景行天皇紀と神功皇后摂政前紀は邪馬台国末期の状況の反映か?

 本稿は景行天皇紀や神功皇后紀を虚構とする通説を無視したかなり大胆な解釈であることを予めご了承ください。


 前稿で述べました様に記紀には卑弥呼に該当する人物が存在しないと言わざるを得ません。ですが、景行天皇紀と神功皇后紀は邪馬台国末期の状況が部分的に反映されているのでは無いかと思います。


 私見としては『日本書紀』が伝える景行天皇の巡幸の目的としては、景行十二年七月条に朝貢しなかったという熊襲の征伐以外にも邪馬台国の影響下のクニに要請され、援軍の派兵目的があったのではないかと推測しています。


 津田左右吉氏の景行天皇紀及び風土記を机上の創作とする説の批判は過去の稿(「吉野ケ里遺跡⑵ 『肥前国風土記』に見える遺跡付近の伝承と景行天皇の実在性について」)で述べた通りですが、以下に取り上げる記事は熊襲征伐の影に、狗奴国(=熊襲)や土蜘蛛(=邪馬台国の敵対者。熊襲の協力者?)といった土着勢力との争いで衰退し、追い詰められた邪馬台国の同盟勢力が大和政権に頼って九州に派兵を求めたと想像する事も可能です。


 後世の例をあげると、戦国時代、島津氏に追い詰められた大友宗麟が豊臣秀吉に援軍を求めますが、それと似た様な状況だったのかも知れません。


 以下に該当する記事を取り上げてみます。


◇北九州の女首長勢力及び、賊・土蜘蛛。

⑴『日本書紀』巻七景行天皇十二年(壬午八二)九月 戊辰五日

九月甲子朔戊辰。到周芳娑麼。時天皇南望之。詔羣卿曰。於南方烟氣多起。必賊將在。則留之。先遣多臣祖武諸木。國前臣祖菟名手。物部君祖夏花。令察其状。爰有女人。曰神夏磯媛。其徒衆甚多。一國之魁帥也。聆天皇之使者至。則拔磯津山之賢木。以上枝挂八握釼中枝挂八咫鏡。下枝挂八尺瓊。亦素幡樹于船舳。參向而啓之曰。願無下兵。我之屬類。必不有違者。今將歸徳矣。唯有殘賊者。一曰鼻垂。妄假名號。山谷響聚。屯結於菟狹川上。二曰耳垂。殘賊貧婪。屡略人民。是居於御木〈木。此云開。〉川上。三曰麻剥。潜聚徒黨。居於高羽川上。四曰土折猪折。隱住於緑野川上。獨恃山川之險。以多掠人民。是四人也。其所據並要害之地。故各領眷屬。爲一處之長也。皆曰。不從皇命。願急撃之。勿失。於是。武諸木等先誘麻剥之徒。仍賜赤衣褌及種種奇物。兼令撝不服之三人。乃率己衆而參來。悉捕誅之。天皇遂幸筑紫。到豐前國長峽縣。興行宮而居。故號其處曰京也。


九月ながつきの甲子きぬのえねのついたち戊辰つちのえたつのひ周芳すほう娑麼さはに到ります。時に天皇南をそなはして羣卿まへつきみみことのりして曰く、

「南の方に於て烟氣多けぶりさはつ。必ずあた在らむ。則ち留まりて、先づ多臣おほのおみおや武諸木たけもろき國前臣くにさきのおみおや菟名手うなて、物部君のおや夏花なつはなを遣して、其のかたちせしめたまふ」

ここ女人をむな有り、神夏磯媛かむなつしひめと曰ふ。其の徒衆やから甚だ多し、一國ひとくに魁帥ひとごのかみなり。天皇の使者みつかひ至るときて、則ち磯津しつ山の賢木をこじとりて、上枝かみつえには八握釼やつかのつるぎとりかけ、中枝なかつえには八咫鏡やたのかがみとりかけ、下枝したえには八尺瓊やさかにとりかけ、また素幡しらはた船舳ふなのへに樹て、參向まゐきて啓して曰く、

「願はくは兵をつかはしそ。やつこ屬類ともがら。必ずそむきまつること有らじ。今將に歸徳まるでしたがひなむ。ただ殘賊者あやしきやつこはべり。ひとり鼻垂はなたりと曰ふ。みだり名號を假りて山谷に響聚おとなひあつまりて、菟狹うさの川上に屯結いはめり。ふたり耳垂みみたりと曰ふ。殘賊貧婪そこなひやぶりむさぼりおほきてしばしば人民みたからかすむ。是れ御木みけ〈木。此をケと云ふ。〉の川上にはべり。みたり麻剥あさはぎと曰ふ。ひそか徒黨ともがらを聚めて高羽たかはの川上に居り。よたり土折猪折つちをりゐをりと曰ふ。緑野みどりのの川上に隱れ住みて、獨り山川のさかしきをたのみ、以てさはに人民をかすむ。是の四人よたりや。其のる所、並に要害ぬまところなり。故れおのおの眷屬やからつかひて一處ひとところひとこのかみたり。皆曰く、『皇命おほみことに從はじ』。願はくはすみやかに撃ちたまへ。失ひたまひそ」

