裴松之の注釈を信じて計算してみました(疲れました)

◇暦伝来まで半分の年数で西暦を換算。


 前稿の続きです。


 ついでに、暦博士渡来迄天皇の統治年数を半分にして各天皇の統治した西暦を換算してみると以下の結果になりました。

 カクヨムでは表が使えないので見ずらいですがご了承下さい。(Excelで計算したものをコピペしましたが、空白で調整する事が難しく、どうしても崩れてしまいます。スマホで見ずらい場合はなるべくPCで閲覧してください)

 計算方法の参照の為に「紀西暦」と「統治年半数」を乗せていますが、見ずらい場合は「諡号」と「換算後の西暦」だけ注目して頂ければ良いかと思います。




諡号 紀西暦  紀統治年数  統治年半数  換算後の西暦

神武 前660   79   39.5     前51

綏靖 前581   34   17      前11.5

安寧 前547   37   18.5      5.5

懿徳 前510   35   17.5      24

孝昭 前475   83   41.5      41.5

孝安 前392   102   51      83

孝霊 前290   76   38      134

孝元 前214   57   28.5      172

開化 前157   60   30     200.5

崇神 前97    63   31.5     230.5

垂仁 前29   100  50      262

景行 71    60   30      312

成務 131    61   30.5      342

仲哀 192    9   4.5      372.5

神功 201    69   34.5     377

応神 270    43   21.5    411.5

仁徳 313    87   43.5    433

履中 400    6    3     476.5

反正 406    6    3     479.5

允恭 412    44    22     482.5

安康 456    2   1      504.5

雄略 458    22   11     505.5

清寧 480    5   2.5     516.5

顕宗 485    3   1.5    519

仁賢 488    12  6     520.5

武烈 500    7   3.5    526.5

継体 507    27   13.5    530

安閑 534    2   1     543.5

宣化 536    4   2     544.5

欽明 540    13*  6.5*   546.5*

暦伝来 553


*欽明朝のみ天皇の代替わりでは無く暦博士渡来迄の年数から逆算。


 上記、紀西暦は『日本書記(下)全現代語訳』(宇治谷孟・著 講談社学術文庫)巻末の年表を参考にしました。


計算方法は以下になります。

①暦伝来まで各天皇の日本書紀の統治年数を半数にする。

②西暦553年から各天皇に遡って、①で計算した年数を引き、西暦を換算する。


 一時期盛んに囃し立てられた倭迹迹日百襲姫やまとととびももそひめ=卑弥呼説を取るならば、一応彼女が没した崇神天皇の時代(西暦230~262年)に卑弥呼が没した(『北史』によると正始。正始は魏の斉王の年号で西暦240~248年)魏志の記事と整合性が取れるので邪馬台国近畿説を取るとすれば裏付けの一つには成りそうですが、倭迹迹日百襲姫の伝承のどこが卑弥呼に結びつくのか理解出来ません。


 『三国史記』の近肖古王が崩じた西暦355年が神功の2代前の成務天皇の治世(西暦342年~372年)に想定されますが、仲哀朝が短かったため、そんなに違和感が無いかも?


 只、倭の五王としてほぼ確定されている安康が504年、雄略の治世が505年頃から治世が始まるすると、倭の五王の時代から少しずれてしまい、上記計算ではやはり無理がありそうです。



◇清寧天皇即位から半分の年数で西暦を換算。


 何時の時代まで「春耕秋収を計って、年紀と為す」事をしていたのか不明な為、上記の計算は暦博士渡来まで行っていた事を推定していますが、試しに実在が確実視され、倭王「武」に当たるとされている雄略天皇の次代、清寧天皇即位から逆算すると以下になります。


