卑弥呼は記紀に登場する人物か?

 吉野ケ里遺跡ネタが続いたので、邪馬台国絡みで今回は卑弥呼について取り上げます。卑弥呼に関しては『魏志倭人伝』では倭女王としての記録があるにもかかわらず、記紀でその名が登場しない為、古くから記紀の登場人物の誰かに当て嵌まるのか議論になってきました。


 主な候補としては➀天照大御神、②ヤマトトトヒモモソヒメ、③ヤマトヒメノミコト、④神功皇后などの説がありますが、彼女達が記紀ではどの様な活躍が伝えられているのか、記事を取り上げてみます。




⑴『三国史』(巻三十・魏書三十・烏丸鮮卑東夷伝)倭人

(上略)其國本亦以男子爲王。住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼事鬼道能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國、自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入(中略)卑彌呼以死、大作冢 徑百餘歩、狥葬者奴碑百餘人、更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人、復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王、國中遂定。


((上略)其の國、本亦もとまた男子を以て王と爲せり。とどまること七、八十年、倭國亂れて、あい攻伐すること年をたり、すなわち共に一女子を立てて王と爲す。名は卑彌呼と曰う。鬼道につかえ、く衆を惑わす。年 すでに長大なれども、夫壻ふせい無し。男弟有りて國をたすけ治む。王と爲りてり以來、まみゆること有る者少なし。千人を以てみずかはべらす。ただ男子一人のみ有るて、飲食を給し、ことばつたえ出入す(中略)卑彌呼 すでに死、大いにつかを作る。徑百餘歩、狥葬する者 奴碑ぬひ百餘人なり。あらためて男王を立つれども、國中服せず。更に相誅殺す。當時千餘人を殺す。た卑彌呼の宗女壹與、年十三なるものをを立て王と爲せり。國中 ついに定まる。)



⑵『古事記』上巻

(上略)故於是天照大御神見畏閇天石屋戸而。刺許母理此三字以音。坐也。爾高天原皆暗。葦原中国悉闇因此而常夜往。於是萬神之声者。狭蝿那須此二字以音。皆満。萬妖悉發。是以八百萬神。於天安之河原。神集而。訓集云都度比。高御産巣日神之子思金神。令思訓金云加尼而。集常世長鳴鳥。令鳴而。取天安河之河上之天堅石。取天金山之鐡而。求鍛人天津麻羅而。麻羅二字以音。科伊斯許理度賣命。自伊下六字以音。令作鏡。科玉祖命。令作八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠而。召天児屋命・布刀玉命布刀二字以音。下効此。而。内抜天香山之眞男鹿之肩抜而。取天香山之天之波。迦此三字以音。木名。而。令占合麻迦那波而。自麻下四字以音。天香山之五百津真賢木矣。根許士爾許士而。自許下五字以音。於上枝。取著八尺勾璁之五百津之御須麻流之玉。於中枝。取繁八尺鏡。訓八尺云八阿多。於下枝。取埀白丹寸手・青丹寸手而。訓埀云志殿。此種種物者布刀玉命。布刀御幣登取持而。天児屋命。布刀詔戸言禱白而。天手力男神。隠立戸掖而。天宇受賣命。手次繋天香山之天之日影而。爲鬘天之真析而。手草結天香山之小竹葉而。訓小竹云佐。於天之石屋戸伏汙氣此二字以音。而。蹈登杼呂許志。此五字以音。爲神懸而。掛出胸乳。裳緒忍垂於番登也。爾。高天原動而。八百萬神共咲。於是。天照大御神。以爲恠。細開天石屋戸而。内告者。因吾隠坐而。以爲天原自闇。亦。葦原中国皆闇矣。何由以。天宇受賣者爲樂。亦。八百萬神諸咲。爾。天宇受賣白言。益汝命而貴神坐故。歡喜咲樂。如此言之間。天児屋命・布刀玉命。指出其鏡。示奉天照大御神之時。天照大御神。逾思奇而。稍自戸出而。臨坐之時。其。所隠立之天手力男神。取其御手引出即。布刀玉命。以尻久米此二字以音。繩。控度其御後方白言。従此以内。不得還入。故。天照大御神出坐之時。高天原及葦原中国。自得照明。


故於是かれここに 天照大御神あまてらすおほみかみ見畏みかしこみて、天石屋戸あめのいはやどてて許母理こもりしましき。すなはち高天原皆 くらく、葦原中国あしはらのなかつくにことごとくくらし。此に因りて常夜往とこよゆく。於是ここによろづの神のおとなひ狭蝿那須さはへなすき、よろづの妖悉わざはひことごとくおこりき。