是に於て武諸木たけもろき等先づ麻剥あさはぎともがらをこつる。仍りて赤衣褌あかきぬはかま及び種種くさぐさ奇物めずらしきものを賜ひて、兼てまつろはざる三人みたりさしむ。乃ち己がともがらを衆ゐて參來まゐけり。ふつくに捕へてころしつ。天皇遂に筑紫にいでまして、とよくにのみちのくにの長峽ながをのあがたに到りて行宮かりみやててまします。故に其のところなづけてみやこと曰ふ。)



⑵『日本書紀』巻七景行天皇十二年(壬午八二)十月

冬十月。到碩田國。其地形廣大亦麗。因名碩田也。〈碩田。此云於保岐陀。〉到速見邑。有女人。曰速津媛。爲一處之長。其聞天皇車駕而自奉迎之諮言。茲山有大石窟。曰鼠石窟。有二土蜘蛛。住其石窟。一曰靑。二曰白。又於直入縣禰疑野有三土蜘蛛。一曰打猿。二曰八田。三曰國摩侶。是五人並其爲人強力。亦衆類多之。皆曰。不從皇命。若強喚者。興兵距焉。天皇惡之不得進行。即留于來田見邑。權興宮室而居之。仍與群臣議之曰。今多動兵衆。以討土蜘蛛。若其畏我兵勢將隱山野必爲後愁。則採海石榴樹。作椎爲兵。因簡猛卒。授兵椎以穿山排草襲石室土蜘蛛。而破于稻葉川上。悉殺其黨。血流至踝。故時人其作海石榴椎之處曰海石榴市。亦血流之處曰血田也。復將討打猿。徑度禰疑山。時賊虜之矢。横自山射之。流於官軍前如雨。天皇更返城原。而卜於水上。便勒兵先撃八田於禰疑野而破。爰打猿謂不可勝而請服。然不聽矣。皆自投洞谷而死之。天皇初將討賊。次于柏峽大野。其野有石。長六尺。廣三尺。厚一尺五寸。天皇祈之曰。朕得滅土蜘蛛者。將蹶茲石。如柏葉而擧焉。因蹶之。則如柏上於大虚。故號其石曰蹈石也。是時禱神。則志我神。直入物部神。直入中臣神三神矣。


冬十月ふゆかむなづき碩田おほきたの國に到ります。其の地形廣く大にして亦麗し。因りて碩田と名づく。〈碩田、此をオホキタと云ふ。〉速見はやみ邑に到ります。女人 はべり。速津媛はやつひめと曰ふ。一處のひとごのかみたり。其れ天皇すめらみこと車駕みゆきすと聞きて、自ら迎へ奉りてまうして言さく。

「茲の山に大なる石窟いはや有り。ねずみの石窟と曰ふ。ふたり土蜘蛛つちくも有り。其の石窟に住めり。ひとりを靑と曰ふ。ふたりを白と曰ふ。又 直入縣なほりのあがた禰疑野ねぎのに於てみたりの土蜘蛛有り。ひとり打猿うちさると曰ふ。ふたり八田やたと曰ふ。みたり國摩侶くにまろと曰ふ。是の五人ごたりは並に其の人と爲り強力ちからつよくして、亦 衆類ともがら多し。皆曰く、皇命おほみことに從はじ。若しあながちさば、兵を興してふせがむ。天皇 にくみたまひて進行いでますこと得ず。即ち來田見くたみの邑に留りて、かり宮室みやててまします」。

仍りて群臣まへつきみたちと議りて曰く、

「今多く兵衆つはものを動かして以て土蜘蛛を討つ。若し其れ我がいくさの勢におそりなば、將に山野に隱れて必ず後のうれへさむ」

則ち海石榴つばきの樹を採りてつちにて作り兵にたまふ。因りて猛き卒を簡みて、兵と椎とを授け、以て山を穿ち草をはらひて、石室いはむろの土蜘蛛を襲ひ、稻葉の川上にて破りて、悉く其のともを殺しつ。血流れてつぶなきに至る。故れ時人其の海石榴のつちを作りし處を海石榴市つばきちと曰ふ。亦血流れし處を血田ちたと曰ふ。復た打猿を討たむとして、ただ禰疑山ねぎのやまとほる時に、賊虜あたいるや横しまに山より射る。官軍みいくさの前にくだることふるあめの如し。天皇更に城原に返りまして、水上かはのほとりうらふ。便ち兵をととのへて先づ八田の禰疑野ねぎのに撃ちて破りつ。爰に打猿 不可勝えかちたてまつるまじおもひ、

