、本稿で王朝交代説を取り上げたので、次稿では今更ながら、王朝交代説の簡単な説明とそれに対する歴史学者の見解と私説を踏まえた批判を行います。古い本では王朝交代説に対して肯定的に捉える見解も散見し、それらを根拠にネット上では未だに支持している人も多いのですが、下手に信じ込むとキチンと歴史を学んだ方からは常識を疑われますので、宜しければ引き続きご覧ください。



◇おまけ。忍熊王は生きていた?

 余談ですが、近江国で入水したと伝わる忍熊王は実は生き延びていたという話も伝わっています。織田信長の祖先の故郷である福井県丹生郡越前町織田金栄山に存在する越前二の宮 劔神社に伝わる、鎌倉時代後期に書かれた『劔大明神略縁起』〈嘉歴3年(1328)〉によればこの地に逃れて来た忍熊王は劔大神の御神威を頂き、賊退治を行い当地方を治めることができたことを感謝し、現在の地に社を建て〝劔大明神〟と仰いできたことを伝えています⑹。


 伝承の詳細は以下になります。

・「越前二の宮 劔神社Webサイト」より劔神社の創祀

https://www.tsurugi-jinja.jp/%E5%8A%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E6%B2%BF%E9%9D%A9%E5%8F%B2/


 まぁ、ハッキリ言って義経生存=チンギス・カン説。明智光秀生存=天海説と同類のトンデモ伝承と捉えるべきでしょうか。内容が余りにも説話的過ぎますし、根拠とする『劔大明神略縁起』自体が鎌倉時代後期の伝承なので史実性は皆無としか言いようがありませんし、そもそも肝心な忍熊王の反乱の史実性が神功皇后の伝説の一環なので怪しいという歴史学会の一般的な認識からすれば論ずるに値しないと言ったところでしょうが、越前の神社にこの様な伝承が存在する理由を想像逞しくして考えれば、敗れた忍熊王、あるいは戦死した忍熊王の一族がこの地に逃れ、この地に根付いた可能性を考えるのも面白いかも知れません。もっとも、一時期アマチュア史家の間で流行した神社伝承を記紀よりも信用し、古代史を探る様な手法はとても学術的な内容とは言えないので、それを擬える様な事は極力避けるべきですが……。


 他にも飯田武郷の『日本書紀通釈』巻之三十五によれば「此王の墓を摂津志に。河邊郡中山寺村(兵庫県宝塚市中山寺)。後荒墳。曰鍵墳。相傳忍熊之墓。」⑺とありますが、何故この地にその様に伝わっているのかは寡聞にして知りません。



*追記

 神功皇后の実在性に関し、近年の考古学的な知見によると、奈良県磯城郡川西町唐院にある島の山古墳が四世紀後半に築造されたことを想定とし、葛城氏一族出身とみなされる被葬者を記紀に求めると、『日本書紀』の神功皇后の母である葛城高顙媛かつらぎたかぬかひめが有力候補とされ、これは神功皇后の意志によって母の出身地の葛城の地に埋葬された可能性も考えられ、島の山古墳の前方部にみる大量の宝器的な石製腕飾類の配列は、葛城氏の出身ながら、社会的に地位が高くなかった母の高顙媛に対し、葬送儀礼を権威づけ、しかも参列者に神功皇后自身がもつ権力を誇示したという見方もあり、神功の記述に関しては旧辞と帝紀を厳密に区別して考えるべきだという考え方から、神功皇后の実在を認め得る意見も存在します。




◇参考文献

⑴⑵『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/91


⑶⑸『日本書紀㈡』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

389ページ 補注1


⑷『日本書紀㈡』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

159ページ 注8


⑹「越前二の宮 劔神社」Webサイト

https://www.tsurugi-jinja.jp/yuisho/


⑺『日本書紀通釈 第3 増補正訓』飯田武郷 日本書紀通釈刊行会

https://dl.ndl.go.jp/pid/1115832/1/263


*追記

『古代豪族葛城氏と大古墳』小笠原好彦 吉川弘文館 107-111頁

「五 葛城襲津彦より前に築造された大型首長墳と被葬者 神功皇后は実在したか」

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