ここを以て八百萬やほよろづの神、天安あめのやす河原かはら神集かむつどひて、高御産巣日神たかみむすびのかみみこ思金神おもひかねのかみに思はしめて、常世とこよ長鳴鳥ながなきどりつどへて鳴かしめて天安河の河上の天堅石あめのかたしいしを取り、天金山あめのかなやまもがねを取りて、鍛人かぬち天津麻羅あまつまらぎて、伊斯許理度賣命いしこりどめのみことおほせて鏡を作らしめ、玉祖命たまのやのみことおほせて八尺勾璁やさかのまがたま五百津いほつ御須麻流みすまるの珠を作らしめて、天児屋命あめのこやねのみこと布刀玉命ふとたまのみことびて、天香山あめのかぐやま眞男鹿まをしかの肩を内抜うつぬきに抜きて、天香山の天之波波迦あめのははかを取りて、占合うら麻迦那波まかなはしめて、天香山の五百津真賢木いほつまさかき根許士ねこじ許士こじて、上枝ほつえ八尺勾璁やさかのまがたま五百津いほづ御須麻流みするまの玉を取りけ、中枝なかつえ八尺鏡やたのかがみを取りけ、下枝しづえ白丹寸手しらにぎて青丹寸手あをにぎてを取りでて、此の種種くさぐさの物は布刀玉命、布刀御幣ふとみてぐらと取り持たして、天児屋命あめのこやねのみこと布刀詔戸ふとのりと言禱ごとぬまをして、天手力男神あめのたちからをのかみみとわきに隠り立たして、天宇受賣命あめのうずめのみこと、天香山の天の日影を手次たすきけて、天の真析まさきかづらて、天香山の小竹葉ささは手草たぐさに結ひて、天の石屋戸に汙氣伏うけふせて、蹈み登杼呂許志とどろこし神懸かむがかり胸乳むなぢで、裳緒もひろし垂れき。かれ高天原動たかまのはらゆすりて、八百萬の神 ともわらひき。

於是ここに天照大御神 あやしと以爲おもほして、天石屋戸あめのいはやとを細めに開きて、内よりりたまへるは、「こもすにりて、天原あまのはらおのづかくらく、葦原中国あしはらなかつこくも皆闇からむと以爲をもふを、何由以なにとかも天宇受賣者あめのうづめ樂爲あそびしまた八百萬やほよろずの神 もろもろわらふぞ」とのりたまひき。すなはち天宇受賣、「が命にさりてたふと神坐かみいますが故に、歡喜よろこ咲樂わらぐ」とまをしき。如此かくまをあひだ天児屋命あめのこやねのみこと布刀玉命ふとだまのみことの鏡を指しでて、天照大御神にまつる時に、天照大御神 いよよあやしとおもほして、やや戸より出でてのぞす時に、其のかくり立てる天手力男神あめのたぢからをのかみ、其の御手みてを取りて引き出しまつりき、即ち布刀玉命ふとだまのみこと尻久米しりくめ繩を其の御後方みしろへわたして「ここより内になかへり入りましそ」と白言まをしき。故、天照大御神出でてせる時に、高天原も葦原中国も自ら照り明りき。)



⑶『日本書紀』巻五崇神天皇十年(癸巳前八八)九月 壬子廿七日

(上略)倭迹迹日百襲姫命爲大物主神之妻。然其神常晝不見而夜來矣。倭迹迹姫命語夫曰。君常晝不見者。分明不得視其尊顏。願暫留之。明旦仰欲覲美麗之威儀。大神對曰。言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。爰倭迹迹姫命心裏密異之。待明以見櫛笥。遂有美麗小蛇。其長大如衣紐。則驚之叫啼。時大神有耻。忽化人形。謂其妻曰。汝不忍令羞吾。吾還令羞汝。仍踐大虚登于御諸山。爰倭迹迹姫命仰見而悔之急居。〈急居。此云菟岐于。〉則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人號其墓。謂箸墓也。是墓者日也人作。夜也神作。故運大坂山石而造。則自山至于墓。人民相踵。以手遞傳而運焉。時人歌之曰。飫朋佐介珥。菟藝逎煩例屡。伊辭務邏塢。手誤辭珥固佐縻。固辭介氐務介茂。


(倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそめのみこと、大物主神のなめと爲る。然るに其の神、常にひるは見えたまはずして、夜のみきたす。倭迹迹姫命やまとととひももそめのみことせなに語りて曰く、「君常に晝は見えたまはねば、分明あきらかに其の尊顏みかおを視まつることを得ず。願はくは暫し留りたまへ。明旦あくるあした美麗うるはしき威儀みすがたを仰ぎてたてまつらむ」

大神對へて曰く、「言理ことわり灼然いやちこなり。吾れ明旦あくるあしたいまし櫛笥くしげに入りて居らむ。願はくは吾が形に驚きましそ」

爰に倭迹迹姫命心の裏にひそかあやしむ。明くるを待ちて以て、櫛笥くしげを見れば、遂に美麗うるはしき小蛇こをろち有り。其の長大ながさふとさ衣紐したひもの如し。則ち驚きて叫啼さけぶ。時に大神 ぢて、たちまちに人の形にりたまふ。其の妻に謂りて曰く、「汝忍びずして吾に令羞はぢみせつ。吾れ還りて汝に令羞はぢみせむ」

と云ふ。仍りて大虚おほぞらを踐みて御諸山みもろやまに登ります。爰に倭迹迹姫命仰ぎ見て悔いて急居つきう。〈急居。此をば菟岐于つきうと云ふ。〉則ち箸にてほときてみうせぬ。乃ち大市おほちに葬る。故れ時の人其の墓を號けて箸墓はしのみはかと謂ふ。是の墓はひるは人が作り、夜は神作る。故れ大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまで、人民相 ぎて以手遞傳たごしにして運ぶ。時の人歌ひて曰く、


大阪ニ、ギ登レル、石郡ヲ、手遞傳越タゴシニコサバ、テムモ。)



⑷『日本書紀』巻六垂仁天皇二五年(丙申前五)三月 丁亥十日

三月丁亥朔丙申。離天照大神於豐耜入姫命。託干倭姫命。爰倭姫命求鎭坐大神之處。而詣莵田筱幡。〈筱此云佐佐。〉更還之入近江國。東廻美濃到伊勢國。時天照大神誨倭姫命日。是神風伊勢國。則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。故隨大神教。其祠立於伊勢國。因興齋宮干五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之處也。〈一云。天皇以倭姫命爲御杖。貢奉於天照太神。是以倭姫命以天照太神。鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後隨神誨。


三月丁亥やよひのひのとらのゐのついたち丙申ひのえのさるのひ。天照大神を豐耜入姫命にはなちりまつりて、倭姫命にけたまふ。爰に倭姫命大神を鎭坐しずめまさせむ處を求めて、莵田うた筱幡さきはたに詣る。〈筱、此をばササと云ふ。〉更り還りて近江國に入り、東のかた美濃を廻りて伊勢國に到りたまふ。時に天照大神倭姫命を誨て日く。「是神風の伊勢の國。則常世の浪の重浪歸しきなみよする國なり。傍國かたくに可怜國うましくになり。是の國に居らむとおもふ」

故れ大神のみをしへのまにまに、其のいはひを伊勢國に立てたまふ。因りて齋宮いはひのみやを五十鈴の川上につ。是を磯宮いそのみやと謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降ります處なり。〈一に云ふ。天皇倭姫命を以て御杖みつゑとして天照太神に貢奉たてまつりたまふ。是を以て倭姫命以天照太神を以て磯城の嚴橿いつかしの本にしづせていはひまつりたまふ。然る後神の誨のままに。)



⑸『日本書紀』巻九神功皇后摂政三九年(己未二三九)

卅九年是年也。大歳己未。〈魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝獻。太守鄧夏遣使將送詣京都也。〉


(三九年 是年ことし大歳おほとし己未つちのとのひつじ。〈魏志に云ふ。明帝景初三年六月、倭の女王ぢょわう大夫たいふ難斗米なとめ等を遣して郡に詣り、天子に詣りて朝獻みつぎたてまつらむことを求めしむ。太守たいしゅ鄧夏使を遣してひきゐ送りて京都けいといたる。〉)


*鄧夏……『魏志倭人伝』では劉夏と記されている。


⑹『日本書紀』巻九神功皇后摂政六六年(丙戌二六六)

六十六年。〈是年。晉武帝泰初二年晉起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣重譯貢獻。〉


(六十六年。〈是年、しん武帝ぶてい泰初たいしょ二年。しん起居ききょ注に云ふ、武帝の泰初二年十月、倭女王 わけを重さね貢獻こうけん遣せしむ。〉)



