王朝交代説批判

オワコントンデモ学説。王朝交代説の趣旨と批判。

 騎馬民族説・九州王朝説と並ぶオワコントンデモ学説なので、今更感が拭えませんが、前稿で王朝交代説について少し取り上げましたので、折角なので本稿で詳しく見ていきましょう。



◇王朝交代説の概要

 王朝交代説とは主に江上波夫氏の騎馬民族説や応神天皇を日本の最初の天皇とみる林屋友次郎氏の『天皇制の歴史的根拠』(一九四六)に示唆をうけて、日本に古王朝・中王朝・新王朝の三つが存在したという水野裕氏の『日本古代王朝史論序説』(一九五二)の所謂「三王朝交代説」と、その影響を受けた〇〇王朝説という学説を指します。(但し、九州王朝説はこれに含まれない)


 三王朝交代説は「ネオ騎馬民族説」とも呼ばれ(もっとも水野氏はこの様な呼ばれ方を嫌い、江上氏の説も批判していましたが)、様々な識者にも影響を与え、井上光貞氏の『日本国家の起源』(一九六〇)、直木孝次郎氏の「応神王朝論序説」(『難波の宮址の研究』五、一九六四)といった著書や論文を発表され、「三輪王朝」(イリ王朝・崇神王朝)「河内王朝」(ワケ王朝・応神王朝)と言った王朝交代説が唱えられ、一時期流行しました。(なお、何故か文化人類学者の鳥越憲三郎氏による「葛城王朝説」も歴史学者の王朝交代説と一緒に取り上げられることが多いですが、主体が歴史学者が認めていない欠史八代を遡る内容が中心なので、他の王朝交代説とは全くの別物とみるべきです。)


 水野氏は他者の諸説も取り入れ、自説も変えているのですが、『大和王朝成立の秘密』⑴による最新の主張を纏めると以下になります。


①初代天皇神武から33代推古までの33人のうち、実在した天皇は16人に過ぎない。

神武から9代目開花天皇までの9人と、垂仁、景行、安康、清寧、顕宗、仁賢、武烈、宣化天皇は後世の人物により創作された。


②実在した16人の天皇に、木梨軽皇子、飯豊皇女を合わせた18人が存在し、朝廷を開いた最初の天皇は崇神天皇である。


③崇神、成務、仲哀天皇の3代が「古王朝」であり、かれらは呪教的権威によって支配した呪教的王朝といえる。


④続いて応神からはじまる「中王朝」が起った。かれらは九州に基盤を持ち、後に大和に東遷してきた。彼らは征服王朝である。


⑤飯豊皇女のときに中王朝が途絶えた。それが継体天皇にはじまる「新王朝」の起りである。


⑥中王朝は『魏志倭人伝』に出て来る狗奴国の流れを汲み、次第に巨大化すると、九州を押え大和まで進出した。それが神武東征の伝説のもとになったとする。


 この様な説を唱えました。因みに④の「中王朝」を王朝交代説論者が他の呼び方でいう「河内王朝」「ワケ王朝」に関しては前稿で取り上げた麛坂王・忍熊王の乱を主な根拠としています。説としてみると壮大でとても面白いものではありますし、確かに王朝を三段階に時代区分して別ければ③などはよく当時の王権の特徴を捉えている様にも思えますが、世界各国どこの王権にも初期にはよくある傾向といえますし、時の流れと共に宗教的統治から武力による統治への変遷は自然な現象かと思います。又、①②④⑤⑥に関しては記紀の文面を都合よく切り貼りし、推測の上に推測を重ねた空想としか思えません。実際、現在では学術的にも否定されており、殆ど支持されていません。以下に識者による批判と私説を上げてみます。



◇考古学的知見・歴史学者による批判

 ④や⑥に関しては四世紀後半に九州の勢力によって大和地方が制服されたということであり、これに従えば、日本の統一は四世紀後半にまで下げられることになりますが、これに関しては古くから考古学的な知見による批判があります。例えば京都府の大塚山古墳を中心として日本全国に同笵鏡が広く分布する事から三、四世紀に畿内を中心とした広範囲の政治的統合があったという小林行雄氏の主張⑵や、古墳の広がりを大和政権の支配下に設けられたカバネにもとづく身分秩序の拡大とみる西嶋定生氏の主張⑶の様に、考古資料を手掛かりに四世紀以前の統一の進展を評価する意見により否定し得ます。


 近年の考古学的な知見では、過去の稿(「邪馬台国畿内説による大和王権初期の王統譜について考古学的知見」)で述べました様に崇神天皇陵とされている行燈山古墳よりも以前に箸墓古墳、西殿塚古墳、外山茶臼山古墳、メスリ山古墳と言った王墓が造営されており(但し、メスリ山古墳に関しては王墓ではない可能性もある)、それらの王墓を誰に当てるのかは議論が分かれるとは言え、崇神天皇よりも以前の王墓が存在する事が現在の考古学的な知見では常識になっていることから、崇神を初代天皇とは言えない状況になっています。従って②の説は否定できます。


