大和王権初期の争乱④ 王朝交代の事実か? 麛坂王。忍熊王の乱
ここまで、記紀が伝える大和王権初期の争乱(帝位を巡る争い)を見てきましたが、どの時期までを「初期」と定義すべきか恐らく議論が分かれる事かと思います。そこで、仮に王朝交代説の主張する「古王朝」の次の「中王朝」との狭間にあたる神功皇后の時代までを「大和王権初期」と定義し、「大和王権初期の争乱」に関しては本稿で締めくくらせて頂きたいと思います。実際、本稿の話は王朝交代説の根拠として取り上げられやすい話なのでご覧ください。
⑴『日本書紀』巻九神功皇后摂政元年(辛巳二〇一)二月
爰伐新羅之明年春二月。皇后領群卿及百寮。移于穴門豐浦宮。即收天皇之喪。從海路以向京。時麛坂王。忍熊王。聞天皇崩。亦皇后西征并皇子新生。而密謀之曰。今皇后有子。群臣皆從焉。必共議之立幼主。吾等何以兄從弟乎。乃詳爲天皇作陵。詣播磨興山陵於赤石。仍編船絙于淡路嶋。運其嶋石而造之。則毎人令取丘而待皇后。於是犬上君祖倉見別。與吉師祖五十狹茅宿禰。共隷于麛坂王。因以爲將軍。令興東國兵。時麛坂王。忍熊王。共出菟餓野。而祈狩之曰。〈祈狩。此云于氣比餓利。〉若有成事。必獲良獸也。二王各居假庪。赤猪忽出之登假庪。咋麛坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰。是事大怪也。於此不可待敵。則引軍更返屯於住吉。時皇后聞忍熊王起師以待之。命武内宿禰懷皇子。横出南海泊于紀伊水門。皇后之船直指難波。于時皇后之船廻於海中以不能進。更還務古水門而卜之。於是天照大神誨之曰。我之荒魂不可近皇居。當居御心廣田國。即以山背根子之女葉山媛令祭。亦稚日女尊誨之曰。吾欲居活田長峽國。因以海上五十狹茅令祭。亦事代主尊誨之曰。祠吾于御心長田國。則以葉山媛之弟長媛令祭。亦表筒男。中筒男。底筒男。三神誨之曰。吾和魂宜居大津渟中倉之長峽。便因看徃來船。於是隨神教以鎭坐焉。則平得度海。忍熊王復引軍退之。到菟道而軍之。皇后南詣紀伊國。會太子於日高。以議及群臣。遂欲攻忍熊王。更遷小竹宮。〈小竹。此云之努。〉適是時也。晝暗如夜。已經多日。時人曰。常夜行之也。皇后問紀直祖豐耳曰。是恠何由矣。時有一老父曰。傳聞。如是恠謂阿豆那此之罪也。問。何謂也。對曰。二社祝者共合葬歟。因以令推問。巷里有一人曰。小竹祝與天野祝共爲善友。小竹祝逢病而死之。天野祝血泣曰。吾也生爲交友。何死之無同穴乎。則伏屍側而自死。仍合葬焉。蓋是之乎。乃開墓視之實也。故更改棺櫬。各異處以埋之。則日暉炳爃、日夜有別。
(
⑴概略
新羅をお討ちになられた翌年の春二月。皇后は、群卿及び百寮を率いて、
「今、皇后の
そこで天皇の
「もし事を成就することが出来れば、必ず良い獣が獲れるだろう」と仰せられた。
二人の王は各々、桟敷に居られた。赤い猪が急に出てきて、桟敷に登ると、
「これはたいへん不吉な前兆である。ここで敵を待つべきではない」と仰せられた。
そこで軍勢を率いて退却し、
「我が
そこで
「吾れは
そこで
「吾を
そこで
「吾が
そこで神の教えのままに、鎭坐申し上げると、平安に海を渡る事がお出来になった。
この時に、昼が夜の如く暗くなり、多くの日数を経ていた。時の人が「常夜を行く」と言ったという。皇后は、
「この不吉な現象の理由は何だ」と仰せられた。
この時に一人の老父が居て、「伝え聞くことによれば、この様な不吉な前兆を
「如何いう意味だ」とお尋ねになると。
「二つの神社の
そこで問わしめたら、
「
そこで墓を開いてみると本当だったので、
⑵『日本書紀』巻九神功皇后摂政元年(辛巳二〇一)三月