◇解説

 ⑴が魏志本文の卑弥呼の記事で、⑵~⑹がそれぞれ卑弥呼の候補として名が挙がる人物の代表的な伝承や記録を取り上げています。

 則ち、⑵が天照大御神、⑶がヤマトトトヒモモソヒメ、⑷がヤマトヒメノミコト、⑸と⑹が神功皇后紀が引用した倭女王の記事です。


 この内、先ずは候補から外れるのが神功皇后です。⑸の文面を信じれば丁度魏志倭人伝の時期と書紀の紀年による神功の活動時期が重なり、魏志が伝える倭女王(卑弥呼)=神功皇后であることを暗喩している様に見えますが、⑹の頃には既に卑弥呼が死亡しており、壹與壱与の代であったと想定されるのですが、統治者が別人の時代である二つの記事を神功皇后一人の時代に載せることが不可解と言わざるを得ません。


 又、かつて那珂通世が唱えた様に、神功皇后紀が七支刀の銘文及び朝鮮文献と比較して干支二運一二〇年ズレている事⑺は過去の稿(「上代の年代の推測方法」)で述べたとおりです。その為、神功皇后は卑弥呼では無いと断言出来ます。


 明治期に内藤 湖南虎次郎氏は、根拠として伊支馬いきま彌馬獲升みまかきの官名があることから、イリヒコ(垂仁天皇)イリヒコ(崇神天皇)の二朝と遠くない事。「事鬼道能惑衆」を垂仁天皇廿五年の記録並びに其の最註、延喜式帳、倭姫命世紀等の所伝を総合して、この命の行事が神道設教の行事を鬼道と関連を怪しむに足りない事。内藤氏が邪馬臺の地名の擬定を大和の附近で、倭姫命の遍歴した地方より選び出したところ、その多数が甚だしい附会に陥らず、伊勢を基点とした地方に限定し得たことを根拠にヤマトヒメノミコト説を唱えました。⑻


 これに対し、橋本増吉氏は「邪馬台国論考」で書紀の記事を以て、そのまま歴史事実として信じる事は出来ず、女王にあらざる倭姫命を以て、卑弥呼に比定することの不合理を論ずる前に、倭姫命の物語そのものについても疑問を有する⑼とし、内藤氏の説を批判しました。そもそもヤマトヒメノミコトも卑弥呼よりも新しい時代の人物なので候補から外れ、現在となっては支持者も殆どいないのではないでしょうか。


 天照大神説で代表的な例を取り上げると、安本美典氏は王権の統治年数を一世代二十年という井上光貞氏の研究成果を修正し、神武天皇の活躍した時代を270年~280年と推定し、天照大御神は神武天皇の五代前の人とされていることと、古代王権の一世代十年である概算から遡り、天照大御神の統治を230年頃と推定し、卑弥呼の活躍の時期と重なる事から、卑弥呼=天照大御神説を主張しました。⑽


 又、巷でよく知られている説として⑵の天石屋戸に関する神話を皆既日食ととらえ、卑弥呼の死亡時期頃に日蝕が起きたことと、古代の巫女が生贄として殺されていたという説を結び付け、卑弥呼が殺されたという飛躍した推理もあります。一説としては衝撃的な内容で面白くもあり、小説家など創作分野に関わる人達によく支持されている説のようですが、恐らくフレーザーの『金枝篇』や柳田國男の『一つ目小僧その他』等から発展した想像の賜物としか思えません。そもそも天照大神の神話自体が以下で述べますように、恐らく大して古くない時代に創作されたものなので、弥生時代の史実の反映ではありません。


 松前健氏は本来の皇祖神は天照大神ではなく高皇産霊神であるとし、伊勢のアマテラス信仰が積極的に宮廷に持ち込まれたのが皇祖神となる以前であること。また、『延喜神名』の「天照御魂あまてるみたま」や尾張氏の「天照国照彦あまてるくにてるひこ明命あかりのみこと」など「天照あまてる」を冠する神々を天照大神の原型プロトタイプの一つとしたこと。「あまてるや ひるめの神を しばしとどめむ」という神楽歌や皇大神宮の鎮座する伊勢度会郡の一名を古来、天照あまてる山とも言っていたことから、伊勢大神ですら古くはアマテル神と呼んでいたらしいことを取り上げています。⑾