 又、④の中王朝説や河内王朝説の有力な批判として、門脇禎二氏は大和の勢力が河内地方へ進出し、河内平野の大開拓事業を主導した点を重視しています。縄文時代、河内平野は海であり、今の大阪城や大阪府庁がある上町台地は、北へ突出してその内側が大きな大阪湾になっており、この台地の先端が砂州状に発達して北へ延び、台地の内側にあたる部分が淡水化し、弥生時代初めには大きな湖になっていました。河内湖といって、湖の周辺はしだいに陸化して行き、この湖と周辺の低湿地の干拓による開拓事業が行われ、加えて、古市と百舌鳥の両古墳群のあるあたりから、更に南に広がる丘陵地帯でも灌漑工事を伴う開拓が進行され、これはヤマトの勢力によるものとみました。⑷


 門脇禎二氏に関しては蘇我氏渡来人説が有名で、これを平林章仁氏が『日本古代氏族研究叢書5 蘇我氏の研究』(雄山閣)で批判なさっており(この著書はお勧めなので是非とも読んで頂きたいです)、個人的にも色々と同意しかねる主張が多い方ですが、河内王朝説批判に関しては優れた見解だと思います。

 

 他にも、平野邦雄氏は河内王朝の成立を説く様な「王権の画期の意味を対外的契機による王権の質的変化にもとめて充分説明がつく」とし、「応神王朝」の場合も、河内に宮を定めたとあるのは応神王朝12代のうち、応神・仁徳・反正の三人のみであり、始祖的な応神であっても『古事記』では「河内大隅宮」を認めず、「大和軽島明宮やまとかるしまあきらのみや」とし、『日本書紀』でも天皇が崩じた宮を「明宮」とし、「ヤマトとカワチはかなり一体的に扱われている」ことを指摘なさっています。⑸


 或いは、識者によっては考古学的な観点から五世紀に王墓が大和から河内に移る事を根拠に王朝交代を唱える主張もありますが、これも両氏の説明で否定可能です。五世紀に河内が開拓され、海に繋がったことにより海外との交渉がしやすくなったことや、経済基盤が河内に傾いたことにより、大和の王が河内に王墓を造営することを選んだのでしょう。


 海外の使者が船から大阪湾に入る際、大仙陵古墳が見えたそうで、その大規模な王墓は使者を威圧する効果も狙ったものらしいですが、高句麗に敗れるという国際情勢の中、朝鮮半島における優位性を保つ為にも大和から河内への移転は必要に迫られていた事なのかも知れません。



◇他文献による批判

 ⑤に関しては王朝交代説論者は、継体天皇が中王朝の皇統とは無血縁にあると考え得るとし、越前から起った司祭王の一人が継体天皇として擁立され、新王朝が成立したと主張しました。継体天皇が応神天皇五世の孫という系譜が後世創作されたものであり、継体の大王位継承を正当化する為に、『日本書紀』では武烈を悪人、継体天皇を聖君とし、更に継体が大和入りするのが二十年遅れた事を継体天皇に反対する勢力が強かった為と主張しましたが、余りにも恣意的な資料の解読と言わざるを得ません。


 仮に記紀が信用できないという立場に立って他の文献から検討すれば、鎌倉時代に占部兼文と兼方父子のあらわした日本書紀の注釈書『釈日本紀』の巻第十三 述義九に引用されている推古朝ないし大化前代の遺文とされる『上宮記』に応神(凡牟都和希王)から継体天皇(乎富等大公王)に至る五代の系譜及び系図と、垂仁(伊久牟尼利比古大王)から継体天皇の母・布利比弥命に至る七代の系譜が書かれており⑹、この系譜を信じれば少なくても中王朝の応神と新王朝の継体の間で断絶が見受けられず、それどころか垂仁天皇の血を引く古王朝の子孫とも血縁を結んでいるのに、果たしてこれを⑤の主張する様な新王朝と呼べるのか疑問ですし、④も否定されます。


・『仮名源流考. 証本写真』より、『釈日本紀』引用『上宮記』逸文の継体天皇系図画像

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817330657541657512


 『日本書紀』には継体天皇の具体的な系譜が書かれておらず、かつてはその事を怪しむ識者も居たようですが、『日本書紀』には現在伝わっていない系図一巻が存在したので、恐らくそちらに詳細な系図が書かれていた為に継体天皇紀本文では省略されたに過ぎず、それは『上宮記』と同じ内容のものだったのでしょう。それに、『上宮記』が大化前代に書かれたものだとしても、継体朝から百年程度しか経ておらず、現代人が百年前の大正時代のことについて分からない事は然程無いことと同様とまではいかないとしても、当時の人からすれば一番の有名人といえる大王である継体の出自については当然周知の事実であり、極めて信憑性が高いものだったと思われます。従って⑤の主張は有り得ません。因みに凡牟都和希をホムダワケとは読めないので、垂仁天皇の息子ホムツワケと結び付けて読む解釈もありますが、仮にその説が正しいとしたら、却って古王朝との直接的な繋がりを認めてしまう事になります。