したがはむ」とまうす。

然れどもゆるしたまはず。皆自ら洞谷たにおちいりて死にぬ。天皇初め賊を討たむとし、柏峽大野かしはをのやどりたまふ。其の野に石有り。長さ六尺むさか。廣さ三尺みさか。厚さ一尺五寸ひとさかあまりいつき天皇すめらみことうけひて曰く、

われ土蜘蛛をほろぼし得むとならば、まさの石をまむに、柏葉かしはのはの如くてあがれ」とのたまふ。

因りてみたまふに、則ちかしはの如くに大虚おほぞらに上れり。故れ其の石をなづけて蹈石ほみしと曰ふ。是の時にいのりまつる神は、則ち志我神しがのかみ直入物部神なおいりもののべのかみ直入中臣神なおいりなかとみのかみみはしらの神ます。)


⑶『豊後国風土記』速見郡

(前略)

昔者纏向日代宮御宇天皇。欲誅球磨贈於。行幸於筑紫。従周防国佐婆津發船而。渡泊於海部郡宮浦。時於此村有女人。名曰速津媛。為其処之長。即聞天皇行幸親自奉迎奏言。此有大磐窟。名曰鼠磐窟土蜘蛛二人住之。其名曰靑白。又於直入郡禰疑野有土蜘蛛三人。其名曰打猿。八田。国摩侶。是五人竝爲人強暴。衆類亦多在。悉皆談云。不從皇命。若強喚者。興兵距焉。於茲天皇遣兵遮其要害。悉誅滅。因斯名曰速津媛国。後人攺曰速見郡。


昔者むかし纏向日代の宮に御宇あめのしたしらしめし天皇すめらみこと球磨贈於くまそおころさむおもほして、筑紫つくし行幸いでまし周防国すはうのくに佐婆津さばのつより船發ふなびらきしをはてたま海部あまのこほりの宮浦みやうらわたりし時、此の村に女人をみなあり。名を速津媛と曰ふ。其処そこをさたり。即ち天皇の行幸いてまして聞て親自みづからむかへまつ奏言まをしけらく

ここに大なる磐窟いはや有り。名を鼠磐窟ねずみのいはやと曰ふ。土蜘蛛つちくも二人ふたりめり。れが名を靑白あをしろと曰ふ。また直入郡なほいりのこほり禰疑野ねぎぬ土蜘蛛つちくも三人みたり有り。其れが名を打猿うちさる八田やた国摩侶くにまろと曰ふ。是の五人いつたりならびに人となり強暴ちはやび衆類やからもまたさはに在り。悉皆みなたからひてへらく。「皇命おほみこと從はじと。強喚しひてめさばいくさおこし距焉ふせぎまつらむ

ここ天皇すめらみこといくさひとつかはして其の要害ぬみさへきりみなから誅滅つみなひころしたまふ。斯によりて名を速津媛はやつひめの国と曰ふ。後人攺のちのひとあらため速見郡はやみのこほりと曰ふ。)


*鼠石窟……別府市大字北石垣字塚原の鬼ノ岩屋古墳群の鬼ノ岩屋1号・2号墳がそれに当たると大正時代まで考えられていました。『箋釈豊後風土記』⑷によれば「此郡朝見郷北石垣原。有石窟二區。巨石。築之。以土封其上。竹樹欝蒼。土人云。土蜘蛛礫居也(此郡朝見郷北石垣原に石窟二 有り。巨石もてこれを築き土を以て其の上を封じ、竹樹欝蒼たり。土人云はく。土蜘蛛の礫居なり)」とあり、『豊後国志』速水郡条の鼠巌窟⑸によれば「二所。並在石垣荘北石垣村。俗曰鬼岩屋。盖土蜘蛛之賊所礫居也。形山如。高一丈五六尺。窟戸濶七八尺。深二丈餘。巨石叠築。頗似非人爲。其上竹樹鬱叢。兩窟大稍同。(二所、並に石垣荘北石垣村に在り。俗に鬼の岩屋と曰ふ。けだし土蜘蛛の賊の礫居せし所なり。形山の如く、高さ一 つゑ五六 さか、窟の戸のひろさ七八 さか、深さ二 つゑあまり。巨石もて叠築じょうちくすこぶる人爲に非ざるに似たり。其の上竹樹鬱叢せり。兩窟ふたつのくつ大さ稍同じ。)」とあります。