 他にも『風土記』にもその名が殆ど登場しない事や『風土記』においては寧ろ伊勢津彦という伊勢古来の日神と思しき存在の方が登場数が多いことから、皇祖神・天照大神が然程古い存在ではなく、一般的に邪馬台国の比定地とはされていない伊勢の神由来であり、天石屋戸の神話が弥生時代の事実の反映とはとても思えません。従って天照大御神説も除外できます。


 残りの候補は笠井新也氏を発端に、肥後和男氏や多くの考古学者等が主張するヤマトトトヒモモソヒメ説ですが、⑶の箸墓の伝承が⑴の「卑彌呼以死、大作冢徑百餘歩」という大規模古墳の造営の記事と結びつけられ、この部分のみを切り取れば記事の共通性が見受けられ、他説よりは有力と言えますが、ヤマトトトヒモモソヒメ説というより、邪馬台国畿内説自体の疑問点は過去の稿(「邪馬台国畿内説による大和王権初期の王統譜について考古学的知見」)で述べたとおりです。


 更に問題点を付け加えるのならば、黛弘道氏は大和という地名は城下郡大和郷(追記:これは黛氏の認識違いか参考文献の誤植で、『大日本地名辞書(上巻)』で確認したところ、正確には山辺郡大和郷)という、それほど広くない地域の名前から来たものであり、律令制における大和国が成立する以前、六、七世紀には磯城郡、十市郡を主とする地域であったと推定し、律令時代においてのちの奈良県に相当する大和国という国名になり、やがて日本全体を指す様になったことを取り上げ、三世紀頃の大和はずっと狭い地域だそうです。大和郷の大和神社は3キロ余り北には物部氏の氏神である石上神宮、南の5キロほどに大神神社があり、南北が有力な氏族と神社に挟まれている為、大和神社の勢力が及ぶ範囲は南北のせいぜい4キロ前後とのことであり、東は丘陵地帯で山がちな地形から「やまと」と名付けられたことを想定し、西の方は三キロほど先が唐古遺跡があることから弥生時代は湖沼地帯であり、かつての大和は南北も東西も局限されており、『魏志倭人伝』の七万戸という戸数に誇張があるとしても、投馬国五万戸、奴国二万戸、他国が一万ないし数千戸であることから相対的に邪馬台国が大国であることは間違いなく、三世紀時点の奈良県の大和ではそういう大きな国の存在を考えるのは困難であるとし、邪馬台国大和説を否定しました。⑿


 具体的な地図は以下の近況ノートを参考にしてください。

・「やまと」初期の勢力範囲(「卑弥呼は記紀に登場する人物か?」資料)

https://kakuyomu.jp/users/uruha_rei/news/16817330662261321473


 実際の地図から推測すると、大和神社東部の大和古墳群の最東部(大和神社から約一.五キロ程度)にある二ノ瀬池塚古墳(天理市萱生町大仏芝ノ内)辺りまでが恐らく原初やまとの東端の勢力範囲であり、南は遷移前に大和神社が存在した場所とも言われている長岳寺(天理市柳本町)辺りまでだったのかも知れません。西部は現在の地図から推定すると、南北や東の勢力圏の規模からして大和川辺りまでの様に思えますが、現在と川の位置が同じだったとは限りません。いずれにせよ唐古遺跡(磯城郡田原本町鍵)までは及ばない地域であることが想定されます。


 補足すると、現在の奈良県全域に及ぶ後の大和国の中央を横断する吉野川より南部の山地、つまり、大和国の凡そ三分の二にあたる地域が吉野郡で占められ、大和王権の中心地である大和国北西部にあたる大和盆地の約半分は葛下郡・忍海郡・葛上郡を包括する葛城国であったことと、橋本増吉氏によれば、『日本書紀』二五巻の大化元年(六四五)八月丙申朔庚子の記事に「其於被遣使者」とあり、大化元年の時期に至ってもヤマトは六縣から成っているに過ぎず、同書十巻の応神天皇十九年(戊申二八八)冬十月戊戌朔の記事で。「幸吉野宮。時國樔人來朝之。(中略)其土自京東南之。隔山而居于吉野河上。峯嶮谷深。道路狹巘。故雖不遠於京。本希朝來」と見える事から、かなり後のまで今の吉野郡の地方が所謂ヤマトの国の中に包括されていなかったことは明確であるとし、更に十九巻の欽明天皇元年二月の記事に「百濟人己知部投化。置倭國添上郡山村」とあり、かつ延喜式八巻、祝詞の巻所載祈年祭祝詞に「御県尓坐皇神等乃前尓白久。高市。葛木。十市。志貴。山辺。曾布登御名者白弖。此六御県尓生出甘菜辛菜乎持参来弖」とあることから、この倭国六縣説を正しいものとするのであれば、大化の改新当時のヤマト国も、大和国から、宇田・生駒・宇智・吉野の四群を除いたものとなり、大化の頃よりも更に四百余年遡る魏の時代、即ち西暦二三〇年頃は所謂ヤマトが更に遥かに狭小な地域に限られていたに違いないとし、葛城郡が別に一国として区別されていた頃は、恐らくヤマトの国は後の高市・十市(磯城郡)の辺りだったと推考し、両郡の合計を九方里(方里=縦横各一里の面積。)に過ぎないと結論付け、更に大化の当時に一戸約六人として、戸数七万戸だとすれば四十二万人という莫大な住民を有していたとは、到底考えられず、更に遥かに狭小な地域に限られた時代のヤマト国に、かくの如き戸数住民の存在を想像するのは、正に空中楼閣を書くものであると述べられており⒀、黛氏は恐らくこの説に影響を受けたのかと思います。