 更に言えば水野氏は①で垂仁天皇の存在を否定していますが、『上宮記』の様な記紀を遡る古い文献に登場するということは垂仁天皇の実在性は高く、水野氏が初代天皇と実在を主張する崇神天皇の方が、記紀を遡る文献では一切名が登場せず、寧ろ垂仁天皇よりも実在性が低くなると言わざるを得ないのではないかと個人的には思います。


 又、⑥の九州から派生した王権が大和王権を征服したという説を取るとしても、応神や仁徳と言った天皇の一代や二代でいきなり海外遠征が出来るとは思えません。景行天皇陵とみられている渋谷向山古墳という過去の王墓を上回る規模を誇る巨大古墳の存在から、①で否定された景行天皇も実在し、『日本書紀』にある様に大和王権はこの頃には実際に北九州にまで影響力を及ぼし、それにより朝鮮征討を行う下地が出来あがる事により巨大な力を有し始め、それが綿々と引き継がれ、神功以降の朝鮮討伐を可能にしたと考えれば、歴史の流れ的に不自然さはないと思います。



◇結論

 水野氏の①~⑥の王朝交代説に関する批判論を当方なりに纏めると以下になります。


①②に関しては考古学的な知見では崇神天皇以前の王墓も確認可能で、初代を崇神天皇とする説は否定し得る。また、垂仁天皇に関しては記紀を遡る文献『上宮記』にも登場する為、実在性が高い。景行に関しては渋谷向山古墳の規模からして、北九州を勢力下に置き、後の大王達が海外遠征を行う国力の地盤固めを行った実在の天皇である。


③に関してはその頃の特徴を言い当てているが、王朝交代とはあまり関係ない。宗教的な権威で治世を行っていたのが、時代の流れで王権の力が強くなるにつれ、王朝交代説論者が言う中王朝に当たる時期には武断的な性格が強くなって行ったただけかと思われ、それは世界中の原始王権が共通して経験する出来事である。


④⑥は大和王権の河内干拓事業による、大和の勢力が河内に進出した勢力基盤の移動の結果であり、それは九州勢力による征服などでは無いと否定し得る。又、畿内を中心として同笵鏡や古墳が全国に広がっているので、大和勢力による日本統一は四世紀以前に遡ることが想定される為、王朝交代説の主張する九州勢力による日本統一の想定時期を遡る。


⑤は『日本書紀』よりも古い文献であり信憑性も高いとされる『上宮記』により応神から継体天皇に至る系譜が確認可能であり、皇統の断絶など起こっていない。



 以上の様に、王朝交代説は破綻しており、今では支持する学者も殆どいませんが、三浦佑之氏の『口語訳 古事記』にも載っている為なのか、或いは直木孝次郎氏や井上光貞氏と言った大物までも王朝交代説を唱えていた為なのか、初学者が信じ込みやすい説となっており、ネット上では未だに支持者がおり、影響力も馬鹿に出来ないものであると思い本稿を記しました。


 何も王朝交代説や古代史研究に限りませんが、一つの論拠に対してそれだけで信じ込まず、先ずは疑ってかかり、肯定・否定の両説を知り、自分でも出来得る限り資料性の高い関連文献(今回の場合は『上宮記』)を調べるなど、多角的な視野から事実を探っていく姿勢が重要かと思います。



◇おまけ。古代王朝交代説批判論の中にもトンデモがあるので注意

 なお、古代王朝交代説批判論にもピンからキリまであり、中には王朝交代説以上に質の低い、ハッキリ言えば王朝交代説の方がマシと思える見解もあるので注意が必要です。


 例えば前之園亮一氏は、諸研究が王朝交代ととらえて来た『日本書紀』などの記事は、すべてその編者の史観から創作されたものだとし、神代、中ツ代、英雄的人代、本格的人代の順で神の代からしだいに人間の時代に変わっていく『日本書紀』の構成に気づかずに、それが王朝交代としてとらえられていたが、信用できるのは本格的人代である仁徳朝以降の記事だけと主張しました。⑺