 しかし、京都大学教授の考古学者、梅原末治は大正11年ごろから精密な調査を行い、鬼ノ岩屋を石窟ではなく古墳であるとし、造営時期も1500年前(現在なら1600年前)と推定しました。より具体的に言えば、1号墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された約31メートルの円墳。2号墳は1号墳よりもやや古く、6世紀後半に築造されたとの事です⑹。つまり、鬼ノ岩屋は景行天皇の活躍時期である4世紀頃の遺構ではないという事になります。



⑴⑵⑶解説

 ⑴は景行天皇が九州遠征をする為に周芳すは娑婆さば(周防国佐波群佐波郷)という前線基地に当たる場所に訪れた時、神夏磯姫かむなつそひめという一国の女首長が磯津山(所在地不明。福岡県北九州市と京都郡都に跨る貫山芝津山か?)の賢木さかきを抜いて、上の枝に八握剣やつかのつるぎをかけ、中の枝に八咫鏡やたのかがみをかけ、下の枝には八尺瓊やさかにをかけ、白い旗を船の舳先に立てて参向し、自分達が歯向かう意思が無い事と、北九州の賊について情報を提供する記述があります。


 賢木に神宝をかかげて神に祈るのは神代紀第七段にも見えますが、ここでは司祭者的な地方首長が、その祭祀権を天皇に献上する為の服属儀礼と言われています。⑺


 又、⑴の同工異曲の伝承として⑵の様に速見邑(大分県速見郡)の首長である速津媛が天皇を出迎える記事など、この時代に至っても卑弥呼の様な女首長の存在を伝えており、⑶も⑵とほぼ同様の記事となります。


 『地名辞書』によれば豊前国田川郡夏吉(現在の福岡県田川市)に神夏磯媛の塚を伝えており、神夏磯媛はこの辺りの地域を拠点にしていたと思われます。また同書には「企救京都田川三郡の長なりしや」⑻と、後の豊前国の三郡にあたる地域の支配者であった事を推測しています。服従の際、所謂三種の神器にあたる神宝を掲げ、配下の数も「其徒衆甚多」と書かれているので、史実であれば後世の国造程では無いにせよ、この媛の勢力はそれなりのものだったかも知れず、邪馬台国連合の中でも有力者だったのかも知れません。福岡県田川市の福岡県立西田川高等学校内(上本町7番11号)一帯に位置する上本町遺跡は弥生時代前期から中期後半の住居跡や貯蔵穴跡の遺構を確認でき、集落を営んでいたことが明らかとなっており、田川地域では珍しい大型の甕棺墓が確認されており、甕棺は埋葬用の容器で、出土した甕棺の大きさから成人用として作られたと考えられており⑼、神夏磯媛の祖先が葬られていたのかも知れません。


 一方、速津媛は豊後国速見郡(現在の大分県速見郡・別府市・杵築市。碩田の北方)辺りを拠点とした女酋と想定されます。⑶で速見郡の由来が速津媛国から来ているという話が事実であれば、この地域の有力なクニの首長であった可能性があります。速見はやみ郡山香町・国東くにさき半島基部を流れる八坂川中流にある旧石器時代後期から前期縄文時代の遺構である川原田洞穴遺跡の住民は土蜘蛛の青・白と関係があるという主張⑽もあるようです。又、打猿・八田・国摩侶が住む柏原郷禰疑野は、大野川上流の竹田市菅生禰疑野神社一帯の台地が想定され、ここに直入郡唯一の前方後円墳をもつ七ツ森古墳群の成立をみたことは、後の直入県の設置等この地がいち早く大和王権に組み込まれたことを示しており、まさに『豊後国風土記』にみる土蜘蛛説話の中心舞台であると言います。⑾


 神夏磯媛は鼻垂・耳垂・麻剥・土折猪折と言った山川にはびこる賊、速津媛は青・白・打猿・八田・国摩侶という名の土蜘蛛を討つように天皇に進言しており、想像を逞しくすれば、媛達のクニが外敵により危機に陥っており、大和政権に救援を求めたようにも捉えられます。賊や土蜘蛛は大和政権側の見方に過ぎず、熊襲とは区別するために賊や土蜘蛛と便宜的に呼ばれていたのかも知れません。


 津田左右吉氏は熊襲に関してヤマトの朝廷が初めてこの地方と直接、もしくは間接的に接触を生じた時に、狗奴国が存続していたのであれば、それを此の勢力であったかもしれないとし⑿、井上光貞氏もクマを倭人伝の狗奴国に相当するものとし、大和政権の勢力が浸透し、火国造の支配領域が確定していくにつれ、その勢力の及ばない地域の住民を総称してクマソというようになったのではないかと推測しています。⒀


