吉野ケ里遺跡⑵ 『肥前国風土記』に見える遺跡付近の伝承と景行天皇の実在性について

 前稿で吉野ケ里遺跡について取り上げましたが、上古の文献で何かしら手掛かりになるものが無いか探してみました。そもそも八世紀の文献で三世紀頃の実態を伝えるのは困難な為、恐らく歴史学者が積極的に取り上げていないので、無関係の可能性も高いですが、一応自分なりの仮説を立ててみます。(仮説に過ぎないのでツッコミどころがあったら教えて下さい)


◇『肥前国風土記』に見える吉野ケ里遺跡付近の伝承


⑴『肥前国風土記』神埼郡宮處郷

宮處鄉。〈在郡西南。〉同天皇。行幸之時、於此村奉造行宮。因曰宮處郷。


宮處みやこさと。〈こほりの西南に在り。〉おなじき天皇すめらみこと行幸みゆきしし時、此の村に行宮かりみやを造りまつりき。因りて宮處みやこさとと曰ふ。)


*同天皇……纏向日代宮御宇天皇(景行天皇)


⑵『肥前国風土記』神埼郡

神埼郡。鄉玖所〈里二十六〉驛壹所、烽壹所、寺壹所〈僧寺〉。

昔者、此郡有荒神。往来之人多被殺害。纏向日代宮御宇天皇。巡狩之時、此神和平。自爾以来、無更有殃。因曰神埼郡。


神埼かむさきこほりさと玖所ここのところこざとは二十六〉うまや壹所ひとところとぶひ壹所ひとところてら壹所ひとところほふしの寺なり〉。

昔者むかし、此のこほり荒神あらぶるかみ有り。往来ゆきき人多ひとさはに殺害被ころさる。纏向日代まきむくひしろみや御宇あめのしたしらしめす天皇すめらみこと巡狩みかりの時、此の神をやはことむけたまへり。爾自それより以来このかたさらおそり有る無し。因て神埼かむさきこほりと曰ふ。)



◇解説

 ⑴は「景行天皇が行幸の際に行宮を御造り申し上げた為、宮處の郷と言う」との地名由来譚であり、この地は旧神埼市千代田町の西南部地域が比定され、吉野ケ里町とは隣接する地域の為、景行天皇(あるいは日本武尊の様な当時の将軍)がこの地域を前線基地として、邪馬台国、或いは吉野ケ里にあった何らかのを征服した可能性も考慮できるかも知れません。


 ⑵は「この郡に荒々しい神が居て、道を行き来する人が、たくさん殺されたが、景行天皇が巡幸なさった時に、この神はやわらぎ静かになった。それ以来災いが起こらなくなったので、神埼の郡と言う」とあります。


 『太宰管内志』によれば⑵について「荒神則今ノ櫛田社ナリ」⑶とあり、現在の佐賀県神埼市神埼町神埼の櫛田宮が話の舞台として想定されおり、この宮は吉野ヶ里遺跡公園の西口から長崎本線を越えた南西約1kmに位置しています。現在、櫛田宮の御祭神は須佐之男命、櫛稲田姫命、日本武命の三柱との事ですが、寛文10年(1670)に書かれた『神社啓蒙』七巻の櫛田神社の項によれば「在肥前神埼郡所祭神一座大若子命〈天御中主神 十九世孫〉垂仁天皇御宇有北狄退治之功賜大幡主命也〈註伊勢巻〉」⑷とあり、つまり、垂仁天皇の代に北狄を退治して功を賜った大幡主命が大若子命であると説明されています。『太宰管内志』ではこれを「後に祭れる方を本としてかくはものしたるなるべし、櫛田と云名も式に伊勢國多氣郡櫛田神社とあるに因れりと聞ゆ」⑸と説明しています。


 『佐賀縣誌』神埼郡の官社・櫛田神社の項によれば「荒キ神ハ本社ノ神ニハ非サルカ、本社、驛ヶ里ニ近ケレハナリ」⑹とありますが、井上通泰は『肥前風土記新考』で、「驛址に近い事を以て証とするには足らず、荒ぶる神ありしは驛が置かれるよりも遥かに前の事である」⑺と指摘し、⑵の荒ぶる神を櫛田神社の祭神と結びつける事を否定しています。驛に関しては大化の改新の際に設置のことが詔りされたので、日本書紀の記述を信じても斉明天皇の代を遡らないので、井上氏の指摘は妥当と言えます。


 では、それよりも遥か前のこととなると、荒ぶる神をこの地の抵抗勢力、すなわち邪馬台国、或いはこの地に存在したによる大和王権への抵抗と推定するのは論理の飛躍でしょうか?


