上代の年代の推測方法


◇神功皇后・応神紀から年代を推測する方法


 今回は前稿の続きで、『日本書紀』の記載で上代から大体の年代を推測する方法について述べます。


 那珂通世の「上世年紀考」によると、例えば神功・応神の二代の紀年を朝鮮の歴史と比較すると、両者の干支符号すると、書紀は干支二巡り百二十年古い事となっている事例が多く見出されるとの事。


 具体的に言えば、神功55年(西暦255年)に百済の(近)肖古王が崩じる記事がありますが、これは『三国史記』に近肖古王30年(乙亥年、西暦375年)の冬11月に崩じた記事があるので、干支二運で120年後の出来事で一致しています。


 他にも神功52年(西暦252年)七枝刀ななつさやのたちが百済より献上された記事がありますが、この刀は現在石上神宮に伝存されている七支刀にあたると考えられており、「泰和四年(東晋海西公の太和4年、西暦369年)」に作成された事が金象嵌で記されています。


 西暦369年に作成されているとしたら、七枝刀が献上された神功52年にあたる西暦252年を干支二巡先の出来事とすると西暦372年であり、ほぼ正しい年代に当て嵌める事が出来ます。


 また、葛城襲津彦の朝鮮への出兵記事なども干支二巡先に当て嵌めれば、好太王碑文に書かれている倭人との戦いの記事とほぼ近い時期になります。


(因みにこの方法により、魏志を引用し、神功皇后=卑弥呼である事を匂わせる『日本書紀』の記述は破綻する事になり、神功や応神が弥生時代の人物では無い事の証明になります)



◇応神以降の実年代の推測方法


 また、応神以降の実年代についても『宋書』『梁書』といった中国の文献により倭の五王の在世年代との比較により、大体のところを知る事が出来ます。


 それ以降となると、欽明朝には暦博士が百済から渡来した事が『日本書紀』に書かれていますが、津田左右吉ですらこれは事実であると認めています。無論全てが事実ではないのですが、暦博士渡来以降の年紀は大体信頼して良いものかと思われます。


 なお、『古事記』に目を向けてみると古事記が扱う三十三人の天皇の内、十五人については亡くなった年月を干支で伝えています。


 最初に干支が現れるのは第十代崇神天皇で、崩じたのは戊寅の年(318年)の十二月だったとしており、考古学者の小林行雄はこの年を崇神天皇の崩御年に当てています。


 他に例を上げてみると第十六代仁徳天皇は丁卯(427年)、雄略天皇は己已(489年)、推古天皇は戊子(628年)であり、馬鹿げた長寿の記述はとにかくとして、崩御年に関して言えばかなり現実的な年代に当てはまりそうです。



◇天皇長寿の謎についての一般論と讖緯説に関する素朴な疑問。


 歴代の天皇長寿の謎については、讖緯説により神武即位を紀元前660年という古い時代にしてしまい、この異様に伸びた時期を歴代天皇に割り振った為、百歳以上の長寿の天皇をぞくぞくと創らざるを得なかったというのが定説です。


 只、推古天皇九年(西暦601年)は辛酉年に大革命があったかと言うと、日本書紀の主な記事では斑鳩に宮を建てたとか、新羅を討つ計画立てたという記事がある位で、大した事が起きていないので、讖緯説の影響を受けたという信憑性は疑わしいです。



◇讖緯説以外の説


 では、讖緯説の影響ではないとしたら何故初期の天皇の寿命は長いのか? 歴史学者があまり触れない内容としては(あるいは知っていても触れたくないのか)魏志倭人伝には、『三国志』の元となった『魏略』という書を引用して裴松之の注釈文が書き込まれていますが、魏志倭人伝の一節のすぐ前に、次のように書き入れられています。


「魏略曰:其俗不知正歲四節,但計春耕秋收為年紀。」

(魏略にいわく、その俗、正歳四節を知らず。ただ、春耕秋収を計って、年紀と為す)

・台湾中央研究院 漢籍電子文獻 漢籍電子文獻資料庫より検索

http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw


つまり、倭人の習俗では、中国で用いられている正月から四季をめぐる暦法を知らず、ただ春の耕作のはじまりと、秋の収穫のときを数えて年数にしているにすぎないとの事。


この後、「(倭人は)寿命長く、あるいは百年、あるいは八、九十年」と書かれていますが、現代と違い医療も食糧事情も遥かに劣悪であった当時でそんな長寿のはずがありません。実際は魏略に書かれているように、「春耕秋収」の時期、つまり春と秋にそれぞれ1年を数えていたという説が存在します。


 確かに倭人の寿命が実際は半分の四十歳から五十歳程度だったとすれば現実的です。つまり、倭人は四季で一年を数える暦ではなく、春と秋毎に一年を数えていた為、二倍で年を数えていた時期が存在したかも知れず、『古事記』や『日本書紀』が編纂された時期には普通の暦を使われており、古い時代は春と秋で年代を数えていた事を知らず、原資料の天皇長寿をそのまま書き込んだのではないかとのこと。


 『古事記』で最長寿の崇神天皇は百六十八歳まで生きたと書かれていますが、半分の八十四歳ならば有り得なくも無いです。(因みに四、五世紀の海外の信頼できる文献でもっとも長寿なのは、高句麗の好太王の子息、長寿王の九十八歳なので、八十四歳ならば十分あり得ます。)


 また、『日本書紀』の崩御年を採用するとすれば、最長寿でも垂仁天皇の一四〇歳なので、半分なら七十歳に過ぎず、より現実的な年齢になります。但し、景行天皇は『日本書紀』では百六歳と書かれていますが、立太子の時期が二十一歳で、八十四歳即位、垂仁天皇よりも長寿の百四十三歳崩御が実年齢になります。これを半分にしても七十一歳です。


 『日本書紀』では履中天皇以降、現実的な在位年数になりますが、『古事記』で雄略天皇が百二十四歳と長寿なのは、『古事記』がこの時代に至っても春と秋を一年と数える古い史料を書き写していたのではないかと言う説があります。


 何故か歴史学的には無視されている事柄な上、多くの魏志倭人伝関連の著書で注釈部分が割愛されている為、一般的にはあまり知られていない内容ですが、一部老害と化している歴史学者の権威などに囚われず、今後の研究の発展を期待して止みません。


 ……と纏めて終わろうとしたのですが、そんなの自分でヤレやと言われそうなので次稿では実際に計算したり外国の文献と比較して整合性を確認してみましたので、興味をお持ちの方は引き続きご覧ください。


 



◇参考

・『上世年紀考 増補版』那珂通世・著 三品彰英・増補 養徳社

・『日本書紀 Ⅰ』 監訳者・井上光貞 訳者・川副武胤 佐伯有清 中公クラシックス

・『新版 古事記 現代語訳付き』 中村啓信 角川ソフィア文庫

・『古代天皇はなぜ殺されたのか』 八木荘司 角川書店

・台湾中央研究院 漢籍電子文獻

http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw

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