 一方の土蜘蛛に関しては考古学や民俗学・言語学といった幅広い視座から明治時代に活発に議論された時期(例えば中多薫氏による古典に見える土蜘蛛は全てアイヌ語で説明できるというアイヌの先祖蝦夷と同人種説や、それに反する喜田貞吉氏の千島アイヌは古津軽蝦夷の後裔であり、土蜘蛛とアイヌは全然異なる特異な民族とする説など)がありましたが、戦後はそれ程議論にならず、現在でもよく分かっていません。ですが、津田左右吉氏の「土蜘蛛伝説は、土蜘蛛の名は朝廷が旧辞文学の上だけで用いたのであって、土蜘蛛の名から、手足が短いと穴居の説話が成立した」⒁と言う説と、一方、水野裕氏の「東国の土蜘蛛伝説は最も後に成立した新しいものである。それは、『九州風土記』に見えるような九州の土蜘蛛伝説を基にして発達し、政治的意図のもとに潤色をうけて成立した大和の土蜘蛛伝説をも合わせた上で、東国の伝承とそれらを結合して成立したものである」⒂、つまり土蜘蛛伝説の本体は九州にあって、それが大和へ、大和から東国に伝播したと言う説が現在でも有力な説であるのかと思います。


 ⒁に関しては⑽のような主張もあるので、地域によっては実際に穴居の実態があったと認め得るのではないでしょうか。又、⒂は王朝交代説と絡めると本質を見誤るのですが、あくまでも伝説の伝播の道程としては妥当と理解すべきところです。


 民俗学的な見解としては、谷川健一氏は鉱山で働くのが小人であるという伝承が世界各地に分布している事から、手足が長いが銅は短くまるで小人の様であることを指摘し、神武天皇紀に登場する土蜘蛛の赤銅あかがねの八十梟帥やそたけるについて鋳銅に関連した工人であり伊福部氏(物部氏と同族)に属した金属工人である⒃と考えました。ですが、水野氏の説を取れば九州と大和など別地域の土蜘蛛は別個に考える必要があり、本稿で取り上げる九州の土蜘蛛とは事情が違うと考えた方が良さそうです。


 津田氏と水野氏の意見を部分的に取り入れた上で推測すると、九州の土蜘蛛に関しては邪馬台国や熊襲、そして大和勢力と言った勢力以外の土着勢力を称した可能性が考慮されます。


 若干想像を逞しくすれば、当時の九州は渡来文化と縁が深い邪馬台国を中心とした連合勢力(神夏磯媛や速津媛等は元同盟者か?)・土着勢力の大国である狗奴国(熊襲)・土蜘蛛と呼ばれる縄文文化を残す土着の独立勢力が入り乱れた紛争状態で、更に大和政権勢力が加わり、九州内での覇権争いが最も激しかった時期だったのが、日本書紀や風土記が書かれた頃には正確に伝わらず、説話的に描かれてしまったのかも知れません。


 ⑵⑶で、わざわざ刀剣よりも殺傷力が劣る海石榴の槌で土蜘蛛を撲殺する話は異形の邪霊を撃退する呪術がその背景にあると考えられ、後半部の戦闘に関する智略は穴居生活の有利な陣形を取らせない実際の戦闘行為を伺わせ、神祭りを行う首長を帰属させた後、周辺の異族を制圧する過程も現実的である⒄という主張はもっともかと思います。


 神夏磯媛や速津媛等の治める小国クニは邪馬台国の支配下、あるいは邪馬台国と同盟関係にあった小国が、邪馬台国という後ろ盾がこの頃には体を無くしており、存亡の危機に瀕していたという背景があり、新たな庇護者として大和政権を頼ったのが事実ではないかと推測出来ます。


 所謂大和政権が武力ではなく、緩やかな連合政権として平和的にその勢力を全国に拡張していったとも言われていますが、実際は友好的な小国を武力で庇護・協力する事によって、友好国の敵対勢力を征討することもあり、それが景行天皇紀の九州巡幸のような説話として残された可能性もあるかと思います。


 『古事記』に同様の記事が無い事から、景行天皇紀の九州巡幸に関する記事は古事記編纂後の創作と言われていますが、裏付けとなる証拠がありません。(北九州地域の風土記と景行天皇紀の九州巡幸記事のどちらが先に書かれたか、井上通泰以来の風土記甲類乙類の議論はありますが、どちらが先にせよ、古事記より後の創作である事を前提にしているのはあまりにも恣意的と言わざるを得ません。)当方としては邪馬台国北九州説を取れば、これまでの主張どおり、景行天皇紀の史実性を考慮する余地も充分あるのではないかと思います。


 私見ですが狗奴熊襲国との対立、卑弥呼から数世代後にやってきた景行天皇の受け入れにより衰退し、尚も細々と続いた邪馬台国が遂に神功皇后の時代の前に滅びてしまったのかと思います。以下に具体的に見ていきましょう。