 『日本古語大辞典』によれば「アラブル神は必しも神霊を意味すものではなく。狂暴慄悍なる土酋の意に用ひた場合が多い。日本武尊が東国のアラブル神を平定せられたとある[紀]が如きはその一例である」⑻と説明されている様に、⑵の荒ぶる神を大和王権との敵対者とみなす解釈も空想とは言えません。


 一方、津田左右吉氏はヤマトタケルの説話を取り上げ、「あらぶる神」「ちはやぶる神」に関しては政治的叛逆者に対する譬喩的名称ではなく、宗教的発現とみるべきであると述べ、政治的叛逆者である「まつろはぬ人」と区別されて、これらの表現で書かれている内容を史実ではない⑼としますが、3世紀末から4世紀の初め頃、吉野ケ里の集落が突如途絶えた事は、本話が間接的に史実を伝えているのではないかとも推測する事が可能かと思います。


 ⑴⑵の記事は景行紀にも無い内容であり、他の文献から史実性を検証するのは困難ですが、もし邪馬台国、或いは何らかのクニがこの地にあったとすれば、『肥前国風土記』や更に言えば景行天皇紀の九州巡幸記事の史実性も考慮して良いかも知れません。地名辞書によれば櫛田神社の創建時期を「景行帝の時創建を称す」⑽と言うのも、今まで見て来た経緯から、祭神や社名が異なっていた可能性があるものの、時期に関してだけは大袈裟とも言えないのではないでしょうか? 但し、風土記の記事や景行天皇を架空の存在とする津田史観からすれば、この仮説は当然否定されるものかと思われます。


 景行天皇紀や風土記の景行天皇巡行記事に対する批判論は、今でも津田左右吉氏の主張が基本的な認識になっているかと思います。具体的に上げれば、天皇の九州巡幸について、書紀の行幸経路には地理上の錯誤が多く認められるが、それは地理的知識が明確でない遠方の地名を机上でつなぎ合わせたことによると思われること。物語を構成する種々の説話は主として地名説明のためのもので、事実とみなすことは困難であること。登場する人名も、地名をそのまま用いたもの(ハヤツヒメ・クマツヒコ・アソツヒコ・ヤメツヒメ)や、二人のずつの連称(ハナタリ・ミミタリ)が多く、これらは物語を作るために案出されたもので、実在の人物とは思われないこと。中華思想に基づく修辞が認められること等を取り上げ、風土記についても古伝の大多数は、書紀又は昔からあった旧辞から発展したものであり、然らざるものも多くは机上の製作であって、地方の伝説ではない⑾と主張しましたが、僭越ながら指摘すると、津田氏の文献解釈に問題がある事と、昨今の考古学の現状をみると、津田氏の説が妥当とも言い切れない状況だと思います。


 例えば、地名を用いた人物は葛城ツヒコの様に極めて実在性の高い人物が中央にも見られますし、津田氏が連称の例で取り上げている「鼻垂」は借字でハナはホネ(秀根)の転呼でタリ(足)は美称⑿なので、本来は「ホネ」或いは「ホネタリ」とでも呼ばれていたのでしょうし、「耳垂」は御身足の義で尊称なるが朝敵のゆえに筆殊の意を以て耳垂の二字を用いたのであろうし、九州土豪の名にはこの様な例が少なくない⒀という松岡静雄氏の解釈に従えば、「秀根足」「御身足」と両者が鼻や耳とは無関係になるので、日本書紀の字面通りに解釈したにすぎない津田氏の指摘は的外れと言わざるを得ません。