三月丙申朔庚子。命武内宿禰。和珥臣祖武振熊。率數萬衆。令撃忍熊王。爰武内宿禰等選精兵。從山背出之。至菟道以屯河北。忍熊王出營欲戰。時有熊之凝者。爲忍熊王軍之先鋒。〈熊之凝者。葛野城首之祖也。一云。多呉吉師之遠祖也。〉則欲勸己衆。因以高唱之歌曰。烏智箇多能。阿邏々麻菟麼邏。摩菟麼邏珥。和多利喩祇氐。菟區喩彌珥。末利椰塢多具陪。宇摩比等破。于摩譬苔奴知野。伊徒姑播茂。伊徒姑奴池。伊裝阿波那和例波。多摩岐波屡。于池能阿層餓波邏濃知波。異佐誤阿例椰。伊裝阿波那和例波。時武内宿禰令三軍悉令椎結。因以號令曰。各儲弦藏于髮中。且佩木刀。既而擧皇后之命。誘忍熊王曰。吾勿貧天下。唯懷幼王從君王者也。豈有距戰耶。願共絶弦。捨兵與連和焉。然則君王登天業以安席高枕專制萬機。則顯令軍中。悉斷弦解刀。投於河水。忍熊王信其誘言。悉令軍衆。解兵投河水。而斷弦。爰武内宿禰令三軍。出儲弦更張。以佩眞刀。度河而進之。忍熊王知被欺。謂倉見別。五十狹茅宿禰曰。吾既被欺。今無儲兵。豈可得戰乎。曳兵稍退。武内宿禰出精兵而追之。適遇于逢坂以破。故號其處曰逢坂也。軍衆走之。及于狹狹浪栗林而多斬。於是。血流溢栗林。故惡是事至于今。其栗林之菓不進御所也。忍熊王逃無所入。則喚五十狹茅宿禰。而歌之曰。伊裝阿藝。伊佐智須區禰。多摩枳波屡。于知能阿曾餓。勾夫菟智能。伊多氐於破孺破。珥倍廼利能。介豆岐齊奈。則共沈瀬田濟而死之。于時武内宿禰歌之曰。阿布彌能彌。齊多能和多利珥。伽豆區苔利。梅珥志彌曳泥麼。異枳廼倍呂之茂。於是探其屍而不得也。然後。數日之出於菟道河。武内宿禰亦歌曰。阿布瀰能瀰。齊多能和多利珥。介豆區苔利。多那伽瀰須疑弖。于泥珥等邏倍菟。
(
時に武内宿禰、
「
既にして皇后の命を
「吾れ
則ち
「吾れ既に欺かれぬ。今
といひて、兵を
則ち共に
是に於て其の
⑵概略
三月五日。武内宿禰と
(遠方の松の疎林に進んで行って、槻弓に鏑矢をつがえ、貴人は貴人同士、親友は親友同士、さあ闘おう。我々は武内朝臣の腹の中には、小石が詰まっているはずがない)
その時、武内宿禰は全軍に命令をして、みな髪を
「各々、控えの弓づるを髮に隠し、また木刀を佩刀せよ」
と言った。
こうして皇后の命令を宣揚して、忍熊王を欺いて、
「私は
と言った。
そして、はっきりと軍の中に命令をして、ことごとくに弓づるを切り、刀を解いて、河の中に投げいれた。忍熊王はその欺きの言葉を信じて、軍衆全員に命令して、武器を解いて河の中に投げいれて、弓づるを切らせた。ここに武内宿禰は全軍に命令して、控えの弓づるを出して改めて張らせ、真刀を佩いて、河を渡って進軍した。忍熊王は欺かれたことを知り、
「私は欺かれてしまった。今は控えの武器も無い。どうして戦うことが出来ようか」
と言い、兵を率いて次第に退却した。
いざ
(さあ、わが君、五十狹茅宿禰よ。内朝臣(武内宿禰)の、手痛い攻撃を身に受けずに、鳰鳥のように水に潜って死のう)
そうして、共に瀬田の渡に沈んで死んだ。その時、武内宿禰が歌い詠んで、
(
ところで、その屍を探しても見つからず。こうして後、日数がたってから、菟道河で発見された。武内宿禰はまた歌い詠んだ。
淡海の海、瀬田の渡に、
(淡海の海で、瀬田の渡で、水に潜った鳥は、田上(近江国栗田郡上田上村・田上村。現在の大津市田上関津町付近から栗田郡瀬田町桐生付近にかけての地付近)を過ぎて、菟道で捕えた)
◇⑴⑵解説
神功皇后が新羅征討後、
なお、『古事記』にも同様の話が伝わっている為、記紀共通の資料として『旧辞』が利用されていることが伺えますが、『日本書紀』の方が詳細を伝えており、二つの神社の
本話は神功皇后―応神天皇親子側からの視点となりますが、麛坂王・忍熊王にも皇位継承権があり、視点を変えれば大中姫―麛坂王・忍熊王側との皇位継承争いとなります。こうしてみれば互いに皇位継承権を持つ同士、一見対等な立場と言えますが、祈狩で麛坂王が殺された忍熊王陣営は神から見放されており、逆に神々の教えに従い祀った後、小竹宮で「常夜を行く」現象を合葬された二つの神社の
この話や前段の新羅征討などの記事をひっくるめて、直木孝次郎氏は七世紀の女帝らの時代に「伝説の主要部分」が形成されたと考え、斉明朝の百済の役が神功紀の新羅征討、持統天皇のもとでの草壁皇子と大津皇子らの対立が本話のモチーフ成立に大きな影響を与えたと主張しています。⑶