 石上神宮の勢力が果たしてこの時代から存在したのか大いに疑問(補説参照)ではありますが、魏志が伝える七万戸を割り引き、数万戸程度の規模だとしても、この地域にそれだけの戸数が存在したと考えるのは確かに無理がありますね。


 邪馬台国大和説の否定は則ち、卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメ説も無いという事になります。


 以上の様に、記紀から卑弥呼、及び邪馬台国に関する情報が全く得られない様に見えますが、私見としては景行天皇紀の九州巡幸説話と神功皇后摂政前紀に邪馬台国末期の状況を部分的に伝えていると思いますので、その根拠を次稿で取り上げてみます。



*補説

 津田左右吉氏によれば、垂仁天皇八十七年の条に物部連が石上神宮を管理する由来を説いてありながら、垂仁天皇三十九年の条の注釈の一説の石上神宮を管理するものは物部の家とは全く血族関係のない物部(春日臣の族)としてあり、一致しない記載が並立している事から勢力がある家が急家を倒し併呑したと推測し、物部首の家は姓氏録大和皇別の部に布留宿禰とあるもので、石上の地に土着していた豪族と見て、石上神宮との関係も古くからのことであったとのこと。⒁


 現在の研究でも津田氏の説が微修正が加えられながらも概ね引き継がれており、物部連―物部首の上下関係であるが、それは後世物部連が石上の地に入って来てからの事であり、本来は物部首の家が石上神宮の奉斎者であったと見られていることから、物部連が石上の地に入ってくるのは早くても部制が整う以降の事と想定されます。


 つまり、石上の地に黛弘道氏が述べる様な物部連の如きが三世紀頃に存在した可能性は低いですが、先に取り上げました東西と南の状況を考えれば、やはり邪馬台国の如き大国が原初の「やまと」に存在したとは言い難いです。




◇参考文献

⑴『漢・韓史籍に顕はれたる日韓古代史資料』太田亮 編 磯部甲陽堂

https://dl.ndl.go.jp/pid/1917919/1/28

⑵『古事記新講 改修5版』次田潤 明治書院

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920824/1/367

⑶『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/64

⑷『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/70

⑸『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/94

⑹『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/96

⑺『上世年紀考 増補版』那珂通世 著, 三品彰英 増補 養徳社 50-57頁

「第四章 神功・應神の二御代の考」

⑻『読史叢録』内藤虎次郎 弘文堂 38-43頁

「卑弥呼考」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1042280/1/27

⑼『東洋史上より観たる日本上古史研究 第1 (邪馬台国論考)』橋本増吉 大岡山書店

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920176/1/86

⑽『大和朝廷の起源』安本美典 勉誠出版 265-267頁

⑾『日本の神々』松前健 中央新書


*追記『大日本地名辞書 上巻』吉田東伍 冨山房

「大和 山邊郡 大和神社」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2937057/1/148


⑿『古代学入門』黛弘道 筑摩書房 87-89頁

⒀『東洋史上より観たる日本上古史研究 第1 (邪馬台国論考)』橋本増吉 大岡山書店

https://dl.ndl.go.jp/pid/1920176/1/96

⒁『日本上代史研究』津田左右吉 岩波書店

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1041707/1/336


◇関連項目

・上代の年代の推測方法

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16816452219789813090

・邪馬台国畿内説による大和王権初期の王統譜について考古学的知見

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330651233134334

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