 それに、3世紀末から4世紀の初め頃、吉野ケ里の集落が突如途絶えたのは大和王権との抗争の結果、邪馬台国、或いはこの地のクニが滅亡、或いは後世、葛城襲津彦が朝鮮から多くの捕虜を連れ去った例の如く、吉野ケ里の住民が大和に連れ去られたことを示唆するのかも知れません。


 そうであるとすれば、⑵の様な伝承へと形が変遷したものの、伝承の核としては史実を伝えている可能性も推測できます。又、南九州で大和王権との繋がりを示す前方後円墳が造営されるのは4世紀前半(後半と言う説もあり)の生目1号墳が一番最古のものであり、被葬者は景行天皇の皇子である豊門別命とよとわけのみこととも言われている事から、その前段階として景行の九州巡幸は史実である可能性も考慮できますし、津田氏の主張する様に中華思想に基づく修辞があるから、或いは机上の製作と言って事実の記録ではないとは断言出来ないのではないでしょうか?


 弥生時代の出来事をどうやって伝えていたのか疑問があるとはいえ、弥生時代中期には佐賀県唐津市の中原なかばる遺跡でも未完成品の硯と石鋸、墨まで発見されていることから、想像を膨らませれば、この地域でも当時の記録が断片的に残されていたのかも知れず、この記録が時の流れと共に変遷して本日の形で伝わった可能性があるかも知れません。


 風土記の⑴⑵の記事に関しては日本書紀に掲載されていませんが、津田氏が主張する様に旧辞を参考にしたものである可能性は否定しきれません。(もっとも旧辞の原文が存在しない為、旧辞を参考にしたという証明も否定も出来ない為、こういった類の主張は言ったもの勝ち的な姑息ささえ感じます)ですが、記事の地域近隣に吉野ケ里遺跡のような遺構が見つかったことは、風土記がとしては史実を伝えている可能性も充分考えられます。もし、津田氏が御生存の間に吉野ケ里遺跡が見つかっていれば、或いは見解も変わっていたのかも知れない事が惜しまれます。


 問題があるとすれば、吉野ケ里の集落が途絶えたのが3世紀後半か4世紀前半であり、景行天皇陵である渋谷向山古墳の造営時期が4世紀中頃か後半であるのに対し、前者が4世紀前半の出来事だと仮定した場合、後者が4世紀中頃に造営されたとし、渋谷向山古墳が景行の死後に造営されたものであれば、景行の生存時期に被る可能性もあり史実性が認められますが、前者が3世紀後半、後者が4世紀後半であれば1世紀程ずれてしまい、景行天皇よりも以前の時代になってしまう可能性がある事でしょうか。


 考古学の年代測定が識者によって大きくぶれてしまう事で、各々都合の良い解釈に陥りがちな為、無文字時代の年代測定は容易く結論付けられませんが、これまで見て来た様に景行紀・風土記の記述、そして景行天皇の存在までも否定する歴史学者の主張を安易に肯定する訳にもいかないかと思いました。



◆附録

⒁『佐賀縣誌』神埼郡 官社 櫛田神社(櫛田宮)

「神埼町ニアリ、祭ル神、大若子オオワカコノ命〈伊勢神宮ノ神主ニテ種々實效ヲ立ツ垂仁天皇ノ時ノ人ナリ〉、建立ノ年月詳カナラス、天授三年、左少将某ノ文書ニ、本社所々ノ本領等、知行相違アルベカラサル由、一品親王ノ御氣色此ノ如シ、永仁ノ頃、左衛門権ノ佐某ノ文書ニ、本社造營ノ事、ソノ沙汰ヲ到サルベシ、天氣此ノ如シ、等ノコト見ユ、上ニ云ヘル、荒キ神ハ本社ノ神ニハ非サルカ、本社、驛ヶ里ニ近ケレハナリ、太平記ニ、元弘三年、菊池寂阿カ、櫛田ノ宮ニ矢ヲ射入レシコトアルハ本社カ、博多ナル同名ノ社カ、未タ確徴ヲ得ス、本社今ハ縣社タリ」