直木氏は他にも似ても似つかない日本武尊のことも無理矢理大津皇子と結び付けたりしていますが、後世の人物を古い時代の人物に当て嵌め、少しでも共通点を見出せれば、古い人物を架空の存在とみなすのは歴史学者の一般的に浸透した
各地の『風土記』をはじめとした古文献や神社に多くの伝承を残すのみならず、『日本書紀』からある程度史実性が認められる記述が神功紀から始まること、奈良県御所市で行われた南郷遺跡群や秋津遺跡の発掘調査から、神功紀の記事が単なる伝承とは済まされない知見も得られていること等からすれば、神功の実在性や事績の全てを否定しうるものでは無いかと思われます。
本話に関しても伝説色が強いですが、仲哀天皇死後の権力の空白期に、麛坂王と忍熊王のモチーフにあたる皇族の人物が、その座を狙い反乱を起こす可能性は充分有り得るかと思います。
又、過去の稿で触れた様に、王権初期の帝位は末子相続が行われていたようですが、本文の「吾等何以兄從弟乎」、つまり「何故兄が弟に従わなければならないのか」という文は儒教思想から来ているものらしく⑷、伝統的な末子相続を基本とした古い価値観と、儒教を取り入れた当時からすれば新しい価値観の衝突も見て取れ、結局は守旧派が勝利した結末を伝えているのかのようにも見えます。
◇王朝交代の事実を伝えるのか?
応神誕生譚や本話の二人の王の乱に関して、井上光貞氏は応神天皇の系図を景行―五百城入彦―品陀真若の子仲姫がめとった古い形の系譜が存在したと考え、外から入って皇統を継いだという観点に立つと、四世紀中葉―五世紀初頭の朝鮮経営の中で出現した一つの新しい王権の始祖であり、旧辞又は記紀はそれ故に神秘化し、旧辞又は帝紀は、この事実を隠蔽するばかりではなく、応神の出現を荘厳化するためにも、玄界灘の海神の祭儀における若神の誕生としてその出生を語ろうとしたのではないだろうかとし、応神が筑紫で生まれ、朝廷の二王を倒して皇位につくという話も、決して「物語」の付加的な部分ではなく、却って本質的な要素であるとみることができる⑸。と仮説として私説をかかげ、言い換えるならば、王朝交代説の立場を取れば事実を伝えている可能性を示唆しました。
井上氏の様に勝手に系譜を弄ってしまえば、幾らでも都合が良い系譜が創作が可能な為、一体どちらが信用できないのかと言いたくもなりますが、勝手に天皇を削ったりする王朝交代説の論者の主張などをみると、この様な強引な手法も結構受け入れられていたようです。
仮に王朝交代説の立場を取ったとすれば、井上氏が示唆する様に史実が含まれる可能性があるものの、王朝交代説は現在否定されています。(その事に関しては次稿で解説予定です。)そもそも神功皇后の伝説自体が七世紀に創作された物であり、その伝説を根拠に史実性を語るのは意味がないと現在の歴史学者は考えているのではないでしょうか。
個人的には、王朝交代説などとは無関係に、記紀が伝える皇族間の争いの記事が多いことは、皇位継承のルールが定まる以前は実際に争乱が多かった事実を伝えているかと思いますし、日本に限らず何処の国の王権でも普遍的に行われていた事かと思いますが、どの時代の記事から認めればよいのか困難な面があります。そう言った意味では史実性を認めるのは現状では不可能と言わざるを得ないのでしょうか。
以上で、「大和王権初期の争乱」に関しては締めくくりますが、本稿で王朝交代説を取り上げたので、次稿では今更ながら、王朝交代説の簡単な説明とそれに対する歴史学者の見解と私説を踏まえた批判を行います。古い本では王朝交代説に対して肯定的に捉える見解も散見し、それらを根拠にネット上では未だに支持している人も多いのですが、下手に信じ込むとキチンと歴史を学んだ方からは常識を疑われますので、宜しければ引き続きご覧ください。
◇おまけ。忍熊王は生きていた?