⒅『日本書紀』巻九神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年(庚辰二〇〇)三月 丙申廿五日

丙申。轉至山門縣。則誅土蜘蛛田油津媛。時田油媛之兄夏羽。興軍而迎來。然聞其妹被誅而逃之。

(丙申、山門縣やまとのあがた轉至うつりまして、則ち土蜘蛛つちくも田油津媛たぶらつひめつみなふ。時に田油媛にいろね夏羽なつはいくさを興して迎來まうく。然るに其のいろせころされしことを聞きて逃げぬ。)


⒅解説

 山門縣は『倭名類聚抄』によれば、筑後國山門郡大和郷(福岡県山門郡山川村)とあり⒆、邪馬台国の比定地の一つとされていることから、記事に登場する田油津媛が卑弥呼と関係あるのか誰でも気になる事かと思います。


 田油津媛は『日本古語大辞典』によれば、「常陸国風土記にも油置女という女酋の女が見えるから、此土蜘蛛も田のアブラ媛かも知れぬ。アブラは夷族の称號ハブリの轉説てんせつであろう」⒇とし、ハブリについては「神武天皇大和平定の当時に巨勢のはふり、猪祝や神功紀の天野祝、小竹祝、景行紀の大 羽振邊はふりべという蝦夷の名が見え、これ等を合わせて考えるとハフリはハヤブリ(千速振のハヤブリ)の義で勇猛を意味し、酋長の称號に用いられたと思われる」(21)とのことです。福岡県みやま市瀬高町大草の小山に蜘蛛塚という祠があり、田油津媛の墓であるとも言われています。


 本条は田油津媛の殺害を主体としており、兄の夏羽が軍事を司っていながら妹が殺害された事を以て逃走していることから、女性である田油津媛の方が地位が高い指導者的な立場にあり、男である兄がサポートする、所謂ヒコヒメ制的な統治形態を伺い知ることができ、これは邪馬台国の統治者は卑弥呼であり、弟が国を佐治たすけおさめていたことと共通します。


 以上の類似性から土蜘蛛=邪馬台国勢力と解釈が出来なくもありませんし、実際、田油津媛を卑弥呼とする説も存在したらしいですが、何度も取り上げている様に神功皇后紀の出来事は史実から干支二巡一二〇年ズレている為、少なくても田油津媛が卑弥呼本人であると言う可能性は皆無と言わざるを得ません。


 かつて土蜘蛛に関して多くの研究を残した喜田貞吉氏は、田油津媛について「女王国(邪馬台国)の王位を継承せし一女王なりしなるものべし」とし、卑弥呼の子孫である説を掲げ、土蜘蛛については「上は石器時代の未開・半開の民俗より、下は支那の文化を移植して、頗る開明の域に進める倭人王までの包括し、その皇命を拒みて敗残者となれるものは熊襲、隼人等、特別の名を以て呼ばれたるものの外、一般に貶称してこれを土蜘蛛と呼びしものなるべし」(22)としましたが、何故記紀や風土記がこれ程多様な異民族の分類をしているのか理由を示されておらず、熊襲や隼人と何故区別されたのか説明されていない事や、『肥前国風土記』彼杵郡周賀郷の条の鬱比表麻呂の様に土蜘蛛の中には皇軍に友好的な存在の話もある事から、喜田氏の説が妥当とは言い難いです。


 ⑵で速津媛が語る土蜘蛛が穴居などの石器・縄文時代的な習俗を伝えているのに対し、⑴の神夏磯媛の服属儀礼が、魏志の伝える「鬼道能惑衆」という卑弥呼の祭祀(「鬼道」は初期道教の経典『太平教』に見え、五斗米道の張魯が「鬼道を以て民を救え」たとか「張魯の母は始め鬼道をもちう」とある(23)。神夏磯媛が賢木に掲げた鏡や剣は道教の祭祀では欠かせないものである。)を想起させることから、土蜘蛛と邪馬台国の勢力は異なるものであり、両者は対立していたと考えるべきでしょう。故に土蜘蛛の田油津媛は邪馬台国の女王ではあり得ません。私見ですが、狗奴国の侵攻や景行天皇の時代から始まる大和勢力の進出などが重なり、弱体化しきっていた邪馬台国はこの頃既に土蜘蛛(=熊襲狗奴国の同盟者)に滅ぼされてしまったのではないかと想像しています。