*博多ナル同名ノ社……現在の福岡県福岡市博多区上川端の櫛田神社。


⒁解説

「博多ナル同名ノ社」つまり、博多に分祀されて創建されたと言う博多市の櫛田神社では櫛田宮と違って日本武尊ではなく、大幡主神(大若子命)が祀られています。櫛田神社としては唯一、櫛名田姫を祀っていない神社らしいですが、これは分祀の際、大幡主神も御遷りになられたということかも知れず、寧ろ博多の櫛田神社の方が本来の形に近いのかも知れません



⒂櫛田宮の伝説(公式サイトより引用)

 大昔大蛇が住民を苦しめた。鼻は花手に尾は尾崎までおよぶ長さ六丁の大蛇。人々は野寄に集まりて協議して、柏原から柏の木を伐ってきて伏部からふすべ(クスベ)た。大蛇は苦しみ蛇貫土居をのがれ、蛇取で退治された。今も蛇取に蛇塚がある。

 なお尾崎太神楽の獅子は他所の獅子舞とは異なり大蛇を表現したものであり、蛇は櫛田神の使い(眷属)で、その伝説は霊験記(室町時代)にまとめられている。


⒂解説

 ⑵の伝承より生まれた後世の牽強付会と思われます。室町時代の頃には既に吉野ケ里の弥生人どころか肥前国風土記が書かれた時代の記憶すら喪失していたことでしょう。或いは、櫛田宮の神が肥前国風土記の荒ぶる神であるかも知れないという不名誉な伝承を、眷属の蛇の仕業である様に仕向けて、隠蔽したいという意図もあったのかも知れません。


 なお、櫛田宮の伝承を収めた室町時代の霊験記なる書を確認したかったのですが、○○霊験記という書は奈良時代から江戸時代にかけて複数種類存在し、デジタルコレクションでも恐らく別の書であろうものしか見つからなかった為、原文が確認出来ませんでした。止むを得ず公式サイトの内容を引用しましたが、もし原文の情報がありましたらご教示ください。




◆参考文献など

⑴『標註古風土記』栗田寛 纂註 大日本図書

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/993215/1/133


⑵『標註古風土記』栗田寛 纂註 大日本図書

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/993215/1/132


*⑴⑵は原文を訓読文にする際、若干訓みを改めました。


⑶⑸『太宰管内志 下巻』伊藤常足 編 日本歴史地理学会

https://dl.ndl.go.jp/pid/766662/1/33


⑷『神社啓蒙 7巻目録1巻 [8]』白井宗因 水田甚左衛門

https://dl.ndl.go.jp/pid/2556089/1/3


⑹『佐賀縣誌』佐賀県教育会 編 河内汲古堂

https://dl.ndl.go.jp/pid/766630/1/12


⑺『肥前風土記新考』井上通泰 巧人社 51-52頁

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1875239/42


⑻『日本古語大辞典 [正] (語誌篇) 増補版』松岡静雄 編 刀江書院 124-125頁

https://dl.ndl.go.jp/pid/1870643/1/79


⑼『古事記及日本書紀の新研究』津田左右吉 岩波文庫 283頁

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1918863/1/158


⑽『大日本地名辞書 上巻 二版』吉田東伍 著 冨山房

https://dl.ndl.go.jp/pid/2937057/1/785


⑾『古事記及日本書紀の新研究』津田左右吉 岩波文庫 213-278頁

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1918863/1/123


⑿『日本古語大辞典 [正] (語誌篇) 増補版』松岡静雄 編 刀江書院

https://dl.ndl.go.jp/pid/1870643/1/527


⒀『日本古語大辞典 [正] (語誌篇) 増補版』松岡静雄 編 刀江書院

https://dl.ndl.go.jp/pid/1870643/1/625


⒁『佐賀縣誌』佐賀県教育会 編 河内汲古堂

https://dl.ndl.go.jp/pid/766630/1/12


⒂櫛田宮公式サイト-「櫛田宮の伝説など」

http://www5b.biglobe.ne.jp/~kusidagu/densetupage.html

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