 概要だけみると一見説得力がある様にみえますが、詳細をみると首を傾げざるを得ないような見解が散見されます。例えば崇神王朝説に関してはミマキ(崇神天皇)・イクメ(垂仁天皇)は人名の「ヒコ」の上に「イリ」を付して半神半人であることを示している為、実在を証明出来ず、河内王朝説に関しては応神天皇に関して、神や運命に左右され、いまだ人としての主体性をもちえない仮の人代の人間であるので実在したとは考え難いという説を述べられて、それぞれの王朝説を批判なさっていますが、素人目で見ても論理の飛躍としか言いようがありません。


 海外を見てみれば、例えばエジプトのファラオの場合、英語読みでツタンカーメンを現地表記のトゥトアンクアメンにすると、「アメン」は「アメン・ラー」という太陽神の名前を冠しており、日本の「イリ」以上に直接的な神との繋がりを感じさせますが、存在は否定されていませんよね? この様に古い時代の王が神を思わせる名を冠することは海外でもよくある事であり、古代の王族が神々の子孫であると主張していれば、神とのつながりを名に冠するのは当然の事だと思います。


 それに前之園氏の説を認めてしまえば、例えば大神氏は神の名を冠するから存在しなかったことになってしまいそうですし、視点を変えれば蘇我馬子や蘇我入鹿は半獣半人の名前だから存在しなかったという拡大解釈もなりたってしまいかねません。


 そもそも前之園氏が唱える「イリ」の解釈の妥当性にも問題がありそうです。「イリ」の意味は確定されていないとも言われていますが⑻、本居宣長の『古事記伝』の「伊呂兄イロセ伊呂妹イロドなどの伊呂とにて、親みウツクしみて云るなり」とする説を西郷信綱氏は支持しており、あるいは一種の尊称とも取れる⑼、とのことなので、「いろ」を折口信夫の『万葉集辞典』⑽で確認したところ「敬意を持った親しみの接頭語。記・紀・本集(万葉集)すでに原義が辿れなくなってゐる。御真木入彦ミマキイリヒコなどいふイリは、此いろと関係あらう。」とある様に、折口氏もまさしくミマキイリヒコのことを指しており、こちらの方が「イリ」の解釈としては妥当かと思われます。


 前之園氏の解釈を首肯し得る説としては吉井巌氏の「イリ」をよりつくもの(よそから来歴する)ことを示す称号であるとする説⑾があげられますが、タマヨリヒメの名に冠する「ヨリ」の方がよりつくという意味としては正しいかと思われるので、「イリ」に関しては西郷・折口両氏が肯定する本居説の方が妥当と判断すべきです。


 又、旧辞の史実性がアテに出来ないのは応神天皇紀に限らない為、旧辞の内容を根拠に事績ならばとにかく、過去の研究を一切無視して、存在まで否定するのは最早学問とすら言えないのではないでしょうか。後世の著名な高僧・武将には史実と思えないような様々な伝承が各地にありますが、それを以って存在まで否定し得る訳ではありません。寧ろ多様な伝説が、却って実在性の確かさを認め得ると考える事も出来るのではないでしょうか。


 王朝交代説自体は前之園氏が主張するまでもなく様々な方面から否定されていますが、中にはこの様な言葉遊びの如き稚拙な論拠を基に、これまでの歴史学・考古学・国文学の研究成果を無視し、実在性の高い天皇まで抹殺しようとするなど、寧ろ王朝交代説論者に共通するとすら思えてしまう様な呆れ返る説までもが真剣に論じられていたこともあるので注意が必要となります。

 



◇参考文献

⑴『大和王朝成立の秘密―古代日本を統一したのはだれか!』水野裕 ワニ文庫 歴史文庫シリーズ


⑵『古墳時代の研究』小林行雄 青木書店 95-133頁

「第三章 同笵鏡考」


⑶『岡山史学 第10号』岡山史学会 154-208頁

「古墳と大和政権」西嶋定生


⑷『葛城と古代国家 (付河内王朝論批判)』門脇禎二 講談社学術文庫 90-114頁


⑸『大化前代政治過程の研究』平野邦雄 吉川弘文館


⑹『国史大系. 第7巻』 経済雑誌社 

『釈日本紀』巻第十三 述義九

https://dl.ndl.go.jp/pid/991097/1/354


⑺『古代王朝交代説批判』前之園亮一  吉川弘文館


⑻『日本書紀⑴』 井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫

411頁 補注1


⑼『古事記注釈 第5巻』西郷信綱 ちくま文庫 224-225頁


⑽『万葉集辞典』折口信夫 著 文会堂書店

https://dl.ndl.go.jp/pid/958698/1/204


⑾『天皇の系譜と神話⑴』吉井巌 塙書房



◇関連稿

・大和王権初期の争乱④ 王朝交代の事実か? 麛坂王。忍熊王の乱

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330656268233622


・邪馬台国畿内説による大和王権初期の王統譜について考古学的知見

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330651233134334

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