 『日本古語大辞典』によれば、「ツチクモ(土雲、土蜘蛛)」について「クモはクマの転呼」「先住民の称呼で、ツチは土着、もしくは土中居住(穴居)を意味し、クマ族の異称として用いられたものである。――雲、蜘蛛が借字でなることは勿論である」(24)とあり、又、「クマソ」については「クマソをクマ族集団の意で、その占拠した地方をクマソの国といひ。略してソの国とも称したのであろう」(25)とある様に、古くは熊襲と土蜘蛛が同じ「クマ族」として考えられていた様ですが、記紀で熊襲と土蜘蛛で敢えて別称で呼んでいた事から、恐らく両者は別集団ながらも、近しい関係を築いており、それが「クモ」「クマ」と似た呼称になったのではないかと思います。


 『日本書紀』巻九神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年三月壬申朔を最後に『日本書紀』において熊襲に関する記述は無くなり、同月に⒅の記載があり、奇しくも土蜘蛛に関する記事もこれが最後になります。つまり狗奴熊襲国滅亡とほぼ同時期に邪馬台国も大和政権に滅ぼされてしまったという可能性もありますが、今まで見たてきた様に九州の記事で言う土蜘蛛は邪馬台国ではなく、恐らく熊襲側の協力者と見るべきであり、⒅以前に熊襲か土蜘蛛により邪馬台国は滅ぼされていたのかも知れません。


 


◇纏め

 私見による古代九州の勢力について纏めると以下になります。


➀旧邪馬台国連合勢力……邪馬台国が衰退し、土蜘蛛・賊(熊襲の同盟者か?)等に脅かされており大和政権を頼った北九州の小国クニ。神夏磯媛や速津媛等。

②熊襲……九州中部から南部を支配する狗奴国の勢力。熊津彦・川上梟帥・羽白熊鷲等。

③土蜘蛛……➀や②とは別の土着勢力。⑵⑶の記事から①とは敵対的であり、②との同盟関係も想定される。⒅の田油津媛は邪馬台国を滅ぼした勢力か?


 神功皇后紀の後、熊襲に関する記述が消え、以降は隼人に関する記事が登場しだすので、神功の時代に狗奴熊襲国は滅亡し、狗奴国の一部残存勢力が曽の隼人などに引き継がれたかと思います。これらの多くは仁徳天皇の后となる髪長姫を輩出した日向諸県君の支配下に置かれたと思われます。


 土蜘蛛の中には『肥前国風土記』彼杵郡周賀郷の条の鬱比表麻呂が神功皇后の船を救った説話も描かれており、必ずしも全ての土蜘蛛が大和政権に敵対的であるとも言い切れず、当然のことながら地域差があったようです。


 ⑴⑵⒅と同様の内容が『古事記』に無い事から、史実性を疑われるかも知れませんが、『古事記』に無いという事は信憑性の低い『旧辞』以外の資料を基に記事が書かれた可能性も高く、寧ろこれらの記事に史実性を見出す事も可能ではないかと個人的には思います。こういう発想をする人は少なそうですが(滝)


(追記:かつて西田長男氏は『日本古典の史的研究』(理想社)で播磨国風土記を通路として、聖徳太子等が編纂した国記が後の風土記に該当し、更に記紀姓氏録等の原資料となったことを実証したそうです。もし、この説が正しく、風土記が国記に基づくのであれば、風土記が古事記を遡る古い資料が反映されている可能性も否定できません。或いは履中天皇紀の伝える『四方志』がその原型でかも知れませんが、これについては後日取り上げるつもりです。)


 考古学者の小田富士雄氏は「景行紀」の一二年八月および一八年三月にはじまる天皇巡行コースがほぼ実際の地理と合致し、その範囲が九州地方の四~五世紀前半頃に比定される畿内型古墳の分布と重なる事から、景行巡幸説話の歴史的背景は、このあたりの事実に基づいているのであろうと推察しました。さらに、土蜘蛛については、大和朝廷の統一事業に対して土着の長として反抗し、服属させられる運命にあった人々であり、また僻地に住んでいて、農耕を主たる共通の生産手段にもって大和国家に早く同化した人々と異なり、狩猟・漁撈などの先史時代的生活にとどまらざるをえなかった人々で、大和文化圏とはやや異なった生活形態や習俗を産み出していったために土蜘蛛の呼称を与えられたのであろう(26)としたのは極めて妥当な見解かと思われます。


 以上で、邪馬台国に関する論考は一旦締め括らせて頂きたいと思います。



◇追記 考古学的知見による狗奴国

 本稿では津田左右吉・井上光貞両氏の説に従い、狗奴国=熊襲と解釈していますが狗奴国に関しては諸説あります。文献史学的には両氏の説が一般的である一方、考古学的知見では伊勢湾沿岸から濃尾平野に及ぶ東海の勢力を想定する見解が多く、その地域は前方後円墳岳墓や前方後方墳が広がり、それ以前に三遠式銅鐸の分布した地域であり、狗奴国をその地域に仮定して良ければ、邪馬台国と狗奴国の争いの結末は、古墳の動向から判断して、邪馬台国の勝利か、邪馬台国主導の和平に終わったものと推察される(27)とのことですが、これは邪馬台国大和説に基づいた主張かと思われ、大和説に関しては前稿含め過去の稿で批判したとおりです。それに邪馬台国が九州にあれば、対抗勢力である狗奴国が遠く離れた東海地方にあるとは思えません。