諡号 変換後の西暦

神武 前87.5

綏靖 前48

安寧 前31

懿徳 前12.5

孝昭 5

孝安 46.5

孝霊 97.5

孝元 135.5

開化 164

崇神 194

垂仁 225.5

景行 275.5

成務 305.5

仲哀 336

神功 340.5

応神 375

仁徳 396.5

履中 440

反正 443

允恭 446

安康 468

雄略 469

清寧 480



 『宋書』の倭の五王で、「済」は允恭天皇、「興」は安康天皇、「武」は雄略天皇に比定されていますが、健元元年(西暦478年)、「武」が遣いを遣わして方物を献じた記事から逆算していくと、「興」が安東将軍にされた大明6年(西暦462年)の記事は「倭国王の世子」なのでまだ倭国王になっていない安康の事であるとして、元嘉28年(西暦451年)「済」が号を安東大将軍に昇進した記事があります。それ以前の倭王についてはどの天皇に当たるか諸説ありますが、元嘉15年(西暦438年)安東将軍になった「珍」も元嘉2年(西暦425年)と永初2年(西暦421年)の記事に登場する「讃」も上記年表では仁徳の時代になってしまいます。とは言え、西暦440年に履中の治世が始まるとしたら、元嘉15年の「珍」に関しては恐らく履中の事を指し、誤差の範囲内ではないかと思います。


 すなわち、倭の五王とは「讃」が仁徳、「珍」は履中、治世が短かった反正の時代は宋との外交は行われず、「済」は允恭、「興」は安康、「武」は雄略と考えると結構現実的かも知れません。


 神功の統治を西暦340~375年だと想定すると、朝鮮の文献と比較すれば『三国史記』の近肖古王が崩じた西暦355年は神功の治世になりますね。

 七枝刀ななつさやのたちが百済より献上された西暦372年(あるいは369年)も丁度神功の時代になります。


 崇神天皇の統治が西暦194年~225年頃となると、小林行雄の見解とは大分異なって来ますが、小林行雄の頃はこんな説は無かったと思うので違って当然ではありますが……。



◇邪馬台国は北九州にあり、景行天皇の時代に征服されたのか?


 景行天皇紀では景行天皇が九州遠征をする為に周芳すは娑婆さば(周防国佐波群佐波郷)という前線基地に当たる場所に訪れた時、神夏磯姫かむなつそひめという一国の女首長が磯津山(所在地不明。福岡県北九州市と京都郡都に跨る貫山芝津山か?)の賢木さかきを抜いて、上の枝に八握剣やつかのつるぎをかけ、中の枝に八咫鏡やたのかがみをかけ、下の枝には八尺瓊やさかにをかけ、白い旗を船の舳先に立てて参向し、自分達が歯向かう意思が無い事と、北九州の賊について情報を提供する記述があります。


 他にも景行天皇紀には速見邑(大分県速見郡)の首長である速津媛が天皇を出迎える記事があるなど、この時代に至っても卑弥呼の様な女首長が存在した事になり、景行天皇の時代に北九州に存在した邪馬台国が制圧されたと解釈する事も出来ます。


 それが景行の治世である西暦275年頃から西暦305年頃の間の出来事だとすれば、割と信憑性がありそうです。中国と倭人(邪馬台国か不明)との交流は泰始2年(西暦266年)を最後に約150年間途絶えますが、中国側の混乱だけでなく、邪馬台国の滅亡と畿内の政権である大和王権が中国とのパイプを樹立していなかった影響も考えられます。


 神夏磯姫の伝承を見ると、所謂三種の神器と共通性があり、もしかしたら邪馬台国の降伏とともに祭祀が大和王権に引き継がれた事を表現しているのではないかと思います。


 もっともこの伝承は伝承に過ぎず、史実かどうか不明ですし、北九州に邪馬台国があったとしても東遷説もあるので断言できませんが……。



◇どの時代まで史実か推定可能か?


 神功以降は大体合っていそうですが、やはり完全な整合性を求めるのは難しいかも知れませんね。


 海外文献等と比較して史実を推測できる下限(近肖古王の記事・七枝刀という実在する文物)が神功までとすると、この方法でも限界があるようです。


 なお当方は井上光貞氏、直木孝次郎氏等の定説と違い、神功皇后実在派です。応神誕生譚や新羅遠征で船が魚に運ばれたなど、旧辞的な部分は勿論出鱈目ですが、神功の時代から上記の様に史実を証明できる海外の文献や文物があり、日本書紀の信憑性が出てくるので、実在性も高いと考えています。


 ですが、直木孝次郎氏あたりの神功非実在説は常識なので、この記事を見た方は直木氏の説にも何らかの書籍で目を通して頂きたいです。面倒なので割愛しますが(マテ)。当方が取った手法は主流ではありませんのでご注意を。



◇この方法だと初代天皇・神武の実在性を証明できるか?