余談ですが、近江国で入水したと伝わる忍熊王は実は生き延びていたという話も伝わっています。織田信長の祖先の故郷である福井県丹生郡越前町織田金栄山に存在する越前二の宮 劔神社に伝わる、鎌倉時代後期に書かれた『劔大明神略縁起』〈嘉歴3年(1328)〉によればこの地に逃れて来た忍熊王は劔大神の御神威を頂き、賊退治を行い当地方を治めることができたことを感謝し、現在の地に社を建て〝劔大明神〟と仰いできたことを伝えています⑹。
伝承の詳細は以下になります。
・「越前二の宮 劔神社Webサイト」より劔神社の創祀
https://www.tsurugi-jinja.jp/%E5%8A%94%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E6%B2%BF%E9%9D%A9%E5%8F%B2/
まぁ、ハッキリ言って義経生存=チンギス・カン説。明智光秀生存=天海説と同類のトンデモ伝承と捉えるべきでしょうか。内容が余りにも説話的過ぎますし、根拠とする『劔大明神略縁起』自体が鎌倉時代後期の伝承なので史実性は皆無としか言いようがありませんし、そもそも肝心な忍熊王の反乱の史実性が神功皇后の伝説の一環なので怪しいという歴史学会の一般的な認識からすれば論ずるに値しないと言ったところでしょうが、越前の神社にこの様な伝承が存在する理由を想像逞しくして考えれば、敗れた忍熊王、あるいは戦死した忍熊王の一族がこの地に逃れ、この地に根付いた可能性を考えるのも面白いかも知れません。もっとも、一時期アマチュア史家の間で流行した神社伝承を記紀よりも信用し、古代史を探る様な手法はとても学術的な内容とは言えないので、それを擬える様な事は極力避けるべきですが……。
他にも飯田武郷の『日本書紀通釈』巻之三十五によれば「此王の墓を摂津志に。河邊郡中山寺村(兵庫県宝塚市中山寺)。後荒墳。曰鍵墳。相傳忍熊之墓。」⑺とありますが、何故この地にその様に伝わっているのかは寡聞にして知りません。
*追記
神功皇后の実在性に関し、近年の考古学的な知見によると、奈良県磯城郡川西町唐院にある島の山古墳が四世紀後半に築造されたことを想定とし、葛城氏一族出身とみなされる被葬者を記紀に求めると、『日本書紀』の神功皇后の母である
◇参考文献
⑴⑵『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編
https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/91
⑶⑸『日本書紀㈡』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫
389ページ 補注1
⑷『日本書紀㈡』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫
159ページ 注8
⑹「越前二の宮 劔神社」Webサイト
https://www.tsurugi-jinja.jp/yuisho/
⑺『日本書紀通釈 第3 増補正訓』飯田武郷 日本書紀通釈刊行会
https://dl.ndl.go.jp/pid/1115832/1/263
*追記
『古代豪族葛城氏と大古墳』小笠原好彦 吉川弘文館 107-111頁
「五 葛城襲津彦より前に築造された大型首長墳と被葬者 神功皇后は実在したか」
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