 また、この地域が大和王権に抵抗したという記事も乏しく、せいぜいヤマトタケルに対する抵抗やミヤズヒメの婚姻(=尾張氏の服属)ぐらいしか伝わっておらず、熊襲の様に何度も天皇に抵抗したという記事もなく、文献的な裏付けが充分ではありません。


 この地域の遺構に関しては狗奴国と無関係であり、弥生期には独立勢力であったクニが、大和政権の樹立後、時間をかけて取り込まれていった結果に過ぎず、その記憶がヤマトヒメやミヤズヒメの伝承として反映されているのかも知れませんね。

 



◇参考文献

⑴『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/75

⑵『国史大系 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/76

⑶『標註古風土記』栗田寛 纂註 大日本図書

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/993215/150

⑷『豊後国志 : 附・箋釈豊後風土記』唐橋世済 纂輯 二豊文献刊行会

https://dl.ndl.go.jp/pid/1181222/1/171

⑸『豊後国志 : 附・箋釈豊後風土記』唐橋世済 纂輯 二豊文献刊行会

https://dl.ndl.go.jp/pid/1181222/1/43

⑹『別府の文化財-鬼ノ岩屋古墳群の装飾壁画-』別府市教育委員会 別府市文化保護審議会

⑺『日本書紀㈡』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 67頁 注12

⑻『大日本地名辞書 上巻 二版』吉田東伍 著 冨山房

https://dl.ndl.go.jp/pid/2937057/1/732

⑼福岡県田川市公式サイト

https://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/kiji0034799/index.html

⑽『別府史談』別府史談会 59頁(「速見の「土蜘蛛」と「田野」について:豊後国風土記雑感」 安部和也)

⑾『風土記の考古学⑷ 豊後国風土記の巻』小田富士雄 編 同成社 57頁

⑿『古事記及日本書紀の研究』津田左右吉 岩波文庫

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1085727/1/130

⒀『日本書紀㈡』井上光貞・大野晋・坂本太郎・家永三郎 校注 岩波文庫 363頁 補注11

⒁『古事記及日本書紀の研究』津田左右吉 著 岩波書店 307-318頁

「土蜘蛛について」

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1085727/1/160

⒂『日本民族の源流』水野裕 雄山閣 291頁

「土蜘蛛」

⒃『白鳥伝説』谷川健一 集英社 171頁

⒄『上代説話辞典』大久間 喜一郎 , 乾 克己 (編集) 雄山閣 269-270頁

⒅『国史大系. 第1巻 日本書紀』経済雑誌社 編

https://dl.ndl.go.jp/pid/991091/1/88

⒆『倭名類聚鈔 20巻 [5]』源順 撰 那波道圓

https://dl.ndl.go.jp/pid/2544220/1/15

⒇『日本古語大辞典 [正] (語誌篇) 増補版』松岡静雄 編 刀江書院

https://dl.ndl.go.jp/pid/1870643/422

(21)『日本古語大辞典 [正] (語誌篇) 増補版』松岡静雄 編 刀江書院

https://dl.ndl.go.jp/pid/1870643/532

(22)『日向国史 古代史』喜田貞吉 東洋堂

https://dl.ndl.go.jp/pid/1212882/1/66

(23)『改訂 日本古代史新講』梅村 喬, 神野 清一 (編集)  梓出版社 207頁

(24)『日本古語大辞典 [正] (語誌篇) 増補版』松岡静雄 編 刀江書院

https://dl.ndl.go.jp/pid/1870643/1/448

(25)『日本古語大辞典 [正] (語誌篇) 増補版』松岡静雄 編 刀江書院

https://dl.ndl.go.jp/pid/1870643/1/289

(26) 「豊後・肥前風土記」小田富士雄『日本古代文化の探求』大林太良・編 社会思想社

(27)『改訂 日本古代史新講』梅村 喬, 神野 清一 (編集)  梓出版社 39頁


◇関連稿

・吉野ケ里遺跡⑵ 『肥前国風土記』に見える遺跡付近の伝承と景行天皇の実在性について

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330659484533629

・卑弥呼は記紀に登場する人物か?

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330660819887192

・邪馬台国畿内説による大和王権初期の王統譜について考古学的知見

https://kakuyomu.jp/works/16816452219091770654/episodes/16817330651233134334

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