 個人的には神武天皇が紀元前87年頃に実在していたとしても、既に弥生時代なのでそこまで違和感はありません。


 『漢書』巻二十八・地理誌には


「楽浪海中有倭人、分為百餘國、以歳時來献見云。」

楽浪らくろうの海中に倭人有り、分れて百餘國を為し、歳時さいじを以って來たり献見けんけんすという。)

・『中国正史 倭人・倭国伝全釈』(中央公論社 鳥越憲三郎・著)より引用


 と書かれており、この記事自体が原始大和王権と中国の交流を意味する訳ではないとしても、紀元前には既に日本に多くの小規模な国が樹立されていたと思われる事から、その中の一つに大和王権の母体となる国が存在したとしても不思議はないからです。(因みに百は実数ではなく、多いと言う意味らしいです)


 神武即位前紀の記述を好意的に解釈すれば、隼人を同祖とする日向辺りの首長が、『後漢書』に記されている奴国なこくの様な国、あるいは火闌降命ほすそりのみこと彦火火出見ひこほほでみが争う神話で見られるような隼人との小競り合いから逃れ、紆余曲折の末、神武が大和盆地へ流れ着いたところ、ここでも物部氏の祖先を始め、現地の首長達との争いが発生し、これを制圧したのが神武東征の事実じゃないかという想像もできます。確たる史料が無いので、あくまでも想像の域を出ませんが……。(この辺を小説にしたら面白いかも。批判されまくりそうですがw)


 因みに、『旧唐書』倭国伝では「倭國者古倭奴國也」つまり、「倭國はいにしえ倭奴國わのなこくなり」という記述なので、これを信じれば大和王権は『後漢書』の伝える倭奴國から発祥し、北九州から大和へ東遷した事になりますが、一方で『隋書』倭国伝の「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」つまり、「邪靡堆やまとに都す。則ち『魏志』のう所の邪馬臺やまとなる者なり」という記述の方を信じれば邪馬台国は大和にあって、それが大和王権に繋がったことになり、両書の間に矛盾が生じている為、これら中国の史書でも判断出来ません。


 今回の手法とはアプローチが違いますが、安本 美典氏の様に神武の実在について、記紀では大袈裟な記述の割には占領地は大和盆地の半分程度という狭い地域だったので、ホメロス著の『イリアス』の方が余程嘘くさいのに史実を語っているから記紀だって真実を語っているという主張もあり、私もその主張自体は同意するとともに、それでも神武実在をできるような説と出会ったことがありません。


 個人的には神武の実在を否定しませんが、同時に天皇の実在をできそうなのは以前もご説明致しました『上宮記』の継体天皇系譜を好意的に解釈して、辛うじて垂仁天皇以降にならざるを得ないとは思っています。


 ……疲れた。



*追記

 清寧天皇即位から逆算したのは感覚的なもので根拠は無かったのですが、那珂通世も雄略天皇以後においては外国の古史と牴牾ていごがないけれど、允恭紀以前にはきわめて齟齬が多いと述べられていたそうです。⑴


 本稿は文献のみを根拠としましたが、考古学的には三世紀中庸過ぎに定型化した大型前方古墳の出現した事実から、本稿で想定している様な古い時代の大王墓が確認出来ない事と、現崇神天皇陵の行燈山古墳の造営が四世紀前半であると推定される事から、本稿の崇神天皇の活動時期とは百年程ずれており、年数を半分にして逆算する手法でも古い時代に遡る程ずれが生じてしまうという事になります。


 やはり神功皇后よりも以前となると、七支刀のような根拠が無くなるので、正確な年紀を推定するのは困難であると言わざるを得ないようです。



⑴『上代日支交通史の研究』藤田元春 刀江書院

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1917944/1/83

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