紀年についての纏め
前回3回分のエッセイが長くなりすぎて分かりずらいかと思い、要点を纏めてみました。
◇記紀の初期天皇の長寿に関する疑問
古事記の崇神天皇の168歳崩御、日本書紀の垂仁天皇の140歳崩御(景行天皇は実質143歳崩御)を始め、百歳を超えるような不自然に寿命が長い天皇が多く存在し、記紀の記述は非科学的。
◇学界の定説
・「
日本書紀の天皇の寿命が長いのは
・神功・応神の頃の年代測定
井上光貞氏によると、例えば神功・応神の二代の紀年を朝鮮の歴史と比較すると、両者の干支符号すると、書紀は干支二巡り百二十年古い事となっている事例が多く見出される。例えば七支刀の銘文「泰和四年(東晋海西公の太和4年、西暦369年)」や『三国史記』の近肖古王30年(乙亥年、西暦375年)が『日本書紀』の神功皇后紀の年紀を百二十年ずらすとほぼ合っている。
・応神以降
『宋書』『梁書』といった中国の文献により倭の五王の在世年代との比較により、大体のところを知る事が出来る。
欽明朝には暦博士が百済から渡来し、以降は大体正確。
◇通説以外
・「
推古天皇九年(西暦601年)は辛酉年に大革命があったかと言うと、大した事が起きていないので、讖緯説の影響を受けたという説の信憑性は疑わしい。
・『魏略』逸文『魏志』倭人伝の裴松之の注釈による年紀測定
倭人の習俗では、中国で用いられている正月から四季をめぐる暦法を知らず、ただ春の耕作のはじまりと、秋の収穫のときを数えて年数にしているにすぎないという趣旨。つまり、倭人はある時代まで年紀を春と秋に1回ずつ数えており、年数を2倍に数えていた。
・裴松之の注釈を参考にして実際に年紀を測定した結果
暦博士渡来から逆算して神武即位迄各天皇の在位を半数の年紀を測定すると微妙に海外の文献と誤差が生じた。
実在が確定しており、倭の五王の最後の天皇とされる雄略後、清寧天皇即位から神武天皇即位迄、各天皇の半数の年紀を測定すると、『宋書』の倭の五王は「讃」が仁徳、「珍」は履中、「済」は允恭、「興」は安康、「武」は雄略に比定可能で、神功紀にも見られる近肖古王が崩じた西暦355年や
この様に、清寧即位から各天皇の在位数を半分にすると、神功の時代までは海外の文献資料と記紀の間で矛盾があまりない為、神功の時代までの記事(旧辞的説話は除く)は信憑性が高くなった。
また、景行天皇朝である西暦275年頃から西暦305年頃の間に北九州にあった邪馬台国が大和王権に降伏した可能性も考えられる記事(神夏磯姫の伝承)も見受けられる。
神武即位が紀元前87年だとしても、この頃の日本列島には小国が幾つも存在しており、記紀の記述を信じれば奈良盆地の半分程度を制圧したのに過ぎないのであり得なくはないが、年表だけで実在を主張するのは難しい。
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